Lover river
「お母さんがこの町に住むのって、この川が気に入ったからなんだって」
マミがそう言いながら、視線は川と反対の県営住宅のドアに釘付けになっている。
県営住宅横の寂れた公園には、ブランコと、滑り台があって、どちらも一番高いところにいるときだけ堤防向こうの川が見えた。県営住宅の北にある公園にはほとんど陽が当たらずこの公園を利用する子なんて少数派だった。堤防を越えるには、車通りの激しい川沿いの道路を渡らなくてはいけないし、そもそも川には子どもだけでは遊びに行ってはいけないという小学校のルールがあったので川を見るためにはこの公園で滑り台の一番高いところに登るか、ブランコを思いっきり漕ぐしかないのだった。県営住宅を出た私たちに残された少ない川を見るための手段だ。
小学校の入学のころだったか、ずっと放置されていた工場の跡地にマンションの計画が立った。大手の建築会社が手掛ける、いわゆる富裕層向けのマンションで玄関に象の置物が置いてあるので有名なところだった。なんでこんな田舎に…と思ったが、ママが言うには、県立病院の医師やその周囲の医療系学校の教師向けに作るらしい。自走式駐車場で各家庭二台のスペースが確保されていることや、全棟南向き、川沿いにある家でも上階ならば水害への備えにもなる。実際、ママとあたしと、マミとマミママといったオープンハウスは玄関からフルフラットな眺めで奥のリビングに続いている。白い大理石調の玄関を抜ければ広い廊下には先導してライトが付く。リビングルームを入ると、大きなシャンデリアが飾られた室内にアイランドキッチン、背面には大型テレビと、ダイニング。毛足の長い絨毯が敷いてあるダイニングスペースにはリクライニング付きのソファーをおいてもまだ走り回れるほどのスペースがあった。バスシャワールームも異国のタイルが貼られていて大きな浴槽にスケルトンの脱衣所、独立洗面台も三面鏡に引き出しのついたドレッサータイプ。どこを切り取ってもドラマのワンシーンのような豪華さだった。
「ここいいわね。ねぇマミ。引っ越そうか?」
マミママは、アイランドキッチンに備え付けられている背の高いスツールに足を組んで、部屋を見渡しながらいった。マミママは美人なので、本当にドラマの世界みたいだ。マミは偽物のポラロイドが貼られた窓の景色を見ながら、顔をしかめた。
「勿体ないわ。こんなところ、二人で住むなんて」
「いいじゃないの。マミはこの街に住みたいんでしょ?」
マミがこの街を気に入っている理由をマミママは知っているのに、意地悪そうに遠回しにいった。川沿いにあるこの周辺は県営住宅や、小さなコーポ、何時から建っているのかわからない長屋がゴミゴミとしていて、そんなに魅力のある地域ではない。スーパーも、ドラッグストアも、コンビニさえ、至近距離になくて利便性も皆無だ。長くここに住んだことがある人間なら、別の地域に引っ越そうとするだろう。長らくの沈黙の後、あきらめたかのように大きなため息をついて、マミは営業マンにきいた。
「このマンションは本郷小の学区ですか?」
「はい、そうですよ。本当は飯田小との境界なんですけど、今はどちらの学区でも選べます。中学は大井中ですね。」
自分の聞きたかった言葉がマミの口から出てきて満足したというように、薄いサングラスの下の唇がにやりと形を変えた。
「お母さんが欲しいんなら、好きにすればいいよ」
マミはぷいっと体を反転させるとマンション建設予定図のモデルを見ていた。10階以上はピラミッド式に部屋数が減っていってその分ルーフバルコニー付きの部屋になっていく。
「上位の部屋は埋まってしまっているんですが、14階の東側、バルコニールームが空いていますよ。」
「そうなんだって。マミは何階がいい?」
「何階でもいいわ。むしろ、低い階の方がエレベーター待たなくていいんじゃないの?」
「エレベーターなら5基稼働しますので朝のエレベーター混雑とかはないと思いますよ。」
上客を取り逃さまいと、営業マンが額に汗をかき説明する。
「そうね。私もヒールで階段を昇降するのはしんどいわ」
と、トントン拍子に契約は進み、マミママは皮のブランドバッグから分厚い札束を取り出した。きっと、元々このマンションを買おうとしていたのだろう。ママはそのやりとりを横で見ながら、誰も聞いていないのに
「私はもう少し考えるわ」
とつぶやいて帰った。
その日は県営住宅に帰ってから、ママのご機嫌が悪くなる一方だった。だったら、一緒に出掛けなければ良かったのに…ママはいつもそうだ。夜のお仕事をしているマミママは、夜間はベビーシッターにマミを頼んでいる。一人も二人も一緒だからというマミママに、夜勤の時は私を預けるのに、翌日引き取りに来るときは変な顔をしてマミママにお礼をいうのだ。
