Those in the know


上流いくと、やはり昨日の台風で湧き水の取水口が枯れ葉や木の枝で詰まっていた。

「クロ見張り頼むぞ」

というと、無口なクロは何も言わず俺と反対方向に目を向けて伏せをした。クロに着けている熊避けの大きな鈴がカランと鳴った。ゴワゴワとした毛皮をすっと撫でるとクルンとした茶色の目をふせた。秋田犬の血統を継いでいるクロは50kg以上もある巨体なのに、麿眉のような模様が下がっているのが少し間抜けに見えて少しも怖くない…と俺はそう思う。4年前クロに咥えられた助けられたシナモンの方がよっぽど凶暴だ。シナモンは、3つ下の妹が絶対に飼うといって家族になった。シナモンはトイプードルのおそらく純血種で、山の中を随分彷徨ったあと、クロに子猫のように咥えられて連行されたのが堪えたのか居間で四六時中ギャンギャン吠えて困らせた。

「純血種なんだから、ふもとでキャンプをしてた家族からはぐれたとかだろう。そのうち連絡がくるさ」

その日のうちにふもとの駐在所に行って紛失届を出してきたという父さんの楽観的な予想は外れて、一週間たっても、二週間たっても飼い主は現れないままだった。そして、シナモンの気性もなかなかの強さだった。誰もいないときに昼寝をするのか、居間にだれかがいるときはしぶとく泣きわめき続けた。板張りの部屋は囲炉裏のある居間しかない、やせ細ったシナモンを家畜小屋に入れるのも風がバサバサと入る土間に置くのも気が引けて、いつも家畜小屋の近くの小屋で野生動物からの見守り番として夜を過ごしているクロを子守り役として付けた。クロは外飼い犬なので、居室に入ったことはなく、場違いな思いをしたのだろう、初めはカリカリと部屋の出入り口を擦り、所在なさげにうろうろしていた。台風や豪雪の時にクロを避難させるために土間に敷いている雑袋を、シナモンを括りつけている柱の近くに敷くとようやく自分の役割を理解したのか喚くシナモンの首を掴んで自分の懐に抱くとクロのむく毛の中で幾吠えかしたシナモンはとうとう陥落し眠りについた。

取水口の詰まりをすっかりとれたことを確認すると、残留物をいれたてみ(竹製のちりとり)は色紙を敷き詰めたように彩色だ。山の季節は早い。落ち葉が紅葉して冬の予感を知らせてくれた。ザックに用具を詰め込み、中に入らなかったてみを縄でくくりつけると、もう一度辺りを見回して忘れものがないかを確認する。

「帰るぞクロ」

というと、クロはむっくりと起き上がり、俺の少し前を先導するように歩き始めた。清水の湧き出る山は半分が岩山で、雨の後の泥と相まってよく滑る。岩肌の凹凸を掴みながらじりじりと慎重に下っていく。

―慌てるな。次のための一歩を踏み出すんだ。

取水口が詰まるようなことがあると、父さんは小3になった俺を連れ立って行くようになった。体の小さな俺は初めのころ、何度も転んでは泣き出し、きつい勾配のついた山頂あたりの下りでは父さんに背負われて下って行った。荷物は当時から大きな体をしていたクロにくくりつけられ、何のためにこんなことをやらされているのかと理不尽に泣いた。クロは背中に荷物を括られたことに何の文句もないようだったが、何度も父さんの背中で泣いている俺を憐れむように振り返っていた。小5になると、俺の背はぐんとのび父さんの肩より少し低い位置にきた。秋の台風シーズンになると、俺は初めて自分だけで取水口掃除をしにいくからと提案してみた。

―頼んだぞ

と、父さんは村の男たちと一緒に土砂崩れの探索にトラックを走らせた。その日以来、取水口の掃除は俺とクロの役目になった。

目の前に大きな黒い影が現れた。同時に両足が影に挟まるようにして滑り止まった。

「ありがとう。クロ」

後ろ手で何とか捉えていた岩を頼りに右足、左足とゆっくりとクロが作ってくれたクッションの間から下げて体制を整える。クロは落下する直前の何かの音を頼りに身を挺して庇ってくれる。足に異常がないか確認し、次の一歩を探す。ようやく中腹にたどり着いて木の株に腰掛け一息つく。分厚いゴムの雨合羽の下は蒸れて汗まみれだ。水筒の水を少し飲み、ザックから干し芋を取り出し、一つは自分に、一つをクロに分けた。

「さあ、もう少しだ」



山から下ると、集合所に寄る。すでに何人かが帰って来ていて黒板に報告を残している。

「おぉ圭太、ごくろうだな」

取水口の欄に〇をつけると、最近村に越してきた岡ちゃんが声を掛けてきた。山の安全確認は難易度の低いところが最近越してきた人、何年も集落に住んでいる人は狭い道や、崩れやすい場所を点検することになっている。

「岡ちゃん、おつかれさまです」

「圭太、すごい汗だぜ。今から風呂炊くからうち寄ってけよ」

という岡ちゃんの言葉に素直にうなずく。家に帰って、そのままいると、母さんが汗臭いといって顔をしかめるのだ。思春期だからだと岡ちゃんに教わった。

「街までの道に異常なし!」

と軽トラで土砂崩れがなかったか確認する作業を分担している岡ちゃんが〇をつけるのを待って、岡ちゃんの軽トラの荷台にクロを乗せ岡ちゃんの家に向かう。

「ほれ、やるよ」

と岡ちゃんがペットボトルのジュースをくれた。それから、新発売と書かれたジャガリコも。家に持って帰ったら、絶対に兄弟げんかのもとになるやつだ。と、勢いよく炭酸ジュースを開け、ジャガリコも遠慮なく開けて食いついた。足元にはドラッグストアやスーパーの袋が何個も積み上げられていたので、俺はゴム草履の足をくっつける様に胡坐をかいて助手席に座った。山村に住んでいるけれど、別に未文化人種というわけではない。山道を片道3時間ゆるゆると下っていけば、幹線道路が走った小さめの市がある。ドラッグストアや大手チェーンのスーパーは存在し、その先に外食店やディスカウントストアがあることも知っている。ただその三時間を毎日下り上りする住人はいない。その三時間を週に何度か往復しているのが、岡ちゃんと、この地域で唯一やっている雑貨屋のサンミーのおいちゃんこと山彦さんだった。岡ちゃんは所謂、動画配信者で山の暮らしで動画を作ったり、ライブ配信したりして生計を立てている。この村では父さんのように林業をしたり、料理に添える松やカエデ、きのこや野草を採取したりという山そのものに恩恵を受けた生活をしている住人ばかりでこういった人種が紛れ込むことはなかった。空き家はそこら中にあったので、どこからかこの村に住み着くようになった人もいなくはないと言っていたが、明らかに異色な存在だった。そんな岡ちゃんに声を掛け続けたのがサンミーのおいちゃんだった。サンミーのおいちゃんはもともと移住者に寛容だ。空き家でも住みやすそうな場所を案内したり、合いそうな仕事を斡旋したりしていた。

―どんな村でも人がいなくなったら、もうお終いだ。ここに来てくれる人がいたらそれは希望だからな

サンミーのおいちゃんは、岡ちゃんに住居を与え、自分の仕事を手伝ってもらうように頼んだ。今から三年前のことだ。例えば、ゴミの収集。村民はゴミを出来るだけ出さないように生活をしているが、ペットボトルや缶、プラスチックなどのゴミは生活上出てしまう。それらをまとめて収集し、処分場まで運ぶ仕事を岡ちゃんは引き継いだ。地域の仕事をしてくれる、小さな村の集落では大切な人材として岡ちゃんを迎えるようになった。

釜戸に小枝を入れて、小さな火を起こすと徐々に薪をくべて大きくする。山の上ではプロパンガスは貴重だ。風呂に使うとすぐになくなってしまうのでこの集落では五右衛門風呂を使用している家が普通にある。俺の住んでいるうちもそうだ。火が安定すると、時より風呂場に回って温度を確認する。少しぬるいぐらいで岡ちゃんを呼びに部屋に行く。岡ちゃんの家はこの村が鉱山産業をやっていた遠い昔に建てられた作業員用の住宅だ。台所も、風呂も、当時のまま窯炊きになっている。電気はさすがに通っているし、インターネットもあるのにわざわざガスだけ通さないのは映えるかららしい。とはいえ、さすがにお茶いっぱい炊くのに火種から仕込むのもばからしい。昭和初期のものらしい水屋箪笥のなかに電気ケトルやガスコンロなどが閉まってある。作業部屋には煌々とLEDライトで照らされた並んだ液晶画面で編集作業をしている。

「お風呂わきました」

「あぁ。先に入ってもいいぞ」

「でも、クロも入れてあげたいんです。山道で泥だらけになったし」

「わかった」

時々火の量を調整しながら、動画を見て待っていた。自宅にはWi-Fiがなく、携帯料金がかかるし、そもそも通信障害で、動画のように重たいものは見れず、ゲームもできない。こうして岡ちゃんの家に上がらせてもらえるときだけが自由にインターネットに繋げる場所だった。浴室から岡ちゃんの歌が聞こえた。ボカロのヒット曲だ。ゲーム実況を周回していると、どこも新しい人気シリーズの最新作ばかり取り上げていた。

岡ちゃんが出ると、洗面所にクロを置いて自分を洗う。シャワーがないのであまり湯が減らないように頭から足先まで石鹸で洗ってから、被るようにしてお湯を流し、泡を落とした。

お湯につかりある程度温まったら、クロを呼んで同じように石鹸で洗った。泥色のお湯がまだ流れ続けていたが、風呂の湯が洗面器ですくえなくなったのであきらめて終了にした。岡ちゃんネルと書かれたTシャツを借りて、クロは捨て布で簡単に拭きあげると作業部屋にいく。

「そのTシャツやるよ」

といいながら爆笑した岡ちゃんは冷蔵庫からガリガリ君を取り出して寄越した。自分はCountry Life By Okaと書かれた背景に古民家が描かれた黒Tで岡ちゃんネルTシャツは黄色に緑、ど真ん中に真っ赤な再生ボタンがデカデカと描かれていて、信号機かとつっこみが入りそうなデザインだ。

「東京のデザイナーに田舎感が出るといわれて一応試しに作ってみたけど…ないなーそのデザインは」

俺は何も答えずに、放ってあったスイッチのコントローラーを手に取ると、

「やっていい?」

と聞いた。

「どうぞ」

と答えが来たので、起動した。さっきの販売したての最新作がダウンロードされていたので、開くと名前を決めるところで面倒くさくなってしまったのか、チュートリアルさえ進んでなかった。名前を勝手にオカチャンマンにして進めた。岡ちゃんはゲーム実況をしていない、ただの暇つぶしなのだ。

「でも、風呂はさすがに不便だわ」

台所から、電気ケトルをもってくると、湯を沸かし始めた。

「村営温泉にいけばいいんじゃない?」

「毎日、山男のノリは難しいって。」

「エコキュート使えばいいんだよ。システムバス買ってさ。」

添え物で一儲けしたおばあちゃんたちはIHキッチンやエコキュートを導入している。

「視聴者に見られたらドン引きだよ。」

そもそも、電気が通っていなければどうやって撮影をしていると思っているのか、確かにこの村は100人に満たない小規模集落だ。上水道も通っていないので、昔鉱山だったころに掘られた井戸水を引いて生活している。井戸水はいつ枯れるのか、汚れるのかわからないので用心して湧き水まで気を配らなければならないような見放された村だ。電気やインターネット回線は繋がるだけでも御の字だ。上下水道やガス管など管が必要なものは住民もあきらめている。

「もうこの部屋が見られたらドン引きなんじゃないかな?」

「いやぁ。この村に何とかチャンネルみたいな暴露系配信者がいなくて助かったよ」

と、新発売の次郎系カップラーメンにお湯を注ぎ、冷凍チャーハンと、冷凍ギョーザを電子レンジで温めながら、田舎暮らしの配信者は缶チューハイを開けた。ジト目で眺めていると、

「食うか?」

と聞かれたので、返事の代わりに

「母さんに電話しとく」

といってスマホで今日は夕飯いらないと伝えた。ちらりと目に入った画面には、夕闇に光る星とその前でパチパチと燃える炎に、土瓶からの湯気。サンミーのおいちゃんにこの家を紹介したときに、場所はどこがいいかと聞かれて、周辺の家がないところ、背景が山に囲まれているところと妙なリクエストをされ、高台の空き家が紹介された。母さんの家の飯と違って人工的な味のする夕飯を腹にしまい、懐中電灯を借りて夜道を帰る。時々隣を歩くクロの目がビー玉みたいに月を反射して俺に安心感を与えた。



山の小中学校には、長らく生徒がおらず実質閉校状態だった。俺が小学校に上がるころに村で義務教育の問題が出来た。村には昭和の初期に建てられた小学校があったが、廃墟状態で誰も中身を知らなかった。おそらく父さんの世代が通っていたころがピークで、閉山とともに生徒がいなくなり、放置された。一応コンクリート二階建てだったので建物自体は無事だったが、中は荒れ果てガラスは所々割れ落ち、床は抜け、使える机もなかった。役所に掛け合うと、3時間のスクールバスを走らせるのも現実的ではなく、俺の下には妹弟がいることも考慮され、廃校の再建がなされた。ただ、学校として再建するのは勿体ないと、半分は学校に半分は地域の集会所として利用できる設備にリノベーションがされた。入学式には当初俺だけの予定だったのだが、教員として派遣された夫婦の子どもが一人転校生として同じ入学式に迎えられた。沙穂ねえだった。

「飯島沙穂です」

と紹介されたときの人形のようなあまりにも青白い、そしてポキンと折れそうな手足に驚いた。沙穂ねえは、俺より1つ上で東京から来たと言っていた。その両親の飯島先生たちも、東京出身で田舎暮らしにあこがれて移住してきたと言う。学年が違うので当たり前だが、国語や算数などの授業は別々の教室で行われた。俺の授業は主に男の飯島先生が見てくれた。給食と、用務係の先生として近所のおばあちゃんも学校に雇われた。後々、妹の優菜が入学して教師を増やすのかと思ったが、先生は二人のままだった。沙穂ねえは学校や近所で会えば「おはよう」や「こんにちは」などの挨拶はしてくれるのだけれど、普通の会話はしてくれない。体育の授業や遠隔で他の小規模学校との合同授業なんかで必要なことがあれば話すのだが、必要最低限だ。小学生の時の話し相手といえば、もっぱらおばあちゃんたちか、サンミーのおいちゃんだった。おばあちゃんに給食で苦手なしいたけが入っているときに、俺の分に入れないでくれと懇願したり、カレーやミートソースなんかの味の濃い好物を多く盛ってくれとせがんだりした。足が丈夫になった小3ごろになると、春や秋の山菜取りや栗拾いをクロと一緒に手伝ってお小遣い稼ぎをするようになった。おばあちゃんたちが立ち入れない山の奥を探索できる俺たちは重宝がられた。竹背負いかご一杯で買い取ってもらい、サンミーショップに行って駄菓子を買いあさった。家に持って帰ると、大体妹の優菜が好きなものからかっさらって行くので、サンミーショップの上がり框に腰掛けて、ミーちゃんと話しながら買い食いをして帰った。ミーちゃんはサンミーのおいちゃんの奥さんだ。鉱山の最盛期だったころ、サンミーのおいちゃんは15歳でこの山で一儲けしようとやってきて、もとよりここで雑貨屋を営んでいた家の一人娘のミーちゃんに一目ぼれした。その時ミーちゃんは25歳で最初の結婚が上手くいかずに実家に戻ってきたのだという。返事を悩んでいるうちに鉱山の採掘量が年々と減っていき、10年の時がたち、鉱員たちが次々と土地を離れていく中で、鉱員相手の雑貨店の商いも苦しくなってきた。それでも相変わらず通うサンミーのおいちゃんに折れて二人は結ばれた。ミーちゃんはその季節のユズ茶や、麦茶や、新茶やらを出しながら何回でもこの話をしてくれた。この話を聞きながら俺は本当に飽きるまでかば焼きくんやBIGカツを食った。ミーちゃんの長話のお陰で家に帰っても駄菓子でけんかすることがなくなった。


サンミーショップを通って、自分の家の明かりが見えるところに差し掛かると、沙穂ねえが珍しく石積み擁壁の上にいた。黙って通り過ぎるのもいかがかと思って

「こんばんは」

と声を掛けると

「こんばんは」

と返事が返ってきた。台風一過の去った後の大きな月のせいか、いつもより青白い。顔や手が浮かんで見えた。うちから優菜と弟がけんかしている声が聞こえる。飯島家は静かだ。何を話したらいいのかわからずに

「じゃあ、また明日」

といって家に向かっていった。沙穂ねえが何か言いたげにしていると思ったが気のせいのようだった。



翌日、秋晴れの空の下、いつも通りの授業を終えると、家に珍しく日の暮れる前に父さんがいた。神妙な顔で俺と優菜の肩に手を置くと

「ミーちゃんが亡くなった」

と一言だけ告げた。横にいた優菜はぽかんと口を開けたまま、父ちゃんを見ていた。一瞬、俺も、体を硬直させ、すぐさま溺れる様に手足を動かし駆けだした。後ろで何か父ちゃんが叫んでいたが、耳には届かなかった。

サンミーショップにたどり着くと、上がり框でサンダルを落とすのももどかしく、すりガラスの扉を開いた。

「ミーちゃん!」

中から籠っていた線香の煙と、サンミーのおいちゃんの愛用しているたばこの煙が冬の湯気のように引き戸から出ていく。

「圭太か」

中は白く曇っていたが店と繋がっている居間に白い祭壇と真新しい骨壺があった。何と声を掛けたらいいのかわからず、行先を失った言葉がぐぅぅと代わりに喉を鳴らせた。

「あぁ。すまんかった。煙いよなぁ」

たばこを口にくわえたまま、古びたカーテンを避けてガタガタと窓を開けたおいちゃんは、

「ミーちゃんに、会いに来てくれたんか」

と、線香を渡した。仏壇の前に置いてある祭壇には、三年前のサンミーショップにいたミーちゃんと、はるか昔の晴れ着のミーちゃんのモノクロ写真が置いてあり、すでに何人も来た後なのか線香は長かったり短かったり、火が点いていたり消えていたり様々だった。祭壇には置ききれずに重なるように花束やしきみが置かれていた。モノクロ写真は見覚えのあるものだった。

―結婚式はミーちゃんが出戻り女で年上女房が恥ずかしいと断ったから、写真館で結婚写真だけ撮ったんだ。わけぇころのミーちゃんは女優さんみたいで、ミーちゃんの好きな山藤の一房を簪代わりに着けたこの一枚が気に入ってお守り代わりに持ち歩いてんだ

と古い皮の写真入れを胸ポケットから出して見せてくれた。目がクリクリとしていて、首を傾げた姿は確かに今でも女優さんにスカウトされるようなきれいな人だった。

渡された線香と目の前の状況にそこにあるのが紛れもなく死だったことを示していた。毎週のように通った、のろけ話を聞かされたミーちゃんはもうどこにもいないのだ。悲しい気持ちはなぜか遠くに感じた。儀式的に手に取った線香をライターであぶり、香炉に刺して目を閉じた。

「好きなもん食べな」

と、店に行って駄菓子を盆に乗せて戻ってきたおいちゃんは、急須でお茶を出してくれた。茶は出がらしを何度も使っているのか、薄い緑色のお湯の味がした。出されたお盆の上BIGカツを食べたら悲しくなれるのかと、口に運んだけれど、偽物の加工品の味が口に広がっただけだった。涙を流せば故人は浮かばれるのだろうか。

「今年は特に台風が多かったからな…住民を煩わせるのもいけないと思って、こっそり街の斎場で済ませたんだよ」

この村に昔あった斎場は鉱山の閉山の前に閉められた。ここの村人が誰かいなくなると、寄り合いバスを借りて、下の街の斎場にまで一日がかりで行かなければいけない。通夜も含めて二日がかりでいくこともザラだった。

「ミーちゃんの具合が悪いなんて知らなかった。俺が低学年の時はそこの居間から店番をしていて…」

でもきっとミーちゃんのことを何日かけても見送りたかったという人はこの村にはまだたくさんいるはずだ。

「あぁ。病気のことはみんなには伏せていたんだよ。圭太が気付かなかったのは仕方ない。気付かずにサンミーショップで買い物してくれて、ミーちゃんのお客さんでいてくれた圭太がいたから、ミーちゃんは最後までミーちゃんだったんだと思う」

「……?」

「ミーちゃんはアルツハイマー型認知症だったんだよ。アルツハイマーってわかるか?」

「つまり、ミーちゃんはボケていたってこと?」

「あぁ。最近のことはほとんど覚えていないようだった。それどころか、圭太が来てくれていたころには随分昔を生きているみたいだった。俺たちが出会う前まで記憶はさかのぼっててな」

居間の鴨居に並べてある写真の一番隅にある写真を見つめていた。若い男の人の遺影だった。

「あの人はミーちゃんの元旦那さんだよ。鉱員だったんだが、事故で亡くなってしまったんだ。夜中に何度もあの人の名前を呼んで起きては泣いていたよ。でも、圭太がお駄賃を握って菓子を買いに来てくれたから、ミーちゃんは過去に迷子にならずにすんだ。きっと、この集落が鉱山で活気づいていた頃の商店にミーちゃんはいて、圭太のこともそのころの鉱員の子どもだと思っていたんだろうよ」

寂しそうにおいちゃんは笑った。そうだろうか?

