Fairy Wings


15歳の誕生日はどんちゃん騒ぎだった。ちょうど土曜日で学校は休みだったのに母ちゃんの

「当たった!当たったンダヨゥ!」

という興奮した声で覚醒させられた。蛍光塗料の目覚まし時計は午前3時を指している。回らない脳をブルブルと振り回すことで無理矢理覚醒させると、薄暗い和室の中で、50近い母親が、ピタピタの民族衣装を揺らしながら小躍りをしている様はなかなかの見物である。元々濃い目の顔立ちが、さらに濃い目のメークで際立って陰影を深くしている。綾取りの紐やよくわからない何かの紐で延長されている和室の照明の紐を引っ張って、明るくするとようやく落ち着いた母ちゃんの姿があった。胸に何かの封筒と手紙を大事そうに抱きしめている。のそのそと立ち上がり、母ちゃんの腕の中から、手紙を抜き取ると、

―市営大川荘 入室のご案内

と書いてあった。

「よかったね。とりあえず家無し子は免れた」

住んでいる県営住宅の取り壊しが決まったのは県営住宅の西側の市営住宅の建て替えが終わって入居も終わった後だった。同じ団地なのに市営住宅の方が建て替えがあって、県営住宅は取り壊しなんだっと、母ちゃんは憤慨していたが、県営住宅の取り壊し反対運動は一、二回しか行われず、住人達は徐々に立ち退いていった。というのも、市営住宅は建て替えの時点で部屋数も多くなったので生活困窮世帯を中心にそちらへの移動が決まっていって、残されたのはうちのような中途半端な所得世帯ばかりだった。市役所もまぁこのくらいの所得があれば自分で何とか家を見つけるだろうとか、あまり甘い顔ばかりすると世論が厳しくなるとか、そんな押し付けをしてくるのだった。元々県営住宅が建っていた周りに市営住宅を作ることになって、県営住宅の日当たりは最悪としかいいようがない。左右と前方を取り囲むようにぐるりと市営住宅に囲まれていたので、風通しが悪く、日当たりも最悪、玄関には一年のうち何日日が当たれば良い方で、北側についたベランダの洗濯物はいつも冷え切っていた。そんなわけで、一番老朽化が進んでいった県営住宅の建て替え工事の話が一度も浮かんで来なかったのは、建て替えてもムダという結論ありきなのだった。うちは私が小さなころに離婚している。にいにの言うことには、父も昔はこの県営住宅に一緒に住んでいて、だんだん家に寄り付かなくなっていつからか帰って来なくなったから、母ちゃんが離婚届を出したらしい。その話をすると、

「アタシはフィリピーナだったカラ、離婚するとヤバイって思ってたけどもっと早くしとけばヨカッタって思ってんのヨ」

とガハガハ笑う。そんなにヤバイ父だったのかと聞くと、

「そんなことはないよ。ちょっと生き方が不器用な人だっただけ」

と生まれたばかりの私を抱く、ふにゃっとした笑顔の男の人の写真を見せてくれた。大きな鼻はにいにそっくりだった。

静江さんに市営の抽選が当たったことを伝えると

「本当によかった。アンヘルさんは、解体当日まで粘るっていってたから」

と苦笑しながら慣れた手つきでオーブンの予熱をセットする。マッシュポテト用のジャガイモをつぶしながら、

「母ちゃんならやりかねない」

とぞっとした。県営住宅の燃えるゴミの日に、出てくるゴミ袋の数は次第に減ってきて、最近では10個以下のときもあった。それだけ、あの建物に住んでいる人が減ったということなのだろう。もう退去日まで3か月を切っているというのに、未だに居座る住人と結託しようとも思わないけれど。次第に荒れ果てていく共用部。階段に放置されたままの残された荷物。蜘蛛の巣の張った廊下。切れたままの電球。すでに廃墟そのものになっている建物に平然と帰る母ちゃん。階段を踏み外すと危ないからと、100均の懐中電灯にネックストラップを付けて「ジャッジャーン!」と自慢げに見せてきた母ちゃん。私はなにも言えずに、いざ廃墟でXデーを迎えたらにいにのところに避難するしかあるまい(大変申し訳ないけど…)と算段をつけつつ、ネックストラップを大人しく掛けていたのだった。

「引っ越しはいつするの?」

「特に決まってないかな…来週には鍵渡しがあるんだって、鍵がもらえたら私が徐々に持っていく感じかな?さすがに冷蔵庫とかは無理そうだから、にいにに聞いてみるよ」

「そうなの?自力でやるんなら、大ちゃんも手伝いに行かせるわよ。私ももうすぐ冬休みだから細々とした引っ越しの手伝いに行きましょうか?」

と、フワフワのスポンジ生地が入ったケーキ型をオーブンの中にしまう。静江さんは地元の小学校の給食室で常勤勤務している。

「細々としたものは大丈夫だよ。隣だし。でも冷蔵庫とかのときは力を借りたいかも…洗濯機と…」

「電子レンジも止めといたほうがいいわよ。大事な試合の前にケガでもしたら…」

「そうだね。時々大吉を借りることにするよ」

大吉は静江さんの孫で、私の幼馴染。私は小学校から新体操をしていて、今は本気でプロになりたいと思って頑張っている。今はスクールに通っているけれど、高校は部活で新体操を続けたいと考えている。行きたい高校には特待生枠があって、受かれば部活に掛かる費用の補助や学費が免除される制度がある。その特待生枠に入れるかどうかという大きな試合はこの冬休「みにあるのだ。今が正念場!

