第3話 2 ビスケットです! 少尉さん
「少尉さん! レイルダー少尉さん!」
今日もアンは、彼の背中を追いかける。
レイルダーと出会って数ヶ月。「少尉さん」とは、アンが考えた、アンだけの彼の呼び名である。
「少尉様」だと遠い存在のような感じだし、軍人でもない自分が「少尉殿」と、呼ぶのは変だ。
さりとて「レイルダー様」とか「ヴァッツライヒ様」とか、もっと砕けて「ヴァッツ様」と呼ぶ勇気はない。ましてや呼び捨てなどとんでもない。
たまに父に連れて行ってもらう夜会などで、近衛として振る舞う彼をそんなふうに呼ぶ貴婦人たちを大勢見たが、呼ばれたレイルダーが、最低限の礼儀に反しない程度にしか振り向かないことも知っているからだ。
そこで落ち着いたのが「レイルダー少尉さん」である。
知り合ってひと月ですっかり定着してしまい、彼も何も言わずに振り返ってくれるようになった。こんな呼び方をする者はアン以外にはないのだろう。
アンはそのことがとても気に入っていた。
──私だけの呼び名なの。誰も真似しないでね。
「少尉さん! あの、これ! 私が作ったものなんですけど!」
足の早い青年に追いつくため、アンは廊下をぱたぱた走る。
相手がほんの少しだけ歩調を
追いついて差し出したのは、初めて作ったビスケットだ。
厚さが均一でなく、端っこが焦げたものもあるが、これでもよくできたものだけをより集めたのだ。なので随分数が減ってしまったが。
「よかったら食べてくださいませんか!?」
アンは背の高い青年士官を見上げた。自分では彼の
彼の視界に入ろうと、社交界の女性たちは我先にと前に出る。そして視線を当てられた者は黄色い声を上げる、驚くほど透明度の高い翡翠の色に映ろうとして。
その瞳が今、アンにだけ向けられている。いつも半分
なんて素敵。
なんて贅沢。
アンの心は高鳴り、頬は紅潮する。それは走っただけではない。彼に会う時はいつもこうなるのだ。
舞い上がるくらい嬉しくて、でもなぜか少し苦しい。
「……ああ」
しかし、かけられる声は短く、そっけないものだった。言葉が短いのは彼の常なのだ。
それでも立ち止まってくれた青年は、純白の手袋をはめた手で、一番できの良さそうなビスケットを一枚を抜き取ると、立ったまま口に放り込んだ。
「……」
「あ、あのぅ……どうですか? 厨房の人に教わって、初めて作ったんですけど!」
「……もさもさしてる」
レイルダーは、微妙な顔でビスケットを飲み込んでいる。
「あまり食べないからよくわからないけど、こんなもんだと思う」
青年はそう言って再び廊下を進んでいった。彼はアンの父である彼の上官、フリューゲル中将を迎えにきたのだ。
「あっ……で、でも食べてくださってありがとうございます! それでそのぅ……お口直しに、お紅茶などはいかがですか? のどが渇くでしょう?」
お世辞にもできが良いビスケットだったとは、作ったアンですら思っていない。
味見を頼んだ侍女のエレンは、かろうじて美味しいと言ってくれたけれど、あんなにしっかり生地をこねたのに、できあがったそれは少々粉っぽく、アンは自分で食べてみた時、唾液がなくなってお茶をがぶがぶ飲んでしまったのだ。
さすがにレイルダーもそう思ったらしく、追いすがるアンを振り向いてくれた。
「……お茶というか、水を持ってきてもらえるか? 今、歯を磨けないから」
「あっ! そうですよね! ただいますぐ!」
アンは勢いよく駆け出した。
確か、隣の部屋にいつでも飲めるように、水差しとコップが置いてあるはずだった。
ぱたぱたと走り出す小さな姿を見送り、青年は薄い唇を緩めて息を吐いた。
「……やれやれ、俺なんかに構わなくていいのにな」
ヴァッツライヒ・レイルダー少尉。
少尉とは、士官学校を卒業した青年士官に与えられる階級である。
アンの父、近衛大隊副官フリューゲル中将の側近となって数ヶ月。
彼は貴族の子弟に限定される近衛大隊に、平民出身で入隊した例外中の例外だった。
それは、アンの父であるフリューゲルが後見となり、熱心な推薦状を提出したことが最大の理由だが、彼の非凡な容姿に
彼は美しかった。
均整のとれた長身に長い手足、広い肩幅、まっすぐな背中。
冠を思わせる金髪は特に大切にしている様子はないのに、毎日香油で手入れを怠らない貴公子達よりも艶やかだ。
名を呼ばれたくて、王宮に勤務中の彼に話しかけ、答えてもらおうという令嬢は後を立たないという。
また、武芸にも秀でていると、もっぱらの評判だった。
