第12話11 傍にいたいのです! 少尉さん
天井の高い講堂は、この学校で一番古く大きな建物だ。
学校になる前、ここは聖堂だったらしく、大きな尖塔が幾つもそびえ立っている。
その入り口へと続く渡り廊下を、アンはレイルダーの腕に指をかけて進んだ。
いよいよ秋期のパーティが始まる。
このパーティの意味は、一年の実りを祝うものだ。それは作物だけでなく、若い学生達の努力の結実を祝福するものでもあった。
展示室を兼ねた廊下には、学生たちの手によるたくさんの作品や絵画が並べられている。
レイルダーは珍しそうにそれらを眺めながら、突き当りにある講堂へと歩いていった。
ホールでもそうだったが、ここでも彼は、当然のように人々の視線を集めた。そして傍らのアンを見て
きっとすごい不釣り合いだと思われてるのね。
近衛隊から学園のパーティに参加している者は、実はレイルダーだけではない。近衛が身内や知り合いにいると鼻が高いので、こう言う催しでは引っ張りだこになるのだ。
でもやっぱり、私の少尉さんは特別だわ。
アンは心の中でこっそり「私の」をつけて思った。
体格だけなら、彼を超える者は何人もいるだろうが、彼の持つ雰囲気は独特のものだ。歩き方、手足の動き、発する空気。
そして上に乗っかっているのは、高位貴族の貴公子にも引けを取らない美貌。
本人は無意識だが、眠そうな仏頂面だけに、よく知らない者には声をかけづらい圧があるのだ。
その彼がアンの手をとって、人々の中を先導してくれている。
彼が進むと人垣が割れて、自然に目の前に空間ができていく。同級生、上級生の女の子達はもちろん、大人の貴婦人達まで見惚れているのが、アンにはわかった。
信じられない。
信じられない!
私は今、少尉さんのパートナーなんだ!
そして、講堂の中へと導かれる。
普段
普段、学長先生の退屈な話を聞く壇上には花が盛られ、教授陣達が並ぶ席には料理や飲み物がたくさん置かれている。
そして、余計なものが取り払われた広い空間には、着飾った学生達とそのパートナーであふれていた。
ああ、これが──
夢というものなんだわ。
「アン、まずは何か飲めば? 頬が真っ赤だ」
「あっはい! 私、取ってきます」
「冗談だろ?」
くっと目を細めたレイルダーは、壁際に並んだ椅子にアンを座らせると、
ほんの刹那、アンは一人になった──とたん。
「ねぇ! どうしてレイルダー様があなたをエスコートしているの?」
「それって、お父様の職権乱用じゃない?」
「まさか、無理やり頼み込んだんじゃ……」
「え? えっと……」
「俺から頼んだんだよ」
上級生や、もっと年上の女性たちに取り囲まれ、あうあう言っていたアンの前に、スマートに体を割り込ませたのは、やはり。
「ほら、アン。冷たいうちに飲みな」
「あ、ありがとうございます」
アンは手渡された、果汁入りのソーダ水に口をつけた。それはグラスが汗をかくほど冷たくて、熱った頬と頭をほんの少し癒してくれる。
「少尉さんは何をお飲みに?」
「ん? 俺? 俺もジュース」
レイルダーはそう言って、緑色の柑橘系果汁のグラスを揺らした。
「あ、そうですよね。学校のパーティだからお酒、ありませんよね」
「あっても俺、飲めないけど」
「え?」
「だって、車でしょ? それに俺下戸なの」
「げこ?」
「酒が体質に合わないの」
「し……知りませんでした」
見るからに洗練されていらっしゃるので、どんなお酒でもスマートに
私、まだまだこの方について、知らないこといっぱいあるんだ……。
それからすぐに学長が壇の上に立ち、
挨拶の中身は、今期の学生達への評価と、今後の努力への期待だったが、アンは一言も覚えていない。
ダンスの授業は大嫌いだった。
この授業は男女共習で、苦手な男の子に体に触れられたり、上手な女の子から下手くそだとからかわれたりすることに、九十分も耐えなくてはならないからだ。
でも、今は。
アンは大きな腕にすがりながら、自分が軽やかに舞っていることを意識する。
最初は上手に踊ろうと、頭ん中で必死でステップで繰り返していた。ダンスの授業をもっと真面目にやっておけばよかったと後悔したほどだ。
しかし、レイルダーはアンが緊張していることを知っているかのように、最初はゆっくりした舞曲から誘ってくれた。
これならなんとか!