「こき使ってやって頂戴。あの子も高校に進学するつもりらしいんだけど、まだ進路もはっきりしてなくって…翼ちゃんは何か聞いてる?」

「いや進路って!彼女じゃあるまいし知らないですよ。成績すらよく知らないし…」

そういえば、大吉には彼女とかも聞かないな…。自分が恋愛関係を避けているからか、よくわからない。でも、もし彼女がいたりしたら、あんま二人っきりとかもまずいか?

「そうなの…大ちゃん、うちではあんまり自分のこと話さないから」

「へー。でもそういうもんなんじゃないですか?お年頃ですしね」

大吉は小さい頃母親を亡くしてから、静江さんと市営に二人で暮らしている。静江さんはにいにのお嫁さんのマミさんのベビーシッターやそのあともお手伝いさんとして一条家で働いていた。給食センターの傍ら家政婦業は続けていて、今日も私の誕生日会の準備としてご指名が入ったそうだ。勝手知ったる一条家の台所で次は円柱の型を取り出し、私の作っていたマッシュポテトとアボガドディップ、サーモンを重ねてオードブルを作成している。私は冷めたマカロンにペーストを塗ってサンドすることにした。

「ピンクのマカロンがラズベリーソースで、グリーンのがピスタチオ、チョコがガナッシュでいい?」

「もちろん」

静江さんのマカロンは口の中に入れるとシュワシュワと雪のように溶けて、中から繊細な甘みのソースが広がる私の大好物だ。

「そういえば、今日のお誕生会アンヘルさん来れないっていってたわね。新居祝いもしたかったのに…残念だわ」

私がマカロンを割らないように慎重に一枚一枚クッキングシートから外している間に、静江さんは次の準備を始めていた。チーズと生ハムとオリーヴをスティックに刺している。

「なんか、母ちゃん最近真面目なんですよ。今日も土日は稼ぎ時だからって、今もコンビニのバイトも行ってるし…」

泥酔して帰ってくることもなくなった。客が酔っ払ってきたら濃い目のウーロン茶に変えて誤魔化しているらしい。すべてのマカロンにソースを塗ってサンドすると、すでにオードブルもメインの準備も終えた静江さんが、紙包みを二つ寄与越した。

「あとは、飾りつけだけだから、主役は一旦帰って時間になったら、また来てね。それから、これはお昼ご飯。悪いんだけど、大吉にも持って行ってあげくれる?」

「了解!」

自分の誕生会の飾りつけをするほど野暮なことはない。パーティのお料理作りは無理矢理手伝いに行ったけれど、ここまでとして紙袋を手に市営住宅の町田家に急ぐ。

「だい~きち~おきろ~~」

インターフォン越しにどでかい声で呼びかけると、中でドタドタとした音を立てながらスエット姿の大吉が出てきた。案の定寝ていたらしく頭がカラスの巣のような芸術的な様だった。

「これ、静江さんからランチだって」

「あんがと」

寝起きのガスガスの声でお礼を言われて

「じゃー。パーティ夜7時から一条家だから」

と告げると、踵を返した、

「あー。一緒に食ってく?」

「ごめん。もうすぐ星来と練習だから、急いでんの。」

と、家に帰ると、ストッキングと、レオタードをつけて服を着なおし、スポーツバッグに必要な手具や、ハンドタオル、水道水の入った水筒を入れ、もういちど荷物を確認してから髪をシニョンに縛りなおし、静江さんのお弁当を開けた。

中身はオカラパンのサンドイッチだった。同じ材料を使って作ってみても私が作るとバサバサになるのに、静江さんのはしっとりフワフワもちもちの生地で、中のリコッタチーズやサラダチキンも手作り。アボガドやトマト、パプリカ、レタス、新鮮なシャキシャキ野菜がおいしい。そうこうしていると、スマホに星来からの鬼電があった。一時からかれこれ30分も最初は15分刻みでその後は10分刻み。

「星来?どーした?」

「どーしたも、こうしたもないわよ。2時から練習の約束でしょ。今日は翼の誕生日だっていうから、二時間も遅らせてあげたのに、まだ遅れるなんてたるんでるにも程があるでしょうに!」

時計をみると1時45分だった。星来は約束の30分前には集合していないと遅刻とみなす性分なのだった。

「ごめん。急いで行くから」

洗い物はあきらめてバッグを抱えて出発した。幸いにも練習場の本郷小学校まで家から3分の距離だ。



体育館に入ると、ジェットヒーターの前で仁王像のようにしかめっ面をした星来が柔軟をしていた。ちなみにこのジェットヒーターも柔軟のためのレッスン棒も、星来の家からの寄贈品だ。通っている新体操クラブは水曜・土曜休みなのだが、選手になるためには週二日も休むのは勿体ない。普通はバレエレッスンに行ったり、他のダンススクールで音感や柔軟性を養うらしいのだが、うちのようにクラブの費用さえ出すのが大変な家計ではもう一つ習い事をしたいとは言えず、狭い県営住宅の室内では柔軟ぐらいしかできず、考え出したのが、県内のトップ選手になって、地元に貢献するからという名目でスクールの休みの日に体育館を借りるという方法だった。小学校三年生の時に初めて表彰台に登る成績を残し、小学校で表彰式をするという時にこういったのだ。