分厚いパンフレットの、3階2LDKのところに赤丸が乱雑にされていた。
マミがこの県営住宅に引っ越ししてきた日をはっきりと覚えている。そのとき、あたしは4歳で、県営住宅側の保育園に通っていた。周りの子どももあたしと同じような、川沿いの住民の子どもで、どうせすぐ着れなくなるんだからと、某子供服量販店で売られている、何だかよくわからない顔の崩れた動物のトレーナーに、毛玉だらけのスパッツを履いて、走り回っているのに、マミは大人みたいなプリーツスカートにシャツ、セーターと、モノクロコーデをしていた。真っ白なレースのついた靴下には小さな赤いリボンが付いていて、どこかの私立の幼稚園のようないで立ちだった。
「一条マミです。みなさん仲良くしてください」
と一言いうと、仲良くの言葉と真逆に誰ともほとんど口を聞かず黙々と言われた作業をするのだった。子役のように、目鼻立ちがはっきりしていてきれいな顔立ちと、4歳にしては
堂々とした言葉遣いや態度にクラスメイトは顔を見合わせて小さな声でこそこそしていたが、マミはすこしも動じていなかった。あたしはキレイなマミにどうしても近づきたくて作業中もずっと話しかけていた。
「マミちゃんは、どこから引っ越してきたの?」「東京」
「家族は?うちはね。ママだけなんだ。」「私の家も、お母さんと二人暮らし」
「いっしょだね。どこに引っ越してきたの?」「そこの県営住宅」
「わー。リンもけんえいに住んでるんだよ。いっしょだね。」
保育園児なのに一人称が私なところとか、柄がないシンプルな服とか、マミは他の子と違って特別に見えた。なんだか、年上の人みたいに。初日だからか、その日は早めにマミのお母さんが迎えに来て帰ってしまった。マミのお母さんは、保育園にお迎えに来るのにコツコツと音の鳴るヒールを履いていて、ピタッとした服を着ていて、やっぱり特別な感じがした。
「リンちゃん。あの子と仲良くなりたいの?」
と女の子はやっかみぎみに、男の子はうらやましげに聞いてきた。
「うん。リン。あの子としんゆうになりたい!」
声高に宣言すると、なんだか自分もちょっぴり特別になった感じがした。
象のマンションが完成して引っ越しをしたのは、あたしたちが三年生になる春のことだった。結局、ママはさんざん悩んだ挙句、売れ残っていた最下層の三階の部屋をさらにねぎって買った。何度も何度もオープンハウスに通ったり、銀行に通ったり、その間に無理な夜勤の勤務をしていたから、保育園の卒園の写真や、小学校の入学式の写真のころのママは痩せてたというより、やつれていた。
「ママ、無理しないでね。リンはけんえいでもたのしいよ」
と何度もいった記憶があるが、そのたびにママは悲しいような怒っているような微妙な表情をするのだった。夜勤の翌朝に、マミの家からベビーシッターさんと出てきたときみたいな顔。三年生になると、マミは学童を辞めてしまった。多分というより絶対、智史が一足先に学童を辞めてしまったからだと思う。
智史はあたしより一個上のハーフの男の子で、浅黒い肌に、丸い大きな目をしていて、アラジンみたいな顔立ちをしていた。智史と帰宅時間が同じとき、ママは一緒に帰ろうとしなかった。ほかのママとお話したり、先生に話しかけたりして何とか時間をずらしているのがバレバレだった。マミが智史を好きになったきっかけをあたしは知ってた。園庭で女子がおままごとをやっているときにマミが通りかかり、女子の一人が泥団子をマミに投げつけたのだ。真っ白のマミのブラウスに泥団子のあとがくっきりと残り、マミは地面に落ちた泥団子と自分の洋服を交互に見ていた。さすがに泣くのかな…と、慌ててマミに近づこうとしたら、マミは無表情のまま手洗い場にくるりと向きを変えたのだ。その手を智史がつかんだ。
「泥は水洗いすると余計に広がっちゃうから、乾くまで一緒にまってようよ」
と笑っていう。マミの顔がみるみる赤くなってた。そのまま、マミが午前中河原で摘んできたシロツメ草の花冠を二人で作っていた。マミの横で智史も器用に花冠を編んでいく。
「俺も母ちゃんにあげようと思って摘んでたんだ」
とシロツメ草のなかにピンクのシロツメ草やタンポポを混ぜて色とりどりの束を器用に作っていた。そして、冠に成型すると、マミの小さな頭に乗せて
「お姫様みたいでよく似合うからあげるよ」
と、また真っ白な歯を見せて笑い、ブラウスの泥を擦ると
「ほら、とれたでしょ。うちも洋服を泥だらけにすると母ちゃんに叱られるから」
とまた笑っていた。マミママは、智史のママと帰宅時間が重なると、必ず一緒に帰っていた。
智史にべったりくっつくマミの姿をにやにやしながら眺めてるマミママと相槌を打つ智史のママはいつも楽しそうで、その後ろをママと手を繋いで県営住宅に帰る日はなんだか違う世界にいるみたいな寂しさを感じた。