力むアンが拍子抜けするくらい、レイルダーのステップは緩慢で、それでも優美で。
アンは安心して、体から力を抜いた。するとそれが伝わったかのように、上から声が降ってくる。
「そうだ、アン。上手だ」
言われて初めて、自分が相手の顔を見ていないことに気がついた。
ずっと隊服の胸や、肩についた装飾を眺めていたのだ。
目を挙げると、明るい翡翠の瞳が自分を見下ろしている。表情を浮かべることが少ないその顔が今、柔らかく見えるのは気のせいか。
少し逆立った金色の髪を、天井のシャンデリアが透かしている。
ああ、私──今すごく幸せだ。
「少尉さん、王様みたいです」
「王様?」
「あっ、いえ」
我ながら間抜けな感想だと、アンは口ごもった。
「ずっと顔を上げているのは辛いだろうけど、時々は俺を見てくれ」
「え?」
アンが彼を見上げないのは、身長差があるからだと思われていたのだ。恥ずかしくて見られないだけなのに。本当はずっと見つめていたいのに。
「アンは可愛いから」
「……」
聞き間違いではないだろうかと思っているうちに、曲が変わる。さっきよりも速いテンポの曲だ。
「さぁ」
ぐっと抱き寄せられた。
鼻腔をくすぐるのは、いつもの煙草の香りに混じる、ゼラニウムの甘苦い香り。香水をつけているのか、それとも彼の香りなのか。
その香りはアンに勇気をくれた。足がひとりでに動き出す。この曲はダンスの授業でもよく使われるから、学園側も配慮してくれているのだろう。
アンは。この夜初めて笑った。
見上げれば降ってくる、黄金の微笑。
私、この人のそばにもっといたい!
「もっと早くても大丈夫です!」
「いいぞ、アン。もっと笑え」
「はい、少尉さん!」
二人はホール中をくるくると回った。
周りも楽しそうに踊っている人たちでいっぱいだったが、今のアンには誰も見えない。自分と目の前の人でいっぱいだったから。
どうしたらいいんだろうか?
どうしたら、もっとこの人と一緒にいられるの?
「楽しいか? アン」
「はい! とっても」
それはまさに夢。
夢だからこそ──。
曲の終わりは唐突で。だから喪失感も大きい。
ああ、終わってしまう……。
もっとずっとこの方の近くにいるために、私は、なにをどうすれば?
「休憩」
レイルダーがアンを導いたのは、渡り廊下とは反対のテラスだった。
二人が手にしている飲み物は、テラスの脇に置いてある冷たいただの水だ。
甘くもないそれが、びっくりするほど美味しいとアンは思った。グラスはすぐに空になる。
「少尉さん、学校のことよく知っているんですか?」
「いいや、初めて来たよ」
レイルダーはあまり広くはないテラスを見渡している。
始終投げかけられる視線は気にならないらしい。きっと、こんなのいつものことなんだと、アンは思った。
「だって、まるで知ってるみたいに迷いなく歩かれるから」
「建物の外観は見たからね。こういう様式の構造物は大体一緒だ」
「そうか、少尉さんはたくさんの舞踏会をご存知なんですもんね」
「仕事だから」
近衛は王宮や王族を守るのが任務である。けれど、その淡麗な容姿を目当てに、たくさんの女性から声をかけられることも、アンでも知っているくらい知られた事実だ。
「でも……ダンスとてもお上手でした」
「まぁ。あれも
「私、ダンスは苦手だったんです。でも今日は……本当に」
「アンは勉強も苦手だって言ってたな」
「ええ。自分なりに頑張ってはいるんだけど、いつも大体平均点すれすれで」
「十分じゃないか。そら、それ」
レイルダーはアンの握りしめたグラスを受け取って、手すりの上に置いた。
「でも、私……私は」
アンの中で、ぼんやりしていた
この方のそばにいるために、私ができること。
それは──。
「なに?」
「たった今、やりたい仕事を見つけました!」
自分の口からこぼれた言葉にアン自身が驚いた。
仕事なんていう言葉を口にしたのは、生まれて初めてだった。
その時。
「あら、ヴァッツ。久しぶりね!」
背後の光の中から美しい声が響いた。
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