「私は新体操でオリンピックに行くのが夢です。でも、練習環境が整っていません。どうか、小学校で練習する場所を与えてくれませんか?」

と。そのあとは、学校内新聞でこのことが取り上げられ、PTAを巻き込んだ騒動になった。たった一人の個人にそのような待遇を用意するのはいかがとか、公立小学校なのだから誰でも自由に使える権利があるはずだとか。結局、当時の校長先生の「小学校はひとりひとりの子どもを分け隔てなく大切にする場所です。たった一人の子どもの夢さえ応援できなくて何が小学校運営だといえるのでしょう」

という鶴の一言で、小学校に私一人の新体操部ができ、在籍できることになった。こうして、一大騒動を巻き込んだ体育館貸し出し事件だったが、高学年になってこのことを聞きつけた星来が

「ずるいわ。私もそこで練習する」

と、練習するようになった。そもそも星来は付属の小学校に通っていたので、公立小の体育館を利用する権利などないのではと思ったが、多額の寄付金によって黙認状態になっている。そして、代わりに水曜日には星来がずっと通っていたバレエスクールの個人レッスンに私も参加できるようになった。

「一人見るのも、二人見るのも一緒だし、何より翼ちゃんは星来のよきライバルとして成長してもらわなくてはいけないからね」

と、星来のお父さんが恐縮する私の背中を押してくれた。



気のせいかいつもより押しの強めの柔軟を経て、早速二人だけのレッスンが始まった。今度の大会の団体用の音楽をBGMにこん棒の練習から始まる。今度の試合の課題はこん棒とフープのmixなのだ。どちらも小手先の器用さや努力だけでえた柔軟性が武器の私には苦手分野だ。そもそも中三というシニアになる時期に苦手だなんだいってたらいけないのだけれど。ダイナミックで音感があり、アクロバティックな演技をする星来にはこの種目がピッタリだ。これまた星来の家から寄贈された鏡の前で、何度も基本動作を確認し合う。

「翼、また軸がブレてる。筋力がないせいよ」

容赦ないダメ出しに、12月の冷え切った体育館でも汗が噴き出る。途中で合流してもらった星来家のお手伝いさんに撮影をしてもらいつつ、主軸の位置や投げ技のあとの始末なども確認する。とはいっても5人態勢の演技を二人で再現するのにも限界があったので、残りの半分は個人競技の練習に入った。最後に個人競技の曲を通し練習してビデオ確認をしていると

「星来さん、大変7時過ぎてます!」

というお手伝いさんの声で慌てて撤収し、荷物はお手伝いさんに運んでもらう約束をして一条家に走った。

「寒い!」

走ると、向かい風で一気に熱が奪われた。

「軟弱ね。これくらいで」

いや、星来あなたの着ている羽毛の入ったダウンジャケットと、私の着ている綿が詰め込まれたペラペラジャケットの防寒性の違い…と余分な弱音を吐いても仕方がなかったので、私は一層走るスピードを上げて寒さから逃れる現実的な手法をとった。私の全速力に星来も楽々ついてくる。一条家のあるマンションに着いた時には二人とも肩で息をしているような状況だった。同じマンションに住んでいる星来にオートロックを外してもらうと、星来は14階のボタンと一緒に自分の部屋がある16階のボタンも押した。

「忘れ物?」

「うん。まあ。翼は主役なんだから、一刻も早く行きなさいよ」

何かを誤魔化すように怒り口調で捲し立てて言う。

「じゃあ。先行ってるね」

と14階で降りて、インターフォンを押すと

「今開けます」

と静江さんの声があったあと、しばらく待たされ

パァァーーーン

「うわぁ」

とそれぞれにクラッカーを鳴らしながら、大吉や市営住宅からの幼馴染、パーティに招待した中学からの同級生が、にやにやヤッタぜという顔で出迎えた。

「あれっ?星来さんは?」

と大吉がいう。星来の驚く顔がみたかったのか、少し残念そうだった。

「なんか、部屋に忘れ物取りいった」

「そっか」

と、クラッカーの紙テープをつけたまま、家に入ると広いリビングににいにやマミさん、マミさんの親友の凛さん、昔にいにが働いていた整備工場の親父さんや奥さん、星来のお父さんなど大人組はソファーやカウンターテーブルにすでに座って飲み物をもって談笑している。

「練習おつかれー。翼」

と、汚れた作業着のままのにいにが手を振ってくれた。隣でワンレンの長い髪を片側に寄せて紺色のワンピース姿のマミさんも小さく手を振ってくれた。

壁にはバルーンでHAPPY BIRTHDAY TUBASA 15THの文字が書かれ、色紙のリングやピンクと白のハートの風船などで飾られていた。クラスメイトが本日の主役というたすきをかけ、ケーキとローソクのついた変なサングラスをつけてくれた。ちょうどそのタイミングで星来も合流する。

