第3話 メイドは泣かない

 道玄坂高校の近くにシェアハウスがあるのかと思いきやここから徒歩十分ほどかかるのは驚いたが、これが下校道なるのだと思い周りの風景に目を取られる。


 俺たちを歓迎しているかのように薄暗い夕焼け色の大気に並木道の桜が吸い込まれていく。そんな茜色と桜色の境界線に彼女達が並んで楽しそうに話し合っているのを眺めていると、俺の心はゆっくりと真っ赤な光と共に心地よく溶け込んでいった。

 

 中学時代以前の学校帰りというのは退屈なものだった。

 誰かに呼び止められることもなく、部活動やイベントに勤しむことなどもなく、学校の敷地内で準備している黒塗りのMPVに乗り込む毎日だった。

 

 誰かと語り合いながら肩を寄せ合って帰る日などなかった。

 誰もが明智慶喜を、明智家の御曹司という肩書きに引っ張られて丁重に接してきた。それが居心地が悪いかと言えばそうでは無い。


 他人の心に秘めるものを考えもせず、誰かの悩みや不安に見向きもしないのは気楽だったからだ。

 檻の中に閉じ込められた家畜の中にライオンが解き放たれたように、ライオンの機嫌を取られ、周囲に寄りつこうとせず空気のように扱われていた。

 存在しないライオンが自分達に噛みついてこないようにと、身を守る手段として徒党を組んでいたのだろう。


 だったら、と思う。

 かけ離れた雲の上の存在だとして接していたオレがだと知ったらどういう態度を取られたんだろうな。

 すぐに壊れてしまう硝子細工のコップを触るように細心の注意を払って接してきたか?

 それとも、哀れみを込めて友人になろうと手を伸ばしてきたか?

 将又、親なし子が偶々明智家に拾われた惨めな奴と裏で笑われていただろうか?


 ……こうして、逡巡してみると、あの退屈な日々に比喩表現を用いて自己憐憫に浸りたいだけなのかもしれない。

 全く滑稽な自分に嫌気が差すも、少し離れた先から彼女達の笑い声が聞こえて一瞬意識を取られ和んでしまう。


 まぁ、さっきから楽しそうにしているのは、他でもなく望と愛想笑いチックな優しい微笑みをする櫻井さんだけなのだけど。

 他のふたりは外の景色をキョロキョロと見回しているのが笑いどころだけど。

 

 目先を自分の足元へやると、だけども、と思った。

 

 居心地が良かろうとも退屈な日常と自分を切り離したかった。

 誰かに与えられた居心地の良さに乗っかって日々を生きることに飽き飽きしていたんだと。 

 自分と同じ境遇の仲間がこうして集まる機会はそうそう無いだろう。


 であれば、オレが今できることは……疵の舐め合いとかじゃ無い。

 仲良く友どちごっこをするとかじゃ無い。

 

 高校生活が終わっても誰かのフィールドで生きることをやめても生きていける糧を身につけることだ。

 この貴重な時間である高校時代を態々わざわざシェアハウスで集結させた意義であると……現時点では結論づけていようか。


 道脇に蟻たちが巣穴に向かって四方八方から帰っていくのを横目で見つつ、視線をもう一段階上げる。

 世界はこんなにもゆっくりと進んでいくのだな。

 逢う魔が時の異世界に足を踏み入れたと感じてしまうような不思議な光景を見ながら、のんびりとした足取りで大地を踏みしめる。

 

 動物園から抜け出したライオンが自然界へ出たらどうなるのか?

 獰猛に残虐しまわるとかでもなくて、きっとこんな風に自分をまず落ち着かせながら世界を見渡し大地を駆け巡るのだろう。

 オレはというと、ちょっとばかし可愛らしいライオンが近くにいるのでゆっくりとその後をついていくことにした。

 だってそうだろ? 一人じゃ無いんだから。


 「早く来いよー、最下位の奴風呂掃除たぞーー!」と望が俺の感傷に浸っているなどお構い無しにこちらを向き、脅してくるので笑いながら走る逃亡者達の元へと駆け出した。

 その歩みは、先程までの重い足取りではなく、軽やかな足取りだった。


 ……って結局走るんかい!?





