around the road

ねりを

Road of days


「アンタ!また!金を!」

ビリビリに破けた襖戸一枚を経て、母ちゃんのナマリの強い怒号が走った。

俺は隣で寝ている妹の翼が起きないか冷や冷やしながら枕で自分の耳を覆う。

蛍光塗料の時計の針は夜中の3時を指している。翼とシャワーを浴びて、9時にはうとうとしていた気がする。父ちゃんは、ここのところ仕事をやめたまま働きに出ようとしない。少し前までは割のいいビルの清掃業に出ていて、4歳の翼の誕生日には上機嫌で、パチンコの景品の偽物の着せ替え人形やら、俺にもおまけだと靴を寄与越した。

妹の翼が生まれたころは、仲の悪くなっていた両親も少し落ち着いてきたと思っていたのに、翼が保育園に通う年になってからはもうこんな感じだ。母ちゃんはまた赤いリップをつけてフィリピンパブに戻っていった。アジア人の丸いおでこと、くりくりの大きな目をした母ちゃんは今年でもう38歳になるのだけれど、化粧をして薄暗いところで見ると、到底そんな年には見えなかった。フィリピンパブの経営をしている社長に時々、焼き肉をおごってもらうのだが、本当かうそか店のナンバーワンを争うほど母ちゃんは人気があるらしい。社長は来春卒業する俺を、経営している車の整備工場で働かせてくれる口もきいてくれた。

台所からもれた明かりに照らされた妹の翼の顔は人形のようにかわいい。濃いまつ毛がびっしりと生えて小さな鼻の下に赤い唇が少し空いて眠っている。この環境で育ったから、けんかの声が子守歌にでも聞こえるのだろうか?まったく起きる気配がない。

母親そっくりなので、わからないが、こいつのDNAが本当に父ちゃんに繋がっているのか疑問に思ってしまう自分も相当ひねくれている。

気が付くと朝だった。

隣では、泥のように眠っている母ちゃんがいた。

素早くスマホのアラームを止めて、布団を勢いで出る。県営住宅は壁に穴でも空いてるのかと思うぐらいに寒いのだ。台所を通ると、そこにも父ちゃんの姿はなかった。昨日、こっぴどく叱られて家から追い出されたのだと思う。洗面所の給湯器はだいぶ前から壊れているので、台所で顔を洗うと、歯を磨き、髪の毛を整えた。夕べ炊いたご飯をラップしといたものをチンすると、納豆を掛けてインスタントの味噌汁もつくってストーブを点火し、部屋を十分に暖めてから翼を起こした。

トイレに行かせると、眠気覚ましにヤクルトを与え、ご飯を食べさせる。

お湯で濡らしたタオルで顔を拭くと、寝ぐせもついでに整え、園服を着させると、玄関のドアがコツコツ鳴った。チャイムもいつのころからか、壊れているのだ。

「おはよう」

やってきたのはマミだった。マミとはひょんなことで先週から付き合っている幼馴染だ。

小さい頃は、マミもこの県営住宅に住んでいたのだが、マミの母親はキャバ嬢で本当に人気ナンバーワンだったので程なく近所にできた新築マンションに引っ越していった。ちなみに同じ幼馴染に凛という女子もいるのだが、この母親もシングルで、看護師になって近所の新築マンションに引っ越していった。

「まぁみ。おはよー。」

翼は、パタパタと玄関に走って行ってしまう。

「あーまだ、着替え途中だったのに。」

と、手に靴下をもって追いかける。

「私がやってあげるわよ」

と翼を膝に乗せると靴下を履かせ、細い髪の毛を器用に結ってイチゴの飾りのついたゴムで留める。翼はごきげんで遠くのTVの教育番組から流れる歌を歌いながら、マミの膝の上で足を揺らしている。

付き合い始めた翌日から、こうしてマミは毎朝家まで迎えにやってきては、翼の朝の準備を手伝ってくれているのだ。

あの日の放課後、授業が早く終わり、教室で仲の良いクラスメイトと居残っていた。高校受験も近かったが、俺は元々進学する予定もなかったから同じようにほとんど勉強しなくても入学できる高校に行くやつらと、こうして集まるのが日常だった。