「みんな、揃ったみたいだから、お願いします」

とにいにが合図をすると、部屋の電気が消されて、奥からカートを引いた静江さんが現れた。カートには三段重ねのデコレーションケーキが生花に囲まれて乗っている。

ハッピーバースデーの歌でみんなが祝ってくれている。ヘンテコサングラスのお陰で涙が見られなくてよかったとほっとした。

「翼。願い事した?」

とにいにが聞いて頷くと、ろうそくの灯を消してもう一度クラッカーが鳴った。

「たくさん食べてねとはいえないけれど…楽しんで食べてね」

と静江さんが、私と星来のお皿に野菜や、低カロリーのカルパッチョなどを取り分けてくれた。私たちは試合前なので、厳しい体重管理をしているのだ。用意された料理があらかた食い尽くされると、静江さんが三段ケーキの解体に取り掛かる。

「一番上の層はヨーグルトクリームで出来てるからね」

と静江さんのウインクとともに小さくカットされたケーキが私と、星来に届けられ

「宴もたけなわということで、それではみなさんからのプレゼント開封を行います」

というにいにの掛け声とともにケーキの乗っていたカートにいっぱいのプレゼントBOXが運ばれた。

一つ目は細長い小さな箱で、レッスン用のストッキングがぎっしり詰められていた。

「それはワシらからの。沢山使ってくれよ」

という整備工場の親父さんが言った。二人に駆け寄ると、両手に抱えてハグをする。

「二人がいなかったら、私は今こんなに楽しい毎日を過ごせませんでした」

途切れ途切れの記憶に、小さな私を抱きしめる奥さんのしわだらけの温かな手や、見守る優しい笑顔の親父さんの姿があった。

二つ目に手を取ったのは、細長い控えめなリボンのかかった箱。

「それは私たちから」

とマミさんと、凛さんが顔を合わせて笑う。中身はベージュのトウシューズ。

「つま先が赤くなるまで同じの使わないでね」

と、マミさんが苦笑いしていた。最近成長期なのか、手足が伸びて今まで持っていた用具が急に小さくなることがあった。

中に挟み込んであった四角い小さな箱二つ取り出すと

「それは僕と星来から」

中身はDVDと…羽の形をした金色の髪飾りだった。

「おじさん、いつも本当にありがとう。それに星来…」

「何よ」

絶対泣かないって顔で星来はいった。

「私たちは永遠のライバルだ!絶対にいこうね」

私たちの目指す場所。言葉に出さなくても伝わる。

最後に一番大きなリボンのかかった箱を取り出した。開けると、一瞬眩しくって目をそらした。真っ白な生地に銀色のスパンコール。タコイーズブルーのイミテーションストーン。

「天使の衣装だ」

言われなくてもわかった。

「ありがとう。にいに。静江さん」

「お誕生日おめでとう。翼」

個人演技での衣装はいらないって…むしろそのことに話題が触れないようにしていたのに…。DVDを見ながら号泣しているにいにと、大人たち。5歳の私は、新体操に出会った。自分の家庭の事情もわからずに、やってみたいの一言で応援してくれた家族。6歳、星来とどちらが先に技を身につけるか画面の中での小さな私たちは言い争ってる。7歳、8歳初めての選手選抜、大会出場。時は流れて去年の私たち。個人優勝は星来で、2位の表彰台に私。私たちは笑い合ってる。そして今年はお互い15歳だ。シニアのスタートと一緒に、私たちの選手生活は確実にフィナーレに近づいている。新体操の選手生命は短い。ほとんどの選手が高校まで、大学まで続けられる才能のある選手は一握りだ。手の中に残った砂粒よりももっと低い可能性を、残酷な現実を私たちは生きている。DVDの視聴中、私と星来の手は自然と繋がれていた。



「おじゃまします…」

女二人暮らしの県営住宅ににいに以外の男性が入ってきた記憶がない。小さい頃も大体、大吉の家に寄ることの方が多かった。

「食器とか、床におきっぱだから気をつけてよ」

といいながら、ゴミ袋にまとめた衣類を両手に持ちつつ

「そこの衣装ケースもってね」

と指示する。あぁと言いながら鴨居に引っかかった洗濯物に大吉が、引っかかって払いのけようとした手を何気なく見つめた大吉はぎょっとして一瞬固まった。除けようとした左手に絡みつくようにドぎついピンク色のブラジャーが当たっていた。

「……」

一瞬にして顔色を変えた大吉に

「それ母ちゃんの」

と冷静な一言を返すと、赤かった顔が今度は真っ青に変わった。人間ってこんなに瞬間的に顔色を変えられるんだっていうか、カメレオンか…っていうより思春期だなー。とか思いながら、洗濯ばさみごと鴨居から外した母ちゃんの下着をダイニングテーブルに置いた。

「いくよーはよぅ」

ゴミ袋いっぱいに詰まった洋服は、意外と重い。普段筋肉をあんまりつけないように自重トレーニングしかしない私の腕にずっしりとかかる。

何往復かすると、星来のお手伝いさんの車が迎えにきた。

「時間だわ。ありがとね。またたのむ~」

といいながら、手に持った紙袋を大吉の運んでいる本棚の上に乗せて、市営住宅の鍵を大吉のベルト通しにキーホルダーごと掛けた。大吉はぐぇっと返事のようなカエルのような鳴き声で応えたので、私は了解って意味だなって思って、踵を返し県営に練習道具の入ったトレーニングバッグ取りに帰り、後部座席を開けた。