「ここが僕たちの家になるんだね」息切れすることも無く一番に辿り着いた千明。望が『ガルルっ』と威嚇を犬みたいにするも当の千明は眼中にないかのように無視をする。

 短距離走は余り早くないオレにとって走り出した距離が短かったこともあり、その二人の後に続く。


「意外に小さいのね」

 邸に比べれば明らかに小さい家を見て四番目に緩いジョギングで到着した芹香がそう呟く。まぁ、五人暮らしをすれば十分すぎる大きさだろうし、今ノソノソと近づいて息切れをしている声フェチが沢山のお風呂掃除をするのは可哀想だしな。


「み、みん……っ…みんなひどいよっ…はっ……はぁはぁ………一緒に走ろうって……言ってたのにっ……はぁ……」マラソン大会のあるあるネタを言いながら両膝に両手を突き呼吸を整える。

 櫻井さんの走り方が結構独特で女の子走りというのだろうか……内股で手を上下ではなく左右に揺らしていた。それを本人は知らず知らずにやっているのだろうけど……ある所も左右に揺れていたなんてことを言うのはしておこうか…恥ずかしいと思うし? 別にゲスな別の思惑を秘めているわけじゃ無いから、なっ!

 と、誰に向けてでもなく、自分に言い訳をしておいてふと気づいたが、どうやら俺に風呂掃除をさせようと画策していたようだ。


 もっと段取り良く家の近くで風呂掃除の件を発すれば良かったのだが、まだまだ仲が深められていないからか、こう望が早めに言葉を発してしまったのだろう。

 望が自分と他の人と走りを競争したいという小学生じみた欲求がある事まで考えが及んでいなかったんだろうな。


 そして、小学生じみたイタズラをする奴が近くにいることも知らないようで。オレは櫻井さんを見据える。


「風呂掃除と……耳掃除もっ! やってもらっていいかっ?」俺のもう一人に対するあえて強調した弄りをすぐさま察知し、ドアノブから手を離して、俺にギロリと視線を寄せ耳を隠す。


 それほど恥ずかしいなら、耳を出さなければいいのにと思い、鼻でふふっと笑う。


「みんな入るよっ? 来て」と手をぺこぺこと曲げて芹香の一瞬を突き、千明が俺たちを集合させ、玄関に集まらせる。


 隣家からある程度離れており、わざわざそういう設計にしたのだとすぐに分かるほど周りから浮いていた。学生がシェアハウスするから当然隣人トラブルが起きないようこうした境界線を広めに取っているのだろう。

 まぁ、その敷地と敷地の境界線から家までは五十mほど距離をとっており、屋敷と比べるとどうしても狭く感じるが、本来この程度なのだろう。

 庭はバーベキューなどができる最低限度なのだろうか、家の大きさも隣家よりも三つ分ぐらい大きくはある。ホワイトを基調にした美しい外壁で新築だ。このためだけに新築を作ったの思うと少し申し訳ない気持ちが湧いてくる。


 家の周には真っ白な塀があり、一階の室内を覗けない作りになっており、外には表札などない。隣人がこの家に学生たちが行き来すれば不信感を持ってしまわないだろうか? と一瞬疑問に思うもがその不安材料を消しきれていないとは到底思えないからその辺はクリアにしているのだろうな。


「僕の鍵で開けるねっ」そう言い、千明が左手をポケットに入れ、右手で電気錠で開ける鍵をピッと鳴らす前に、先に望がニヤニヤしながら鍵のボタンを押し、ガチャンと家が開く。


「隙ありだっ! バカめぇ〜」まるで先程走って負けたことの報復かのように鍵を千明の前に揺らしている。因みに、全員一つずつ鍵は支給されているため、望が持っているのも当然だった。