中学校側も配慮しているのか、このクラスの定期テストの結果は他のクラスに比べて20点以上低いなんてざらだった。いわゆる落ちこぼれのやつらが寄せ集まったクラスだが、中学3年の冬という時期にピリピリとした空気のない教室にいられるのは、家に帰ると気が休めない俺みたいなやつには学校が一つの居場所になっていて、ありがたかった。

そのうちの一人の女子の長い髪を借りて、俺は新しい編み込みの仕方を習っていた。鏡越しに指示を受けながら髪を掬っていく。

「そーそー。外側の毛をちょっとづつ中に寄せてくんだよ」

「うまいうまい。っていうか、二人相性もいいんじゃない?」

グループは男女合わせて15人ほどいて、中3というお年頃なのもあって、カップルになったり、離れたりということも日常茶飯事だった。俺は、カップルとかにはなりたくないっていう主義を貫いていて、まだ一度も誰とも付き合ったことはなかった。母親ゆずりの濃い目の顔立ちで寄ってくる女子がいないこともなかったが、学校以外の場所で遊ぶのも束縛されることも今の状態では難しい。何より自分を維持するだけで手一杯なのだ。

「ははは。手先は器用だからね。」

と、話題の矛先をズラして誤魔化す。下手に受けると、空気が悪くなるからだ。

「おー実際器用だよね。」

出来上がったフィッシュボーンは左右差がなく、むしろひいき目に見ると自分でやった方が編み目の大きさが均一でそろっている。

「我ながら、上手くできた!」

と、ボコボコした触感を確かめていると…

「智史!」

教室の後ろのドアからマミが大きな声で俺を呼ぶと

「ちょっと!」

ズカズカと上級生の教室に入ってきたマミに手を取られ、そのまま連行される。反対の手で、通学リュックを取って肩にかけると、ヒラヒラと仲間に手を振った。

「んじゃ。また明日」

無言で昇降口まで連れてこられると、さすがに学年もクラスも違うので下駄箱で一旦手を離されて俺は父ちゃんの戦利品のスポーツシューズを履いて、先に歩き出すマミの背中を追った。

「マミ、どうかした?」

学校の校門を出たところで、マミは一つに結わえていたゴムをバサッととった。目の前にカラスが舞い降りたみたいに一瞬視界が真っ黒に染まった。すぐに振り返ると、薄い唇を噛み締めてこちらを睨んでくる。アーモンド型の大きな目には鋭い光が宿っていた。すっと通った鼻筋。中学に入ってからいや、もっと前からマミの顔をこうして真正面から見てなかった。素直にキレイだと、思った。

「髪の毛!」

「…?」

「触るんなら私のにして!」

「…?あー。さっきの…あれは」

「わかってるわよ!翼ちゃんの髪の毛結ぶの練習してるんでしょ!」

「……。わかりました。」

あまりの迫力に頷くことしかできない。

「それから、智史、私と付き合うから!今日から!今すぐ!」

「ド直球だな…でも」

「でももだってもないの。智史は私としか付き合っちゃダメなの。」

やたらと、目が光って見えると思ったら、マミの瞳から涙が溢れた。それを拭おうともせず、隠そうともせず、まっすぐ据える視線から逸らせない。

「俺、マミを今は幸せにしてやる自信がないんだ…」

嘘なんて到底つけなかった。間髪入れずにマミは言い返す。

「知ってるわよ!わかってんの。だから、私が智史のことを幸せにしてやるから。私と付き合いなさいっていってんの!」

言葉とともに感情も振り切れたのかボタボタと涙が溢れる。俺にはハンカチなんて高尚な持ち物がなかったからマフラー代わりに首にぐるぐる巻いていた母ちゃんのスカーフで溢れる涙を拭った。

「何これ。くさい…」

そりゃそうだ。母ちゃんから勝手に拝借してきたスカーフには異国情緒あふれる独特の香水の香りがしみ込んでいた。文句を垂れながら俺のヨレヨレの学生服の胸元にマミがもたれてくる。