「おはよーございます。よろしくお願いします」

とお手伝いさんに声を掛け、車内に入ると、カチカチにシニョンを決めた星来が薄いピンクのサングラスを下にずらし、よたよたと市営住宅に向かう大吉をちらっと侮蔑すると、長い足を組みなおしながら

「今日も頑張るわよ」

と気合を入れた。



冬休みに入って、引っ越しもハイシーズンとなるのに、にいにが勤務先から軽トラやら、台車やらを調達してくれて、大吉やその他市営住宅民による助けもあって、年明け前には県営住宅は空っぽになっていた。取り壊し予定のある県営住宅には鍵の引き渡しは逐一必要ないらしく、「あー鍵は郵便ポストに入れといてもらったら後で回収しますんで」という適当な返答だった。台所の棚や洗面所の棚、押し入れ、最後に忘れ物がないかもう一度チェックすると、がらんとした県営住宅は1DKという狭い間取りなのにやけに広く感じた。にいにが今年26歳だから、この家もそのぐらい住んでいると思う。家族の寝室になっていた和室でたくさん柔軟の練習をした。天井にこん棒が当たったらびっくりするぐらい簡単に穴が開いてどうしようってにいにに泣きながら相談したら壊れる方が悪いから気にすんなと、ダンボールで塞いだ跡がある。そんな思い出に耽っていると、ふと悪寒が走って振り返った。

照明も持って行ってしまった薄暗い部屋に何かがギらりと光った。玄関の方向だ。慌てて襖の横に体をずらして体を隠した。辺りを見回して何かないかと思うが、一切の私物が残っていないことは確認済だ。ジャケットのポケットをまさぐると、長年使い込んだキーホルダー付きの鍵と、スマホ。

「おいっそこにいるのはアンヘルか?」

と、聞き覚えのない中年のだみ声が響いた。母ちゃんの…知り合い?答えずにどうすべきか考えを巡らせた。押し入れに隠れる?

「どうした?答えろ?」

玄関の横にあるトイレのドアや、洗面所の引き戸を開ける音が聞こえる。逃げても無駄だ。唯一の脱出口の玄関にたどりつくのに顔を合わせずに逃げることが出来ない。真っすぐの構造の部屋だし、ベランダに逃げて声を上げたところで助けが間に合う可能性が低い。

「逃げても無駄だぜ。話し合おう。アンヘル」

声が近づく。襖の横からごちゃごちゃとしたシルバーアクセサリーのついた指が見えた。私は一歩前に出た。光って見えたのは胸の前に巻かれた趣味の悪い金色の太いネックレスか。

「これは、これは…」

私の姿をつむじからつま先までなめるように見回した中年の男に覚えはなかった。

「……」

声は出なかった。ただねっとりとした男の視線が気味が悪い。

「アンヘルの娘が…こんなに大きくなったか」

「………」

「お前名前は?」

「………」

頭の芯が冷える感覚。目の後ろが燃える感覚。

「怖くてしゃべれねぇってか。ちょうどいいわ。」

男のだみ声の発生している土気色の唇から、白い舌が出て口周りを一周した。

「アンヘルに用があったけど、まぁお前でもいいわ」

前歯が、銀歯とか。そんなことを考えてる冷静な自分がいた。ジャラジャラとアクセサリーを鳴らしながらこちらに手が伸びてくる。その手が私に触れる瞬間。右足を天井に伸ばし地面に落とした。

「ううう」

声にならない唸り声を上げながら、男が脳天を押えて前屈みに座り込んだ。腕と腕の間に空いた胸の部分を目掛けて足を出すと、小太りの男はバランスを崩して達磨のように転がった。広がった下半身の中心に今度は全体重をかけたかかと落としを食らわせる。白い唾を吐きながら丸まった男はダンゴムシのようにみえた。男に一瞥もくれず

「今の一部始終、スマホで録音してあるから。また私や今度は母ちゃんに手を出そうとしたら即刻、警察と児童相談所に持ってくわ」

と蹲る男の横を通り過ぎた。



市営住宅に帰ると、ダイニングテーブルの上にみかんやら、おせんべいやら、ポテトチップスを沢山広げて正月恒例の駅伝を見ている母ちゃんがいた。

「翼。お帰りー」

呑気だな。

「っていうか、母ちゃん、正月休みで繁忙期じゃないの?仕事はいいの?」

「あーね。パブは辞めたヨ。だから、今日は夕方からコンビニー。」

「えっ。コンビニで生計立ててくの?」

「セイケイ?顔ナオス?」

「違うそっちの整形じゃなくって、仕事コンビニだけにするのかって聞いたの?」

「あーね。今度はトモダチと、タイ式マッサージをやることにしたヨ。」

「タイ式?フィリピーナなのに?」

「わかりゃしないヨ」

といって、また視線をテレビに戻した。星来からラインだ。

―体鈍るからジョギングにいかない?

