新年に反吐を、海に弱音を

トマトと鳩と馴鹿の煮込み物

一月一日 気温1℃ 晴天

「寒いわ。まるでモスクワみたい。あぁ、この例えはダメなんだっけ?」

モコモコの白い塊がカラコロと嬉々として話していた。耳当ての上から伸びる二つの黒いツインテールが揺れ、僕を見た。凛とした、けれど小動物のように小さな美少女が。

「さあ」

古ぼけた皮のコートを着た僕は、相槌を返す。

「確かに、戦争なんて、どうでもいいわね。私にとっては来年の本のほうが、ずっと大事。ああ、もう今年なんだっけ。あけましておめでとう。今年も無意味な一年を過ごしましょうね」

「うん」

長い長い土手を歩く。世界は青かった。遮る物のない夜空と、唸る紺色の河。

死んだ大きな道路に挟まれ、無数の電灯が規則的に並ぶ妖の道はどこまでも続く。

「ふふ、駅前のカップルったらおめでとうって言いながらずっとキスしてて面白いわ。たかだか一日過ぎただけなのに。愛って一年過ぎると大事なの?」

「さあ」

少女はカラコロと一人でしゃべり続ける。僕はただ、静かに相槌を打つ。

無職の二人にとって新年の意味は分からない。時間も、曜日も意味をなさない生活を送るのなら、必然的に、年月も意味を失う。

けれど、それでも熱に当てられて上ずり、海へと歩く。初詣と違って、人は、いないだろうから。

街はおめでたい新年とやらとは真反対に、死んだように静かだ。誰もいなかった。車の一台だって、走っていない。嬉しかった。みんな、死んだみたいで。

ポケットの缶コーヒーが、開けてもいないのにぬるくなっていた。海でも見ながら飲もうと思っていたのに、これでは買うだけ無駄だ。

諦め、プルタブを開ける。喋り続けていた少女が気がついた。

せびる少女に手渡し、僕はそっとカメラを起動する。一瞬にらんで、けれどそれ以上はなく。少女はだまって被写体になった。

「やっぱり君にはコーヒーは似合わないな」

僕は初めて相槌以外を喋る。あの日、無職二人が身を寄せあおうとしたあの日もこうやって少女はコーヒーを飲んで顔を顰めていた。

「返す」

そう言って、強引に手を握られる。手袋越しに握る手にはあたたかさを感じない。だけど、そこに少女がいるということだけは、感じられる。

揺れるツインテールが猫又のしっぽに見えて、新年らしからぬ、そして僕らしいくもなく少女に聞いてみる。

「死んだら、僕の死体を食べてくれる?」

バレリーナのように鮮やかに振り返り、厭らしく少女は笑う。

「嫌よ。私は天使なんだから。あなたが私を食べるの。それで地獄で会いましょう」

僕はどうやら先に死ねないらしい。それはなんだか悲しくて、ちょっとだけ嬉しかった。少女の老けた死に顔まで見ていいらしい。もしかしたら、あっさりと今年死んでしまうかもしれないけれど。

それからまた、少女は愛を語り続けた。僕はただ、相槌を打った。

そして、立体的に交差する高速道路の下を歩いて海へとたどり着く。もっとも、時間は4時。日の出には程遠い。

大口を開けた黒い海が、静かに揺れていた。

新年なぞ、海も興味ないのだろう。僕はどこか、共感を抱く。

海辺に人はいなかった。少し歩いて、海岸の岩に僕達は座った。

しばらく、二人とも話さなかった。ただ、ただ、波の音が、風の声が。ほんの僅かに聞こえるだけで。

「……結局、あなたは私に一度も愛を囁かなかったのね」

「愛してるなんて言葉、欲しかった?」

「……うん。嘘でも、少しだけ」

何年だろうか。黒々とした海に思う。

隣に座る少女と暮らして、何年だろうか。

大学から逃げるように退学した僕と、名家から逃げるように家出した少女は、もう何年一緒にいるのだろう。

気がつけば少年の部分だけがボロボロと崩れ、大人へと脱皮を果たした僕とは正反対に、少女は変わらない。いつまでも鮮やかな女の子のまま、彼女は僕の隣に、在る。

もしかしたら、僕が気が付かないだけかもしれない。けれど、やはり少女は少女のままだった。

怖かった訳じゃない。壊れ物のように扱いたかった訳でもない。釣り合わないと思った訳でもない。こんな言い訳を並べるつもりだって、無かった。ただ、ただ。

──あぁ。愛というものが、この無意味な関係を崩すのが怖かったのか。

無意識に、少女の手を求める。手袋を外したふたつの手は冷たくて、温もりなんて無くて。だけど、絡めればちょっと暖かい。

「今年中に、言うよ。きっと」

「そう。大丈夫、来年も待つわ」

そう語る少女の横顔は凛としていて美しく、どこか、安堵しているようでもあった。


「今月、どうやって生きようかしら。お父様のお年玉を使えば大丈夫かな」

「うん」

「帰りに、お酒を買いましょう。今日は少しだけ、飲みたいの」

「いいね」

「ふふ、こんな日に働いてる労働者の前を無職がふたり、歩くなんて愉快な事ね」

「うん」

空はもう、少しだけ暗いままだ。

コートから缶コーヒーを取り出す。同じ帰り道で、同じ味を今度は暖かく。

初詣なんてものの意味をやはり理解する日は来ないだろう。けれど、もし行くのなら。

この無意味な関係がどうか、続くことを願おうか。

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新年に反吐を、海に弱音を トマトと鳩と馴鹿の煮込み物 @Hatomato_0101

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