置いてけぼりの森 其の二

     ✕✕✕✕✕✕


 気付けば闇の中を彷徨っていた。

 そういえば、ここはどこだろう。

 寒くて、冷たい。

 先程まで、他の部員とバスの中にいた。そのはずなのに、それから先、どれほど記憶を巡らせても全くといっても良いほど何も思い出せない。

 そして、皮肉なことにあれこれ思い出そうとする度に忘れていく。

 自分の名前。家族。友達。過去。

 果てには僕が何者なのかさえわからなくなってしまった。溢れんばかりの喪失感だけがこの胸を占領する。しかし、この感情ですらじきに溶けてなくなってしまうのだろう。

 自分がいなくなっていく。

 怖い。

 嫌だ。

 だけど。

 どれほど歩いた頃だろうか。

 真っ暗闇だけだったこの世界に、ぼんやりと輪郭が伴ってきた。

 リノリウムの床が真っ直ぐに延びていて、左右には窓がある。その向こうは暗いが、空には星が散りばめられていて綺麗だ。

 こうして星空を眺めたのはいつぶりだっただろう。気付けば、目尻に涙が溜まっていた。

 空虚となりつつあった胸の奥に、暖かいものが流れ込む。

 麻痺していた感情が、芽吹き出す。

 皆に会いたい。

 どうして、僕は、ああ。

 見れば、廊下の向こうに男子生徒がいる。よくは聞き取れないが、何かを喚きながら引戸を閉めようとしている。

 直感が告げる。

 あれは、僕の身体だ。

 もう手放したりなんかしない。

 やっと見つけた。やっと見つけた。やっと見つけた。やっと見つけた。やっと見つけた。やっと見つけた。

 つかまえた。


     ✕✕✕✕✕✕


 読みきって、思わずノートを閉じた。

 これは……。

「……何だか、気味が悪い」

 東雲さんが隣で呟く。

 それに呼応するようにして「趣味悪っ」と仙台さんが嫌悪感を露にした。

「……ひとりでに開いたページというのは、ここのところで間違いないのね?」

 壁にもたれかかっていた二ノ宮さんがこちらを見て、念を押すように確認する。頷いて、近くにあった手頃な椅子に腰かけた。

「菊池君がいなくなる直前の事でした……しかし。これは何だか、」

「菊池君の事を暗示している?」

 二ノ宮さんに先回りされ、「……そんな気がします」と答える。他の二人はどう思っているのだろうか。見れば、東雲さんは「うーん」と顎に指をあてて考え込んでいる。

「ばっかみたい」

 仙台さんは強気そうに手を頭の後ろで組んでいるが、先程から廊下の方をチラチラと気にしている。彼女も考えている事は皆と同じのようだ。

「頁の内容は……、この『僕』が最後に『つかまえた』と表現しているものは、菊池君のことかもしれない」

 想像する。

 廊下の奥からやってきたものが、菊池君に迫る様子を。そして、彼をどこかに連れ去った。

「……ねえ、他には何が書かれているの?」

 東雲さんが思い詰めたように切り出した。

「部長、正気ですか?」

 仙台さんが東雲さんに向き直る。

「このノートがここに来てから何かおかしくなった。 読み進めなんかしたらもっとよくないことが起こるかも」

 仙台さんにまくし立てられ、東雲さんは「うぅ」と言葉に窮する。しかし「でも、わかることもあるかもしれない」二ノ宮さんが代わりのように答えた。

「解決策がここに書かれてあるかも。それに、菊池君の居場所のヒントだってないとも限らない……君もそう思わない?」

 二ノ宮さんに話を振られ、少し考える。

 仙台さんの言う通り、読めば災いが降りかかるかもしれない。いや、きっとこれは、そういう性質を持っている。

 ただ、今のままでは情報不足であることに変わりはない。この訳のわからない状況にも何らかの法則性があって、そのヒントはおそらく、このノートに書かれている。

「読むしか、ない……ですね」

「ちょっと」

 仙台さんが掌で机を叩いた。

「よくよく思い出したらあんたさっき、読まない方がいいって言ってなかったっけ? それにそもそも、このノートを運んで来たのは誰よ」

 彼女が詰め寄りながら、先を続ける。

「あんたは何か知ってる。そうじゃなきゃ、説明がつかない」

 周りを見渡すと、東雲さんも二ノ宮さんも黙ったままこちらを見ている。確かに、三人が自分を疑うのは自然な流れかもしれない。

 しかし、だ。

「単に荷物運びを頼まれてここに来ただけです、中身のことなんて全く知らなかった」

 事実をありのまま告げる。仙台さんは、ふん、と鼻を鳴らすが、これはどう主張しても聞き入れてもらえそうにない。

「圭介が感じていた、存在しないはずのもう一人、っていうのはあんたの事かもね」

「そりゃあ、この中で一人だけ部員ではないですからね」

「どうだか」

「……まあ、仙台さんが言いたいこともわからないではないけれど、この子を疑うには確かに材料が足りないわ」

 見かねたという風に、二ノ宮さんが話の流れを打ち切った。

「それで、多数決では三対一。もういいわね。仙台さん?」

「……次に何が起きても知りませんよ」

 押さえつけられ、渋々、という風に仙台さんが頷いた。その反応に、二ノ宮さんは「決まりね」と背を壁から離し、隣に並ぶ。

「読んでいて感じたことがあれば、些細なことでもいい。すぐに言ってほしい」

 彼女はそう前置きをし、ノートの表紙に指を添えた。そこには、『絶対に絶対に見ないでくださいお願いします』と極太マジックで書かれている。

「……」

 最初はあまり気にはならなかったが、今なら何となくわかる。その文字は、見た者の好奇心を刺激するための餌だ。

 そして、餌におびき寄せられた間抜けな狐は五匹。

 まんまと騙され、この箱罠に吸い寄せられたのだ。


     ✕✕✕✕✕✕


     2


 柘植野つげのさんは「痛い」かぼそく呻いた。

 見れば、右の太股にごつい木の枝が突き刺さっていて、身動きがとれないでいる。

「大丈夫だから。もうすぐ」

 助けが。

 そう言おうとして、躊躇った。見上げると、ひび割れたフロントガラス越しに夕焼け空が覗いた。ヘリコプターが飛んでいる気配も感じず、ただ、ざあっ、という枝葉の擦れる音だけが静かに響き渡る。じきに、夜が訪れる。この森が闇夜に溶けた時、果たして私達は他の誰かに見つけて貰えるのだろうか。