―いーね

―じゃあ、一時間後家から出発ね

―おけぃ

あー一時間ってことは、30分!さっきの出来事が頭をよぎった。にいには出勤だし、大吉…はいっか…あんだけやられたらしばらく凹むでしょ。と、柔軟を始めた。

「どっかまた出かけるの?」

「星来と、走ってくる」

「青春だね」

髪をポニテにすると、ダウンをウィンドブレーカーに変えて、ネックウォーマーの代わりにフェィスタオルを首に巻き付け、軍手をして走り出す。あーね。思い出した。さっきの社長だわ。数年前に何回かみたことがある母ちゃんのパブを経営している社長の顔を思い出した。




試合当日。県予選を通過したら全国だ。この会場のどこかにいるスカウトマンも文字通り私の一挙手一投足、見るんだろう。

ゴールドのお揃いのユニフォームを着けて控えのコーナーにまわる。去年辞めてしまった中二の子の代わりに一人だけ中一の詩織が小刻みに震えていた。中二はそういう年なのだ。ここからシニアにさらに高みを目指す子、誰かに決められるのが嫌で自ら辞めてしまう子、うちのような小さな新体操教室は圧倒的に後者が多い。私や星来のように小学生の時から覚悟を決めて練習をする子は少ない。チームリーダーの星来は、詩織の青い顔を横目でちらりと見ながら最終的なフォーメーション確認をする。そう。仕方ないのだ。自分で覚悟を決めるしかない。それでも私は詩織の手を握って温めた。

チーム戦は本番一回だけだ。個人のように総合評価で次と考えることもできない。たった一度の本番のために私たちは一体どれだけの時間を練習してきたのか。

音が始まれば体は機械のように動く。このタイミングで投げる。回転。側転。秒単位でチームの息を揃え、ポーズを揃え、アクションをする。一回目の山は私のこん棒を使った手芸と、柔軟のポーズの周りをフープが飛び回り、続いてこん棒が噴水のように続いて飛び出すトラップアクション。私は自分の指先に神経を集中させる。空気や観客のため息が成功を知らせてくれた。二回目のは星来が飛んでくるフープの輪を前転で通り抜け、さらに飛んできたこん棒をキャッチする二連続のアクションだ。星来が地面を蹴り前転の姿勢を取ると、詩織がフープを投げたのが対角線上にいた私の目に映った。そしてそのフープが潜り抜けるには高すぎる角度だったことも、瞬間的にわかった。フープの着地と、星来の着地は目測でほぼ同時だ。このままでは、星来の足に引っかかり最悪転倒だ。こん棒を星来の着地点の辺りに置くと、側転でフープをキャッチすると次の動作の同線に掛からない場所でフープを胸の上で転がすと起き上がった星来と目を合わし宙で交換して動作を繋げた。一瞬で嫌な汗が背中と脇に広がったが笑顔は崩せない。ほとんど、音が聞けていない詩織のフォローをしながらなんとか終焉にたどり着いた。アクションの点がほとんど伸びず、敗退確実の点数が並んだ。仕方ない。

「詩織には来年もある、再来年もあるよ。」

ほとんど過呼吸状態になるまで泣く詩織の背中を撫でながら控室に戻ると、すでに星来は次の個人戦に集中を持っていっている。チームから個人戦に出れるのは私と星来だけだ。県予選はフープ、ボール、リボンの三種の複合。イヤホンで周囲の音をかき消し、黙々と、着替えを済まし、メイクを直し、シニョンに星の形の髪飾りを着ける星来。その姿を横目に、チームメイトもそそくさと控室を去っていく。私も嫌な汗がこびりついたレオタードを脱ぎ、ざっとシートで体を拭い、メイクも一度ふき取り、個人戦用のレオタードに着替えた。アイラインを引き、衣装に合わせたイエローカラーのメイクにチェンジする。誕生日にもらった羽の形の髪飾りを着け、本番用の音楽をイヤホンで鳴らした。控室には二人だけが残されたけれど、頭の中は一人だった。スマホの中で前収録した画像を見ながらイメージを膨らませていく。どのくらいたっただろうか…。ドアのノック音で気が付くと、星来を呼びに来た後輩だった。順番の3つ前からは横のスペースで軽い練習ができる。私よりも星来が3つ前だから、もう少し控室にいても構わないけれど、私も星来の後ろを着いていった。去年の順位を参考に前中後とグループ分けされている個人戦は後半グループに入っていた。廊下に張り出された得点表には、一位の点数から順に点数と名前が入れ替わるようにマグネットで名前と得点が置かれている。一瞥すると、番狂わせは起きていないようだ。中盤のグループの演目が続いている。音楽の中にため息と、それをかき消すような応援でわかった。

曲が終わり、星来が練習スペースに入っていく。真っ赤な衣装が、火のように広がって見えた。星来は練習スペースに入ると、そのまま、フープを投げ潜り込む技をした。さっきの団体戦で失敗した技だ。投げ技を連続して行い全てクリアにする。きっと切り替えをしているのだ。星来の姿が入らないように、練習場の隅で入念にストレッチを始める。円周を軽く走ってジョギングする。手と足がきちんと私の制御下にあることを確認する。柔軟とアクティブストレッチを繰り返していく。会場の空気に肌を馴染ませる。やがて三番目の合図があった。星来の本番だ。耳慣れた曲が流れ始める。時は待ってくれない。私も練習場でしかできない大きな投げ技の練習をした。大丈夫。いつも通り。もう一度確認…とその時