「おいちゃん、ミーちゃんは、きっとおいちゃんとの過去を生きていたんだと思うよ。ここに来た時にいつも話すのは鉱山の最盛期のころの話じゃなかった。おいちゃんが通い詰めていた頃の話だったんだよ」

ミーちゃんはこの雑貨店で生まれ育ち、この村が鉱山として栄えた華やかな時代も、時代の流れとともに寂れていった過程も全てその目で見てきた村の生き証人だ。焼き畑農業ぐらいしかなかった山の中の貧しい集落は、鉱石の採掘で一変した。村娘として慎ましい人生を送る運命の歯車が大きく動き出し、本来出会うはずのなかった鉱員に見初められ結婚し、順風満帆な人生が待っていると思われたときに、事故で夫を失った。帰ってくる場所も、またこの村の中で失った夫の現場。ミーちゃんは心を癒すことのできないままこの村で生きていく他なかったのだと思う。そんなときにまたミーちゃんを見初めた人が現れた。しかも失った夫と同じ職に就いている。また失うかもしれないという恐怖や、かつて自分を愛してくれた人への申し訳なさ…色々な感情でとてもその人の手を取ろうとは思えない。応えられないまま時は流れて、採掘事業は縮小され村から人が去っていく中、ミーちゃんがいるからと残ってくれる人の真っすぐな思いにまた人の手をとる覚悟が決まった。

「ミーちゃんは、俺との…商店じゃなくってサンミーショップの思い出に生きてたのか…」

おいちゃんはゆっくりと骨壺の角をなでるように触った。涙は…亡くなった人を想って流す涙は生きている人を慰めているのだろう。鉱員の背中が震えていた。

「もうすぐ四十九日なんだよ。圭太。その時はミーちゃんを見送ってくれるか」


9月23日。山の秋は終わりの頃合い。真っ青な空に黒装束の人々が集まった。この村のほとんどの住人だ。先頭に赤々と燃える松明を持った父さんがいた。村の旗持ち、籠持ちの寄合長が続き、御膳持ち、僧侶が続き、位牌を持つおいちゃん、天蓋持ちの俺、骨壺を持った母さんと続いた。僧侶の鈴の音を合図に、籠から半紙で作られた蓮華と、彼岸花の花びらが撒かれ、紙にくるまれた小銭がチャリンチャリンと跳ねて音を鳴らす。紙の蓮華は山の強い風に煽られて天高く舞う。墓地は集落の端にあり、サンミーショップからの道のりは過去から今への旅路でもあった。集落のなかで唯一真新しい建物の学校兼寄合所、昭和から建てられた民家の合間に残る焼き畑で作られた畑には今も住民が食べるものを育てている。

集落の中央部は放置された鉱員住宅や、人口が多かったころに建てられた病院や斎場が閉館されて放置され朽ちた建物は外装が剥がれ危険立ち入り禁止のチェーンで取り囲まれている。少し離れてかつての坑道の入り口が蔦や藪で潜んでいる。反対側の山面には父ちゃんたちが働いている間伐場や造林作業所があり、小さな墓地がある。この集落に骨を埋めてきた人たち。小さな集落のご先祖が眠っている。一時のブームで去っていった人がいないのでここは小さな墓地のままだった。石室を開け、骨壺が入れられた。涙を流している人はいなかった。ただ静かな鎮魂の祈りがあった。この村に生き、時代に流され、その中で翻弄されつつも最後まで村とともに在った女性の魂が天へ戻っていく。また一片、蓮華の半紙が空に舞い上がった。



10月、慌ただしかった台風も落ち着いて収穫の時期。にわかに集落は活気づく。竹籠を背負っているお年寄りに注意しなければいけない。

「圭太、キノコ狩りかご一杯でどう?」

と、捕まったら最後、その日一日をたった500円で山の上まで探索に行かされる。優菜も小学校3年生になって女だてらやんちゃくれで山登りは苦ともしないが、相棒がシナモンでは熊よけには役に立たないし父さんに直接指導された俺とは違って心配が多い。年寄りもおいそれとは頼めないらしい。

「今日は岡ちゃんの手伝いをする予定なんだ。ごめんね」

と、悲痛な表情をつくって手を合わせると意気揚々と高台の岡ちゃんの家に行った。

「おー。圭太。今日はアシスタントよろしくな」

と、裏山に行くのにものすごく大きな荷物を持っていて、まずは荷物を減らすことから始めなければいけなかった。

「テントはいらないし、直火はだめだからこの放火グッズも置いて行って」

「放火グッズじゃないし、栗拾いして栗ご飯の班合炊きの映像を…」

「料理シーンは自分の家の庭でやんなよ。ただでさえ秋冬は乾燥して火が広がりやすいって父さんでさえタバコは山を下りてから吸うぐらい気を付けているんだから」

山は財産だ。集落の人の命を繋いでいる。大きなリュックの中身はほとんど置いていって空のまま採取したものを入れるために持っていく。カメラと予備電源だけでもけっこうな重量だと思ったら、

「こちらは任せた」

とちゃっかりとハンディカメラを預けてくる。仕方がない。今回の報酬はゲーム一本と、郊外までいったときの牛丼だ。一本のソフトだけでは集まらないコレクションもあるし、ゲーム機自体が岡ちゃんの家にあるのでそもそも仲違いをしてしまったら元も子もないのだ。来週行く予定の郊外のモールも、うちではほとんど行ったことがない。どうせなら、ちまちまと貯めた軍資金を全投下してゲーム機本体を購入するのもアリだが、きっと優菜に泣き脅しでかっ攫われてしまうのが関の山だと頭の中で算段を付けていると

「ちょっと…まっ…」

呼吸交じりの声に振り返ると、10mは下の方で岡ちゃんが息も絶え絶え登っていた。まだこの辺りは集落のお年寄りでもウロウロする道で、道幅も広く歩きづらい印象もない。

「クロ。岡ちゃんを見てきて」

と指示すると、クロが反転し戻っていった。自分は側道の石に腰掛けてお茶を飲む。

「この辺りでもいいような気がしてきた」

しばらくして、クロに連れられて追いついた岡ちゃんがため息交じりにいう。

「少しペースを落とそう」

と慰めて持っていたお茶のカップを渡した。中腹を越えて道が狭くなると一旦岡ちゃんを置いて自分は獣道に入る。適当な木にロープを結ぶと、毎年来ていたブナの木に目的のものがあるか確認して戻る。反対側のカラビナを岡ちゃんのベルトに着けて故障がないか確認すると自分はカメラの準備をする。

「この奥に毎年大きな舞茸が採れるポイントがあるから」

道のない鬱蒼とした場所を踏みにじりながら歩く岡ちゃんの足元や顔をインサートしながらカメラを回す、一歩踏み間違えれば奈落に落ちる獣道はカメラ越しにはなかなかの迫力だった。

「なんだ。これ」

巨木の足元に工事用のヘルメットのような舞茸が成っている。いつもよりも小さいぐらいなのだが、スーパーのパックに収まった小さな切れ端から想像できないだろう白いもこっとした泡のような舞茸を両手に掴んで薄暗い空に掲げたところでカメラを止める。

「重たいな」

ビニールに包んでリュックにしまう。

「次のポイントにいこう。この先に栗の木の群生があるから」

アケビやムカゴ、ナメコにしめじ。リュックにたんまりと秋の食材が集まってくると、ヨロヨロとし出した岡ちゃんの足取りに、自分の背中のザックと取り換えると、夕方近くになっていた。岡ちゃんの家につくと、採ってきた食材が傷まないように冷蔵庫にしまう。素早く撮り貯めた映像を確認し、さっそく調理に掛かる。

栗ごはんに、キノコ汁、天ぷら、つくだ煮、テーブルの上に並んだ秋のごちそうを作るのは小学校の給食も作ってくれているヤエおばあちゃんだ。アルコールランプに照らされた台所で薪を炊き、撮影する。テーブルに並んで撮影を終了した時刻は夜の8時を過ぎていた。

おばあちゃんを見送りながら、岡ちゃんの家から帰宅する。背中にはタッパーに詰められたおかず。家に着くと、居間には父さんだけで他の家族は寝静まった後だった。

「圭太、遅かったな」

「うん。岡ちゃんの撮影手伝ってたから、ヤエおばあちゃんの料理があるけど食べる?」

「あぁ。それはいいな」

台所で、父さんの酒のあてに、俺の小腹を満たすぐらいの量を温めなおし男二人の夕餉にする。

「今年も舞茸は大きかったか?」

「あぁ。」

お化け舞茸の在りかを教えてくれたのは父さんだ。栗の群生地も、キノコの選び方も父さんが教えてくれた。

「父さんは、この山を下りようとは思わなかったの?」

父さんが大人になったころに山に残ることは利点があったとは思えない。山を下りた平地には老舗の楽器屋や、自動車メーカー、バイクなどの工場がある。

「父さんが小さい頃、今の圭太みたいにキノコ狩りをしたり、栗拾いをしたり、山の中で遊ぶことが好きな子どもだった。鉱山の閉鎖で、うちも一度は平地に越したんだけれどここでの暮らしが懐かしくなって、山の中でも出来る少ない仕事を選んだんだ。おじいちゃんは、平地で仕事をしてほしかったから、山の家に戻るといったときは呆れていたようだった。林業は工場で働くよりも稼ぎが少ないし、大変な仕事だしな」

「母さんは家具職人だったんだよね」

「あぁ。母さんは取引先の家具工場で働いていたんだけど、ある時にこの木が生きているところを見たいといいだしてな。この村に連れてきたんだ。そしたら、やけにこの村を気に入ったようで休みの度に村に来るようになった。一生独り身と思っていた自分がこの村で家庭を持つようになるとは思わなかった」

それから、他愛のない話を続けて、その夜は随分遅くまで起きていた。



翌日、目覚めると、いつもの通りクロを連れて狭い集落を一周した後、岡ちゃんの家に寄ると、縁側から起こして一緒に村営浴場に行った。編集作業でほとんど寝ていないという岡ちゃんは朝風呂好きな老人の熱すぎるお湯におびえ、出たり入ったりしていた。仕方がないのでおじいさんに話しかけ、隙を見て冷水で薄めてあげた。岡ちゃんの目が覚めたところで郊外のショッピングモールに出掛ける。



「俺はここで見てるから圭太は好きなとこえを見て来いよ。なんかあったらラインしてくれ」

アウトドアグッズのところで別れると、家電売り場をうろうろし、お目当てのゲーム器を買おうか買うまいかと悩み、結局全財産を出すのが惜しくなって下のペットショップに行った。クロのために珍しい缶詰やおやつを選んでいると、隣のトリミングルームでシナモンと同じトイプードルがカットされている。うちでは人間さえバリカンやそこら辺で買ったはさみで散髪しているので、シナモンも同じように優菜に虎刈りにされている。何かあるとすぐに歯をむき出しにして唸るシナモンにはお似合いのカットだが…思いついて適当なトリミンググッズを買って包装してもらった。

「随分買い込んだな…」

という岡ちゃんは大型カートにあふれんばかりのアウトドアグッズを乗せている。俺のは荷物のほとんどがペットフード5kgだよというのも面倒だったので、

「一旦、車に乗せてお昼にしようよ」

と、寝袋コーナーから岡ちゃんを離して駐車場に寄り、フードコートに行く。昼時を少し過ぎたコート内は人がまばらだ。

「好きなだけ買ってこい」

と差し出された一万円を握り、牛丼とハンバーガーセット、コーラにクレープと思いっきりジャンキーなメニューをテーブル一杯に広げると

「若いってスゲーな…」

と自分の小さな海鮮丼のセットを手前に寄せてスペースを作ってくれる。有名な富士山のふもとのキャンプ場に年越しキャンプを計画している岡ちゃんは冬の極寒キャンプには何が欲しいかと聞いてきたが

「あんな山奥に住んでいてキャンプなんかしないよ」

という俺の素直な感想に少しの時間岡ちゃんは固まっていたが、バッグからキャンプ特集の雑誌を取り出すと、こっちとこっちどっちがいい?とか聞くので適当にあーとか、うんとか答えつつ昨夜の父さんとの会話を反復していた。山が好きか?と聞かれれば、わからないとしか答えられない。山の中でしか生きたことのない俺は平地での生活を知らない。学校に行けば、毎日たくさんの友達がいて、ゲームしてネットして時間をつぶし、歩いていける距離にあるコンビニに行って新商品を手にする。そんな現実があることも知っているが、どの道選べないのだから考えたところで仕方のないことなのかもしれない。

家に着くとまた夜ご飯の時間を過ぎていた。連日の夜遊びにふくれっ面の優菜に、かわいらしくラッピングされたトリミングセットは効果抜群だった。早速逃げ回るシナモンを押さえつけて普段は適当な手入れをしているバリバリの巻き毛にコームを入れられたものだからたまらない。優菜の手に穴が開くほど齧り付いて逃げた。鶏舎の前で見張り番をしていたクロにシナモンの悲痛な叫び声が届いていたか…というのは杞憂で、さすがの優菜も短毛種で大型のクロのトリミングはしたがらなかった。クロは悠々と缶詰のペットフードをエサ皿に入れるとペロリと平らげてしまう。野菜の皮に廃鶏の燻肉を混ぜているいつものエサに、ドックフードをかけてやるとこちらはあまり好みではなかったらしくペットフードをより分けて食べたあと、残ったものを嫌そうに飲み込んでいた。クロの毛の手入れはいつも母さんのお下がりの櫛で撫でるぐらいだ。ゴワゴワした熊のような毛の下に冬のふかふかの毛が生えている。クロは櫛を通すと気持ちよさそうにゴロンと横になった。家へ戻ると気のせいか恨みがましいような目でシナモンがこちらを見ていたので、皿にペットフードを置いて上げてみた。意外なことにガッツくようにして食べ始めた。シナモンには馴染みのある食べ物だったのかもしれない。ふと、昼間のトリミングルームで高価な人形のように取り扱われていたトイプードルを思い出した。もしかしたらコイツもあの場所にいた過去があったのではないかと思った。平野から山奥に世界を変えられた者の気持ちはどんなだろう。



季節は冬に変わった。山の冬は静かだ。集落の人たちは家に籠り竹細工などの工芸用品を作っている。最近、優菜は母さんの真似をして廃材を使ったDIYに凝っている。意外なことに家の中で唯一暖かい居間で岡ちゃんから借りてきたスイッチをやっていても初めは貸して貸してとうるさかったのだが、何回かすると面白くないと離れていった。スイッチを狙ってくるのはむしろ新小学一年生になる弟の生馬だった。拒絶すると、小さな体で命一杯押し返してくる。面倒になって渡してやるとただ意味もなく周囲を徘徊しているだけなので、まぁほっといても害はない。

もう一つ変わったことに、うちの中にWIFIが通った。母さんのやっている廃材の家具が徐々に売れるようになったのだ。そこで元々は、道の駅などで細々と販売していた集落のおばあちゃんの工芸用品と一緒にSNSで売り出したところ、かなりの反響があった。ちりめん布で仕上げた竹籠や、蔓で編んだ電球カバー、おばあちゃんのセンスの座布団まで、世の中なにが売れるのかわからない。商品管理のために、寄合所のパソコンを使っていたのだが、不便だということで、家にもWIFIを通すことになったのだ。

スイッチを生馬に取られてもスマホでゲームや、動画を見れるので有難い。しかし生馬はスマホでゲームをしていると今度はスマホを触りたがる。母さんや優菜に助けを求めても、無駄なのでこの交換ごっこを永遠と繰り返しどちらのゲームも一向に進まないのが難点だった。



冬のある時、珍しく父さんが土曜日休みを取った。

「獅犬が出たらしい。岡ちゃんが欲しがっていたから見に行くか」

岡ちゃんはずっと自分の山の友が欲しいと言っていた。クロのように猪を狩り、野生動物が家畜や家屋に一定範囲内に入らせないように見張る勇猛な犬だ。純血種でも大型の犬や、狩猟犬ならばよいのだが、折角なら雑種の方が動画に出したときに印象がいいとこだわっていた。クロを引き取ったところと同じNPO法人に行くと、そのほとんどがチワワやトイプードル、ダックスフンドなどの純血種でシナモンのように歯をむき出しにして唸っていたり、逆にケージのすみで縮こまって怯えていたりするのだった。なんで何十万もする犬を買って、そのあとも何万も費やして飼育して、こんなところに放置したりできるのか、虚しさよりも疑問ばかりが浮かぶ。並べられたケージから閉じ込められた怒りや悲しみの目が向けられた。人間に向けられた恨みの目だ。俺にはどうしても救えない感情を、出来るだけ見ないように通路を進む。やがて、大きなサークルのスペースにその犬はいた。フレンチブルドッグや豆柴などの人気犬種がわらわらと足元に寄る中、その一頭だけはサークルの隅でも中央でもない絶妙に邪魔な位置にドデンと横座りして、小さな体躯に合わないむっくりとした前足を枕に昼寝に悦っていた。

「多分、3か月ぐらいだと思うんですけど、体重はもうすぐ10Kgを越えます」

そろそろと遠慮がちに岡ちゃんがその犬の額を撫でると、子犬はくわぁと大きなあくびをして悠々と伸びをして、何かを見定める様に見据えた。岡ちゃんは軽く締めた拳を子犬に近づけた。子犬はしばらく匂いを嗅ぐと、小さな舌をペロッと出して舐め始めた。



おでこに八の字型の皺が寄っていることからハチと名付けられた子犬は、見る間に大きくなっていった。利発で堂々としていて、何事にも動じない落ち着いた性格でわずか半年と思えない大きさに成長した。呼び戻しや待てなどの服従訓練もきっちりと入り、毎日のクロとの散歩や土曜には山登りをさせて筋肉も付いた。クロを育てた父さんもハチの足や眼を見て

「そろそろ狩りに参加させてみるか」

と太鼓判を押す。

厳冬期から早春前までの狩猟解禁時期中の日曜の裏山は狩場となっている。定期的に狩りを行うことで集落に出る野生動物に牽制をかけ、人間と野生動物の世界に境界線を引く。狩猟をするのは村の猟友会のメンバーで、父さんも入っている。中でも秀樹さんという父さんの林業の会社の先輩が腕利きの猟師だ。連なるように形成されている裏山では一つの山で獲物を仕留めるのは難しい。隣り合う山々にそれぞれ猟犬を放ち、最終的に見通しの良いスポットで秀樹さんが撃つ、追い込み猟が行われている。

「ぜひ、見てみたい」

という岡ちゃんの申し入れに、秀樹さんは沸き立つ闘志をむき出しにした自身の猟犬カイとクルゥの鎖を両手にガシャガシャ鳴らせながら

「いい経験になる、付いておいで」

と笑顔で応えた。正直に言うと撮影を頼まれたときは躊躇した。小さい頃一度だけ、狩りを見に行ったこと。その夜はひどくうなされた。しばらく、クロの目が真っすぐ見れず、肉片を口にするのも恐ろしく思えた。結局、断る理由が上手く思いつかずにのこのこと付いて来てしまった。配置の山につくと無線でそれぞれの山に犬たちが放たれた。カイとクルゥも我先にと藪の中に消えていく。裏山で狙うのは猪か鹿だ。猟でも毎回見つかるわけではないし上手く逃げられることもある。正確には知らないが、秀樹さんは80も近い年齢だ。しかしその足取りは全く年齢を感じさせない。積み重なる枯れ葉や中にある枝、突き刺さるように天を目指す強情な竹、背よりも大きな壁のような藪、ところどころに転がっている伐採したあとの丸太。フィールドのすべての位置が理解できているように軽い足取りと、最適なルートで犬たちを追いかけていく。驚くほど足音を感じさせない。

道なき道を追いかけるのは至難の業ではない。岡ちゃんが息を荒げながらバキバキメシメシと地面を荒らしながら必死で後追う。その時遠くでケーン、ケーンという遠吠えが聞こえた。無線で犬たちが獲物を見つけて狩り始めたようだと連絡が入る。仲間から東の方角から山頂に向かって追い込んでいるという連絡が届き、秀樹さんの足も速くなる。岡ちゃんも必死で追う。その岡ちゃんをカメラで納めながら動悸が早くなるのを感じた。ウォンウォンウォンと犬たちの声が威嚇に変わっていく。藪を抜けるとカイとクルゥのオレンジ色の防護服が遠くに見えた。縦横無尽に障害物など意にも介さずオレンジ色が矢のように駆け回り、やがて巨大な影が現れた。

「猪だ」

岡ちゃんの驚きの声に、秀樹さんは振り返りその場に立ち止まるように俺たちにハンドシグナルをする。無線で確認した後に秀樹さんは銃を構えた。二匹に追い立てられ、やがて視界に猪が見えた。

タァァーン

放たれた一発は猪の急所に収まり、猪はばたりと横になった。興奮状態のカイとクルゥが猪の尻の辺りに噛み付き顎を赤く染めている。ひくひくと四肢が最後の抵抗を見せた。秀樹さんが懐から大きなナイフを取り出し猪の首にズブリと深く突き刺し、瞬間血がドクドクと滝のように流れ猪は絶命した。

猪は100kgを越える主だった。ビニールシートに包み、大人が6人がかりでやっと山から降ろすと解体が始まる。肉片になった猪を最初に頬張るのは猟犬たちだ。仕留めに活躍したカイとクルゥ、クロとハチ、他の四匹に与えられている。狩りで興奮状態にあった犬たちは腹を満たすと、落ち着きを取り戻した。イノシシ肉の精肉作業が行われている間に、犬たちの状態を見る。濡れ布巾で毛皮を拭くと、猪に遭遇した6匹に怪我はなく安堵する。