アンは話に聞いただけだが、勤務時間後にに下町を歩いていた時、酔っ払って婦人に言い寄ろうとした無頼者を、拳一発で
そのことはあっという間に噂になって、レイルダーは貴婦人だけでなく、庶民の女性たちの憧れの的にもなってしまったのだ。
ただ、普段のこの国──アルストロム統一王国はここ最近、概ね民主的で争い事は少ない。王がいて、王宮もあるが、それは象徴と言える平和のシンボルだ。
しかし──。
統一王国では、かつて大規模な反乱が起きた。
それは十年前、広大な西の地を治めるラジム公爵が、正当な王権は自分にあると主張し、王都に向かって反旗を
いわゆる内乱である。
ラジム公は外国人の
ラジム公は、最初から傭兵との約定を守る気はなかったのである。
そして一人の若い傭兵の裏切りと情報で戦局は一変し、王国軍は勝利した。ラジム公爵の野望は瓦解したのだった。
その時、ラジムを裏切った傭兵が、当時十五歳だったレイルダーである。
フリューゲルは彼に感謝し、天涯孤独になったレイルダーを拾い上げたのだ。
反乱が収束した後、フリューゲルは王宮を守る近衛大隊の副隊長を任命された。その折にレイルダー少年を連れ帰った。
「ヴァッツライヒ。お前の才は、このまま野に埋もれさすには惜しい。どうか、私の
そしてフリューゲルが後見人となり、レイルダーは王都で近衛兵となった。
これは異例の出来事だ。しかし、彼は傭兵出身で、普通の教育も受けていないため、いかに武勲を立てようと近衛隊では昇進もできず、部下も持てない。
ただフリューゲルの個人的な側近という、特殊な地位にいる。
近衛に所属する以上、最低限の階級である「少尉」は任官したが、それ以上の昇進はない。
レイルダー自身は出世に興味はないようで、気楽とも言える今の立場が気に入っている様子だった。
「少尉さん! お待たせしました! お水です、どうぞ!」
アンは大きなグラスになみなみと水を入れて持ってきた。
水は冷えていて、少女の手の中で揺れている。持ってくる間にこぼしてしまったのか、スカートに大きな染みができていた。
「ありがとう」
差し出したグラスを傾けて薄い唇が水を飲み下す。
近衛隊服の立て
自分にはない不思議な部位が動いている。
「ん」
すっとグラスが差し出される。白い手袋で唇を
「すみません。ビスケットちょっと粉っぽくて……今度はもっと上手に作りますから、また食べてくださいます?」
「……」
「あの……?」
レイルダーは空になったグラスを見ている。アンはグラス越しの薄い瞳を見上げた。
「少尉さん、私の話聞いてくださってます?」
「ん?」
二人はグラス越しに見つめ合った。
「アンはもうすぐ学校に通うんだろ?」
思っても見なかった話題にアンは目をぱちくりさせた。
「……はい、来月から。でも、勉強はあんまり好きじゃありません」
アンは正直に言った。
貴族や裕福な家庭の子女は、十歳で家庭教師を卒業し、希望すれば王立の学園で十八歳まで学ぶことができる。
学園は男女共学で、規則や課題はあるものの、
しかし女生徒は、途中でやめて親の決めた相手と結婚したり、良い結婚相手を探すために早めの社交界デビューをする者もいるので、卒業時には女子は半分くらいに減っている。
「勉強はきっと大切だ。学べる環境があるってだけで、素晴らしいと思うよ。さ、これでスカートを
そう言ってレイルダーは、大な白いハンカチを差し出した。
「えっ! そんな……ただの水です。ほっとけば乾くので……」
「だめだ、使ってくれ。ではまたな、アン」
レイルダーはくるりと背を向けた。
それが合図。
もうついてきてはいけないよ、という暗黙のサインだ。
アンは、再び大股で父の部屋へと歩き始めたレイルダーの後ろ姿を見送った。
月に幾度かの会えるだけ。運がよければ話してもらえるだけの関係。だからいつもアンは、彼の背中を見つめていた。
それでもアンは満足なのだ。
ハンカチ、貸してもらっちゃった!
綺麗に洗ってお返ししよう!
頭文字の刺繍なんかしてみたらどうだろう?
やったことないけど、エレンに頼めば教えてくれるかしら?
これでまたひとつ、レイルダーに話しかける口実ができた。
大好きの想いはあふれるばかり。行き場がなくてどうしようもない。
けれど、これがアンの大切な恋なのだ。
お願い、私を見て。少しでも。
こっち向いて! 少尉さん!
*****
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