幽雨

 昇降口から空を見上げた。

 大降りではないものの、しとしと雨が降っていてなんとも億劫な気分にさせる。


「さて、どうしようか」

 朝方は快晴だった空模様が、昼過ぎ頃には陰りを見せていた。嫌な予感は的中して、終業間際に空は泣き出した。

 予報外れの雨だったのか、傘もささずに帰る生徒もちらほら。


 そして、自分もそのうちの一人だった。

 傘なんて、久しく学校に持ってきていない。

 まあ正直、この程度の雨なら傘無しで歩くのも辛抱できなくはない。ただ、ここから最寄り駅までの距離を考えると足踏みしてしまう。

 幸い、今日はアルバイトもなければ急いで帰る用事もない。雨がじきにやむかもしれないというのは希望的観測かもしれないが、ここで待つのも一つの手ではないだろうか。

 そんな事を考えている時だった。


「ピヨ」


 どこからともなく聞き覚えのある鳴き声。

 んん? と首を傾げると同時、真後ろから気配がした。

「もしかして、傘を忘れましたか……?」

 振り向けば、見覚えのない女子がそこに立っていた。うなじで結わえられたポニーテール。切り揃えられた前髪が長く目元が窺えないが、小顔で、すらっとした体型。

「ええ、忘れたというか、持ってきていないというか」

 同じクラスでもなければこれまで見たこともない。いや、単に自分が覚えていない可能性もあるが。「あの、よければ一本お貸ししましょうか」

「えっ」

 思わぬ申し出に、一瞬面食らう。

 しかし見れば、彼女の手元に透明のビニール傘が二本。余った一本を自分に貸そうというのか。

「そんな、じきにやみそうなので結構ですよ」

 ありがたいが、断る。

 同じ学校の生徒とはいえ、見ず知らずの相手から物を借りるわけにはいかない。しかし、彼女はにっこり笑って「いいんですよ。丁度余っていたので」と傘のハンドルをこちらに向けてくる。