「あぁ…」

会場から大きなため息が聞こえた。見てはいけないと思っていたのに反射的に視線が向く。

序盤のフープの戻し技の場所だ。星来からフープが離れて場外に飛び出してしまっている。

補助のフープが投げ込まれて星来のもとに届き、フープを縄跳びのように回して上体を整える場面で、星来の長い脚が絡まりその場に転倒した。

「わぁあぁ…」

会場から再びため息が続く。転倒したすぐそばにフープがあるのに、補助のフープは投げ込まれない…時間にしてみれば10秒も満たない合間だっただろう。フープを見失って、星来の視線が左右に彷徨い、流れ続ける音楽に反して、星来の体は完全に一時停止状態になっていた。

私は首を振りもう一度大技の練習をして、自分の中で音楽を流す。頭から一通りの流れを確認する。一生懸命やってはいけない。壁の向こうに本番の自分がいる。鏡の世界の私はそれを軽くなぞるだけだ。最後のポージングまでシュミレーションをやり終えると、会場の隅でコーチが手招きをしている。次が順番だよというジェスチャーをした。

「力み過ぎずにね。いつも通りよ」

と、耳打ちして崩れたシニョンと髪飾り、身だしなみを整えてくれるコーチ。国体に行って強化選手にも選ばれた元新体操選手のコーチとは5歳の出会いからの10年の付き合いだ。

格安の新体操教室は公立中学校の夜の体育館という専用練習場を持ってないからという理由だ。8歳になるころ、選手になりたいんなら、もっと大きなチームに移籍した方がいいと助言してくれたけれど、紹介してもらったチームは私の通える範囲じゃなかったし、払ってもらえる月謝でもなかった。ここで全国や世界を目指すといった私に、体育館の使用を増やす交渉をしてくれたり、後輩や先輩の伝手を辿って、なんとかレベルに達する音楽や振り付け、技術を付けてくれた。

「いつも通り。私は私のやれることでやりたいことをやるだけ」

アナウンスがあり、会場までの数歩の行進で、気持ちを向かせる。ここでやるんだ。やるべきことを。ビーンと開始音とともに、音楽が流れ始める。今回の個人戦の3曲は、海のイメージ。一曲目はアクアリングを追いかけて遊ぶイルカ。波で跳ねるリングの輪をくぐり、時には自分の尾でリングを蹴って、キャッチして海上へ大きくジャンプする。リングを体にまとわせ深海でポーズを決める。やがて、日が沈み青い海が紅く染まるころ、遊び疲れたイルカは静かに仲間のいる沖に帰るのだ。

曲が終わると、耳の中に拍手と歓声が入ってくる。きっと私はいつも通りだったのだと小さな安堵の息をついてメイクのように張り付いた笑顔で会場に手を振った。

控室に戻ると、星来の姿はなく、スポーツバックもなかった。個人戦なのだ。気遣うのは自分。と、一曲目でかちかちになった足をトォシューズから一旦放して入念にもみほぐし、煙が出るほど冷却スプレーをかける。二曲目の音楽を流しながら、ひたすらもみほぐし、体中のつっぱりを流す。汗で浮いたメイクを簡単に手直しし、衣装の隙間から汗を拭うと、ジャージをつけて体が冷えないように首や鎖骨をカイロで温めながらリンパを流す。滞留した血液が動き出したのを確認して再びストレッチをする。そうしている間に再びノックがされて、一回目と同じ掲示板の横を通った。一位の名前の欄に私の名前があった。二位との開きもある。追わないようにしていた星来の名前が中盤のところにあるのが目に入った。

三番目の合図があって、練習場に入ると、ジャージを脱いで入念にボールとの相性を確認する。ボールが肌に吸い付くように私の体を這うまで何度も体を行き来させる。ボールを突いて手に戻ってくる感覚を調整する。大丈夫。いつも通り。

二番目の演目が始まる。広い会場の中央で、曲芸を見せるアシカ。小さなボールを鼻先にピタリとくっつけて360度柔軟な体を魅せる。無造作に鼻先でポーンと跳ねたボールを海の中に潜り込むと陸上にいた時の緩慢な動きと違い舐める様にスルズルと海中を泳ぎ、見事にボールをキャッチする。そのまま腕の後ろと、肩甲骨を通して反対側の腕の上を通してボールを行き来する技につなげるときだった、右ひじのひねりが少し外側に出ていた感触がありボールが予期せぬ跳ねをした。落とすわけにはいかない。右手首を思いっきり回すと、左にもう一度ボールを戻し、往来の形にして難を逃れる。ボール突きの回数で調整し、柔軟の場面につなぐ。汗が噴き出る。ステップを踏みながら回転し何事もなかった。いつも通りと言い聞かす。汗が止まらない。大丈夫。私の手足は指先も頭のてっぺんもつま先も、ぜんぶ私の支配下だ。私の命令にしたがってきちんと動作する。こなせる。音楽は止まない。私の鼓動も止まらない。ラストのポージングを終えて会場に拍手が溢れた。

投げ込まれた花束を拾い上げると、右手にピキンと衝撃が走る。場内を出ると、コーチが走り寄ってきた。

「翼ちゃん。右手見せて」

その言葉に、少し引いていた汗がまた噴き出した。差し出した右手を外側に向けると電流が走ったような衝撃があった。

「大丈夫。折れてはいないわ。筋肉も傷めていない。」

チームメイトがダウンを掛けてくれた。自分がガタガタと大きく震えていることに気が付いた。最終種目はリボンなのだ。怖い。その場にへたり込むように座ると、いつも自分でしているメンテナンスをメンバーがしてくれた。体の震えが止まらずコントロールが効かない。怖い。