 だが、それに対して千明は顔を曇らせることなく言葉を発した。


「もう一回押してみたら? 鍵が閉まるか試しにさっ」バカにしてきて笑っていた望の目に挑戦的な瞳を上から向ける。


「はっ!? 悔しすぎて落ち込んでいるのか、いいだろう。鍵番はあたしだっ! ……あれ? .....おいっ、つけよ…あれ? .......つかないぞ」何度、手元にある鍵の開閉ボタンを押し込むもドアが開かない。


「望君の鍵の電池、昼休み取っておいたよ? ほら?」そう言ってボタン電池をひらりとポケットから取り出して揺らしてみせる。


「かっ返せっ!!」千明に飛びかかる勢いで近づくも身長差からすらっとした腕を上げられたため望にはそのボタン電池には一向に取れない。

「やーだよ。君が僕らが学校を回っている間にコソッと抜いたのが悪いんでしょ? お返しだよ」おでこに人差し指をちょんと当ててヒョイっと押すとよろめいた。

 オレたちは、一限目として学校校内を見回って施設やら学校内の配置を頭に入れていたんだが、途中で望はどこかへいなくなっていたが、その時に恐らくすでに配られていたボタン電池を抜いたのだろう。

 とはいえ、全員分を抜くと絶縁ができていない状態でボタン電池が擦り合い発熱・発火・破裂する可能性もあるから一人分にしたのだろう。

 昔、屋敷にある電池を全部集めてボヤ騒ぎにまでなった教訓を元にそうしたのだろう…結構怒られたそうだし。絶縁する為にセロハンテープを使うなんて知識は毛頭なさそうだしな。

 そして、望にとって一番厄介な天敵になりそうな千明のボタン電池を抜いたのだ……てか、それって窃と……まぁ、うん…オレたちのシェアハウスの物だし穏便にしとこうか。


「くぅ、くそっ」しかし、千明にはバレていたのだ。鍵の電池が無くなっているなど常人は普通気づかないだろう。ましてや、今日渡されたのであれば尚更。

 気づくのは、誰かに電池が取られいるかもしれないと思慮深く猜疑心が強い人物ぐらいだろう。又は、望の時折見せた悪ガキっこの顔から推測したのかどちらかだろう。まぁ、後者の方が可能性としては高いか。


 そんな望は取り返せないと見切り一人で家へ入っていく。


「実は、この鍵と全く新しいものを先生から予備としてコソッともらっててね」左ポケットから鍵をチョロっと見せてこの鍵で先程開けたとネタバラシを受ける。伊能先生が千明に鍵を渡していたのは知らなかったな。それほどまでに千明は信頼を得ているのか? それとも………。


「その予備は、メイドに渡してもらうのが一番いいだろうな」ここで主導権を握られるのは釈然としないからな。

「りょ、じゃあ入ろっか」俺の主導権を握らせない発言をひらりと避けてリーダー感を出してくる。ふむ、やってくれるな。


 俺たちは、三人ほどが一斉に入れるほどの玄関を抜け、一番手前にあるリビングらしき部屋へと入ると望やメイドの姿は無く、しっかりと八人ほどが座れるソファーや食事の際に座るであろう椅子がテーブルを囲むように整列してある。


 テレビやエアコン・時計など生活を暮らす上で申し分がない。だが、俺たちが暮らしていた厳かな屋敷よりかは何もかもが小さく・狭く映る。


「ここで六人暮らしか………。もう少しパーソナルスペースを意識して欲しいものだよ」千明が不満げにそうポツリと漏らすも他三人も同じ事を思っているだろう、辺りを見回している。

 

 今まで、メイド以外で同じ年代と共に暮らすことは無かった。それに屋敷は広く自由気儘に暮らすことができたが、シェアハウスとなると自分の時間を制限されるだろうからな。当然、そのギャップは大きく、俺たちに見えない不安を募らせる。