「クロが猪を追い掛けると、ハチもならって走り出したんだ。きっと、ハチは勇敢な猟犬になるぞ」

と父さんがハチの立ち耳を撫でた。クロはすっかりいつもの調子で大きな体を横たえている。大物狩りに連絡が入ったのだろう材木場に備えられた解体スペースには手に手に自家製の野菜や味噌を持ったヤエおばあちゃんをはじめとするご婦人会のおばあちゃんたちや、ビールをケースごと持ってきたサンミーのおいちゃんや、地酒を手に現れた寄合所のおじいちゃんなどが続々と集まりちょっとしたお祭りのようだった。ドラム缶の薪台で、バーベキューや獅子鍋が振舞われた。

「大いに楽しんでいってくれ」

精肉の工程や料理などを熱心に撮影している岡ちゃんが秀樹さんから肩を叩かれると、嬉々として湯気が立ち上る獅子鍋や、ジュウジュウと脂が落ちるたびに火花を立てる猪の焼き肉を口にしていく。

「うまいな」

「だろう。今回の獅子は脂がのっていたからな」

と、語らう二人の横で焼き肉を口にした。恐れていた感覚は湧いてこなかった。その後残っていた臓物や骨などをドラム缶で作った燻製器で犬用のおやつに仕立て、剥いだ皮を乾かす作業をし、残ったわずかの食べられない部位をショベルカーで掘った穴に埋める。命を無駄に傷めない、命を残さず繋ぐ…地中深くに埋められた骸は次の里山を作る。



住民による餅つき大会で始まった新年を祝い終え、季節は春に変わっていた。今年から小学校に通うことになった弟の生馬に、祖父母寄贈のベージュのランドセルが与えられた。このランドセルは俺が一年生の時に送られたものだが、通って一週間もしないうちに山用のザックに変わった。この伝統は3年後の妹の優菜にも受け継がれ、ランドセルというただ重いだけの革製のバッグはすぐに嫌悪の対象となり、軽くて腰でしっかりと安定する山用のザックが勾配の多い里山に一番向くのだった。結局、ランドセルを使うのは一週間と持たず、6年前に購入されたランドセルは3年振りに押し入れから姿を現してもまだピンと角が張った状態だ。3月の短い春休みの間は一番の収穫時期だ。朝靄の霧がかった山に登り、竹の群生地に入ると目を凝らしピョコンと出てきた赤い芽を見逃さないように地面を見張る。どこかの国の豚のようにクロも見つけてくれればいいのにと思わなかったとしたら嘘になるけれども、冬眠から目覚めるマムシや、スズメバチの巣などの危険をいち早く察知してくれる頼もしい相棒に多くはいうまい。早速、芽を見つけると大きさを予想し周りを掘る。塩梅を見て一気に鍬を振り下ろし、てこの原理で掘り起こす。傷のない筍を確認し竹籠に入れると、次のターゲットを探す。筍掘りは一年で一番効率の良い小遣い稼ぎになる。竹籠にあふれんばかりの筍を集めると、直売所に卸しをしているおばぁの家に急いだ。

竹籠から、一つ一つをざっと見ながら検品されていく。途中で折れているものは勿論ダメで、大きくなり過ぎたものや、細すぎるものも商品として見てもらえない。太く短く、根が白い鮮度の良いものは高く買い取ってもらえる。貰った紙幣をポケットにしまうと、一度家に帰る。

「圭太、筍掘りか」

ちょうど朝食の時間だ。

「お兄、私も一緒に行くっていったのに」

と、口をとがらせながら配膳を手伝っている優菜の頭をポンポンと宥めつつ、クロ用に作られた残り野菜の炊いたものと猟でとれた干し肉を、居間の中を生馬と追いかけっこをしているシナモンのために残り野菜とペットフードをかけて二匹分の朝食を準備した。朝ごはんは猪のベーコンエッグと売れ残った筍の味噌汁、漬物だ。春から小学生になる生馬は両親の寝室から、俺の部屋で寝ることになった。同じように優菜も小学校入学時に両親の部屋から一人部屋を与えられたのだが、年が近いから優菜の部屋で寝ればいいという俺の主張は、男女は別部屋でという両親の意見であっさり却下されてしまった。スマホのアラームで起きているので襖一枚とはいえ優菜を起こさずに済むのでこれはこれでよかったのかもしれないと思った。筍掘りの時間は短い。日が高く登ってからの筍はアクが強く高くは売れないので、出来るだけ早く人のいない場所にたどり着いていなければいけない。

「今度の休みに父さんに連れてってもらえばいいよ」

と適当に誤魔化し朝食を食べると、自室に戻った。春眠暁を覚えずに反骨精神を示して筍掘りに勤しんでいるせいなのか、最近やたらと眠い気がする。敷きっぱなしの布団に横になると堕ちるように眠っていた。

「お兄!」

夢も見ずに気絶したように眠っていると、優菜の甲高い声で起こされた。ぼやけた目でスマホの画面を見ると、もう11時だった。岡ちゃんからラインが来ている。

―山菜取り行きたいんだけど今日どう?

が午前9時ごろで

―やっぱ今度にするわ。雨が降ってきた

と10時ごろに2通。やけに暗いと思ったら雨戸が閉めてあったのか。

「母さんと三人で父さんにお昼届けに行ってくるから」

薄暗い部屋の中で優菜の着ている黄色い雨合羽にやけに目がチカチカした。

「雨そんなに強くないのか?」

「うん。霧雨だよ」

「そうか、クロを連れて行けよ。猪が出てくると危ないから」

「じゃあお兄はシナモンのお散歩に行っといてね。お昼ごはんは台所におにぎりと味噌汁があるよ」

「あぁ。わかった」

応えると、玄関の方へドタドタと足音が流れていった。起き上がろうとするが、体がやけに重たくてしばらく布団の中で岡ちゃんに返信をして濁しつつ、これ以上寝ていては一日が終わってしまうと布団から這い出る。居間にいくと、筍の炊き込みご飯の握り飯と味噌汁がラップしてあったが、食欲がなくシナモンを連れて村営温泉に行った。建物の柱にシナモンを括ると誰もいない浴場で体を温めた。何だか、体の芯から冷えているそんな感じがした。風邪なんてめったにひかないのに…波型屋根を打つ雨音がやけに耳障りだ。湯上りに脱衣所で着替えていると、急に世界が暗転した。




嗅ぎなれないプラスチックの匂いと、強いアルコール消毒の匂い。水の中に潜った後のような耳の詰まり。夢の中だろうか。最後の記憶を辿ると、村営温泉に行ったことを思いだした。のぼせてしまったのだろう。早く起きてシナモン…

―ここはどこなんだろうか

瞼を引きはがすように開けると、真っ白の天井とLEDの蛍光灯、視界ギリギリに母さんの姿があった。遅れてピッピッという機械音が耳に届いた。まだ夢を見ているのかと、手を動かそうとして何か突っ張られるような違和感を覚える。隣に腰掛けていた母さんと、目が合った。

「圭太!圭太!」

一瞬、呆けたような表情の母さんが、すぐに涙を溢れさせ寝ていた俺の肩を抱いた。

「よかった!圭太…」

何か喋ろうとするが、喉が引き攣って上手く声が出せない。しばらくすると、見たことのない医者や看護士がわらわらと自分を囲んだ。どうやら、病院らしかった。村には診療所がないので、わざわざ街の病院まで連れられたようだった。湯あたり程度で大事になってしまった。起き上がろうとすると、

「まだ起き上がってはいけません」

というので、大人しく横になる。口の中がカラカラで喉の奥に痰が絡んでいる。つばを飲み込むようにして

「みず…」

というと、何やら仰々しい確認のあと、吸い口のついた水差しでほんの少しだけの水が運ばれた。バケツ一杯の水を浴びたいぐらいの乾きがあったのでなぜこんな少ししかもらえないのだろうと不満に思う。

「圭太くん、意識はしっかりある?」

「はい」

「名前や記憶は?」

「?はい、ありますが…」

次々に質問され、一同が納得すると、また母さんと二人っきりになった。とはいえ、ビニールハウスのような空間の仕切りの向こうには誰かが横になっているようだった。どうやら、湯あたりというわけではなく、体の機能がおかしくなっていたらしい。その機能低下に気付かず、筍掘りに連日出かけ体を酷使し、留めに一番やってはいけない長風呂をし、自分を追い詰め、脱衣所で倒れた後は二日ほど意識を混濁させていたらしい。詳しい説明はビニールハウスを出たらしてもらえると言っていた。母さんは連日ここに泊まっていたのだろうか?優菜や生馬は大丈夫だろうか?シナモンを括りっぱなしだったっけ?聞きたいことが山ほどあるのにまた睡魔が押し寄せ、瞼を開くことが困難になってしまった。

翌朝、目を覚ますと、ビニールハウスからは出されていて、一般病棟に移されていた。瞼まで重たかったのがなくなり、昨日よりはすっきりとしていた。丸椅子には父さんが腰掛けていた。

「圭太、調子はどうだ?」

「随分よくなったよ。喉が渇いた」

「そうか、ちょっと待ってろ」

とベッドについているボタンを押すと

「息子が目を覚まして、喉がかわいたと言ってます」

とナースコールをする。しばらくすると、例のほとんど中身の入っていない水差しを看護士さんが持ってきてくれた。

「あとで、お医者さんからの説明があるからね」

と検温やら、点滴の残量やらを調べた後去っていった。

「本当は浴びるほど水を飲みたいんだけど…」

と渋々、水差しのわずかな水で口を潤す。

「仕方ないさ。お前の病気は腎臓病なんだよ」

「腎臓病?」

腎臓というのは尿を作る器官で、体の中から毒素を排出しているらしい。俺の状態ならば、血尿などの明らかな異変があったはずなのに気が付かなかったのは山で小便を済ましてしまうので、色まで確認できなかったことや、そもそも小便が出にくいという事実が思い当たらなかったことで状態が重篤化したらしい。寝たままで説明を聞かされていて、しばらくは起き上がることも飲み食いすることも禁止され、ただただ横になって状態が安定するのを待つらしい。

「いつ、退院できる?」

と聞くと

「薬が効いているので寝たきり状態は一週間もすれば解けるけれど…」

一週間と聞いて安心し、父さんの顔を見るとどっと顔色が悪くなった。ベッドに縛られた状態の背中がひやりとした。

「ここの病院から転院して、年単位で予後を診られる病院で治療する必要があります」

と言われた。

父さんと二人っきりになった病室で、治療するできる病院がない村での生活には戻れず、また未成年者の付き添いが必要な病院では看護が難しく、療養専門の病院に移る必要があるのだといわれた。

「病気で心細いときに父さんも母さんも側にいられなくてごめんな」

という父さんは数日の間で随分痩せたようにみえた。優菜や生馬には母さんや父さんが必要だ。働かなくては生きてはいけないこともわかっている。そんな風に自分の気持ちを吐き出したら、きっと父さんや母さんは自分を責めるのだろう。病気になったのは誰のせいでもないのだと…あぁそうか

「次のための一歩だね」

というと、父さんはようやく深い皺の多い顔をにやりと緩めた。そこからは医者のいうことを忠実に守り、安静を保つ。すると、翌日には管が抜かれ、飲める水の量が増え、自分で用足しも行けるようになった。数日寝っぱなしだっただけで、自分が老人にでもなったかのように体がいうことを聞かない。手すりにつかまり強烈な眩暈を感じながら、両脇を支えられトイレに行く。トイレで久々に見た自分は何日も口にしていないので相当痩せたろうと思ったが、鏡に映る自分の顔が狸のようにまん丸になって驚いた。病と闘うのは山登りに似ていた。慌てて逃げだすことも、泣きわめいて憤慨しても、現実は変わらない。一歩ずつ、進むしかない。糊のような味のない粥が徐々に固形物に変わっていき、自分の体が回復に近づいていることがわかった。トイレに立つことも介助がなしで可能になり、粥が白米に変わって味のないおかずがつくようになって転院の日取りが決まった。気が付くと、春休みも終わり4月になっていた。平地の桜は入学式の日には散り始めることを病室の窓から知った。筍掘りで稼いだ金で生馬に何か入学祝を買ってあげたかった。持っていきたいもののリストに箪笥の奥に隠してある現金を書こうと思ったが、まだこの先もいつ戻れるかわからない入院生活が続くのだと気が付いてやめておいた。感染予防のために、村には戻れず病院からそのまま直で次の病院に行くことになっていた。転院当日にお世話になった看護師さんと

「これほど手のかからない小児患者さんは初めてだったわ」

と握手をし、レンタカーに乗った。次の病院は県立病院なのだという。高速道路で6時間ほどかかるらしい。運転をしてくれる父さんとはこれでしばらく会えない。母さん会えず、別れを言っていない優菜や生馬、岡ちゃんや村の人たちにも…。村から離れていく高速道路は感傷的な気分になるのだろうと思っていたが、病院ですっかり削られた体力は感傷などに浸らせてくれないほどだった。動き出してまもなく、車のわずかな揺れで酔い始めた。

窓の外の景色を見るようにしてもこみあげてくる強烈な吐き気は収まらず、何度も吐いた。

「大丈夫か」

と父さんが何度かPAで休憩してくれ、用心にと持たされた酔い止め薬を飲んでも吐いてしまうのでひたすら耐えるしかなかった。耐えて、吐き、疲れて眠るの繰り返しののち、県立病院についたのは入院受付も終わっている時間だった。胃液まで絞り出すように吐いていた状態だったので、とても立ち上がれず、車いすで病室まで運ばれ

「また来るからな」

という父さんを見送ることすらできずに眠りについた。




「おはよう。圭太」

翌朝、自分がどこにいるのかわからずに一時停止をしていると見知らぬ子どもに朝の挨拶をされた。反射的に

「おはよう」

と返したが、よくよく考えると初対面の相手に自己紹介もなく呼び捨てられたのが不思議に思うと、相手もこちらの考えを読み取ったのか、俺の頭上を指さし理解した。ベッドには自分の名前や年齢などが書かれた名札がついている。

「ようこそ、我が病室に。僕の相部屋になったのは実に一年ぶりだよ。よろしくな」

芝居がかった一人称で彼が男だということと、仕切りのカーテンの向こうのベッドの名札に樹という名前とそして…

「同い年なのか?」

という事実に驚いた。3つ下の優菜よりも幼い印象だ。体も小さく何となく全体的に薄っぺらで存在感が希薄だった。

「どういう意味で言っているかわからないけれど、まあ若く見えるといういい解釈をとっておこう」

12歳で若く見えるもないと思うのだが、自分も失礼なことをいってしまったという負い目もあったのでそこには触れないようにしておいた。ナースコールをして用足しにいくと、昨日の長距離移動が響いていたのかまたひどい眩暈に襲われた。当たり前のように付き添う樹が

「車椅子持ってきてやろうか」

というので、なぜか意地になって壁伝いにトイレまで行き用を済ませると、鏡に映った自分がよりむくんでいて肌がプラスチックのようにてかてかと黄ばんで見えた。帰りは諦めて

「悪いけど…」

と樹を頼ると

「任せとけ!」

と軽い調子で請け合うので廊下にあった長椅子に座って待っていた。なかなか帰ってこないと思ったら、若そうな看護師と談笑しながら戻ってくる。

「随分、グロッキーそうだったから」

見てやったんだといわんばかりに説明すると、何も手を貸さずににやにやとしながら病室に運ばれていく俺の横を歩きながら看護師と、談笑を続けるのだ。

何の話かと思えば、人気のアニメの話でテレビ放送の最終話の続きが、放映になったのでなんとかして見に行きたいということだった。そんなに元気ならば、外出許可も下りるだろうと他人事のように思っていたが、ここが長期療養施設だということを回診の時間に改めて思い知らされた。

「外出許可か…」

医者の前で、前開きのパジャマを開くと樹の上半身には大きな十字の傷跡が残っていた。皮一枚の下の骨は骨格模型のようにくっきりと浮かび上がるほどに痩せこけている。

「劇場版の映画を大人しく見たらすぐ帰るんで」

聴診器の音を聞きながら、医者は苦笑いを浮かべた。

「そうだな…。最近は暖かくなって感染症も減ってきたし、あと一週間何もなければ許可しようか」

「一週間ね。大丈夫」

と小さく樹はガッツポーズをする。

朝食の時間が始まり、樹には卵焼きや納豆、青物の乗った色とりどりのプレートが運ばれ、自分のところには、粥やカブのそぼろ煮、ほとんど味のない白身魚の蒸し物が運ばれた。

「色味がないね」

とわざわざ見に来て言うと、俺が量も品数も少ない朝食を平らげる間に、樹はちびちびと箸でおかずをつつく程度でデザートについてきたゼリーだけを完食していた。それでも、廊下まで食器を下げてくれたことに感謝した。

10時の面会開始時間になると、樹のお母さんが見舞いにきた。

「あら、あなたが噂の圭太くんね」

昨日の夜間入院から一度も会わずにいたはずなのに扉を放った瞬間に言われたので驚いていると、樹が

「これこれ」

と肩から下げているサコッシュの中から、スマホを取り出した。病院内でスマホを使っていいのかと聞くと、いつの時代の携帯だよというツッコミが入り、病室内では樹が移動式のWi-Fiを繋いでいるのでインターネットも使えるらしい。いいなぁという顔が出てしまったのだろう。

「圭太くんも、Wi-Fi繋いでいいわよ。どうせ容量無制限だし…」

と、洗濯物を棚にしまいながら樹のお母さんがいった。

「いいんですか?」

と、前のめりに応えてしまい顔があつくなった。紙袋に入った入院荷物をひらくと、着替えの間に懐かしのスマホが入っていた。何日も放置していたので充電が切れて電源が入らずコンセントに繋いでしばらく待つことにする。着替えやタオル、歯ブラシやテッシュなどの生活用品を棚に仕舞うと、奥に岡ちゃんから借りたスイッチが入っていた。

―治療が終わるまで貸してやる

という付箋がついていた。そして優菜が作ったであろうフォトスタンドには入学式の日であろう一枚の写真が入っていた。伝統のランドセルを背負った生馬を中心に、優菜や父さん母さん、飯島先生夫妻に、沙穂ねえ、サンミーのおいちゃんに、岡ちゃん、ヤエおばあちゃんに、寄合所のおじいちゃんたち、婦人連合のおばあちゃんたち、秀樹さんをはじめ猟友会や森林組合のおじさんたち。12年間、生まれてから成長するまでの俺を見守ってくれた村の人たちがいた。クロやシナモンも、後ろを向いている犬の背中はハチだ。フォトスタンドを見つけて手にしたまま固まってしまった俺を見て、静かに二人は病室を出て行った。扉を閉まる小さな音が聞こえるかどうかの瞬間、写真の上に大きな滴が落ちた。あとからあとから、流れる涙もしょっぱい鼻水も拭くこともできずに写真を見つめ続けた。小さな写真に一人ひとりの顔はよくわからない。でもきっと、みんな笑っているんだろう。

山の生活は厳しい。欲しいと思ったらすぐに手に入るものばかりではない。前の世代から何十年と受け継がれ育てた木を、命を賭して倒し得られるのはわずかな紙幣だ。ベテランの木こりが、前の日に笑っていたのに今日は下敷きになって戻らなかったこともある。そろそろ採り時とした一年育てた果実がすっかり落ちて収穫できなくなる。自然の前に人は無力だ。理不尽と声を荒げても、拳を握り締めても、一瞬で根こそぎ奪っていく。しょうがないと、山の人は笑う。また小さな苗木を植え、何十年という時をひたすら待つ。写真を持つ自分の腕を見た。ほんの何日かの間に山で鍛えた腕は、点滴の副作用で不格好にむくんでいる。フォトスタンドをサイドテーブルに置くと目を閉じた。しょうがない。根こそぎ奪われたわけではないのだから。俺はまだここにいる。



食事の配膳で昼に起こされると、樹も室内に戻っていて小さな弁当箱を広げている。俺には相変わらずの味なし色なしの食事が渡される。

「お母さんがさ。毎日、昼と夜作ってくれるんだ」

「樹はこの辺りに住んでるのか」

「ううん。生まれは東京だよ。って東京の記憶なんてないんだけどさ、この病院の環境がいいからって、お父さんが東京にいて、お母さんがこっちにアパート借りて病院に通ってくれてる」

樹のサイドテーブルにはこの病院で撮られた親子三人の写真と、何枚かのパジャマ姿の子どもとの写真が並んでいる。

「ごちそうさまでした」

小さな弁当を包み、樹は俺の食べ終わった食器も片付けてくれ、ほいっと手を差し出した。

「……?」

数秒悩んでから、思わず握手すると樹は笑い出し、そのままツボに入ってしまったようで体を折るように胸を押えながら

「やめてよ。圭太。笑い過ぎて息できなくなるわ」

とその言葉通りだったのか何回か深呼吸を繰り返した。

「ごめん。わざとじゃなかった」

と謝るとまた笑い出しそうになるのを堪えるためか頬をムニムニと擦ると

「スマホだよ」

「あぁ。自分で設定できるよ」

と、ゆっくりと起き上がり樹のベッドに近づく。仕切りのカーテンで見えなかったのだが、入院生活が長いだけあって樹の棚はものが溢れていた。本がぎっちりと詰められ、日用品の他にも文房具やパソコンまで揃っている。Wi-Fiの番号を写すと、自分のベッドに戻った。

「じゃあ。僕そろそろ教室にもどるから」

「教室?」

「院内学級に通ってるんだ。圭太も制限が緩和されたら通えるようになるよ」

というと、そのまま病室を出て行ってしまう。充電が終わったスマホを起動すると、倒れたあの日のまま時が止まっていた。通話履歴もない。母さんに連絡してみようかと思うけれど、どうせならみんなが帰った時間の方がよいかと思いなおす。岡ちゃんに

―ゲームありがとう。必ず返す

とラインを打つと、

―待ってる

と返信が来た。村から県立病院まで来るのにほとんど一日かかるのにインターネットって便利だ。しかしゲームをして時間をつぶしていると、以前のように何が面白くてやっていたのかわからなくなってやめてしまった。学校か…。紙袋に入っていた名前の記入もない六年生の教科書を取り出して、眺めてみる。家では教科書すら開いてこなかったので当然新しい学年の教科書など理解ができない。算数の教科書を開いて数字を追っているうちに眠ってしまった。

気が付くと、四時を回っていた。

「そうなんだよ。今週いっぱい無事に過ごせたら外出許可してくれるんだって」

「映画館っていうと、駅が近いかしら。それともモール?樹と映画に行くの初めてだわ」

パソコンで検索しながら楽しそうに親子が会話している。

「圭太?起こしちゃった?」

「いや、起きただけだから…」

起き上がろうとすると、樹のお母さんが

「お手洗い?一緒に行きましょうか?」

「いや…家族に電話しようかと」

「別にそこでしてもいいよ。個室みたいなもんだし…」

会話を聞かれるのはな…それも自意識過剰かとパソコンで検索しつつ元の話題に戻っている二人を見て、ラインを開いた。ビデオ通話で顔が見たいという考えが過り、朝の冴えない自分の顔色を思い出す。水を含んで喉を潤し、小さな声で発声練習をした。声が掠れていないだろうか。通話開始をタップすると電波越しに懐かしい声が聞こえた。

―お兄?