「いや、ええっと」


 半ば押し付けがましい気がしないでもないが、好意は好意。ここは受け取って置いた方が無難かもしれない……。

 いや、でも。

「雨はやみませんよ。夜まで降り続けますから」

 畳み掛けるように、彼女が言う。前髪で目元が見えないはずなのに、その奥の双眸に妖しい光を感じた。


 好意、なのか。


 ただ、傘を手に取ってしまえばこの簿は丸く収まりそうだ。なら、いっそ借りてしまおうか……。「ピィッ」

 鳴き声が聞こえた。

 どこからだ。見れば、手に提げていた学生鞄が少し振動した。

「どうしましたか」

「いや、」

 伸ばしかけていた手を止め、少し考えた。

「……かくりあめ」

 この呟きに、彼女は「はい?」と怪訝な顔を浮かべた。はっと我に返り、手を振って「何でもありません」と取り繕う。

「確かに、雨はやみそうにありません」


 好意。


 そうであると自分に言い聞かせ、差し出された傘を握った。



 ぱつ、ぱつ、ぱつ。

 雨粒が景気よく傘地を弾く。この調子だと、雨はやみそうにない。


「傘が二本あってよかった」


 隣を歩く彼女ーー雨宮あまみやさんがいなければ、濡れ鼠になって家に帰るところだった。下手をすれば風邪をひいてしまう。


「本当にありがとうございます」

 礼を言うと「たまたま一本余っていただけですから」と彼女は照れ臭そうだ。

 雨宮なずみ。

 昇降口から出る時、彼女は自らをそう名乗った。

「私と同じ年ですよね、確か……」

「あまり目立つことは事はしていないのに、よく覚えていましたね」

「そんな」

 雨宮さんは大仰に手を振ってみせたが、こちらは彼女の存在を知りもしなかった。なんだか申し訳ない気持ちである。

「あなたは私達の中では有名ですよ」

「私達?」

 少し引っ掛かったが「ところで」と雨宮さんが言葉を切った。

「さっき言っていた『かくりあめ』って、何ですか?」

「え? あぁ」

 一瞬「なんの事?」と誤魔化そうかとも考えたが、雨宮さんが前髪越しにじぃっとこちらを見ている。ガンガン突き刺ささる視線に耐えきれず、白状する。


「……昔に読んだ小説を思い出したんです」

「小説?」

「短編でしたが」


 とある雨降る夜。コンビニで立ち読みをしていた主人公が帰る際、傘立てに刺さっていた適当な傘を盗んだため、黄泉の世界に誘われてしまう。


「内容はそんな感じです」

「そのタイトルが『幽雨かくりあめ』?」

「そう」

「何で傘を盗っただけでそんなことになるんでしょう」

「実は、その傘は故人が生前にコンビニで忘れていたもので、要は人の物を勝手に盗むなって事でしょう」

「ははぁ」

 雨宮さんはくすりと笑って「私は死んでなんかいませんよ」と言った。

「すいません。失礼な呟きでしたね」

 うーむ。なんともバツが悪い。

 少なくとも、無償で傘を貸してくれるような親切な相手に言う事ではなかった。

「いいんですよ……置き傘をしていたことも忘れて傘を持って来た私がどんくさかっただけなんです」「やけに説明くさいですね」

 本当は怒ってる?

「傘二本を持ち帰るくらいなら今日持ってきた傘を置き傘にしようかとも考えたんですが、困ってる人を見かけたら助けるのが亡くなった祖母の教えだったんです」

「いやほんとに雨宮さんがいなければ今頃どうなっていたことか!」

 本当は怒ってる!

 雨宮さんがいなければ今頃まだ昇降口だっただろうけど!