「もう、今日からお食事を作るんだよね? 明智君」俺の後ろでひょこんといた胡桃の潤んだ瞳が俺の顔を覗いてくる。

「あぁ、そうだな。………風呂掃除、俺も一緒に手伝うから安心していいぞ」

「………う、うん。………ありがと」先程の質問は風呂掃除の心配をして、直接的に言えないから遠回しに繋げようとしたのだろうが、それを一手早く言葉にしておいた。


「食材が全然無いわね。メイド、本当に何もしない気なのかしら?」六人分の食材が入るであろう冷蔵庫を覗きながら呟いている。リビングに冷蔵庫があるのか。まぁ、キッチンもこのリビングに同設しているから其方の方が色々と便利か。

「しかし、調理方法とか知らないぞ? 大丈夫なのか? 本当に」冷蔵庫に夢中の芹香に近づきながらキッチンに視線をやる。正直、調理場などには一切入ったことがないからな。包丁で食材を切って、炒めるや煮込むなどやった事がない。


「それなら、メイドに教えてもらいながらやれば良いのよ。住み込みでしょうから」冷蔵庫のドアをぱたんと閉めて然も簡単な事のように言ってのける。

「……そうだな。まず、食材を買い出しに行かなきゃだな。どうする?」俺がそんな言葉を発するなり全員の視線がキッチンにいる俺に向けられる。そんな俺って人気者かな? なんて少し浮かれて頭をぽりぽりと掻くが、未知の恐怖が俺へすぐに襲いかかっていることに気づき正気に戻る。


「待て待てぇッ!! 俺何を買い出しに行けば良いか、分からんぞっ!!」そんな言葉と同じく上から声……奇声が聞こえてくる。


「あたしの部屋はここが良いんだよっ!!!」

「お待ちください、お嬢様っ!! そこは胡桃くるみ様のお部屋でございます!」なにやら馴染みのある声が響き渡り、全員が三人横になって歩けるほどの階段を登り、発声源に駆け寄る。


『胡桃様』と目線の位置に書いてあるプレートの部屋奥から声が聞こえる。

「入るよっ?」その声と共に皆一斉に中へ入るも中では幼少期から共にして来た女の子と時々会っていた女の子の二人が部屋中を縦横無尽に追いかけっ子していた。俺はその様子を見て胸を撫で下ろした。勿論、望が元気そうに走っていることでは無く、もう一人の女の子がいることにだ。


 壁紙とかもシンプルな白で、段ボールが五箱ほどあり、簡素な部屋だった。段ボールの中を開けて並べると思うのは悪いと思い、そのままにしているのだろう。


「ちょっと、何してるんですか?」望が走っているのはともかく、メイド服姿の可愛らしいメイドに向けて千明が話しかけていた。


メイドは彼女たちを見るなりスタスタと駆け寄ってくる。


「お嬢様、申し訳ございません! 望様が胡桃様のお部屋で…………」三人の女の子だけだと思っていたら俺もいたのに驚き、開けた口に手を当て、餅が喉に引っかかったように言葉を詰まらせる。


 その様子を見て前にいる三人の女子も俺へ目線を向けるのでサッと間を通り抜け、メイド服の女の子に近寄る。


「ただいま、真奈まな」微笑んでいつも通りの言葉を投げかける。その言葉に手を外し、彼女もいつもの言葉を俺に潤みきった瞳で答える。


「おかえりなさいませ、慶喜よしのぶ様」いつもより綺麗に美しいお辞儀をしてくれる。


 髪型は、ギブソンタックでおでこを全開に出してるがちょろんと触覚はありにしてくれている。それに、顔はいつ見ても可愛らしい。身長は俺よりか八センチほど低く、一六五センチほどだ。


 こうして真奈と再会できないだろうと内心腹づもりしていたが、まさかすぐに再会できるとは。実のところ、この家に荷物を置き次第、真奈を探す為に屋敷に戻ろうと企んでいた。

 学校にいる間は恐らく敷地内から出られないだろうし、学校から帰るまでの時間に向かったとしてもシェアハウスに戻っていないとメイドにチクられれば今後の行動範囲が狭まる恐れがあったからだ。