―優菜?

後ろで生馬が俺も、俺もという声が聞こえる。相変わらず仲良くやっているようだ。

―ちょっと待って。わかった変わるよ。お兄、生馬がお兄と話したいって

―おにい。俺、俺!

―生馬、わかってるよ。小学校入学おめでとう。

―ありがとう。

―入学式祝ってあげられなくてごめんな。

―大丈夫だよ。村のみんながたくさん来てくれたよ

―そうか…学校はどうか?勉強してるか?

―飯島先生たちがやさしいよ。給食がおいしい

―よかったな。ランドセル使ってるのか?

―ううん。重たかったから、今は父ちゃんが買ってくれたリュックに変えた

―そうか

そのリュック、俺が買ってあげたかったよ…とは言葉にできなかった。俺の声のトーンが下がったのがわかったのか

―おにい。元気?

と生馬が聞くと、後ろで優菜が叫んだ。ばか。お兄にそんなこといわないの。

なんでだよう。ばかっていうほうがばかだ。

という姉弟げんかがはじまった。しばらく、スマホを取り合うような雑音が聞こえて優菜の声に変わる

―お兄。プレゼントみた?

―あぁ。フォトスタンド、上手くできてたね

―沙穂ねえも今年中学生になったんだよ。写真でセーラー服だったでしょ

横目でフォトスタンドを見た。確かに小さく写っている沙穂ねえは真っ赤なリボンのついたセーラー服を着ていた。沙穂ねえは、前の小学校から使っているらしい赤いランドセルを六年間背負っていたし、いつも体操服を着て過ごしていた俺や優菜と違って、体育のない日はスカートやモールで売っているような洒落た服を着て授業を受けていた。

―そうだね

―私も中学生になったら制服着る!

―そうか

―お兄。私たちみんな待ってるからね。母さんに変わるよ

優菜から出た気遣いの言葉に驚きながら、優菜もいつまでも俺の小さな妹ではないのだと頼もしく思う。

―圭太?電話出来るの?

―うん。同室の子にWi-Fi貸りて…

―圭太…

電話の奥で母さんが言葉を詰まらせた。

―母さん?

―ラインも出来るならたまには顔も見せてね

…薬で醜く腫れあがった姿を優菜や生馬に見られたくはなかった

―ビデオ通話はできないんだ

嘘をついた。

―そう…じゃあ父さんがいる時間には通話できるの?

―うん。たまには写メとってラインに上げるよ

―ありがとう。まってるからね。圭太。大事にするのよ

―うん。ありがとう。またね

―あっ待って。同じ部屋の子とお話したいんだけど

―えっ

慌てて樹の顔を見るが、樹はお母さんと話をしていてこちらには関心がないようだった。樹がいないところにいるとか誤魔化そうとしたが、嘘を重ねるのが心苦しくなり、ゆっくりとベッドを出ると

「樹、俺の母さんが話したいって」

とスマホを差し出した。瞬間の悪戯な顔が見えた。さっと、俺のスマホを奪うようにとると、

「初めまして。圭太のお母さん」

と挨拶をしながら、クロックスを突っかけて樹のお母さんの腕を取り病室を出て行ってしまった。付いてくるなということだろう。樹には一日目から面倒を掛けているので仕方がない。あきらめて自分のベッドに戻った。一体何の話をしていたのか、スマホが手に戻ったときにはたっぷり15分は経っていた。

「よろしくしてねって」

とにやにや顔でスマホを返す。何を吹き込んだのか聞き出したかったが、お母さんの手前そこまでのことはいうまいと自分を納得させた。そこから、夕食の時間まで樹が風呂に入ってお母さんが甲斐甲斐しく髪を拭き、ドライヤーをかけ保湿をする。俺も風呂に入りたかったが、また気分が悪くなるのが怖かったのでやめておき、スイッチを立ち上げてゲームをして過ごした。夕食の時間になると、樹のお母さんが配膳してくれた。

「すみません」

というと、にっこりと笑って返された。樹とお母さんは夕食を一緒に食べる習慣らしく、お重のお弁当を広げて取り合って食べていた。夕食を終えると

「じゃあ。おやすみ」

と抱き合いながら樹のお母さんが帰っていく。歯磨き用具を持って、洗面所に行って戻るとまだ7時前だった。消灯までを樹は勉強や、読書をする時間にしているようだ。俺は休み休み、ゲームをして過ごす。

10時の消灯の時間が来て照明が消されると、ぽつりと

「なぁ。圭太。写メとってあげようか」

と樹がつぶやいた。聞いてないふりをしてちゃっかりと聞いていたのだ。きっと、母さんにも何か吹き込んだに違いない…が…どうせ無駄だろう。樹に何を言っても勝てるわけがない。夕食時に大量に飲んだ薬のせいか、さんざん寝た後でも眠気はいくらでもやってくるのが有難かった。

「おやすみ。樹」

とだけ返し、目を閉じた。



翌日は猛烈な痒みで目が覚める。何日も風呂に入れていないせいだろうか。スマホを見るとまだ6時前だった。朝の回診まで2時間はある。ナースコールを押すのもはばかられ、顔中、首、腕、体の表面に小さな虫が這いまわっている。追い払っても追い払っても出て行かない。とにかく搔きむしって耐えていると、樹が目覚めて

「どうした?」

と聞き答える前にナースコールが押された。

「ちょっと体が痒いだけだから…起こしてごめん」

と言いながら心配させないように、引っ搔いていた手を擦るようにしていると、宿直勤務の看護師さんが慌てて病室に駆け込んだ。

「これは辛かったね」

というと、氷嚢で体を冷やしてくれる。

「すみません」

とされるがままに降ろした手をみると、爪の間に赤い血の塊がこびりついていた。

「僕はもう少し寝とく…」

と、樹は仕切りのカーテンを閉めた。その後来た医者に処方された薬を飲み、落ち着いたころには巡回時間になっていた。腎臓病の症状の一つに痒みがあるらしい。風呂に入りたいというと、朝食後に入れるようにしてもらった。よく見れば、枕や首回りのカバーに血が飛びちっていた。眠っている間にも搔いていたのだろう。何事もなかったかのように、朝食をつつく樹はこのことを知っていたのかもしれない。朝食をすませ、洗顔に向かった樹に

「迷惑かけてごめん」

というと、サイドボードの上にあった写真を持ってこっちのベッドに来た。そこには今より少し幼い印象の樹と同じ年くらいの男の子が写っている。

「圭太の前にそのベッドを使ってた子。3年前にこの部屋に来てね、2年ぐらいで退院してったよ。この子も腎臓病だった」

その子の顔も少し腫れていたけれど、元気そうに笑っていた。つまりこの病気はいつか治るといいたいのだろう。その時、樹のお母さんが顔を出した。

「おはよう。樹。圭太くん」

「お母さん、今日午前中に圭太入浴だって」

「そうなの?じゃあ手伝うわ」

遠慮しようかと、まごまごしていると

「圭太をよろしく。じゃあ、いってきます」

となぜか、樹から託され、本人は出かけてしまう。



「正直、一緒についてってあげたいんだけど…」

と、洗面所で小競り合いがあったあと、何とか固辞して一人で入浴する。朝の時間帯だったのでもちろん湯舟は張られていなかったが、どちらにしても温めのシャワーで簡単に済ませることと言われているのであまり関係はない。いつもの牛の石鹸で洗おうとしているのを樹のお母さんがこれを使いなさいと、渡された洗面セットには、天然やら敏感肌やらが謳われたシャンプーやリンスやボディソープや洗顔料を持ってきた洗面器に入れて小脇に抱えると、意を決して鏡の前に立った。自分でも目をそむけたくなる悲惨な顔だった。昨日見た自分よりも気のせいかさらに大きくなった黄色い顔の皮膚はところどころ剥けて血が滲み、ハロウィンの仮装状態だった。でも、前を見た。今朝、樹が見せてくれた同じ病気を患った子も治ったのだ。いつか、この顔が元に戻ってここから出られる日が来る。シャワーを温めにして出しても、あちこち引っ搔いた皮膚が痛痒い。確かに石鹸でなくてよかったと身に染みた。風呂から出て、軽く押さえるように水気をとると、下着だけつけて樹のお母さんを呼んだ。

「あのぅ。樹のお母さん」

「なぁに。葵さんね」

樹のお母さんもとい葵さんは、昨日樹にやっていたのと同じように俺の背中に軟膏を刷り込む。

「シャンプーとかのお金…」

「それは、大丈夫よ。圭太くんのお母さんに使った分は請求するように言われてるから」

「それに、どうしてこんなにしてもらえるのか…」

「圭太くんは、子どもだからね。困っている子どもを助けるのは当たり前のこと、あとね、圭太くん別にビデオ通話してもいいのよ」

「はい…」

あの親にしてこの子ありということか…。いつもは冬でも自然乾燥に任せている髪まで丁寧に乾かしてもらい、気が付くと洗濯籠に入ったタオルや肌着なども回収されていた。

「どうせ洗濯機は毎日回しているから」

「ありがとうございます」




療養入院も4日目になると、ベッドにて安静の条件は緩和され、少し病院内をうろつく程度ならと、許可が出た。早速、葵さんと病院の購買で洗顔セットなどを買い足した。病院には小さなコンビニも付いていて

「寄ってく?」

といわれたが、誘惑が大きすぎるので近寄らずに帰ろうとして

「そういえば、樹の通っている学校ってどこにあるんですか?」

と寄ってみることにした。

小さな教室には学校によくあるタイプの机が4つ置かれていて、教室の生徒は樹を含めて3人しか生徒がいなかった。俺に気付いた樹が教室の中から手を振ってくれた。

「入っていけばいいじゃん」

と樹がお出迎えしてくれたが、一人は小さな女の子で、一人は綿の帽子を被った子どもで大人しそうな子だったので気が引けた。すると、中にいた先生らしき人が立ち上がってドアに近づく。

「その子が圭太くん?」

「そうだよ」

「私は院内学級の教師をしている槇原弘子です。よかったら、教室のぞいてかない?」

という。樹に腕を引っ張られ、結局教室に入ってみる。樹以外の二人は小学校の低学年くらいなのだろう。綿の帽子の子が目深に被りなおしていた。俺が怖いんだろうな。小柄な樹と違って、つい先日まで山を上り下りしていたので標準以上の体格なのだ。

「小さい教室だけど、出来るだけ普通学級に戻ったときにも遅れないようにみんな頑張っているのよ」

今は算数の授業をしているらしい。足し算と引き算のとなりで、割り算をやっている。そして?

「樹って今、小6だよね」

樹の席らしい場所には、よくわからない記号と、数字の混じった計算式が書かれていた。

「あー。これは、中学生の勉強なんだ。小学校の勉強はだいぶ前に終わっちゃったから」

「圭太くんも分校に行ってたのよね」

と弘子先生がいいながら、小学校5年の教科書を出してきた。教科書は教室に置きっぱなしのようだ。

「この問題解ける?」

容積を求める問題だった。正直よくわからない…

「これは?」

とページを遡りながら聞いてくる。

「うーん」

これなら簡単にわかると思ったのは、小5のはじめぐらいだった。

「きっと、わからなくなった時に気付かなかったのね。でも、もしこの教室に通ってくれたらわかるまでじっくり勉強することもできるわ」



玄関で葵さんと別れて部屋に戻ると、今までの自分は勉強がそんなに重要とは思っていなかった。もちろん学校には通っていたし、授業も受けていた。でもそれ以外の時間で勉強に費やしてこなかった。母さんも父さんも勉強しなさいとは言わない。勉強して中学や高校に行ってその先の進路を考えるというのが、今までの自分の世界軸にはなかった。中学を卒業したら、高校に進学はするのだろう。でも、村には高校がない…その時は山を下りなければならない。その時俺には進学できる高校があるほどの学力がついているのだろうか。現実がどっと襲ってきたようだった。


葵さんに手伝ってもらい入浴を済ませ、夕食を終えて自由時間になると、樹はたんたんと勉強をはじめた。俺はスマホゲームをしながら

「何で、樹はそんなに勉強をするの?」

と聞いてみた。

「何でってあるかもしれないだろ?」

「何が?」

「ここを退院して学校に通う未来」

晴れた日の空の色を尋ねられたときのように、何でもないような、当たり前のことを聞かれたように樹は応えた。病気と闘っているのも、その先の未来を得るための布石なのだ。



その夜は初めて村の夢をみた。大型の台風が過ぎた後なのだろうか。ぬかるんだ山道を、滑る岩を手と足を使って登り続ける。ひっかけた右手でよじ登ろうとしても、足の置き場が悪いのか足の置き場が定まらない、下を見て位置を確認しようとすると、クロが心配そうな顔をしてこちらを見上げている。はぁはぁと、自分の荒い息だけが耳に響く。汗だろうか、目に染みる水を拭おうとするが、拭いても拭いても間の前が滲む。どうやら雨が降り始めたようだ。

ゴォゴォと室内に異音が微かに響いている。ベッドサイドのライトを点けると慌てて布団をめくり、カーテンを開いてナースコールを押す。

「樹が苦しそうです」

―わかった。すぐ行きます

樹のライトも付けると、真っ青の顔で脂汗を掻いている。意識があるのかわからない。

「樹、樹」

何かで揺らしたり動かしたりするのはよくないとテレビか何かで聞いたことがある。上下に激しく動く胸の辺りの動きを見ながら、出来ることは名前を呼び続けることぐらいだった。5分もかからなかっただろう助けが来るまでの時間が永遠のように思えた。目の前で溺れた人間を見殺しにしているような焦りと、緊張で冷や汗がでた。ストレッチャーを引いた看護師や医師がなだれ込むように部屋に駆け込んだ。邪魔にならないように慌てて下がる。

「1,2,3」

ストレッチャーに乗せられた樹はそのままどこかに連れていかれた。しばらく立ち尽くし、ズルズルと自分の身体を引きずって自分のベッドに潜り込む。あんなに天真爛漫に振舞う樹も重たい荷物を抱えてここに閉じ込められているのだ。ここは…ここには…すぐ隣に死がある。握り込んだ拳の中がじっとりと濡れていた。寒くないのに歯がカタカタ鳴った。怖いのは自分の死だろうか。それとも失うことなのだろうか。



「おはよう。圭太くん」

担当の看護師さんがカーテンを開けていつの間にか眠ってしまったことに気が付く。ガバリと起きて大きな声がでた。

「樹は?」

「大丈夫。圭太くんが早めに気付いてくれたから大事にはならなかったわよ」

と鳴り始めた樹の目覚まし時計のアラームを止めた。樹のベッドは空のままだった。その手で、脈拍や酸素飽和度などを調べると

「どこか、調子が悪いところはない?」

などの健康観察をする。首を振ると

「じゃあ、トイレに行って、顔を洗って回診まっててね」

機械的にトイレに行き用を済まし、顔を洗うと相変わらず、黄色く膨らんだ顔の自分がいた。掻き傷はかさぶたに変わっていた。回診を済ませると、朝食を取り、味のない食事を黙々と咀嚼し飲み込む。何の感情も浮かばず、スマホでニュースを見る。

―メキシコで飛行機事故 行方不明者多数、死亡者現在確認70名

―強盗殺人犯人捕まらず

他のニュースもあるはずなのに目が追うニュースが定まってて思わずサイトを閉じた。

考えなしにラインを開き、母さんにビデオ通話をすると、慣れない操作なのか、ガサゴソという音のあとに外側カメラにしになり、村の風景が写った。山桜がひらひらと画面に舞い散り、畑にジャガイモの葉っぱや菜花が春の訪れを告げていた。

―圭太

母さんの顔が急接近した。こんなに近くで母さんの顔を見るのは何年振りだろうか。

―圭太。ごめんごめん

慌てて距離を調整すると、髪の毛をひとくくりにしている母さんの前頭がキラキラと光った。

―圭太?聞こえてる?

母さん、こんなに短い間に随分白髪が増えた。

―うん。聞こえているよ

小さな画面には、今にも泣きだしそうな俺の顔があった

―圭太、どうかしたの?

母の勘は鋭い。

―どうもしないよ。ちょっと、時間が空いたから電話してみただけ

―母さん、週末そっちに行こうか?

―いいよ。大丈夫。付き添い不要の病院に転院した意味がなくなるだろ。生馬や優菜と一緒にいてやって

―そう…そうだわ。今、ちょうどクロの散歩に来ているのよ

―そうなの。クロも画面に映してよ

ガサゴソと音を鳴らして画面にクロの毛並みが映し出される。懐かしい虎毛だ。ゴワゴワとした毛皮の触り心地を想像するだけで心のざわつきが少し収まった気がした。クロ、圭太よ。わかる?やがて、クロの全体まで距離を調整すると、

―クロ

と呼びかける。ステレオを通して声が届いたのだろう、クロが小さくキュウキュウ鳴いた。

―クロ、ごめんな。突然いなくなって

キュウキュウという声が一層大きくなり、母さんが下がって画面の大きさを調整したのだろう、クロの体が見えた

―クロ、ちょっと痩せたか

キュウキュウという鳴き声に混じって遠くで

―そうなのよ。何だか、最近食欲がないみたいでね

と母さんの声が聞こえる。

―クロ、クロ、ちゃんとご飯を食べて元気でいろよ。俺も頑張るから。クロに会えるように頑張るから

―ワォォーン

言葉が届いたのだろうか、クロは力強い遠吠えを一つした。

―母さん。ありがとう。俺のことは心配しないで、頑張れるから

―わかった

少しマイクから遠のいている母さんの声が心なしか鼻声だった。



面会時間になると、いつものように葵さんが訪れた。樹の備品でも取りに来たのだろうか。

「おはようございます」

と声をかけると、いつも通りの調子で

「おはよう。圭太くん」

と挨拶が返ってきた。顔色も変わらず、にこにことしている。

「あのぅ。樹は」

「樹はしばらく管理室にいると思うわ。さっき会ってきたけれど、酸素管理が少し必要みたいだけれど、短い面会も出来てずっと映画が見れないってわめいて周りを困らせてたわ。安静なのに…でも、昨日は本当に助かりましたありがとう圭太くん」

「お礼なんて…俺、何も圭太のこと助けられなくて…」

「私だって同じ状況になっても、助けを呼ぶことぐらいしかできないもの。樹の病気はそういうものなの」

棚に洗濯物をしまったあと、にやりと意味ありげにこちらを見た…

「だから、しばらくは圭太くんのお見舞いに通うわね」




持て余した時間をゲームでつぶすのが惜しい気がして、今日も病棟内を散歩していると、院内学級の階にある用具室と消化器収納の間に見覚えのあるニット帽があった。驚かせないようにわざと足音を大きくして回り込むように立ちふさがり、目の前にしゃがんで逃げ道をふさぐ。

「今日は学校サボりか?」

声を掛けられた少年は不審そうな顔をしてこちらの顔を見上げた。

「俺は圭太」

ニット帽を深く被りなおしながら、

「僕は悠生」

「悠生、学校行かなくていいの?」

質問すると悠生はしばらく黙った後、答えずに伺うように聞いてきた。

「今日、なんで樹、教室来なかったの?」

「樹は夕べ発作が起きて、安静の為にしばらく管理室にいるんだって」

応えると、悠生は俺の病床服の端を握るようにして進もうとしない。

「一緒に教室に向かおうか」

というと、握り締めていた拳を開いてノロノロと歩を進めた。悠生は8歳だと言っていた。小学二年生…。

「樹…大丈夫かなぁ」

小さな頭で立ち向かうには大きすぎる困難。

「大丈夫。部屋にいると、元気すぎて休めないから見張られているだけだよ」

と言葉を選びつつ、合間を開けないように答えた。教室のドアを開けると同時に弘子先生が飛び出した。ぶつからないように悠生を自分の後ろに隠すと、弘子先生が転ばないように軽く肩を持った。