「でも、どうしてそんな話を連想したんです? 適当な置き傘を盗った訳じゃないのに」

「さて、どうしてだったんでしょうか」


 確かに、適当な置き傘を拝借した訳でもない。

 明らかに持ち主がそこにいて、本人の許可を得てこうして傘を借りているのだから、雨宮さんが疑問に思うのもわかる。


「私から傘を受け取る時、本当は他に思い当たる節があったのではありませんか?」

 ざあっと雨が強まった。

 気付けは向かい風に晒され、足元は濡れそぼつ。

 雨宮さんの顔から笑みは消え、ただじっとこちらを見ている。

 ばしゃ。

 見ればアスファルトは雨水で溢れかえり、道路が川のようになっている。いずれ足首まで水が浸かる事になるだろう。

 ……このままだと、少し分が悪い。


「……とても駅までたどり着けそうにありません。雨が弱まるまで雨宿りしませんか?」


 視界は悪く辺りはよくわからないが、駅に通じる道を歩いていたはず。確か、界隈に小さな公園があった。

 その東屋にでも場所を移そう。

 しかし、雨宮さんはかぶりを横に振る。


「寄り道はしない方がいいでしょう」


 ばしゃ。

 不意に真後ろから水の跳ねる音が聞こえた。

 振り返ろうとしたが、雨宮さんに袖を掴まれる。

「見ない方がいい」

 彼女は前を向いたまま、歩き続ける。

 その様子を見て、背筋に冷たいものが走った。


 ばしゃ。ばしゃ。


 水溜まりを踏む音が後ろからついてくる。気付かないふりをして、雨宮さんの隣に並んだ。


「……駅は、遠いですね」


 どこまでついてくるのだ。この後ろにいるのは。

 質問が喉まで出かったが、声に出してはならない気もする。雨宮さんは「当分つきそうにありません」と淡々と答え、チラ、と前髪の隙間から目配せしてきた。

 言うな。

 彼女の目は、はっきりそう言っている。

「今日に限ってついてないです」

 背後を意識しながら、前を向く。しかし、器用な方ではないので気を抜くとふと振り返ってしまいそうになる。

 でもきっと、彼女の言う通り見てはならないものなのだろう。

「……雨で視界が良くありません。足元にも気を付けてください」

 ぴちゃ。

 一見して、爪先に南瓜が落ちているのかと思った。いや、よく見れば人の頭のように見える。

 溝から溢れ返った雨水の水面から、頭半分を突き出して、こちらを見て「前を見てください」雨宮さんの声に我に返る。

 意識を通りの先へ向け、それまで見ていたそれを認識の外に追いやる。


 どっ。どっ。


 気付けば動悸が胸を強く叩いている。

 空気が喉元で詰まって、息がうまくできない。

「何も見えないし何も感じない。そういう風に思って歩いた方がいいです」

「ただ……このままだと無視できない状況に直面するかもしれない」

「大丈夫ですよ。傘をさしている間は」

 気が気でなくなりそうだが、今は言われた通り前だけを見て進む。


 電柱の影からこちらを覗く長身の女。

 自販機の間から伸びる巨大な触手。

 時折すれ違う顔のない人々。

 全て見えない。

 感じない。


「ピヨッ」


 緊張が高まった時、またあの鳴き声が聞こえた。

 こちらににじり寄っていたものが、ずずっと遠ざかっていく。

「……さっきから気になっていましたが、何を鞄に仕込んでいるんです?」

 それまで全く動じなかった雨宮さんが、珍しく尋ねてきた。

「さあ、よくわかりません。ただ、たまに勝手に移動して、こうやってお節介をするんです」

 自分でもうまく説明できず、断片的に話す。

 雨宮さんは首を傾げ、ふう、とため息をつく。

「意味がわかりません。でも御守りみたいなものはここではあまり意味がありませんよ」

 ごおっと、地が割れたような轟音が空から響く。

 雨は更に強まり、その粒が、赤い。


 まるで、血のようだ。


「傘を手放さないでください」

 稲光が走った。

 辺りが閃光に照らされ、軒の間で蠢く影が露になる。

 顔に無数の口が付いた女。

 頭部が異様に膨れ上がった痩身の男。

 蜘蛛のような鋏角を口元に携えた子供。

 皆一様に、こちらを見ている。じっと、待つように。

「皆があなたを狙っています」

 淡々と告げ、雨宮さんがこちらを向いた。

 切り揃えられた前髪。うなじで結わえられたポニーテール。すらっとした小柄な身体。

 この世界で彼女だけがまともな人間に見える。だが、やっぱりどこか歪である。予想していたより、少しだけ。


「雨はいつやむんです?」


 立ち止まって、雨宮さんに尋ねた。

「……後悔しているなら、どうして昇降口で躊躇った際、傘を受け取ってしまったんですか?」

 数歩進んだ先で、彼女も立ち止まった。

 ざあっと真っ赤な幕が二人の間に降りる。なのに、その声はよく通った。

 ふむ。考え、正直に答えることにした。

「同情心が湧きました」

「……同情?」

「さっき言った小説の結末ですが」

 頷いて、先を続けた。

「主人公は自分を探しに来た恋人と偶然にも黄泉の世界で出会います。そして、恋人は現し世に戻れない主人公を不憫に思い、主人公から傘を奪い取った」

「なんともロマンチックですね」

「主人公は現し世に戻ることができたが、恋人は冥府に囚われたまま……という形で話しは終わります。いや本当に意外な展開でした」


 ばちゃばちゃ。


 後ろから何かが追いかけてきた。さっきのやつだろうか。いや、構ってはいられない。