 だが、それが不要になったのは嬉しい誤算だ……。


「二人は知り合いなの?」芹香が俺たちに聞いてくるのでそちらを見て話を紡ぐ。その時、視界に望がはしゃぎ回るのを止めてこちらを見ているのが映る。


「あぁ、俺専属のメイド____明智真奈あけちまなだ。みんな仲良くしてあげて欲しい」彼女の背中にそっと手を添えてそう発すると、やんわりと唇を噛んで喜んだように微笑んでいた。君の何者も包み込むような慈しみの微笑みがオレには必要不可欠だ。今日までも今日からも。


「へぇ〜、慶喜君のメイドだけここに来るんだ。良いなぁ〜、なんで私たちのメイドは来れなかったんだろうね」その言葉を聞き、真奈が口を結んだので俺は話を切り替える。


「真奈、今日の夕飯をオレたちで支度するんだが、一緒に買い出しに行ってくれるか?」右横にいる真奈の目を見て問いかけると薄らと顔を曇らせる。先程の千明の言葉が関係しているのは言うまでもない。

 確かに、なぜ真奈がここのシェアハウスのメイドとして呼ばれたのか不思議だ。真奈よりもベテランのメイドや帰属意識の高いメイド、全ての家事仕事を網羅しているメイドもいただろう、其の疑問を千明は突いたのだ。


「わ、私は、この家から出られませんので………ですが、私が作った献立通りの食材を買って頂ければ調理をお教えします」目を逸らされたと思ったが、最後は目を合わせてくれるも翳りがあった。

「分かった。では、早速メモに書いてくれ。オレが買い出しに行くから」

「承知しました」そう言い、ペコリとお辞儀をすると三人の間を抜けて下へと降りていった。


「おい、それより望。ここから出るんだ。櫻井さんの部屋だぞ」望に近づこうとするも櫻井さんが『明智君!』と俺を呼び止めて、部屋の外を恥ずかしそうに指差すので、『出ていって』と言う事なのだと思い間を抜け、ドアノブに手を掛ける。


「ご、ごめんね」俺が部屋に出る直前でボソッと声をかけてくるので『まぁ、わかるからいいぞ』と呟き、下にいる真奈の元へ向かう。


 トコトコと階段を降り、リビングのドアノブに手を触れるなり、可愛らしく色っぽい声が聞こえる。


「慶喜様の顔やっぱ、かわいいなぁ……ふぅ…ふぅふふ……やばい、涎が……それにいつもより多めの柔軟剤の匂いと慶喜様の匂いが混ざって……もぅ……おかしくなりそうだよ……もう、ダメ………我慢ができない。慶喜様のところに」


 そんな危険な女の子がリビングのドアを開けてくるなり、妄想に耽っていた相手を目の前にし、『わぁっ』と驚き、倒れそうになるので左手で柔らかくくびれたか弱い腰を支える。

 甘い声色から発せられた言葉を耳にしたことは何度か屋敷でもあった。

 その度にいや気のせいか、と流していた。


「危ないぞっ、急に出てきたら」彼女を立たせてリビングへ入る。

 だけども、先程のフレーズは長文だったため確実にダウトなのだけど……オレの心の淵から湧き出るものはゆるりと丸みを帯びた心地よい感触なので愛しく思える。

 真奈のおっとりした表情が自分の足でフローリングで自立すると真剣味を纏った表情になる。


「申し訳ございませんっ! 慶喜様。でもぉ、私、こうやってまた………あなた様と」

「……あぁ、本当に嬉しいよ。でも、その話はまた今度な。今は、皆との生活を軌道に乗せて日常を営む事が優先だ」


「承知しました。…………時間を作ってくださいますか?」

「勿論だ、真奈。ありがとう」彼女の綺麗に整った後ろ髪を少し撫でる。真奈は嬉しそうにニッコリとする。彼女の笑顔にどれほど救われたか………感謝をしないとな。




 鮮やかな彩りの食材たちに囲まれ、悪戦苦闘している学生達が顔色を拒めてメモとの睨めっこは、他のお客さんからすれば良くある光景なのだろうか。俺たちからすれば何が何だか分からないのでスマホで検索をしてからカゴに食材を入れていく。