「次の種目出れそう?痛み止め打ってもらう?」

コーチの問いかけに笑いかけることも出来ない私は、首を振り続けた。退路はない。今しかないのだ。今日だけ。今日だけを目指してこの何か月毎日を歩いてきた。朝起きて、学校に行っている間も、放課後は勿論、食事も睡眠も今日の為、今日この日舞台に立ち次の道を作るために私は。

「もうすぐ、三番です」

ふと、練習場を見ると、星来の顔があった。冷静で優雅。育ちの良さそのままの美しく伸びやかな演技。スッと私の中での憑き物が落ちた。楽しむんだ。ダウンを返すと、汗を拭き、鏡に向かって特大の笑顔を作る。

「ありがとうございます。行ってきます」

三番の練習場にいくと、手首をぐりぐり回した。少しの違和感を調整する。リボンは私の一番好きな演目だ。幼い頃、一条家の大きな壁掛けTVでみた新体操のリボンの種目。妖精のように長い手足を持った選手がヒラヒラとリボンに包まれている姿は本当に飛んでいるように思えて画面に釘付けになった。

「いつも通り大丈夫」

開始音が鳴る。音楽が流れ、舞台が始まる。イメージはマーメード。水の中を華麗に自由に泳ぐ。水がうねる。波が跳ねる。リボンの先の先まで私の一部になる。どこまでも広がる私だけの空間。曲の中盤、リボンの魔法でマーメイドは陸に上がる足を手に入れる。軽やかにステップ。地面の感触に驚きながら駆ける。初めての体験に喜びを全身に表す。側転。前転。海の外の世界。スキップ。ジャンプ。あぁ空は。海の外でもこんなにも青い。やがて夕日に染まった空に寂しくなったマーメードは、また魔法をかけ海に帰る。

曲が終わると、一瞬の静寂の後、会場が揺れるどよめきが起こる。立ち上がった観客たちから次々と、拍手と歓声、花束やプレゼントが舞う。私も大きく手を振り応える。



終わってみると、総合優勝は私で、二位が大手の新体操クラブのエースの常連の子、三位が星来だった。星来のフープ以外の点数は私や二位の子を大きく上回っていた。表彰式のときに、横断幕を抱えた友達や母ちゃん、マミさんの姿を初めて認識した。にいにの姿がないな…と思っていたら、観客席の離れたところで誰かと話をしていた。



県大会の後、しばらくして、奨学生枠決定の合格通知をもらった。進路決定で一息つきつつ、もう一つ変わったことがあった。

「現金書留です」

毎月、市営住宅に書留が届くようになった。中身はしわしわの一万円札と千円札や五百円玉が入っていて、

―がんばれ 翼 ファンより

と一言だけメッセージが入っていた。この話をすると、にいには全然別の話をし出した。

「翼って名前、はじめは母ちゃんが羽にしようとしたんだよ。俺の智史が父ちゃんの智人からきたから、今度は母ちゃんのアンヘルが天使のことだから、天使ちゃんか、エンジェルちゃんにするっていって、小4の俺でもさすがにキラキラネームが過ぎるってやめさせて、じゃあ天使なんだから羽でって、お前、外山羽になるところだったんだ」

「嫌すぎる…」

「だろ?だから、小4の頭で一生懸命考えたのが翼だったんだ」

「ありがたすぎる…」

「だろ?翼の一生をにいにが救ったといっても過言ではない。」

「で、どうしよう、この一万二千五百円。」

「とっとけよ。ファンからなんだろ?大事に使え」

「にいに。いつもありがとう。お金…」

「気にすんな。少なくとも今のお前は何も気にすんな。まっすぐ自分の好きなことやってくれるのが、俺や母ちゃん、マミや静江さん、お前を応援してくれるみんなの願いなんだから」

ありがとう。外山智人様。私はまっすぐ突き進む。



二月半ば。城成東高校。体育館。制服採寸日。オシャレな紺色のブレザーに、グレーのチェックの入ったスカート、同じ生地のスラックス、薄い水色、白、薄いピンクのシャツに、校章入りの茶色のベスト、白いソックス、紺色ソックス、スクールバックもリュックタイプや、サブバッグタイプ、運動部用の大容量リュック。二次元世界の高校そのものの私立の制服のラインナップに引く。運動用のジャージも豊富だ。注文票の値段にさらにひるみ、何度も

―奨学生枠は制服等の指定品は支給とします。

の文字を追う。そんな肩をパンと叩かれ振り向いた。

「星来。」

と星来家のおなじみのお手伝いさんと

「この間はどうも!市川八重だよ」

知ってるけど。どうして二人がここに?

「私たちもこの高校に決めたのよ」

「そうそう。一般入試でね、星来ちゃんに会ってびっくりしたよ」

「二人ともクラブに進むって思ってた」

「やっぱり、やりたいなって思ったから、急遽入試受けたんだよ」

星来は、付属の高校に進みながら、来期からクラブを変えるって。八重ちゃんはもともと国体選手を何人も出すような名門チームのエースだし。

「これからもよろしくね」

と差し出した手を今度は三人でつなぐ。


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