「物語のその後を考えたんです……例えば、その恋人は、今度は誰かを騙して傘を手渡したかもしれない。或いはずっと主人公が迎えに来るのを待っていたのかも……」

「そんな作り話を信じて……あなたは、馬鹿ですか」

「信じてなんかいませんでした。予報外れの雨のはずなのに、あなたが傘を用意していなければ」

「……」

 本当は小説なんかではない。

 この辺りに伝わるお伽噺のようなものだ。それを現代風にアレンジし、虚実交えてでっちあげた。

「傘は二つ。一本は何の変哲もないビニール傘。もう一本の方が例の物」

 見分けがつかない。

 わからない。

 だから、傘をとじてぼっきり折ってみる。

「何を!」

 雨宮さんは叫び、こちらに駆ける。

 一方こちらは雨に晒され、一気にびしょ濡れとなった。

 冷たくて、生ぬるい。

 この世のものではない雨は、不思議な温度だ。


 何百年も前。

 干ばつが酷く、飢饉に苦しんだ時代があった。

 人々は雨乞いの祈祷師や演者を村に招き、時には盛大に祈願を執り行った。

 その際、祈祷師が行う演目や舞踊の種類に「笠舞」というものがある。

 読んで字のごとく笠による舞であり、祈祷師によれば効果は絶大であったとされる。

 尚この際に使用した笠は、その都度焚きあげを行い、天に「お返し」しなければならなかった。

 もし仮に間違って笠を使おうものなら、その者は黄泉の世界に囚われて二度と帰れなくなる。

 そして、この土地にはその禁忌を犯した祈祷師の巷説がひっそりと馴染んでいた。


 幽世かくりよの雨。

 幽雨かくりあめ


 雨宮さんに話した作り話の元である。

「すいません。試すようなことをして」

 雨に晒されたのは一瞬の事で、駆けつけた雨宮さんに無理矢理傘に入れられ相合傘の状態となった。ぜぇはぁ、と肩で息をしながら、彼女は「何をですか」とこちらを見る。


「どっちが本物の傘だったのか。……もし、今折った方が例の傘なら、雨宮さんは『なんとかなった』かもしれないと思って」

「私を助けようとしたんですか」

「……自分なら、もし恋人が自分の身代わりになったらそのまま放置なんてしませんよ」

「それは、余計なお節介です」


 バチバチバチ。傘地が受けた雨粒が真上で弾け、少しうるさい。その音に混じって「キリキリ」とどこかで虫の鳴き声のようなものが聞こえた。


「言ったでしょう。あなたは狙われているって」


 ざあざあ降りの中、ざわっと周囲の影が揺れ動く。隙を見せればすぐにでも押し寄せて来そうな勢いだ。

「……この感じだと、雨宮さんの傘が本物のようですね」

「かといって、いきなり折らないでくださいね」

 彼女は最初から、誰かを騙すつもりはなかったのかもしれない。

 本当にただの親切心。

 だとしたら。

「傘は魔除けにもなるんです」

 それまで無表情だった雨宮さんの顔が、少し哀しげに綻んだ。

「……だから、この傘はあなたに差し上げます」

「この傘を手放せば、雨宮さんが」

「私はもういいんです」

 こちらの言葉を遮るように、雨宮さんは語気を荒げた。

「何年もの間、ずっと待っていた。でも結局、あの人は迎えに来なかった」

 彼女は消え入りそうな声でそう言い、やがて顔をうつむける。


 いや、


 違う。

 もし、ずっと一途に誰かを待っていたとしたら。

 その誰かは。

 或いは。


「もしかしたら笠が邪魔して、ずっと見えていなかっただけかも」


 言って、差し出された傘を半ばふんだくるようにして握った。

「何を」

 困惑の表情も束の間、彼女はこちらの肩越しを見て固まった。

 ばちゃ。

 真後ろで、水の跳ねる音。

 ずっと真後ろをつけていた者。


「まさか、ずっと、そこにいたの……?」


 彼女は呟き、横を通り抜けた。

 ばちゃばちゃ。足音が増え、まるで水溜まりの上で子供が小躍りしているようだ。

 あえて振り返るようなことはしなかった。

 なんだか水を差すようで、無粋に思えたから。


「ピヨ」


 唐突に雨がやみ、あっけなく茜色が空一面に広がる。

 まるで、最初から雨なんて降っていなかったかのような。

「ここは」

 傘をたたんで、辺りを見渡す。

 いつも通りの駅の前。ロータリーの歩道上で、まばらな数の人々が一斉にこちらを向いた。

 何も無い空間から、突然人が出てきたみたいな驚きぶりである。

「……はは」

 駅の方へ歩き出す。

 エスカレーターでホームへ上がり、踊場に着いた時、定期券を出そうとしてびちょびちょだったはずの鞄を触る。乾いたビニール生地が指先に触れ、湿った感じが一切ない。

 本当に、さっきのは嘘だったのかもしれないとさえ思う。

 ジッパーを開くと、財布と教科書、定期入れケースが入っている。当たり前だが中にぴーすけはいない。事あるごとに聞こえたあれは空耳だったのだろうか。

 そんな事を思っていた時だった。


「引き合わせてくれてありがとう」


 ふと、耳元で彼女の声が聞こえた。

 振り向いて、思わず「あっ」とこぼす。

 夕陽に滲んだ西の空。そこに見えたのは鮮やかな、赤、黄、緑、青、紫。それは見事な虹が山を跨いでいた。

「そうか……」

 通り雨は向こうに流れて行ったのだ。

 じきに夜に溶けてなくなるだろう。

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