「レジの人にメモを渡したら買えると思ったけれど、違うのね」先程までレジの人に『これください』と言ったところキョトンとした顔になるも俺たちの制服が道玄坂と知るなり、優しく自分たちでカゴに入れて持ってくると教えてくれた。真奈も教えてくれれば良いのにと思ったが真奈自身もそのことは知らないのだろうからな。

 要するに、近くの大型スーパーへやってきていた。


「一つ社会勉強になったな。……自立できていないと言われるのも納得か」

「私たちも本来はこんな日常を送っていたのでしょうね…………」芹香がスーパーにいるお客さんを見ながらポツリと呟く。

 店内を見るに、道玄坂の学生らしき人はおらず、主婦や子ども達がカゴを乗せカートを引きながら買い物をしている。喋ること無く淡々と食材を目利きして次のコーナーへ行く若者もいるが、多いのが家族と相談しながら献立を一緒に決めていく人たちだった。

 だからこそ、先程呟いた芹香の一言が強い意味を帯びる。


「もしかしたら、こんな事すらできていなかったかもなっ…………それより、一九八円って高いのか? レタス一つで」レタスを掴みながらそう問いかける。

「………知らないわよ。……一応、お金はカード払いだから。良いんじゃないの? それに他の人達も値札を見ずに買っているから大丈夫よ」お金に疎い俺たち同士が相談するのは不適だな。

 あくまでも周りの客達が値段を見てないように思うのはある程度日本がインフレを起こしておらず、価格変動が微々たるものと切り捨てて考えているからだろうな。

 ……自分達の将来もこの光景のように最愛の人を横に連れて食卓を囲む材料を買いにくる日は来るのだろうか。非日常的な空間に酔ってしまったのか手元につかんだレタスを強めに握ってしまったため、カゴへ入れる。

「このスーパーで言い値は無さそうだし、平均的な値段とは乖離してないだろうから、この調子で買っていくか」オレは、カラカラとショッピングカートを押しながら店内を回っていく。




 店内を見回すと天井や小さな旗で何が置いてあるかを目印として知らせてくれているようで助かる。もっとも、そこへ赴くも豊富な種類が企業ごとにある為とりあえず高い物を一つ買うことにした。その理由は、高価な方が良い商品だろうという浅はかな考えなのだが……当然目利きする目を持ち合わせていない為この選択肢しかできない。

 

「ジャンケン弱いんだな」横で国産牛肉の容器を掴んでいた芹香は、俺にジトっとした瞳を向け、容器を戻した。

「ああいう、運だけの勝負には弱いのよ」先程出る前に俺と買い出しに行くジャンケンが俺以外で行われたが一発で勝負が決まり、芹香と俺で行くこととなったのだ。

 ここへ来る間はオレの後を二十メートル程離れながらついてきており、相当買い出しが嫌だったようだ……うん、オレが嫌とかじゃないと思う。


「運以外だったら勝てると?」

「そうよ。………運なんて生まれた時から無いわよ。この牛肉さんみたいにね」牛肉で赤みが多い容器を見繕って一つ手に取りカゴへと優しく入れ込む。


「………じゃあ、ここで一つ俺とジャンケンをするか?」

「私の運の無さを証明したいのかしら?」

「運を証明なんて出来ないだろっ。まぁ、いいからいいから」そう言って急に『最初は、グー。ジャンケン』と俺が言い始めるので、彼女は咄嗟にパーを出す。


「な、上には上がいるんだよ。覚えときなお嬢ちゃん」そう言って締まりきった右手を開き、カートを押し始める。

「…………上では無くて下の間違いじゃ無いかしら?」運が無い男の横に来てそう修正を求めてくる。


「……今はな。だけど、運が悪い災難後には好事が待っているのが、自然の摂理だ。それに……それが今の俺たちだろっ? これ以上のカタストロフィなんて起きないさ」

 彼女の過去など全くもって知らないのにこんな無責任な発言をするのは多少意地らしいのかも知れない。幸せの先に悲劇的な不幸が待ち構えているという世の常を敢えて隠すのは自分自身を律するためかもしれない。