「病院内で危ないですよ」

「そうだよ。先生」

とひょっこり、背中から現れた悠生に弘子先生は大きなため息をついた。

「もう…まぁ…いいわ」

教室に入ると、4つの席は位置が固定されているのか、女の子と向かい合って悠生が座り、二人の席を挟むようにして弘子先生がそしておそらく樹の席があった。一つ空いてはいたが座るのが躊躇われて立ち尽くすと、弘子先生が頭の中を読んだのか

「そうね。もう一つ席が足らなかったわ」

と独り言ち、教室の隅からもう一つ机を用意して樹の机と向い合せに配置した。

「もう悠生くんとは顔見知りになれたみたいね。じゃあ、もう一人の綾香ちゃんも紹介しましょう」

というと、悠生の目の前に座っていた女の子が

「綾香です。今は小学校四年生で院内学級は三年生のときから通っています」

とぺこりと頭を下げた。四年生ならば優菜と同じ学年だ。随分大人しそうな印象があった。

「俺は、圭太です。今年6年生になります。」

と綾香ちゃんに合わせて頭をさげた。その後は、悠生と綾香ちゃんはワークブックに取り掛かり、弘子先生は俺に授業の進め方や、時間割などの説明をしてくれた。院内学級は、県立病院に一番近い公立学校の分校として開かれているらしい。いくつかの授業はインターネットで同時に受けられ、授業の進行もその学校に合わせている。とはいえ、院内学級の生徒はまず病状の回復が第一なので、状態によっては休みがちになることや、全く勉強ができなくなることもあるので、その場合は弘子先生が授業のフォローをしたり、勉強の進度を調整したりしてくれる。まぁ俺の場合病気で勉強が遅れているという理由ではないけれど、勉強を取り戻したいという子どもにはちょうど良い環境なのだとわかった。正式に院内学級への転入手続きを踏んだわけでも、医師から通学許可が下りたわけでもないので、今日はお試しにと、何枚かのプリントとタブレット学習用の機械を貸してもらい

「夕方の面会時間に訪ねるわね」

という約束で病室に戻った。

病室に戻ると、ちょうど昼食の時間だった。

配膳カートから自分の名前のものを受け取ると、黙々と食べだした。いつも五月蠅すぎるくらいの樹のBGMがないお昼は、いつもよりさらに味気がなかった。

午後になると、弘子先生が渡してくれた算数のプリントを解き、タブレット学習をした。漢字の読み書きゲームや、計算のゲームをしていると、長時間使い過ぎないように設定時間が決まっているのだろう最後にブロックゲームみたいなものが出てきて今日の学習はここまでという画面で起動ができなくなってしまった。随分集中してやっていたのか、頭の芯がドクドク脈打っているような感覚だった。

そのまま、疲れてしまったのか、眠っていると、微かな人の気配で目が覚めた。

「あぁ。起こしちゃった?」

と、いうのは葵さんだった。

「勉強、楽しかった?」

と、弘子先生が、花丸の付いたプリントを返却してくれた。返ってきたプリントを手にして、不思議な感覚に包まれた。健康だったころ、勉強にそんなに意味を感じていなかった。未来は漠然としていても揺るがなく延長線にあるものだと思っていた。今は未来の形が見えない。漠然とした必ずあるという未来はない。

「俺、勉強がしたい。院内学級に入りたいんです」

その言葉は口から零れた。このただ零れていくだけの今に、意味を持たせたかった。

「そうなの。じゃあ。圭太くんのお母さんや主治医の先生と私が話してみるわ」

と、葵さんが嬉しそうに手を打った。

「きっと、院内学級のみんなも喜ぶわ」

と弘子先生も応える。



土日は、静かでにぎやかだ。見舞客が増え、隣の病室からは楽しそうな声が響く。

朝、葵さんが見舞いに来てくれたあと、一人っきりの病室はやけに広く感じた。

回診の時間に、主治医の先生に聞いてみると、院内学級への登校の許可が出た。葵さんと、母さんで転校手続きをとって、月曜日から早速通学できるように、葵さんは街に学用品などを準備しにいってくれるらしい。

「少し出歩くか」

と独り言ち、起き上がると、比較的空いている場所を彷徨う。あまり人出の多い場所は感染症にかかる可能性が高いので避けなければならなかった。同じ考えだったのか、悠生にひょっこり出会う。

「圭太!」

小さな頭がひょこひょこ近づいてくるのが、弟の生馬と重なって和んだ。悠生も市外からの入院で、遠方なので毎週は来てもらえないらしい。同室の子にはお見舞いが来るので、寂しくなると、一人でフラフラ出歩いていたという。じゃあ、午後は俺の部屋でゲームして過ごすかと聞くと、いいの?っといいながら、喜んでいた。樹と同室だよと教えるが、悠生は病室にいったことがないらしい。じゃあ、お昼を食べたら迎えに行くと悠生の病室まで見送ると、悠生の相部屋からは賑やかな声が聞こえた。4人部屋で3つのベッドが埋まっていたが、悠生以外の子は、足や手をギブスで包んでいたので外傷なのだろう。それぞれのベッドの周りには家族が囲んで談笑している。確かにこの状態では孤独が沁みるだろう。

部屋に戻ると、樹が管理室から戻ってきていた。

「おー圭太」

声は元気そうだが、また少し痩せた気がする。葵さんも来ていて、スープポットから、スープをよそっている。自分も配膳カートから、食事をとる。

「あとで悠生とこの部屋でゲームしてもいいか?」

と聞くと

「どーぞ」

といってあまり興味のない様子だった。

「樹はあんまりゲームしないんだね」

「あー。相手のいるものってあんまり得意じゃないんだ」

と、ちまちまパンをちぎって、スープに浸して口にしている。食べ終えると、歯を磨きカーテンをひいて樹は寝てしまう。

洗面所で歯を磨いていると、食器を濯ぎに来たらしい葵さんと鉢合わせた。

「樹、あんなに人懐っこいのに、院内の子と遊んだりしないんですね」

と聞くと、

「仲良くなっても、すぐに退院してしまうから、あえて距離を置いているんだと思うわ」

と答えが返ってきた。

「院内学級も、長期入院の子しか来ないんですか?」

と、さっきの様子が浮かんだ。あの子たちならば、通学するのに問題はなさそうだったからだ。

「そうね。一か月とかで退院する子はわざわざ転校しないかも」

そのままの足で、悠生を迎えに行くと、同じゲームをやっているというので、ゲーム機をトートバッグに入れて手を繋いだ。小さな手には何本も青筋だった脈が見えていて、この小さな体で戦っているのだという証が見えた。閉じられたカーテンを見て、

「樹、戻ってきたの?」

と少しうれしそうだった。

「でも、あんまり調子が良くなさそうだから静かにやろうな」

というと、

「わかった」

と静かに同意した。悠生のゲームデータはやりこんでいて、コレクションナンバーのほとんどが埋まっている。逆に俺のセーブデータはスカスカだし、クリアも出来てない状態だったので、チートで悠生から借りた個体でデータを進めてとりあえずクリアしようということになった。データ交換をしながら、ほとんど悠生主導で一つクリアをしたところで、夕方になる。

「悠生はすごい集中力あるんだね」

攻略方法も覚えていたらしく、操作も俺よりも断然うまかった。

「これしかやることないから」

と、セーブデータを確認すると手渡してまた明日も遊ぶ約束をし悠生は戻っていった。

「悠生帰ったの?」

と、樹がいうとどうやら眠ってはいなかったらしい。

「うん。明日も来るって」

「ふーん。先、シャワー浴びてくる」

と、入浴セットを持って出かけてしまうと、入れ替わりに葵さんがやってきた。

「樹、入浴に行きましたよ」

「じゃあ、様子見てくるわ」

と足早に追いかけていく。樹は食欲がないらしく、夕食には購買のアイスクリームやカステラをほんの少し口にしてまたカーテンを閉じて眠ってしまう。俺は悠生のやったデータを少しいじりながら、攻略サイトを見てレアなコレクションを取りに行く。どのくらいそうしていたのか、イヤホンをしていたので気が付かなかったが、樹から何度も呼ばれていたようだ。

「ねぇ」

と、急にベッドの横に立って話しかけられて、驚きでゲーム機を落としそうになり、体勢を整え

「何?」

とイヤホンを外して答える。

「この間はありがとう、できょうはごめん」

「ん?」

と、どうやら樹は今日一杯ふてくされていたらしい。

「僕、今ベッドからあんまりでちゃいけないんだ」

というので、俺がベッドを出て、樹のベッドの横のパイプ椅子に腰かけた。閉じられていたカーテンでよく見えなかったが、樹のベッドの周りに合ったぎっしりつまっていた本や、パソコンがなくなっていた。

「あと一日で外出許可が出たのに…八つ当たりして悪かった」

「わかったよ」

「でもよく考えたら、圭太があの時気付いてくれなかったら、こんなに早く病室に戻ることもできなかったし、もっと大変なことになってたのになって」

「別にいいさ」

それから、樹は自分の抱えている病気のことを話してくれた。生まれた時から肺に異常があって、そのせいで何度か手術を繰り返してきたこと、肺の機能が弱っているので、誤嚥や感染症にかかったら危ない目に合うということや、ほとんど外の世界を知らないことなどを教えてくれた。代わりに、俺は俺の生い立ちを、狭くて広い村の生活を話した。

「圭太が圭太っぽい理由がわかったよ」

「俺っぽいって?」

「病気と長く付き合ってると、なんか自分がよくわからなくなってくるんだ。痛みや苦しみから出来るだけ意識を逸らそうとしているせいなのかもしれない。ただでさえ、病気になってお母さんや、お父さんに負担を掛けているのに痛いとか苦しいとか、どうしてこんな目に合うんだとかなんていえない。果たして僕は、何のために病気とたたかっているんだろうって思う。それできっと、僕が今生きようとしているのは、もう僕のためじゃなくなっていて、お母さんを悲しませたくないから…なんて最近は考えてしまってたんだ」

樹の眼は空っぽになった棚と、ベッドサイドの写真を行き来していた。

「でも圭太は、違うだろう?」

そうだな。樹みたいに誰かのために病気と闘っているとは考えたことはなかった。

「僕は、変わるよ。きっとまだそれだけの時間が残されていると思う」

「あぁ。そうだね」



翌日、見舞いに来た葵さんは樹に何やら頼みごとをされ、戻ってきたときには袋一杯の食料を抱えて帰ってきた。それを空になった棚に詰め込んでいく。

ベッドの上で悠生とゲームをしていると、悠生を樹がベッドから呼びだしてジュースを分けた。人工甘味料の甘ったるいサイダーの味が脳裏を横切ったが、食事制限中なので堪えた。

月曜になると、先週とは反対に、俺が院内学級に通学し、樹はベッドの上に軟禁されている状態だった。昼休みになると、通常の食事が摂れないので一旦病室に戻ると、樹は小さな弁当箱を抱えていた。午後の授業を終えて帰りにタブレットと、何枚かの宿題プリントをもらって病室に戻ればまた樹はゼリー飲料を口にしている。樹は、冬眠前の熊のように食料をずっと口にしているか、冬眠中の熊のように寝ている。そんな生活を何日か過ごしていると、厳戒態勢は解かれて、部屋の中や廊下をウロウロしてもよくなり、また週末が来た。今週末はゴールデンウィークなので、綾香ちゃんは一時帰宅をし、悠生も両親と近くの宿泊施設に連泊すると入院病棟は静かになった。

「樹もお母さんのアパートだったら一時帰宅できたんじゃないのか?」

というと、

「アパートも病室もそんなに変わんないからな。圭太も寂しがるし」

と軽口で返される。棚に本を戻しながら葵さんが

「樹だって、圭太くんと離れるのが寂しいんじゃないの?」

と代わりに軽口を返してくれる。連休中にこちらに一度顔を見せに来るといっていた家族の申し出を断ったのは自分だ。年に何度もない、家族団らんの休暇を生馬や優菜に過ごして欲しかった。寂しくないといったら、虚勢になるけれど、この頃は樹と葵さん、院内学級の面々がいる日常に孤独を感じなくなった。

「これはどうやって考える?」

と、ワークブックの5年生のまとめの部分を樹に教えてもらう。休みの間に勉強の遅れを取り戻すことが目標だ。

「あーこれはね」

樹に聞けば勉強は何でも教えてもらえる。実際に、ベッドで巣ごもり状態の樹に専属教師になってもらい数日でわからなかった箇所はなくなってきた。この分なら、予定通り休み明けには学年通りの内容に入っていけそうだった。



連休が終わると、少し早めの梅雨が始まった。寒暖差に免疫力のない体が付いていかず、樹や悠生が風邪を拗らせ、追うように自分や綾香ちゃんも発熱や体調不良になり、再開した院内学級も実質閉鎖状態になる。樹は肺炎になりかけて、また管理室に移っていった。一人になった病室で何日も高熱にうなされ、増えていく薬の量に比例して腎機能が落ちて指先までパンパンに腫れあがった。自分の体が鉛に変化していくように目を開けるのさえ億劫になりただ寝ることしか救いがなかった。少し前までの希望はどこに行ったのだろう。ひたすら息を潜めるように生にしがみつく日々に、岡ちゃんから一本の動画が送られてきた。タイトルもない日付だけの動画だ。画像は荒く、外は暗い。画面に映し出された景色にそこがどこなのか、一瞬でわかった。湧き水の出る山の入り口だ。懐かしいクロの姿が映った。その横に、クロと同じくらいの体格に成長したハチと、ゴム長靴と、雨合羽の装備の生馬が映った。

―さぁ行くぞ

マイクが父さんの声を拾う。生馬の表情から緊張がこちらまで伝わってきた。生馬はまだ小学一年生だ。歩幅も大人の半分もない。ぬめった地面に踏ん張る力も小さくて、何度も手をついてあっという間に雨合羽は泥にまみれた。踏み外しそうになると、後ろからクロが回り込んで落ちるのを防いだ。

―慌てなくていい、足場になるところを見つけてから一歩を踏み出せ

生馬の小さな肩が上下に揺れている。頂上に近づくと、岩場が増えて地は険しくなる。踏み出す一歩が小さくなる。画面の端に心配するクロの尾が垂れて見えた。生馬は根を上げない限り父さんは手を出すつもりがないのだろう。生馬の足が置き場を彷徨っている。足で探るのを諦めた生馬が両手で頭上の岩を掴んで這い上がるように登り始めた。岩肌できっとあらゆるところを打ち付けられ全身で大根おろしをしているような感覚だろう。

もういいよ。生馬。やめとけよ

末っ子の我の強い、まだまだ子どもだった弟。俺の持っているものを欲しがる弟。妹と張り合う小さな弟。

瞬間、画面が捉えた生馬の眼は滾るような命の灯があった。

生きる強さに、重ねる年齢など意味はない。そこにあるのはただただ執着だった。

ケーン

頂上からさぁここだ。昇って来いよというように、ハチが一つ吠えた。あの保護施設で丸まっていた小さな子犬はそこにはいなかった。

「やった。やったよ」

と頂上で天に拳を突き上げる生馬の背景に、山藤が揺れていた。




夢の合間の、痛みと、苦しみの間の現実に、何度も動画を再生し、5月は知らぬ間に去っていった。徐々に症状は治まり、6月が始まると体が動かせる日も多くなり、半ばに入ったころには通学もできるようになった。

「しばらくは圭太くんと二人っきりだと思うから、病室で授業をしてもよかったのに」

という弘子先生に

「樹が戻ってきたときにくやしがりますから」

と答えて、勉強に取り組んだ。遅れてしまった分は仕方がないが、5月に樹と勉強した部分はきちんと頭の中に残っていて安堵した。しばらく、二人だけの授業を進めていると、綾香ちゃんも参加できるようになり、樹も病室に帰ってきた。

「授業には参加できなくても、まだまだ圭太に学力は追いつかれないから」

と、病室で軽口を叩けるようになった樹に安心する。

樹と通学できるようになったときには、早めに来た梅雨は早々に明け、季節は本格的な夏に変わっていた。院内にいても、カーテン越しの太陽の強さが、夏をアピールしている。

教室に行くと、弘子先生がプラスチックの笹と色紙を用意していた。そういえば週末は七夕だったと呑気に考えると、樹の顔つきが固まっていた。視線を追うと、机のところにたどり着いた。席が一つ減っていた。

「今日の午前中は、自由時間にして七夕飾りを作りましょう」

という弘子先生の優しい声が響いた。輪飾りや、提灯を黙々と制作する。楽しい時間のはずなのに誰も笑えず、言葉が詰まる。

願い事?願うのは一つだ。でも、自分のために?

「週末はね。晴れたら特別に屋上を解放してくれるそうよ。みんなで天の川を天体観測しましょう」

弘子先生は、何枚かの色紙を重ねて小さなボンボンを作っている。となりで綾香ちゃんが、星の形のリースを作った。隅に追いやられていた短冊を樹の青白い手が取った。

―早く治って元気になりたい 樹

テンプレの文章だ。ここにいればみんな願う当たり前のこと。

―家族に会いたい 圭太

短冊に素早く書くと、出来上がった七夕飾りの中に隠すように入れた。

星形のリースを作り終えた綾香ちゃんは、自分の前に2枚の短冊を置いた。

―元気になりたい 綾香

―はるきが幸せでありますように 

綾香ちゃんの書いた二枚目の短冊に水たまりが落ちた。

7月7日 七夕。快晴。病院の天体観測会は盛況だった。この病院にこんなにたくさんの子どもたちがいたのかと思った。手や足の骨折をした子や、短期入院の子は、いつも来れない屋上という異空間にはしゃいで、付き添いの家族や、看護師さんを慌てさせている。

車いすでしか動けない子も何人か来ている。綾香ちゃんを真ん中に、俺と樹は手を繋いだ。県立病院は24時間照明が付いているので天の川までは見れない。けれど照明にも負けない明るい星はいくつか光って見えた。



夏の盛りになると、自分でもわかるぐらい体調がどんどん良くなっていった。体調がよくなると次第に薬は減り、食べているものが色鮮やかになっていく。一時帰宅の話も出るが、自宅まで戻ってしまうと悪化した際の治療ができない、食事療法などの管理も難しいという問題が出てくる。退院はうれしい反面、また急変したらという不安がある。

「よかったら、うちに来ない?樹の部屋が空いたままだし…」

という葵さんの鶴の声で、一時帰宅問題は急転直下する。

「別にいいと思うよ」

樹も平然という。リビングにソファーベッドがあるので、いざとなったら、そこで誰かが眠ればいいという。

「でも…」

と口ごもると、実はすでに話が家族に通っていてあとは本人に了承を得るだけなのだという話をされた。学校も、このまま院内学級にしばらく通えばいいという。断る理由などない状況で頷くと樹はにやりと笑う。



あまり、多くもない荷物を抱えると、この半年足らずが嘘のようにあっさりと退院してしまう。葵さんの住むアパートは、本当に県立病院と目と鼻の先にあった。

「この辺りは県立病院の看護師さんとか、療法士さんとかが通いやすいようにたくさんアパートがあるから」

と、用意してくれていたスリッパに履き替えると、樹の部屋に通された。ほとんど使ったことのないだろう真新しい学習机と、ベッドを囲うように壁一面の本棚があった。入院中に樹の棚に合った本は読み終えたらここに並べられていたらしい。それにしてもすごい量だ。中には幼児向けの絵本や、子供向けの歴史マンガなどもある。文字の多さで樹がどれだけの時間をあの病室で過ごしたのかを物語った。

「少し休んだら、また呼びに来るわね」

部屋の中にあった何冊かの本を手に取ってベッドで眺めているにいつの間にか眠ってしまったらしい。

「圭太くん?起きれる?」

と揺すられ、気が付くと日が暮れていた。リビングに行くと、湯気の立った食事が用意されていた。

「口に合わなくても私のせいではないからね」

とにこにこしながら、レシピ本を手にしていた。肉豆腐に、蒸し野菜、炊き込みご飯、フルーツ寒天。彩もあざやかで、どれも療養食とは思えなかった。

「すごい、おいしいです」

「本当?ってレシピ通りに作っただけだけどね」

「レシピ通りなら、俺にも作れますか?」

「圭太くんって料理したことあるの?」

「家庭科の調理実習で卵焼きぐらいなら」

「そう。じゃあ。教えてあげるよ。自分で作れれば管理も楽だし、外食とかもできるようになったときに自分で選べるしね」

さっと入浴してまた部屋に戻り、葵さんに借りた療養食のレシピを見た。タンパク質の量や塩分量に気を使わなくてはいけない。最近は減塩の調味料や、低たんぱくの食品も種類が豊富なので調整も難しくないと解説があった。でも、村には気軽に行けるスーパーもドラッグストアもないし、材料を揃えるのもかなり手間がかかる。自宅で食べていた灰汁の強い山菜や筍、塩蔵肉はあまり療養食向けではなさそうだということもわかって、少しだけ気落ちする。でも、ここでしばらくの間だけでも置いてもらえるのは有難いことだ。今考えても仕方がない。



早めの時間にセットしたアラームで目を覚まして、リビングに向かうと、まだ葵さんは起きていないみたいだ。顔を洗うと、小さな音でテレビをつけて葵さんが起きるのを待っていると、

「おはよう」

と、パジャマ姿の葵さんが現れた。いつもは自分が寝巻姿なので違和感があって思わず笑うと、葵さんもつられて笑った。

「おはようございます」

「早いね」

「早速、料理を教えてもらおうと思って」

「任せて。スパルタでみっちり教えてあげるわ」

と、目玉焼きに、キャベツの千切りと、モヤシスープとパンのメニューを作った。

料理をするのはほとんど初めてだったが、自分でも驚くほど簡単にこなせてしまう。卵の殻が上手く割れないとか、キャベツが短冊切りになるとか、そういう事態を予想していたらしい葵さんも