いつでも、一足先に卒業してしまう智史をマミはひたすら追いかけていた。小学校に入ったときは、毎朝の集団登校や学童の時間が本当に楽しいらしく、委員会やクラブ活動も智史がいるかが選考基準だった。マミの引っつき虫のような自分が嫌になってきたのはちょうど象のマンションへの引っ越しの時期だ。
引っ越しを終えて、あたしは初めて自分の部屋を手に入れた。今までは県営住宅の小さな和室でママと布団を並べて寝ていて、台所のガタガタのテーブルで勉強をしていたけれど、ベッドを買ってもらえて、学習机もそろった自分の部屋を持つと、自分が少しだけ特別な存在に思えた。ママも食洗器付きのシステムキッチンや隙間風の通らないマンションを気に入ったみたいだった。
しばらくして、引っ越し祝いをしようと、マミママから提案があった。上階のエレベーターのボタンを押すのは初めてだ。14階のボタンを押すと3階とは違ってフロアがつるつるとした石張りの廊下だった。左右と真ん中に二つの玄関ドアも、ぎっしりとドアが並んでいる低階層と趣が違う。左側のドアにいくと、アプローチがあって呼び鈴が設置されていた。呼び鈴を押すと、しばらくぶりのマミママが登場した。ノーメイクのままだったけれど、つやつやした肌や真っ黒な髪は全く年をとっていないみたいだった。
「いらっしゃい。」
中に通されると、あの時みたオープンハウスの状態そのままで再現されていた。
「床暖って便利なのね。スリッパ買い忘れちゃって。それから、靴持ってきてくれる?」
玄関には大きなシューズインクローゼットがあったので何もない。長い廊下を通ると、例の大きなLDKにたどり着いた。そこにも誰もいないので、靴を持ったままマミママに付いていくと、ルーフバルコニーにテラスが作られていて、そこで久しぶりに見たベビーシッターさんがいた。テーブルには不思議の国のアリスのようなティーセットが置かれ、奥には不機嫌そうに長い髪を風に煽られているマミがいた。
「お久しぶりです。でもお母さん、この暴風の中では…」
「そうね。料理もガビガビになりそうだわ。悪いんだけど」
と、ベビーシッターさんとともに食事をLDKに運び、あたしとママは靴下のまま、席に着いた。ベビーシッターさんは、今はお手伝いさんとして通ってきてくれているらしい。
「髪の毛が荒れたから、クリップ持ってくる」
「あー。マミ私の分も持ってきて」
「はい」
と、マミが席を立ったのであたしも付いていくことにした。マミに付いていくとやっぱり見覚えのあるドレッサーのような洗面所について、引き出しの中からクリップを二つ取り出した。
「マミの部屋は?」
「見てく?何もないけど」
と、3つあるドアの隅の部屋をあけた。薄紫色で統一された部屋には、同じ色調で統一されたシンプルな作りの筆記机と、ドレッサー、天蓋ベッドが置いてあった。
「まだいらないっていったんだけど、お母さんが年ごろになったときに洗面所を占拠されたくないって」
とドレッサーの引き出しからブラシを取り出し髪の毛をまとめた。天蓋ベッドに腰掛けると砂漠のように体が沈んだ。量販店の家具とは全然違う。自分の部屋を手に入れた特別感はいつのまにか小さくなって行方不明になった。
「何にもないね」
ぬいぐるみも、おもちゃも、テレビもゲームもなくだだっ広い部屋にポツリポツリと家具が置いてあった。考えてみれば、県営住宅のときのマミの家の中もなにもなかった。ゲームや本はいつもタブレットで見てた。赤いランドセルだけが椅子に掛かっていた。そのまま壁を見ていると額縁にいれられたドライフラワーの花冠があった。
「まだ、あれ持ってきたんだね」
額縁を指さすと、マミは少しだけ顔を赤らめ
「私の特別だから」
といった。
あーそうか…その時あたしの中でのシコリがすっと消えた。あたしの特別はマミじゃないんだってこと。
四年生になると、自分で留守番ができるからって学童を辞めた。しばらくマミとは疎遠だったのだけれど、五年生になったときに同じクラスになってまた時々家に遊びに行くようになった。ママには内緒でたまに夕飯をごちそうになってくる。代わりにマミの奇行に付き合うことにしている。
「もー寒いよ。今日は出てこないんじゃない?」
ギコギコ怪しい音を立てるブランコを揺らしながらターゲットを待ち伏せる。っていってもあたしのじゃない。あたしはどっちかっていえば、マミのボディガード的なやつだ。
「わわわっ待って今ドア開いた。出てきたよ。」
背中に赤ん坊をしょって智史が玄関から出てきた。妹の翼ちゃんはここからでもわかるぐらい泣きわめいている。
「行ってきなよ。ここで待ってる」
「ありがとう。すぐ戻る」
滑り台を降りて、県営住宅にマミが向かう。
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