 行手が燦然と分岐するも、一寸先は闇かもしれない無数の選択を恐れているのだろうな。自分が必死で恐れているから他人が恐れないように言葉を費やす。他人が恐怖すると自分へ伝染する事を知っているから。


「…………そうね。ジャンケンで決めれるほど楽な選択肢。気にしなくても良いってことかしら?」

「あぁ。…………大切な決断に運は必要ないさ」カートを押して進むとオレの横顔を見ながら半歩遅れてオレの横へついてきた。



「チョコレートって必要だと思うの」十種類上あるチョコレート達に目を奪われてしゃがみ込んでいる女の子。その横へ物心ついたであろう児童が指を咥えてその女の子せりかに優しい眼差しを向けて眺めると、口角をヒョイッと上げ凛々しく歩いて行った。

 芹香……子どもにそんな目をされるってお前…。

 オレは、芹香を少しでも大人にさせるため提案をする。

「それなら……カカオ九五%の買えよ。体にいいぞっ?」その子にカカオ九五%のチョコをガラッと見せる。時々、このチョコを買って貰っていたから美味しさを知っているし、ポリフェノールの効果で様々な健康効果が医学的に立証されているからオススメなのだが。


「嫌よ。そんな苦いの」顔をふんふんと横に振りながら早速チョコ選別をし始める。どうやら、芹香も食べたことがあるらしい。親の敵みたいにそのチョコを睨んでいるから。

「……だったらダメだ。嗜好品になるからな」


「良いじゃない。糖分を体内に入れて勉強に集中できるから。………このチョコレート………もしも、金が三つ集まったらお菓子詰め合わせもらえるのよ? お得じゃないっ!」見た事のない縦細い箱状のチョコを俺に向けてくる。先程まで運がないさがを僻んでいたくせに吹っ切れたように運を頼りに当てようと提案してくる。


「お菓子会社の思惑にまんまと引っかかって目を輝かせている所悪いが、もう四五分ほど経過しているから……帰るぞっ」カカオ九五%を商品棚に戻す。

「……次来る時は、買いなさいよ」芹香は手に持っていた謎のチョコを戻し、軽やかに立ち上がりジロンとした表情でオレへ言葉を投げかける。


「運が向くようになってきたら三つ買ってやるよ」

「絶対ね!」

 今までの印象とは打って変わって子供みたいなことを言ってくる。だから、そんな彼女の人柄をオレ自身まだ見定めかねていた。初対面の印象としては我の強い女子で知的な印象を受けていたが今は………うん。

 やはり耳かき大好き人間と言う情報は合っていたようだな。そんな耳へ目線を向けた事に気づき、またも耳を隠す。


「あなた、耳を見るのは止めなさいっ。明智家ではそんなマナーも教えてくれないのかしら?」意味の分からないことを言いながらプンスカとレジへ歩く綺麗な後ろ姿を見ながらカートをギッシリと握った。

 

 彼女の行く先のレジは見事に行列をなしていた。




 ブレザーのポケットに入っていた袋と先程買ったエコバッグをパンパンに詰め込んだのを両手に、暗い夜道を二人で歩いていく。夕焼け雲なんてとっくに消え去り真っ黒で燻んだ空が一面に広がっていた。そんな夜道に備え付けられた街路灯と家からのオレンジ色の灯が二人の学生を照らす。


 このスーパーが一番近いと言われ来たが二十分ほど歩いてかかる。だから、四月の夜空の下にいると寒くるなるのも当然だろう。白のニットが彼女の両手を少し覆うも擦りながら『ふぅっー』と息をかけながら歩いている。


「ニットを着てても寒いのか?」両手は悲鳴をあげているが、彼女の体調を確かめる。

「寒がりなの。もう春だってのに……可笑しいわよね」薄らと微笑む彼女とは対照的にその声色は余りにも不安混じりで鬱屈としていた。


「………こんな夜中に出歩いた事ないだろ?..........最近は」

「えぇそうね。課外活動もせずに車に乗せられてすぐ帰宅しては、学問と芸事の毎日だから……無かったわね。でも__________今日は一層寒く感じるわ」

 その寒気の原因はなんだと考えているのだろうか?