「本当に初めてとは思えない」

と、つまらなそうな顔をしていた。確かにこれだけ料理が出来るのなら、実家にいた時に母さんの手伝いをもっとすればよかったと思う。朝食を食べ終えて片付けも済ますと、県立病院に向かった。

「樹も一時帰宅の許可取ればよかったのに」

「いや、この暑いのに外出なんかしたら、また体調崩すし…」

と、お土産のアマゾンから届いたばかりの本から目を上げずにいう。

「圭太くんと、今日はデートする予定だから、お昼は適当に下のコンビニで買って食べてね」

と葵さんも貴重品入れに入っているお財布を確認してあっさりと答えた。樹が買い物に付いて来たがらないのは意外だった。

「楽しんできて。大丈夫、暇つぶしなら得意だから」

と、結局最後まで本から顔を上げなかった。県立病院から市街地行のバスに乗ると、ここに来た時に見れなかった景色に目を奪われる。大きな川沿いにあったこと、周辺にたくさんの学校もある。

「ここが小学校で、地区の中学校はこの近くにあって、一番近い高校はここね」

バス停に泊まる度に葵さんが説明してくれる。市街地のバスターミナルからはこの辺りで一番大きなモールのシャトルバスがある。土日のモールは、ものすごく混むのかと覚悟していたが、敷地があまりに広いので込み合っているようには見えなかった。当たり前なのだが、樹が県立病院に入院しているのと同じ期間、葵さんもここに住んでいるのだ。10年近くも住んでいれば勝手知ったるの状態で、広い敷地を迷わず最短ルートでお目当てのスポーツ店に入ると、テキパキとTシャツやジャージ、靴下や靴を見繕う。病院内では必要のなかった普段着が足らなくなったのだ。ジャンクフードの並ぶイートインを避けて、和食の店に入った。

「ここなら、塩分量が抑えられるし、どんな食材が入っているのかもわかりやすいわ」

と、メニューを開くと、選ぶように促してくれた。塩分が抑えられているといっても、こってりとしたタレで絡められたチキン南蛮や、たんぱく質の多そうな豚ステーキ、この辺りは避けた方が良いだろうと、サケのホイル焼き定食を選んだ。葵さんも同じものを注文する。

「こんな風に外食が出来ることなんてこの病気になってから考えてもなかった」

「確かに、外で体にいいものを食べるって、難しいイメージだけど。外食って、ラーメンとか、ハンバーガーとか、ジャンクで手軽なものを選びがちだしね」

「でも、外食とか家のごはんとか関係なくって自分の体に合うものっていう選択肢なら、決めやすい」

ホイル焼きは、出汁を効かせた薄味で、病院食に慣れた舌には充分においしく感じた。この半年、病気と向き合って、自分の体も適応してきているのだ。



夏休みがやってきた。ここのところ、朝ご飯を作るのが日課になっている。ゆっくりと、朝ごはんを食べ終えた後、県立病院に行き、樹のベッドサイドで勉強する。樹の調子がいい日は葵さんの作ってくれたお弁当を外で食べる。病室に戻って院内学校の終わりの時間と同じ3時ぐらいまで勉強すると、一度アパートに帰って葵さんとスーパーに出かけると、献立を考えながら買い物をし、夕食を作りまた病院に戻り、三人で夕食を食べて葵さんとアパートに帰るというルーティンをする。勉強には時々弘子先生も加わった。規則正しい生活をするということは体にも優しい。少し前まで二週間に一度の検査が怖いと思っていたが、今では自分の体を取り戻す過程のようだ。夏休みの間は樹も一時帰宅を何度もして、アパートのテレビで見れなかった劇場版のアニメなんかの映画鑑賞をする。映画を見るときはこれでしょと、バターと塩がたっぷりかけられたポップコーンに、コーラ、ポテトチップ、ポッキーとテーブル一杯のお菓子を広げる。そういう時は、心を無にして対応する。自分が口にできなくなったものを、一緒にいる相手に遠慮させない…というよりも、樹や葵さんはあえてそういうものを目の前で食べたりもする。食べないのかという挑戦状のように。でも、樹も葵さんもそういう場面を何度も越えてきたのだ。当たり前に自宅で過ごす時間。それが当然でないことを承知している。


お盆休みが終わり、しばらく実家に帰ることにした。主治医には急変はないというお墨付きで、自信がついてきた。市内まで送るからという葵さんの申し出を断って、県立病院前から市街地行のバスに乗る。

「お土産よろしく」

と、夏の盛りに真っ白な樹がバスに向かって手を振った。市街地からは新幹線で最寄り駅に行き、さらに電車を乗り継いで村のふもとの市まで行くと、父さんの軽トラが待っていた。

「お帰り」

約半年ぶりに乗り込むと、懐かしい木の匂いがした。すると、当然匂うはずの

「父さん、タバコ辞めたの?」

と聞くと

「まぁな」

とそっけない返事があるだけだった。細くカーブの多い山道をひたすら登り続けると、懐かしい村が現れた。

「お兄!」

「にいに」

優菜と生馬だ。二人とも夏の日差しにこんがり焼かれて少し大きくなっていた。

「道中疲れはない?」

奥から、懐かしい声が聞こえる。少し、シルエットが丸くなったのかと思うと、その後ろから母さんを見守るようにクロが出てきた。

「母さん、少しふっくらした?」

と聞くと、母さんはお腹をさすりながら、

「実はね。もうすぐ兄弟が増えるのよ」

という。

「そうか。楽しみだね」

と返した自分の顔が本当に笑っていたのか自信がなかった。荷物を降ろすと、自室に入る。何もなかった部屋は生馬が学校で作ったらしい絵や、図工で作ったらしい作品が壁に飾られていた。敷いてもらった布団は、ふかふかで懐かしい実家の匂いが染みついている。しばらく横になっていると、夕食だと声を掛けられた。

味噌汁に、干物、肉じゃがにきゅうりとトマトのもろみ味噌のサラダ。鮮魚が手に入りにくい村の食生活はこんな感じだ。自家栽培の野菜は新鮮でおいしいが、カリウムが多く腎機能に影響する。干物や練り物などの加工食品にも塩分が多い。せっかく作ってもらったものなので食べられないというのも、申し訳なくて少し口にすると、口の中に罪悪感が残って味がよくわからなかった。

食後には久しぶりにクロと散歩に出る。煌々と光る街中と違って、街灯も少ない村の夜は月や星明りをたよりに、足元を懐中電灯で照らす。虫の音が騒がしい。風が涼しい夜の山にはエアコンなんてなくても汗をかかない。

「圭太。久しぶりだな」

と声を掛けていくたのはサンミーのおいちゃんだった。いつからあるのかわからない、錆びた店前のベンチに腰掛けると胸ポケットを探る仕草をして手を止めた。

「タバコ吸っても大丈夫ですよ」

というと

「いいや。年だからね。お前んちの父ちゃんもタバコやめただろう。見習わないとな」

「ありがとう」

「随分変わっただろう?」

「そうですかね」

「生馬はお前が小さな坊主だったころみたいだよ。もっとやんちゃくれかな。最近はよく山に入ってきのこやら山菜やら採っててな。優菜ちゃんは、逆にお姉さんぽくなって、俺が街に出るときにこの店番をしてくれたりしてな。」

たった半年のこと。戻ればまたすぐに馴染めると思っていた。

「岡ちゃんは?」

「あぁ。梅雨明けのころからだったか、急に全国を見に行くとかで、家を空けているよ。」

そう、たった半年。半年もの時間が過ぎていったのだ。

「そうですか。飯島先生や村のみんなには明日会ってきます。出ていくとき、何もできませんでしたから」

「あぁ。ところで圭太、俺は明後日には街に降りる用事があるから」

帰りがけに、おいちゃんがそう声を掛けた。

翌朝、夜明け前の時間にアラームで目覚め誰もいない台所で米を研いだ。

敷地の中にある畑で、茄子や、きゅうりを採り、鶏舎で卵を拾う。台所に戻ると、母さんが起きてきた。

「朝食は、俺が作るから母さんはもっとゆっくりしていてもいいよ」

というと、

「圭太?ごはんなんて作れるの?」

と、驚く。ご飯を炊き、きゅうりはさっと湯通ししてから、戻したわかめとショウガで三杯酢に和える。卵を割り、出汁と割って砂糖を加え甘い卵焼きをつくり、あく抜きしたあと切り込みをいれたナス程よく焼き上げると味噌を塗りしぎ焼きを完成させる。余った出汁ですまし汁を作り、出汁を取ったあとの昆布を細かく刻み、出がらしのかつおぶしと一緒に醤油と砂糖で簡単なつくだ煮も作って添える。

全てを食卓に並べると、父さんたちも起きてきた。

「なんか朝からずいぶん手が込んでるね」

と優菜が驚く。

「圭太が作ってくれたのよ」

と母さんが自慢げにいった。

「大したものではないから」

口々においしいといいながら平らげて

「母さん、圭太に料理習わなくっちゃ」

と大げさに褒めてくれた。朝食を終えると、片付けや洗濯を手伝い、村営浴場に生馬とむかった。夏の浴場はピーク時間が少し遅れる。朝の農作業を終えた村人たちに囲まれて、挨拶をしながら入浴を終える。昼食は、簡単に卵とねぎのチャーハンを作り、家族の分には厚切りのベーコンをカリカリにしたものを添えた。お弁当にして包んで、生馬と優菜が父さんに届けるというので、着いていこうとすると、行きの下り道の途中で息が切れて折り返すことにした。無理をして倒れると余計に迷惑をかける。未就学児だったころの生馬も通っていた道なのに情けないが、これが今の自分なのだ。

「お兄、一緒に戻ろうか?」

という優菜を精一杯の虚勢で

「クロと帰るから大丈夫だ」

と笑って返すと、ゆっくりと来た道を登る。ぐらりと視界が歪むと、クロが大きな体を擦り寄せて引き戻してくれた。木陰に入って路肩に座り休憩をとった。暑くはないはずなのに、背中にしきりに汗が流れた。頭を支えるようにしゃがみこむと、ふいに温度が下がった。

「大丈夫?」

と、声を掛けたのは沙穂ねえだった。瞬間涼しく感じたのは日傘をこちらに差してくれたお陰だったと気が付いた。

「ちょっと、ふらついただけだから」

と、立ち上がろうとした俺の腕をぐっと押さえてもとの体勢に戻すと

「ここで待ってて」

と肩にかけたカゴバッグから水筒を取り出し寄越した。そのまま、山の中に入っていってしまう。あぁ。スカートにサンダルで山道に入ったら…と思っていると、しばらくして戻ってきたときには、手に冷えたおしぼりを持っていた。山のあちこちには湧き水が細く分かれた川があるので、そこでタオルを冷やしてきたのだろう。額に当てられたタオルでしばらくじっとしていると、汗が引いてきた。

「意外だな…」

と思わず零れた言葉に

「何が?」

と返事が来た。

「沙穂ねえは、山の中をうろつかないのかと思ってた」

「私だって散歩ぐらいするわ」

と、スマホを手に取ってしばらく上下左右に振っていたが、そのうちあきらめてスマホをバッグにしまう。おそらく電波を探していたのだろう。集落の近くや、材木所の近くなら電波を拾えるが、山の中途半端な場所では電波が届かない箇所もある。

「もう、ここに戻ってくるの?」

沙穂ねえと、用事以外の会話が成立するとは瞬間あっけにとられる。

「いや、一時帰宅だし、病院もまだ通っているから、しばらくは帰らないと思う」

「……」

相槌も打たずにしばらく考え込んでいた沙穂ねえが、意を決したように

「もう、山には帰ってこない方がいいんじゃない?」

と突拍子もないことを言い出した。

「お父さんやお母さんがこの集落の学校の教師になるって言ったとき、私、とても引っ越しなんてしたくないって言えなかった」

沙穂ねえのお父さんと、お母さんはもともと公立の小中学校での全国交流会で出会い、お父さんの勤めていた東京の中学校にお母さんが付いていくという形で結婚した。結婚後まもなく、沙穂ねえが生まれ、お母さんは専業主婦になった。勤めていた中学校の受け持ちのクラスで、SNSで壮絶ないじめが起こる。事実確認に保護者対応、本人のケアに周囲との折り合い、お父さんは休みの日も返上して対応に当たっていた。そんなある日、被害者の女子が加害者の女子をカッターで切る突けるという事件が発生した。結局、事件は明るみになり、保護者や生徒を含めて大きな騒ぎになり、お父さんの気持ちはぷっつりと切れ学校に行けなくなってしまう。

「結局、お母さんの元々いたこの県に移ったんだけど、今時SNSなんてどこにでもあるし、またそんな事件に巻き込まれるがないとはいえなくって、お父さんは仕事が出来なくなってしまってそんな時にこの集落の教員の募集がかかったの。私たちはお父さんの都合でここに移り住んだけど、私はここで生きていく気持ちはない。高校はなるべく離れた場所で暮らして普通の生き方をしたい」

時より言葉を詰まらせながら、これまでのいきさつを話してくれた沙穂ねえの顔はいつかで出会った顔をしていた。記憶は巡り、思い立つ。岡ちゃん家からの帰り道。擁壁で交わした挨拶。

「あっ。沙穂ねえ!」

パタパタと、生馬が駆け寄り二人が弁当を届けて帰ってくるほどの時間をこうして過ごしていたことに気が付いた。

「二人で何をしていたの?」

と、しきりに探りを入れてくる優菜をかわしつつ、ゆっくりとしたペースで自宅に戻る。




夕食の支度を手伝いながら、沙穂ねえとの会話を反芻する。

―山に帰らない

その選択肢が自分にあるのかはわからなかった。少なくとも今の自分に山での生活が以前より難易度が上がったことは実感している。食料や医療の環境や、標高が高く日常的に負荷が掛かる生活は病み上がりの自分には適応が難しい。

「圭太が帰ってきたら、母さんもっと料理の勉強をしなくちゃいけないわね」

と、母さんはナスを揚げつつ、額に汗の玉を作っている。

「母さんの作る料理はおいしいよ」

と咄嗟に応えたが、母さんは笑うばかりだった。おすそ分けで貰った川魚の串焼きを見に行きながら強張る表情を何とか平静に保つ。ここで俺が生きていくのに不安を感じるのは、自分だけじゃないのだ。

サンミーのおいちゃんと食べてくると、おかずをアルミホイルや、タッパーに入れリュックに詰めた。

サンミーショップの看板は、すでに照明が消えていて、カーテンの閉めっぱなしの窓が細く開けられ煙が細く道に出ていた。

「おいちゃん?」

と勝手に上がり框の扉を開くと、座敷は燦燦たる状態だった。

「圭太か…」

カップラーメンや弁当の空き箱が無数に積み上げられ、湯のみや、食器は家中のものを出し尽くしたように流しから溢れている。灰皿からこぼれた吸い殻がテーブルに転がり、コバエが無数に飛ぶ。仏壇の遺影も埃をかぶり、放置された供花が水のない花瓶に差されて首が折れていた。

「夕食まだだった?」

「あぁ。…うん」

自分の家の惨状に気付いたのだろうか。おいちゃんは少し慌てたが、どうしようもないことに気付かされたのか、にやりと笑った。雑貨屋から、売り物のゴミ袋を拝借して片っ端からプラスチックと、燃えるゴミに分別して袋詰めした。水切り籠一杯に食器を重ねると、さらしで拭き上げ食器棚にしまっていく。

「すまんかったな…。」

埃を掃き出して、固く絞った雑巾で畳を拭き上げるとどうにか人の住む部屋になった。部屋の中がコバエを追い払うための殺虫剤の匂いで充満していたので、結局昨日と同様に、錆びたベンチの上で弁当を広げた。

「母さんと、二人で作ったんだ」

おいちゃんは、ただ炙っただけの魚の串焼きを頭からかじり

「誰かが作ってくれたもんは温かいなぁ」

と、すっかり冷えた弁当の感想をいいながら、空を見上げた。県立病院の屋上よりももっと多い数の星が光っていた。



翌朝は、枝豆ご飯と、川魚のつみれ汁、ゴーヤチャンプルーの朝食をつくると

「俺、これが苦手なのに」

と、ゴーヤを指した生馬に

「いいからちょっとでも、食ってみろよ」

と促すと

「苦くない」

ともりもり食べ始めた。ゴーヤはあく抜きの為に一旦湯通ししてあったからだ。あらかた食べ終えた後に

「今日、戻ることにした」

と、家族に伝えると

「そうか。じゃあ。俺が下まで送ってやる」

と、家族の誰より早く父さんが応えた。

「サンミーのおいちゃんに、下まで乗っけてもらう約束してるから」

というと、

「じゃあ。ご飯の後、三人でクロと、シナモンの散歩に行こうよ」

と優菜がいった。あまり遠くまで歩くと疲れてしまうので村内をぐるぐる回っていると、何人かの村民や飯島先生にも会った。ところどころで立ち話をしながら折り返すと

「あっ」

と生馬が小さな声をあげた。地面を見ると、季節外れのヤマモモの実が落ちていた。シナモンが熟れた実を食べている。生馬を肩車して取れた実を優菜の持っていたハンカチに包んで収穫した。

「母さんにお土産にしよう」

とハンカチにくるまれた実を二人でつまむ姿を見ながら、口の中に広がるヤマモモの甘酸っぱい味を思い出した。今の自分は生の果物を口にすることが出来ない。

家に帰って荷物をまとめ、サンミーショップにむかうと、おいちゃんが裏庭に放ったプラゴミをトラックの荷台に積み上げているところだった。

「圭太には変なところばかりを見せるなぁ」

ゴミの搬出を手伝い、トラックの助手席に荷物を積んだ。山をゆるゆると下り、村から遠く離れていくと、寂しいというよりはどこかほっとしたような気持ちがある自分に落ち込んでしまう。

「おいちゃんは…」

みーちゃんのいない村に最後までいるのか?

「いや、今日は助かりました。乗せて行ってくれてありがとう」

と、電車の駅に着くと葵さんにラインをした。

―今からそっちに戻ります

すぐに返信があり

―気を付けて帰ってきてね

とあった。



新学期が始まるまでに主治医から寛解の判断が下りた。これで、院内学級は卒業ということだ。病気の異常状態がほぼなくなったということらしい。葵さんの卒業まで半年だし、このままこっちの学校に通えばいいという言葉に甘えた。

「そうだ!」

と何やら押し入れを漁っていた葵さんが出してきたのはビニールに包まれた真新しい黒いランドセルだった。

「何でもとっておくものだわ」

と、背中にやけに真新しいランドセルを背負い、6年の二学期から転入した小学校はクラスが2クラスで20人規模の小さな小学校だった。とはいえ、分校育ちの自分にはほとんど学校生活というものがわからない。友達はどうやって作ればよいのか、そもそもこんな時期に転校して馴染めるのか不安ばかりだったが、杞憂だった。

「ここの小学校は、市営住宅からくる子も多いし、転校したり、転入したりもよくあるから」

と、担任の先生に言われた通り、名前だけ簡単に紹介されたあとは通常通りの授業が始まった。クラスでは、小さな棲み分けみたいなものがあって、クラブ活動や、住んでいる地域、習い事の有り無しなどで休み時間を過ごしている。体育の授業でさえ、球技や持久走などの運動を避ける自分には、友達も出来ず、かといって群れの仲間から外れた者同士が馴れ合うグループにも入らず、たんたんとした日々を過ごした。小学校に通うようになって変わったのは、学校から真っすぐ県立病院の樹の病室に通うようになったことだ。

「えっ。綾香ちゃん、卒業したの?」

9月も半ばに入ると突然の知らせに驚いた。

「うん。圭太によろしくっていってたよ」

と、あっけらかんとした表情で言うと、ついでに算数のプリントの計算ミスを指摘してくる。

翌日の算数の授業だった。

「今日から、新しくこのクラスに転入することになりました。よろしくお願いします」

と、画面越しに出てきたのは樹だった。

「樹くんは、特別支援学級の分室で病院から一緒に授業を受けることになったので、みなさん仲良くしましょう」

と担任から説明がある。どうやら、算数や国語などの授業で遠隔でも可能な限り参加するらしい。

「前々から、合同授業できるように学校が、色んな準備をしてくれてたんだけど、卒業までに間に合ってよかった」

と、病室に持ち帰った宿題のプリントをスラスラと解く。わかってて言わなかったのがよくわかるセリフだった。

6年1組の一番後ろの席には、パソコンを置くための席がいつも置かれるようになった。

最初のころは物珍しさで休み時間にzoomが付いていると人だかりが出来ていたが、そのうち樹目当てで人が集まるようになる。授業の内容がわからなかったところを聞く子もいれば、アニメの話で盛り上がることもある。

「樹くんのお見舞いに行きたい」

という女子のグループもいて、

「圭太が嫉妬するから」

と女子受けの返事をして断っていた。

秋は遠足があった。一応班決めがあって仲が良い人がいないので困るかと思ったが、すでに何人かで班決めをしたあとに男女比が揃わないといけないらしく、二人組の男子に誘われて加わった後、女子二人組に声を掛けられた。