「……もうすぐ、何」

 柘植野さんが、虚ろな目をして私を見た。

 ひっ。漏れそうになった声を必死に押し留める。「助けを、呼ぶから」

 言ったものの、語尾は自分でも情けなるほど小さかった。

「とても、痛くて寒いの」

 彼女は私から目を逸らし、うつむく。対して私は、彼女が発した、寒い、という言葉にぞっとした。「瀬野君は、どこにいるの……? 他の皆は? あなたと同じで、無事なの」

「う、うん。皆下で待ってるよ。柘植野さんを心配してる」

 嘘だった。

 瀬野君は、柘植野さんのずっと後ろの席で冷たくなっている。他の二人はバスが谷底に落ちて木々に捕まった拍子、窓ガラスを突き抜けて落下していった。まだ、生死は不明だ。

「そう。良かった」

 柘植野さんは呟くように言って、途端、目を見開き激しく咳き込んだ。血の混じった胃液みたいなものが口から溢れ、くの字に折れた身体が痙攣する。

 しかし、太股を貫いた大きな枝が、僅かな振動でも彼女に激痛を与える。

「ああぁあぁぁぁ!!」

 普段は凛々しい顔が苦悶に歪んでいる。

 きっと、彼女も胸を強く打っている。肺が潰れる程に。

「柘植野、さん」

 怖い。

 本音は彼女を置き去りにしてここから逃げ出したい。でも、それがどれほど残酷なことかは知っている。

「はぁっ、はぁっ」

 柘植野さんの充血した目から涙が溢れた。

 その身体が必死に生きようとしているのが肌でわかる。

 長くは持たないであろうことも、わかる。

 ただ、私は何もできない。苦痛に喘ぐ彼女の形相を、こうして傍で眺めることしかできない。

「助けが、来るからっ、我慢してっ」

 気が付けば目元が熱くなって、視界が潤んでいた。

 ここから逃げ出したいとか考えて、ごめんなさい。

 置き去りにしたいとか思ってしまってごめんなさい。

 このバスの中で一番辛いのはあなたのはずなのに。

「ああぁあぁぁ!! あぁあぁ!!」

 あれから、どれほど彼女は叫び、喘いで、苦しんだだろうか。

 いつの間にか夜になっていた。そして車内は怖いくらいに静けさを取り戻していた。

 ついに助けは来ないまま、柘植野さんは動かなくなっている。心の中であれほど謝ったのに、安堵している自分がどこかにいた。

「……柘植野、さん」

 その顔は……見ないようにした。


      ✕✕✕✕✕✕


「もう十分」

 仙台さんが叩きつけるようにしてノートを閉じた。

「こんな気色悪い話。もう読みたくないって」

「仙台さん落ち着いて」

 東雲さんが軽く注意するも、仙台さんは椅子から立ち上がる。

「ていうか、ここに皆でいる必要なんかないですよね?」

 言って、仙台さんはスマートフォンを三人にかざした。

「私の携帯も圏外。皆と同じ。でも、だったらさっさと職員室に行って、圭介がいなくなったことを先生に伝えた方がよくない?」

「それは、そうかも、しれないけど」

「じゃあ私は先に行きますね」

「ちょっ」

 仙台さんは制止を振り切って廊下に出た。

 東雲さんもその後を追う。菊池君がいなくなった時と同じような場面に少しヒヤッとしたが、幸い、ノートには何の反応もない。

「……私達も追いかけよう」

 二ノ宮さんがこちら見た。

 この状況下、分散しての行動は確かにあまりよくない気がする。はい、と頷いて、椅子から立ち上がった。

「部長、離してくださいって」

 廊下に出たところ、暗がりの奥、階段の踊場あたりでちょっとした揉み合いが起こっていた。

「待って、いかない方がいいって。何か変な感じがする」

「だったら部長はここに残ってたらいいじゃないですか。私は先に行きますから」

 仙台さんは東雲さんを引き剥がし、素早く階段を駆け降りる。