 オレは、真奈が家にいる事での安らぎと温かさを多少奪われずに済んだ。

 だが、彼女達は十年以上共に過ごしてきた家族がいなくなりこうして見ず知らずのオレたちと暮らす事になっている。その心細さと侘しさわびが彼女の肌寒さに繋がっているのだと理解しているのだろうか。


「オレたちの家へ帰宅したら治りそうか?」

「そんな病院のような効果をもたらしてくれるのかしら?」ニットの袖口が更に両方の手指を覆う。

「………それは、芹香次第だろ」

「…………患者によって治らないなんて病院経営舐めているのかしら?」

「まだ作り始めたばっかだからな。これからだ」オレは、重くて手が痛くなったため、持ち手を変えるため『よいしょっ』と袋を持ち直す。

「……私もそのうちの一人だったわね………よこしなさいっ」オレの左手に持っていたプラスチックの袋の持ち手を強引に掴んでくるので袋がゆさゆさと揺れる。


「渡すのは良いが、重いぞっ?」

「しつこい男は嫌われるって明智家では家訓とされてないのかしら?」そう明智家をなぜか再度ディスってくるので『ほら』とぶっきらぼうに渡す。


「ぅっ………うぅ………っ」やはり重いのだろうので手を袋に触れるも頭をふるふると横に振るので『持たないで』と言っているのだろうが、俺も一緒にその袋を持つ。だから、か弱く冷たくなった柔らかい手と触れ合う。


「………ありがとう」女の子の手に当たっているのだからこちらこそ『ありがとう』ではあるが、先に芹香が感謝を口にする。


「明智家の家訓では可愛い女の子には優しくしろってのがあるからな」

「………だったら、チョコレート買いなさいよ」

「だめ」


 知り合ってまだ二日も経っていないが彼女をちょっぴりだけ知れた気がする。

 次第に、俺たちの周りにオレンジ色の温かな光が増えていき、その光に照らされて二人の影は歪ながら大きなアーチを描いた。




「『ただいま』」そんな慣れていない言葉を一緒にしてしまい、決まりが悪かったが、それをかき消すようにみんなが出てきて『おかえり』と返してくれる。


 こんな不思議な体験を初めてしたのだろう、二.三秒後に皆の口元が綻んだ。



「なんだい! この調味料の数っ!」俺たちが買ってきた物に不服だったのか千明がローテーブルに調味料を並べて大袈裟に声を荒げる。

「やるなら本格派といきたいところだからな、と話し合って決めた」

「買っても賞味期限長いから問題なさそうだからって、が決めたのよ」お互いが責任を擦りつけようと強調して名前を発し、腕組みをしていた。


「買ってもこんなに使わないよね? メイドさん」メイド服の真奈に向いて心配そうに聞いている。

「私も料理については一般的な知識ぐらいですから…使う機会は今の所余りないですね。ですが、勉強しますのでお任せください」ペコリと軽くお辞儀をする。

 ジリジリと振り返ってオレ達を見据えた千明は立ちくらみがするのかおでこにてをかざして『はぁ〜』とため息をついて言葉を発した。


「…………当分は、調味料買わなくて良いからね、二人とも」


「だってさ、芹香」腰に手を当てて威厳があるように諭す。

「あなたまだ買おうとしてたわよね? それを私が止めたのよね?」調味料を指差しながら俺に痰を切りジト目で見つめてくる。


「ぐっ…………さ、胡桃くるみっお風呂掃除するか」逃げるように袋を探り、風呂用洗剤とスポンジ・ゴム手袋を持って胡桃を見ずにお風呂場へと向かう。


「あっ、うん。……ごめん、みんな料理の方は任せるね」そう呟き俺の方へと近寄り、お風呂掃除に出かけた。


 ……戦略的撤退である。

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