「陰キャの方が楽だから」

と冷たく言い放ったのがマミで、やたらと顔の整った女子だったので名前と顔は一致していた。

「言い方よ…」

とツッコミを入れたのが凛だった。社会科見学といっても、市内の公共バスを使って移動するらしい。集団でバスの貸し切りをするイメージから離れていた。5年生までは引率でグループに一人は保護者や引率の先生がついていたらしいが、6年生は班行動で目的地まで移動する。団体で市営バスを使うと迷惑が掛かるので、時間や経由を変えて分散する必要がある。

「このルートが一番空いていそうだわ」

とマミが指したのは、県立病院から市街地にいき、バスターミナルを乗り継ぐ方法だった。



「遠足か…いいな…」

目的地の科学館のHPを見ながら、樹が言った。確かに、修学旅行も終えてしまった時期なので小学校の団体行動は最後になるだろう。

「じゃあ。一緒にいくか」

というと、

「まだ、そこまでの体力に自信がない」

と行動表のしおりを返す。



9月中旬、秋晴れ。朝からキッチンを占領し、お弁当作りに取り掛かる。キノコでかさ増ししたミートボールに、粉ふき芋、人参とブロッコリーのグラッセに、海苔を巻いた卵焼き。色とりどりの弁当箱を3つ並べると、冷ましている間に、低たんぱくのパンとチーズでピザトーストをさっと作る。トースターからピザトーストを取り出すと、葵さんがパジャマ姿で現れた。

「おはよう」

「おはようございます。お弁当、葵さんの分もあるんで」

「本当に料理の腕があがったわね」

と、並んだ弁当箱を見ていた。


小学校に行くと、いつもと違う空気に

「来年から中学生なのだから、迷惑のかからないように自立した行動をすること」

と、怖いといわれている学年主任の先生から一言があって、各班に分かれて遠足が始まる。

「おはよう」

と、同じグループと面々に挨拶をし、一旦集団から反対方向に向かって歩き出した。通いなれた県立病院のすぐ前にあるバス停留所にある待合室に、ポツンと樹が座っていた。

「おはよう。みんな、今日はよろしく」

というと、

「樹くんって本当に存在していたんだ」

と凛がよくわからない感想を漏らした。樹の手には秋の遠足のしおりとタイトルが付いたアニメ絵がびっしり描かれた表紙のしおりをヒラヒラと振った。男子二人の制作物だ。中身も、パワーポイントを駆使して観光パンフレットさながらのレイアウトがしてある。行動表も分刻みにばっちりと指示されている。二人が泊まり込みで作ったこのしおりを見た時

「すごいわね…」

といったマミが若干引き気味にいうと、学年で一番くらいの美少女に褒められた二人は始終にやにやが止まらない様子。ほかの班のものも、いくつか見せてもらったが、中身は手書きのほのぼのとしたものばかりだった。

樹は知っているアニメだったようで、すっかり男子二人と意気投合して話し込んでいる。いくらか待つと、県立病院行きのバスが到着し、病院職員のために折り返し、市バスターミナル行になる。乗り込んだのは、俺たちを含めて夜勤明けの職員数人だ。一番後ろの席に並んで座ると、パジャマにカーディガン姿の樹が大きく手を振っていた。

車窓から流れる景色をライブ映像で送る。樹から

―遠足って生まれて初めてだ

と感想が送られる。俺も初めてだったな。あのまま村にいたら、修学旅行とかいったのだろうか?飯島先生と二人で旅行とかだったら、気まずかっただろうか。そうこうしていると、大川中学前に着いた。今通っている小学校の生徒が公立中学に進むとここに通うことになる。

―大川中学に圭太と通いたいな

と樹からラインが来た。心の中でそうだなっと答えて文字にするのはやめておいた。

バスターミナルに着くと、すでに出勤のピークは過ぎている時間で大学生たちが通学する時間のようだ。バスターミナルに吸い込まれていく人たちをすり抜けるように、バスターミナルを出ると、ビルが立ち並ぶ市街地が広がる。市街地の近くには、美術館、水族館、博物館、科学館と教養施設が集まっている。数分歩くと、目的の科学館が入った複合ビルにたどり着いた。男子二人の解説をBGMに展示物を見学する。

「この手の模型にはサーモカラーっていう温度で変化する素材が使われているんだ。だから手の温度を感知して色が変化して、手が離れたら次第に温度が下がってもとの色に戻る」

「そうそう。例えばマグカップや温度計なんかにも使われているよ」

「実際にどのように応用されているのか、レポートにするのもいいわね」

遠足でそれぞれが行った後は、各班でスライド発表をすることになっている。

―へぇなんかいいね。みんなで研究発表をするのっておもしろそう

「樹もこの班のメンバーなんだから、レポート発表を一緒にやるんだよ」

というと、

―なら、今日を思いっきり楽しまなきゃ

と応える。

そのあとは、いくつかの展示物をみたあと、体験コーナーにやってくる。体験コーナーでは体を使ったアトラクション的な展示物があり、すでに同じように遠足できているらしい子どもが集まっていた。

「私、ここは遠慮しておく」

とマミがいったのは、列を待っている子どもたちが明らかに自分たちよりも低学年だったからだ。

「あたしも、大丈夫。男子たちが行ってきなよ」

と凛もスマホを取り出していう。

「どうしようか。僕たちもやめ…」

という声を

―そこの回し車やってみてよ

と樹が遮った。棒を持って滑車を回して、電気を発生させる機械だ。男子三人で顔を見合わせ、列に並んだ。

「下の科学工作コーナーの時間に落ち会いましょう」

とさっさと、離れていった女子二人の後ろ姿を見送りながら、滑車の列に並んだ。滑車の回転速度が一定以上になると隣のライトが点灯し、記念写真が撮れるらしい。最早、ここに来てまで恥ずかしがっている方が余計に恥ずかしい。支え棒を持って、ハムスターのように滑車の中に入って走り出した。

「いいぞーがんばれー」

と年下からの喝采に応え、一番上のライトがつくと普段運動をしない足が悲鳴をあげる。

そのあとも、プロジェクションマッピングでやけにエモい写真を男三人で撮ったり、静電気発生装置で髪の毛を立たせた画像など、樹の指示のもといくつもの年ごろの男が三人で一体何をやらされているのか…という写真が量産されていった。

「黒歴史とはこうして作られるのか」

と隣で大きなため息をつく。配信を通して樹の笑う声が届いた。楽しそうで何よりだ。時間になって、科学工作コーナーに行くと、マミと凛が共有ラインを見ながら

「楽しんできたみたいで何よりね」

と、含み笑いをしていた。工作課題はオイルモーションだ。色を付けた水と、油を空き瓶に入れ分離して楽しむインテリアだ。もともと課題や工程は指定されていたので、男子二人はジオラマを接着させた瓶を持参していて、女子はラメやモールやジェルボールを用意してきた。自分が持参したのは、オリーブオイルの空き瓶だけだったので、2色の水滴を垂らしたシンプルなものになった。画面越しの樹も、いつ用意したのか、小さな宇宙のジオラマやスパンコールを用意して作業を進めた。

「キレイだなぁ…」

男子一人のジオラマは深海をイメージしている岩場に、タコや深海魚などが浮かんでいる。

もう一人の男子のは、アニメフィギアが固定されていてピンクの液体が浮かんでいる。女子のはいかにもといったキラキラのデコデコしたもの。樹のは紫色の宇宙に浮かぶ惑星。それぞれの世界が小さな瓶の中に閉じ込められていた。

お昼ご飯に一旦施設を出ると、市街地の中心にある城公園に出かける。木陰に場所を取ると、女子たちはシートを広げた。シートを持ってくるなどという発想がなかったので、芝生に直接座り込む。男子二人組は、スマホでコレクションゲームをしながら弁当を広げた。

ぼんやりと、公園の景色を映す。公園にはいろんな人がいた。昼休みのサラリーマンがベンチでランチをとっている。広場の中央でフリスビーをするカップル。早上がりなのか、制服姿の団体が騒いでいる。小さな犬を連れて日陰をゆっくりと歩く高齢者。そこには色んな生き方や人生のステージがあった。村にいたころの自分はこんな世界の一部になる日のことを考えていたのだろうか。閉鎖された村の生き方に、病室の自分に、自分もこの世界の一部だったということに、どんな可能性も未来も、重なり合った世界にあるのだと、理解するだけの余白があっただろうか。




秋も深まると、樹の一時帰宅の回数が増えてきた。

「私がリビングで寝るから」

という葵さんを固辞して、リビングの隅にソファーベッドを広げてそこで眠った。葵さんは、在宅で仕事をしているのだ。毎日、夜遅くまで部屋の電気が消えない。

ある日、学校から帰ってくるとリビングの真ん中に大きなパーテンションが置かれていた。

「おかえり」

と、樹と葵さんがパーテンションから顔を出し、こちらに手招きをする。中にはシングルベッドと、小さな机、ベッドライトなどが配置されていた。

「広めのリビングの部屋でよかったわ」

「こんな…どうして?」

「樹が通院治療に変わったのよ。今日はお祝いしなきゃ。圭太くん買い物付き合ってくれる?」

と、笑う葵さんに

「圭太、僕に何かいうことがあるのでは?」

と笑う樹の顔はそっくりだ。

「おめでとう。そしてありがとうございます」



季節は、秋になっていた。

「樹。洗濯物もうないか?何かほしいものある?」

「あーうん。大丈夫」

熱に浮かされた状態なので、あまり長居をしても余計に疲れるだろうと、新しいバスタオルや着替えを入れて、病室を出た。その足でスーパーに寄り買い物を済ませるとアパートに戻り、洗濯物を洗濯機に入れると葵さんの部屋から声が漏れてくる。樹が通院療養になってから葵さんは仕事を少しずつ増やしている。洗濯機に余裕があったので、樹の部屋のベッドからカバーをひっぺ返して一緒に入れてスタートボタンを押す。買い物してきたものを冷蔵庫にしまい、米を炊く。朝干した洗濯物をベランダから囲って畳んで仕分ける。

「ごめんね。お見舞い頼んじゃって」

といいながら、コーヒーをセットしようとしていたので

「すきっ腹にコーヒーは良くないから部屋にハーブティ持ってくよ」

と、葵さんの分の洗濯物を手渡す。

「いつも甘えちゃって悪いわね」

といいながら、葵さんが部屋に戻っていく。ハーブティを入れて、おやつにつくったオートミールクッキーを添える。ドアをノックすると、

「おやつも手作りするようになって、本当に料理の腕はあっという間に追い越されちゃったわ」

と、ブルーカットレンズの眼鏡に朝出て行ったときのままの部屋着姿の葵さんがPCの手を止めて振り返った。

「仕事は手伝えないんで、これくらいの家事はやらせてもらった方が肩身が狭くならずに済みます」

と返して、部屋を出る。キッチンに戻ると、自分用にアーモンドミルクで甘めのミルクティを入れて、クッキーを齧る。それから安かったきのこを炊き込みご飯にするために、米を研ぎ、ざるに上げて、キノコや人参、油揚げなどの具材に下味を染み込ませる。具に下味を染み込ませれば、ご飯の塩分を控えられる。ブロッコリーと、ミニトマト、軽く火を通したキノコのマリネに、メインのチキンの塩こうじ漬けの下ごしらえをしていると遠くで洗濯機の終了の音が鳴った。先に炊飯スイッチだけ押すと、洗濯物を干した。家事は正直いって苦ではない。ただ何の役にも立たずに鎮座している方が苦痛なのは性分なのだろう。夕食を作り終えて、葵さんを呼びに行く。

「樹、どうだった?」

「良くはないみたいだけど、悪くもなってないみたいでした。意識もあったし、熱でしんどそうでしたけど…」

「そう。圭太くんの学校はどう?」

「普通ですかね。漢字の小テストが返ってきました。」

ランドセルから、樹と自分の小テストを取り出して見せた。樹のは満点で、自分のは2問違いの90点だ。

「すごいじゃない。」

確かに一年前の自分だったら、テストで高得点をとることなんてできなかっただろう。でも、簡単に満点を取ってしまう人が側にいたら、自分がようやく平均的なところまでたどり着けたのだというぐらいの実感しかない。

「普通ですよ」

と、戻す。通院治療を初めてから、樹はたまに保健室登校をしている。免疫力がないのでたくさんの人がいる学校では色々な感染症にかかるリスクも増える。風邪らしき症状から咳が止まらなくなり軽い肺炎のようになってしまい、重症化しないようにという配慮での入院となった。

「でも、本当に圭太くんがいてくれて、私や樹はいつも助けられてるの。」

葵さんが真剣な表情に変わった。

「もうじき、中学校よね」

洗い物を済ませて、風呂に入り、リビングテーブルで宿題のワークを終えて、明日の授業の教科書を確認すると、ベッドに潜り込む。

―考えてほしいの。中学校をこのまま、こっちで通えないかな?

さっきの葵さんの言葉がぐるぐると頭を巡っている。正直にうれしかった。でも、すぐに返事はできなかった。ラインを開くと、妹の優菜が沐浴の手伝いをしている短い動画が上げられていた。夏の終わりに母さんは妹と弟を産んだ。双子で小さく生まれてきた二人は一か月ほど病院で過ごしていたという。そのことをしばらく知らずにいた。

「母さん?入院中だよ。双子といっしょに」

生馬がぽろっと溢さなければ多分知らないまま、過ごしていたのだと思う。

「あたしたちは大丈夫。ヤエおばあちゃんや、村のみんなが毎日見に来てくれてるし」

と優菜があわてて生馬から電話をとったが、自分よりも2つも年下の妹が精いっぱい気遣ってくれていることに、まだ一年生の弟に我慢をさせながら、呑気に暮らせている自分がどうにも情けなく感じて仕方がなかった。街での暮らしは快適だ。毎日新鮮な材料も気軽に手に入るし、低たんぱくの食品など特殊なものも手に入る。同級生の友達も増えて、勉強をする環境も整っている。ここから通える高校の選択肢も多い。でも、家族は?自分の幸せと家族を守ること、天秤にかけるのもおかしい。



11月に入る前に樹が退院できた。

「しばらくは、家の中で巣ごもりをするよ」

樹はあの肺炎入院以来、学校に通っていない。外に出てまた体調を崩すのが嫌だと、通院以外はほとんど引きこもり状態でzoomの授業しか顔を出さない。



進学問題は、答えがでないままに、また答えを急かされることもなく、話題が上ることもなく日々は過ぎていき、気が付けば二学期も終わりに近づいていた。

葵さんは大きなクリスマスツリーを買ってくれた。子どもといってももうすぐ中学生になる男子二人に、1メートル半はある巨大なツリーはどうなんだと、少々困惑しながらもLEDライトを巻き付け、天使やプレゼントBOXのデコレーションをして大きな星をてっぺんに飾る。緩衝材の発泡スチロールや、段ボールをせっせと片づけていると、葵さんが巨人の靴下を両手にぶら下げて

「では、ご希望の品をお聞きしましょうか?」

と、あっけらかんと尋ねられて固まってしまった。

「では、僕はこれを」

と樹が欲しいものリストを共有すると、

「えっと、もしかして圭太くんは、サンタクロース実在派だった?」

と心配そうに顔を覗き込んだ。傍らで樹が笑っている。

「えっと、じゃあ…」

と、ブクマしていたアマゾンのページをラインで共有した。ハンドミキサーと、ブレンダーとフードプロセッサーが一つのモーターで使えるマルチステックだ。

「えっと、これは…」

今度は、葵さんが言葉に詰まり、樹が葵さんのスマホをのぞき込んで爆笑した。

「こんなのお母さんのポケットマネーで買ってあげなよ」

と息も絶え絶えでいった。

終業式を終え、成績表を持って帰ると、二人ともほとんど参加できなかった体育を除いてほとんど出席していない樹の方が主要科目の成績がよかった。特にお気に入りだったのは、コミュニケーションのところで、画面越しにしかクラスメイトと対話をしない樹が二重丸だったのに対して、二学期を皆勤賞で通った自分が一重丸だったことに樹はツボだったらしく

「圭太はザ山男☆だからな…」

と感想を述べた。ひとしきり樹にからかわれたあとは、葵さんとモールデートに出かけた。

樹は自主的にお留守番だ。スポーツ用品店で、お目当てのマウンテンパーカーを買ってもらった。薬を辞めて半年、止まりかけていた成長期がまた動きだしたようで実家で使っていた服はどれも寸足らずになっていた。腎臓病の治療に使われる薬の一部は成長ホルモンを抑制するものがあったのでこうしてまた成長期が訪れたのは幸運だった。

「こっちは、雪が降らないしそこまで寒くならないから」

と固辞しても、トレーナーや裏地起毛のついたスエットも買い物かごに入れながら

「あっても、困るものではないから」

と、押し通す葵さん。そのあと、二人で食材の買い出しを済まして帰宅する。


今夜のメニューは鍋だったので簡単だからと、葵さんを部屋へ追い返す。

ご飯だけ炊いたあと、買ってもらったばかりのマルチスティックを取り出し、卵を割ってシュフォン生地をつくる。あまった卵黄とアーモンドミルクでプリンもつくって冷蔵庫にしまうと、豚と白菜の重ね鍋の用意をした。

翌朝、冬休み一日目。いつも通りの学校に行く時間に目覚めてしまう。樹も葵さんも冬休み前夜から夜更かしをしたようで起きる気配がない。リビングの大きな窓一面にびっしりと張った結露を拭きあげると、窓を大きく開けて空気の入れ替えをした。この辺りは暖地で、雪も何年も見たことがないらしいが、冬の空気は澄んでいて気持ちがいい。顔を洗い、歯を磨きながら、家中をうろうろしていると、ダイニングの椅子に樹の上着がかけっぱなしだった。回収して洗濯機に入れて回し始めた。台所にいってハーブティを入れながら、冷蔵庫を漁って、昨夜の残りの白菜鍋でオートミールのミルクがゆを作った。腹を満たし、体を温めると洗濯物を干し、終わりがけにベランダ栽培しているハーブを少し摘んで部屋に戻る。ヨーグルトの水切りをし、鶏肉やジャガイモ、玉ねぎなどをハーブで漬け込む。熟れすぎて値引きされていたトマトの皮を湯引きして、玉ねぎ、にんにく、パセリなどと一緒にブレンダーにかけると小鍋で煮込む。安売りして大量に買った豚の薄切り肉をフードプロセッサーでミンチにすると、玉ねぎやピーマンと一緒にミートボールを作った。さすがに何度もモーターを使ったので五月蠅かったのか、もそもそと樹が起き出した。この親子は出かける予定がないときは、パジャマのままで過ごすらしい。樹はもこもことした生地のパジャマの裾を擦りながらダイニングの椅子に座った。まだ寝ぼけているのか、顎を手で支えながらぼんやりとしているので、慌ててダイニングのエアコンをつけて、加湿器と足元用の電熱線ヒーターを点けた。

「朝から元気だね」

温まってきたのか、猫のような大きなあくびをしながら手を伸ばして目をこすりこすりしている。いや、体が温まらないと動けないというのなら爬虫類に近いのかもしれない。レモンを浮かべたはちみつ茶を目の前に差し出すと

「あんがと」

といいながら、カップを両手に包みこんだまま、またぼんやりとしている。リビングの時計は11時を指していた。

「お腹は減った?」

と聞くと

「そんな減ってない」

と返ってきたので、昨夜作って置いたアーモンドプリンを添える。葵さんが起きた時に、まとめてブランチにすればいいやと思って、作業を続けた。

「それ、面白い?」

「料理は…楽しいよ。無心になれるとこがいい」

ピザ生地の軽量をする。

「これは美味いな…」

アーモンンドプリンを食べて一言呟く。

「ありがとう」

フードプロセッサーに材料を入れてまとめると、ボールに入れて発酵させる。

「圭太は、料理人にでもなりたいの?」

「うーん。料理はあくまで自分の健康管理のためかな。将来再発しないためにも必要なスキルだし…」

健康は失いたくない能力だ。身に染みてわかった。夕食の仕込みが終わったので、一度キッチンをリセットする。

「じゃあ。圭太は、高校に行きたいんだよね」

「うん。そりゃ。進学はしたいよ」

まだ何者に成れるかも想像がつかないけれど。

「なら、やっぱり、ここにいなよ」

「なんだよ。急に」

洗い物の為に背中を向けていた顔を樹に向けて、一瞬時が止まる。樹の顔はいつものへらへらした表情ではなく、どこか悟ったような真っすぐな目をしていた。

「進学したいんなら、ここにいたほうがチャンスがあるよ。僕やお母さんに遠慮とか、圭太の家族や生かされた場所だからなんて関係ないんだ」

水道の流れる音だけがやけに鮮明に聞こえた。

「圭太の幸せのために、圭太は生きてるんだから」

その言葉に、意識とは無関係な涙がこぼれた。

「僕は僕の幸せのために、幸せを探すために生きてる。そのために周りにどんなに負担を掛けたって僕は自分の幸せをあきらめたりしない。圭太、そうだろう。僕らは幸せに生きるために生まれてきたんだから」

涙も樹の言葉も止まらなかった。

「だから、周りがどんな風に思ってたとしても、僕は、今の僕は幸せだって胸を張って言わなきゃいけない」

単純なことだった。考えなきゃいけなかったのは、自分のこと。他のことなんて言い訳に過ぎない。

「わかった」

どのくらい時間がすぎただろう。真っすぐな樹に答えられたのは、たった一言だった。



夜は少し早めのクリスマスパーティ。百均で買ったサンタの帽子を付けた樹はコーラの入ったグラスを、トナカイのカチューシャを付けた葵さんはシャンパンの入ったグラスを、そして無理やりサンタ帽を被された自分の手にはお茶の入ったグラスを掲げ