「ちょっと」

 電灯が点いていないため足元がおぼつかないが、よく見れば彼女の手元にはスマホのライトが点灯していた。その明かりがずんずん下の方に進んでいったかと思うと、今度は階上から差し込む。

「は?」

 廊下や階段は、月明かりに頼らなければ見えない程に暗い。だからか、少しの光量でもライトの照射が眩く感じる。

 下に降りたはずの仙台さんが、屋上に続くはずの踊場からこちらを見下ろしていた。

「なん、で」

 その台詞はこちら側にも言えることだ。

 何故、下に降りたはずの仙台さんが上から降りてくる。

「は、ふ、ふざけないでよ、ねぇ」

 仙台さんが踵を返し、階段を上に駆け上がる。

 仙台さんが階下から現れる。

 仙台さんが再度反転し、階段を駆け降りる。

 仙台さんが階上から現れる。

「出られない……」

 東雲さんがぼそりとこぼす。

 躊躇った末に、耐えられなかったという風に、声を震わせて。

「そんなの嘘!」

 仙台さんが踊場から叫ぶも、途端にその場でくずおれる。無理もない。階段の昇降を繰り返しても、辿り着くのは同じ場所。その絶望を一番体感したのは彼女に他ならない。

「閉じ込められたって……でも」

 誰に?

 または、何に? だ。

 廊下の奥の闇の中。使われていない教室の扉の向こう。天井の裏。死角と静寂に紛れて、何かがじっくりと機会を窺っている。

 ここにいる三人がそれぞれ一人になる瞬間を狙っているようで、

「……二ノ宮先輩は?」

 思い出したかのように仙台さんが呟いた。

「あんた、一緒じゃなかったの?」

 階段から降りてきた彼女に詰め寄られ、言葉に詰まった。部室から一緒に出て来たはず……ではなかったか。廊下を振り向けば、文芸部の部屋の明かりが寂しげに漏れている。

「まさか」

 東雲さんの顔が強ばった。

 厭な予感がした。

「……次は」

 言いかけたその先を制するように仙台さんが駆け出した。東雲さんと二人でその後を追う。

「二ノ宮先輩!」

 部室には、一見して誰もいない。

 だが、例のノートが開いた状態で放置されている。

 仙台さんが言葉を失って立ちすくみ、東雲さんが口元を手で覆いながらおそるおそる部屋に踏み入れる。

 部屋の隅を見れば、掃除用具入れの扉が開いたままになっている。その傍には二ノ宮さんのものと思われる眼鏡が落ちていて、

「……ゆうこ、」

 その呼び掛けに、誰も反応しない。

 でもそれがすべての答えだった。


   ✕✕✕✕✕✕


 意識が鮮明になる。

 ここは。

 目を開く。

 まだ目蓋の裏の世界を漂っていたかのように、暗かった。しかし、先ほどまで見ていた夢の中よりは明るく感じた。

 ただ狭く、身をよじっただけでカタリと何かが肩にぶつかる。

「誰か、そこにいるの」

 女の人の声がした。

 よくよくあたりを見ると、視界の端から微量の光が漏れている。とても狭い空間の中に閉じ込められていて、私は今、この空間を閉じる扉の裏側にいるようだ。そして、女性の声はその向こうから聞こえてきた。

 誰か助けて。

 声をあげようとした。

 ところが声帯はうまく機能せず、まだ自分に実態が伴っていないことが窺える。

 まだ私は不完全なのだ。

 本当の身体は、まだあのバスの中に残ったまま。

「ねえ」

 扉の向こうの声が近くなった。

 そこで、何となくわかった気がした。私は、この女性の身体をあてがわれた。

 だから、早くこの扉を開けて。

「あ、開けるわよ」

 さあ、早くあなたにならせて。

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