「メリークスリマス」

と乾杯をした。今の実力を披露したいとディナーは全て一人で作った。温野菜のツナサラダに、チキンのハーブソテー、ミートボールのトマト煮、ピザマルゲリータ、それから

「おぉ。すごい」

と迎えられたのは、ヨーグルトクリームで作ったクリスマスケーキだ。生のイチゴを使えなかったので、イチゴジャムでピンク色に染められたクリームが乙女ちっくなところがポイントだ。ろうそくを立て、ジングルベルを歌い、火を消した。

「本当にこれならいつでもお婿に行けるわ」

と葵さんがいったので

「お婿にはなれないけれど、これからもここに居候させてください」

と答えると、一瞬きょとんとした表情の葵さんの目から滝のような涙があふれた。

「本当に、本当よね」

「よろしくお願いします」

というと、

「良かったぁ」

とまた涙を流していた。料理があらかた片付いて、葵さんのシャンパンボトルが空くと、パーティはお開きになった。うれしくて飲み過ぎたのか、足元がおぼつかない葵さんに肩を貸してベッドに押し込めると、キッチンでは樹が残った食材をタッパーに移して、皿を流しに持っていき、テーブルを片付けてくれていた。

「ありがとう」

というと、小さく頷き、並んでシンクに立った。



翌日、荷物をまとめて、玄関で靴を履いていると樹が

「いつ帰るの?」

と聞くので、

「決めてないけど、冬休みの宿題を持ってかないから、年明け4日ぐらいには戻るよ」

と答えていると、頭が爆発した状態の葵さんが部屋から飛び出して

「見送り行こうと思ってたのに」

と慌てている。

「いや、もう出ないと、ここから遠いし…」

と答える。葵さんは、一度突き上げた拳を開いて、手を振ると

「いってらっしゃい。気を付けてね」

と笑顔で見送ってくれた。

最寄りのバス停、県立病院前には降りる人はたくさんいて、乗り込むのは自分だけだった。

大分見慣れた車窓を横目に、父さんにラインを打った。

―今、こっち出たよ

今日は休みをとった父さんからすぐに返信が来て

―わかった、着く時間がわかったら連絡して



新幹線を乗り継いで最寄りの電車の駅につくと、まだ父さんは迎えに来ていないようだった。駅から出て、久しぶりに地元の景色を見る。この辺りには、ビルや商業施設がないので遠くに住んでいた山里も見えた。

「おそくなった」

懐かしい軽トラから、父さんが顔を出した。住宅街を抜けて、徐々に家が減り、田んぼや雑木林が増える。カーブが増えて道の勾配がついてくる。

「圭太の顔色がすごく良くなったな」

「うん」

「学校楽しいか?」

「うん」

父さんの質問が尽きかけてきたころ村里の入り口につく。左右の斜面にうっすら雪化粧が施されている。

「雪、降ったの?」

「あぁ、今年は多くてな。積もりはしないんだけど、道が凍って運転が一苦労だ」

と同じ県内でも標高差と東西南北に離れているので気候も異なる。クリスマスプレゼントに買ってもらったマウンテンパーカーのチャックを一番上まで上げる。滑って道を外すと事故になりかねないのでいつもよりさらにゆっくりと車は進んだ。村に着いた頃には、すっかり日が沈んでいた。

「ただいま」

と、土間を抜けると懐かしい匂いがした。

「お帰り」

という優菜の背中には赤ん坊が括られている。

「ただいま…優菜…芽生(めい)?」

双子は女の子が芽生で男の子が葉生(はぐむ)だ。何度か双子当てクイズを画面越しにしたが、一度も確信して当たったことはなかった。たまたま、ピンクの産着だったので当てずっぽうにいってみると、正解だったようでほっとする。

「お帰りなさい」

と母さんの背中にも赤ん坊が括られている。

「ただいま、母さん、葉生」

と小さな弟に挨拶をした。

「生馬は?」

「部屋でゲームでもしてるんじゃない?」

古民家で、隙間風が多い実家では、冬の時期は寒くて自室にはいられない。布団をひっかぶり、そのまま寝てしまうのがパターンだった。荷物を置くついでに自室に行くと、案の定、スイッチを持ったまま生馬は寝ていた。静かに荷物だけ置くと、居間に戻る。

葉生が泣き出した。すると、呼応するように芽生も泣き出す。手慣れた様子で優菜がおんぶ紐を外すと、

「オムツは濡れてないみたい。きっとお腹が減ったんだよ」

と答えて

「じゃあ、俺がミルク作るから」

と父さんが答えた。と、囲炉裏に掛けられている鉄瓶を取る。ミルクの作り方はよくわからなかったので優菜と母さんが双子をあやしている間に、台所に行くと、作りかけの夕食の準備をみて作業の続きを始める。里芋の煮っ転がしと、鹿肉の串焼き、白菜の炒め物、大根と小松菜の味噌汁だろうか。

「圭太、ごめんね。帰ってきたばっかりなのにバタバタしちゃって、代わるからゆっくりしていて」

という母さんに

「いいよ。母さんこそちょっと休んでて」

煮っころがしと、味噌汁を炊きながら、鹿肉と玉ねぎを鉄櫛にさした。また双子が泣き出して

「じゃあ。悪いけど」

といいながら、母さんは台所から去っていく。離れたところから、母さんと父さん、優菜が赤ん坊をあやしながら何か話していた。生馬が赤ん坊だったころは、自分も幼くその世話がこんなに大変だったとは思わなかった。囲炉裏に串焼きを立てにいくと、三人が笑いながら赤ん坊をあやしている。ここではこういう毎日が続いていたのだ。

「お兄…見てみなよ。」

小さな布団に寝かされた、双子は向き合うように目を閉じて眠っている。あぁ。そうだ。幸せになるために生きている。小さな命。二人の顔は眠りながらどこか笑っているように見えた。



夕食を食べ終えて一息つくと、父さんが

「母さんと、圭太でお風呂に入ってきな」

という。

「芽生と葉生は、いつもお風呂に行っている間あたしたちで見てるから大丈夫」

と優菜もいう。



母さんと二人っきりになるのは、緊急入院のとき以来だ。

「優菜、お姉さんっぽくなったでしょ?」

「うん」

「圭太、体はどう?」

「もう前と変わらない生活ができてるよ、二学期は学校を一回も休まずに行けたし…」

「そう。良かった…夏にね。圭太が帰ったとき、母さん圭太の体のこと気を遣ってあげなきゃいけなかったのに…ごめんね」

それは…違うよ。自分の体のことを母さんに心配かけたくなくて言えなかった…でも…心配かけたくないなんていえば母さんは寂しがるだろう。結局なにも言えずに村営浴場についた。もう、ピークの時間は過ぎていて、風呂場には誰もいなかった。ヒノキの風呂に肩まで浸かると、母さんが衝立の向こうから声を掛けた。

「そういえば、圭太が倒れて以来、この浴場で高温にするの禁止になったのよ」

と笑いながら言う。確かにお湯は少し温いくらいだ。高温の風呂は年寄りの心臓にも良くないのでそれはいいことだ。と思いつつ湯を足した。

「時々、葵さんから電話があったのよ。あぁ…樹君からも」

ドキリとした。きっと、あの二人なら余分なことしか言わないだろう。

「いつだったか…秋の遠足だって、樹君が圭太とお友達が派手な絵の前で撮った写真も送ってくれたわ」

と笑いながらいう母さんに、ぶくぶくと湯舟のなかに沈んでいった。

帰り道、母さんが急に

「ねぇ。手を繋いで帰ろうよ」

というのでもう記憶に無い振りに、手を繋いだ。母さんの手を繋ぐのはいつも優菜か生馬の手で、いつもお兄ちゃんだった自分にはもう繋ぐことのないものだと思っていた。家事や仕事で荒れた母さんの手は、皺が多くてゴワゴワしている。それでも、伝わる温もりでなぜか安心してしまうのはこの人が俺をいつも見守ってくれた母さんだからだ。並んで歩くともう背丈はほとんど変わらない。つないだ手の大きさは、もう自分の方が大きくなっている。それでも、いつもまでも、この人が俺の母さんなのだ。




静かな冬の深夜に、赤ん坊の泣き声が響く。

「母さん?」

「圭太…起きちゃった?寝てていいのよ」

一人を背負い、一人を抱きながら、囲炉裏の近くを母さんはぐるぐる周っている。

「抱っこしてみてもいい?」

顔を赤くしながら、泣きわめく芽生を膝の上で抱える。まだそんなに体重はないのだろうけれど、何だかずっしりと重い。

「ちょっと、怖い。壊れそうだ」

「大丈夫よ。もう首も座っているし」

両腕で落とさないように抱えると、芽生はスエットの胸の辺りを小さな手で掴んだ。切った破片のような小さな爪。そのまま胸の辺りでゆらゆら揺らすと、やがてもう一方の手をしゃぶりながら静かになった。

「芽生もお兄ちゃんだってわかって安心したみたいね。悪いんだけど少しそのまま、抱いててあげてくれる?葉生はお腹が空いちゃったみたいだわ」

囲炉裏の作る小さな灯りに、母さんのシルエットが映る。



翌朝、目を覚ますと、居間には父さんが起きて米を研いでいた。囲炉裏にはすでに火が入れられている。

「圭太、おはよう」

「父さん、朝食を作ってるの?」

「あぁ。大したものは出来ないけど…」

「手伝うよ」

父さんの隣に立ち、玉ねぎを薄切りにする。

「上手いもんだな。毎日料理をしているんだって葵さんがいっていたよ。たまにしかやらない父さんなんかじゃ到底かなわないな」

と感心する。

「食事管理をしないと、自分のためだし」

薄切りの玉ねぎをだし汁で煮て、

「圭太。夕べはよく眠れたか?」

「夜中に、芽生と葉生が何度も泣いて…母さんがその度に起きて、ミルクやってオムツを取り換えて、おんぶして…」

母さんは、自分の寝る時間を削って、僕らを育ててくれたんだ。

「母さんは、すごく強いだろう?」

「うん」

「でも、圭太もすごく強い、たった一人で病気と闘って戻ってきた」

「……」

「優菜もすごく強いよ。母さんを支えて、生馬を励まして」

「そうだね」

「生馬もあんなに小さいのにすごいんだ。いい家族を持った」

父さんもすごく強いよ。家族をここまで守ってくれたんだ。俺も思っている。いい家族だって。離れたくないって。




久しぶりにスマホが鳴った。ちょうど岡ちゃんの家に行こうとしていた時だ。

「おーやっとつながった。海外にでもいるみたい。圭太」

「山の中だと電波が途切れ途切れになるからな」

ここのところ、昼間は山に入ったり、土日は猟に出たりと、生馬と一緒にうろうろしていたので余計にスマホに電波が入らなかったようだ。

「例の話できた?」

中学も葵さんの家から通うという話は、自分からすると二人には口止めしていた。

「あーうーん」

「そっか。お母さんが、圭太のご家族にも話しておきたいっていってたから。ポロって溢すといけないからって。やっぱり、圭太が戻ってからの方がよさげだね」

「あーうん。そーしてくれると助かる」

「わかった。そう伝えておく。じゃあよいお年を」

中々話し出せないことに何かチクリと言われると身構えたが、あっさりと電話は切れた。スマホをズボンのポケットにしまうと、何かが唐突に駆け寄ってくる。油断していたのもあって、そのまま尻もちをつくように倒された。

「ハチ!」

懐かしい八の字の皺と、想定の三倍は大きな体躯で、ベロベロと顔中を舐めまわされる。後ろから、髭面の岡ちゃんが笑いながら歩いてくる。

「圭太!変わらず戻ってきてよかった」

そういう岡ちゃんは随分たくましい男になってこの村に住んでいた頃の小綺麗なブランドばかり気にする姿は一変していた。

「借りていたスイッチ返すよ」

「あーそれな。圭太にやるよ。快気祝いだ」

積み荷を降ろすのが面倒だ。とそのまま出かけた岡ちゃんのハイエースは、山道をガッシャンガッシャンとやかましく鳴らしながら下る。車内は手作りのハンモック収納や、床に無造作に敷かれた寝袋やテントなどでゴタゴタしていて、ハンモックに吊り下げられた、お玉やカップが擦れ合う音で会話などできない。道の凹凸で荷物が大きく飛び跳ねる後部の揺れないポイントを心得ているのか、ハチは悠々と伏せをして周りの騒音など意にも介さず目を閉じている。

「着いたぞ」

村から1時間弱。その場所は

「青年の家…」

第一次キャンプブームが起きた時に、作られたキャンプスペースだった。バンガローやキャンプファイヤーが苔むしたり朽ちたりした姿でそこにある。

「そうだ」

「釣りでもするの?」

ここには山からの沢が溜まった小さな湖があって、ワカサギやアユが釣れる。岡ちゃんとも何度かここに忍び込んで一緒に釣りをした覚えがある。

「釣りもするけど、今日来た理由は違う。実はな…」

動画配信者らしく思いっきりわざとらしいタメを作ってから

「買ったんだよ。ここ」

ネタバラシをした。

「はぁあ~?」

そのリアクションが見たかったんだと言わんばかりににまりと岡ちゃんが笑う。青年の家はキャンプブームのあと、何年かボーイスカウトなどの施設として使われた後、僻地ゆえの交通の便の悪さから放置された。

「買ったっても、まぁほとんど、タダみたいなもんだけど、」

車内から釣り道具を慣れた様子で取り出すと、落ち葉の堆積した地面をスコップで掘り始める。

「おーいたいた」

と、空き缶のバケツに素手でミミズを集めると、一本釣り竿を寄越す。ミミズをと針に差し適当に投げ込んだ。

「岡ちゃん、動画辞めてキャンプ場の支配人になるの?」

「んー。そうだな。圭太は俺の動画見ててくれたんだろ?」

岡ちゃんの動画の内容が日本一周の旅に変わり始めたのは、夏の終わりのころだっただろうか?夏の東北、北海道、秋の関西、四国、あらゆる自然を巡る旅。

「あちこち巡って、色々な人と出会って、それでも俺の生きる場所はここなんだって思った。ここに戻って実感したよ。この山の空気、村の人たち。肌が空気にぴったり合う」

「居るべき場所ってわかるものなの?」

「べきっていうよりは居たいって感じかな。旅をして、理解した。俺たちは本来は自由な生き物なんだよ。でも、自由の中に不自由がある。選択するっていう不自由は、自由の中にあるんだ」

浮きが沈んだ。巻き上げると、群れの中にうまく投げ入れられたのか、入れ食い状態で4匹のわかさぎが一気に釣れる。二人の体が冷えて限界に達した頃にはポリバケツに大量のワカサギが釣れた。




家に着くと、母さんと、双子が囲炉裏の近くで温まっていた。

「ただいま」

大漁のワカサギを見ると

「すごいわね。傷まないうちに天ぷらにして揚げてしまいましょうよ」

と手を擦る。

「さすがに5人でも多いんじゃないか」

というと

「今日は寄合所で忘年会しているから、持っていくといいわよ。みんな準備を手伝うために先に行ってるから」

「教えてくれたら手伝いに行ったのに」

「圭太はいいのよ。もともと母さんも双子の世話で後から合流する予定だったし…」

というので、手土産に天婦羅を作る。

双子をカートに乗せると、途端に葉生が泣き出して、母さんが背負う。

「葉生の方がよく泣くね」

「男の子はそうよ。圭太も生馬もよく泣いたの。女の子はね芽生も優菜もあまり泣かないの」

「そうなんだ」

カートの中の芽生はじっと星を見ている。芽生のつぶらな瞳はキラキラと星の光を吸い込んでいる。

「でもね、赤ちゃんなんてあっという間。本当に親がいなきゃいけない時間なんてわずかしかないの。子どもはそのうち自分の足でしっかりと立って歩きだして、自分の欲しいものはその手で掴んで来るものよ」

そう答える母さんの瞳にもキラキラと星の光が吸い込まれていく。



寄合所の方向から、煙と湯気が風に流れてくる。ドラム缶の焚台が出されていて炊き出しをしているようだ。

「お兄!母さん」

とこちらに気付いた優菜と生馬が輪から出て迎えに来た。焚台の近くの温かな席を空けてくれ

「今夜の主役だから」

と、母さんと二人特等席に座らされる。双子はご婦人たちがこぞって寄合所の中に連れていかれる。手には炊き立てのご飯が山のように盛られた茶碗、目の前になみなみとよそわれた具沢山の獅子鍋。

「じゃんじゃん食べなさいよ」

とヤエおばあちゃんが猪肉のバーベキューを盛った。皿の上に置かれた焼き肉をペロリと母さんは平らげていく。

「母さん、猪肉は久しぶりだわ」

と言いながら薄い体に母さんが豪快に食べていくので、自分のペースで、野菜を多めに肉を味わって食べられた。

忘年会の締めは、婦人会で手作りしている米麹の甘酒が振舞われる。酒飲みの村の年寄り達は焚火から離れた場所でも赤くなっている。

「乳飲み子がいると食べても食べてもお腹が空くから」

と、甘酒のお供にみかんを何個も食べている。

「三人分だもんね」

と、甘酒を啜り終えたころ

「それでは、体育館の方に移動してください」

と寄合長からの掛け声があり、ぞろぞろと、小学校に併設されている体育館に人が流れていく。

「何だろう?母さん知っている?」

いつもの忘年会では甘酒でお開きになる。

「まあ、私たちはゆっくり後から行きましょう」

と、また新しいみかんの皮をむき出した。最後のみかんを食べ終えて住人達がすべて体育館に収まったころ、

「ちょっと、食べすぎちゃったみたい」

とお腹を擦りながら母さんは立ち上がった。とぼとぼと後をついていくと、体育館の扉は閉まっていた。ゆっくりと扉を開くと、パイプ椅子が整然と並べられ、中央に花道ができている。壇上から寄合長の

「卒業生、入場」

の声が上がり、沙穂ねえがBGMのピアノを鳴らすと、村人たちが立ち上がって花道に向かって拍手をする。母さんが背中を押す。小さな声で行こうと囁く。状況を理解できないまま壇上に向かって歩き出すと、壇上には寄合長やヤエおばあちゃんが座っている。壇上には紙花で縁取られた卒業式の看板と、おめでとうの横断幕があった。

一番前の席に父さんや、優菜、生馬が座り、空いている席に母さんが座ると、壇上の真ん中の席に促された。

「では、これより圭太くんの卒業式をはじめます。まず初めに主賓からの挨拶をします。主賓、サンミーショップ山彦さん」

寄合長の言葉で式が始まる。

「はい」

ひと際大きな声が会場内に響いた。サンミーのおいちゃんが、堂々と壇上に上がる。

「圭太。ご卒業おめでとう。この村から、卒業生を見送るのは村が市と統合して初めてのことになります。圭太はこの小さな村に生まれて、厳しい日々の暮らしからから多くを学び立派に育ちました。この先の人生に数々の困難があろうとも、その強い心は決してくじけないと信じています。でも、いつまでもこの村は圭太の居場所であり、故郷です。疲れた時はここで羽を休めてください。」

おいちゃんは、こちらに近づき手を伸ばした。硬くて枯れた、その下に血の流れる男の手だった。

「続いて、在校生を代表して飯島沙穂さんから送辞の挨拶です」

「はい」

ピアノの近くに座っていた沙穂ねえがまっすぐに中央にむかう。黒色のセーラー服に真っ赤なリボンの沙穂ねえは、夏よりもぐっと大人びてみえた。

「本日、晴れてこの久根村を旅立つ圭太くんに、心よりのお祝いとさらなる飛躍をお祈ります。長らく分校で、同級生がいない状況でありながら新たな地で活躍する姿を頼もしくそして心強く思います。私もいつかこの村を出るときは、圭太くんに習い逞しく自分を失わず生きていきたいと願います。ご卒業おめでとうございます」

沙穂ねえが伸ばした手を握った。白くて汚れていない柔らかな手だ。

「卒業証書授与」

ヤエおばあちゃんに促され中央に進む。

「卒業証書。上郷圭太殿。貴殿は周囲と助け合い自らを鍛え立派に育ちました。今日この村からの旅立ちを証します。」

飯島先生からの賞状を両手で受け取り、壇上から住人を見た。温かな拍手と、笑顔があった。この村で生まれ、育ち、見守ってきてくれた一人ひとりのお陰で今ここに立っていることを改めて感じた。深々と頭を下げる。

「峰沢小学校校歌斉唱」

険しき山の その果てに  峰沢の  拓かれ燃ゆる  大地の実り

朝日の昇る  前には  田畑に向かう  ひとの強さよ

久根の郷  思い駆ける 繋ぐ今日の  学びの場


朝霧籠る  硬き地に  峰沢の 恐れず進む  腕の逞しさ

日の入り知らず 男たち    雄たけび上げて  夢を追う

久根の郷   思いはあふれ  豊かな今の  学びの場


父の背の  強き憧れ  峰沢の 優しき母の 胸に抱かれ

星の光の  子どもたち    清き心  育む未来

久根の郷  思いは消えず  我らも続け 学びの場


沙穂ねえのピアノに合わせて村人たちの歌う校歌は、その時初めて聞いた。峰沢小学校はもうない。ここの小中学校は分校なので、校歌を歌う機会もない。ヤエおばあちゃんが、峰沢小学校廃校前の校歌だと教えてくれた。今日に合わせて、父さんが当時の卒業生を当たってメロディーを調べて、村の人たちが練習してくれたのだと。聞いたことのない歌が、心の奥底の繋がりを呼び起こした。この体がどこにあろうと、例えこの先に迷おうとも、きっとこの繋がりが自分であると何度も確認させてくれるのだろう。








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