「降参です。俺もマミが好きだ」

こうして、俺たちは幼馴染から彼氏彼女の関係に変わった。


翼と手を繋いで保育園まで見送ると、中学校までの道のりはマミの手が繋がれている。マミの母親は若い時にアイドルグループのメンバーだったこともあり、母親似のマミは中学では美人と評判だった。男子も何人も告白したが、全て断られマミはプライドの高い女子とやっかみを受けることが多かった。しかし、俺と付き合い始めたあの日から、マミはまるで俺たちの仲に割り込むなといわんばかりに、俺にアピールをする。例えば、今も手を繋ぎながら腕を絡めてくる。昼休みも特に用がなくても会いに来たり、放課後は必ず迎えに来るし、体育の授業があれば、窓からアイドルのようなスマイルをこちらに向けながら手を振ったりするのだ。この変貌ぶりは周囲の目を引いたが、マミの冷徹さもあってからかわれる雰囲気がないのは有難いことだった。

「って聞いてる?」

「なんだっけ?」

「今晩はシチューがいいなって、翼ちゃんは食べられる?」

「あ―。翼はマミの作ってくれたものを心酔してるからな…何でも食うよ」

マミと付き合い始めたその日に、報告したのだが、俺たち以上に母ちゃんや翼が付き合いを喜んだ。母ちゃんはぜったいに大事にさせるからとマミの両手を握って語り出し、翼は付き合うの概念はわからないようだったが、これまでたまにしか来なかったマミがいつでも来るようになると分かって小躍り(実際に)していた。

「じゃあ。またあとでね。」

始業のチャイムが鳴る寸前まで廊下で粘っていたマミが、学年が違うので教室が離れているのからと何とか説得してクラスに戻すと、学年主任の先生からの呼び出しがあった。貧乏過ぎて非行に走っている余裕さえない俺に何の用かと動揺しながら個別相談室に行く。

話はやはりというか、当然マミのことだった。器量だけではなく、昔からマミは頭がいい。勉強を自分のためと思ってするような子どもだった。ボロボロの県営住宅から抜け出せない。ギャンブル依存症の父親。夜の仕事で稼いだお金をむしり取られながらも、フィリピン人の母親は頼る術がなくて離婚できずに壊れていく。勉強なんかしても意味がない…そんな風に思っていた。翼が生まれたころは、父ちゃんも少し改心してくれたかと思ったのに、すぐに元に戻り、あきらめは強くなった。母ちゃんは翼を食わせるために、コンビニのバイトを掛け持ちして働き出して、俺はおぼつかない家事を始めた。家に帰ると時間のない母ちゃんの代わりに翼をあやして世話をする。翼は夜中に何度も不安のためか泣き出した。慣れない手つきでオムツを交換して、粉ミルクを上げる。寝不足で学校の授業もまともに受けられず、気づくと授業でいっている内容はほとんど理解できなくなっていた。そんな時に察したようにマミはやってきて、お手伝いさんと作った料理を差し入れ、家庭教師に教えてもらっているという勉強で、一学年先の俺に英語や数学を教えてくれた。勉強なんてしたところで、進学できるお金なんてない。そんな風にふてくされずに中学に通えた。

「保育士になりたいんだ」

といって翼の面倒を慣れない手つきで始めると、あっという間に普段やっている俺より要領よく子守りをこなしてしまう。膝の上に赤ちゃんだった翼を乗せながら、文法やら数式を教えてくれた。どうせ、うちに帰ってもお母さんはいないし、今日は家庭教師の人も来ない日だからというマミの笑顔に何度も救われた。悲惨な毎日をどうにか逃げ出さずに消化できたのはマミがいたからだ。マミがこうして自分に親切にしてくれている根本に好意があることをわかっていながら、知らないふりをしてきたのは応えてしまうことでいつか終わりが来てしまうのではないかという恐怖があったからだ。目の前にあるケーキを食べてしまったらなくなるのと同じ感覚。失いたくないと切実に願いながらも、自分はケーキの乗ったテーブルの前に座る資格なんてないってことを嫌というほどに思い知らされていた。

俺はマミの邪魔になるような存在にはなりたくない。そう思っているのに今の時点ではマミに助けられ、なんとかギリギリの綱を渡っている。

学年主任の遠回しのそれでもマミの足かせになるなという忠告を受けて教室に戻ると、

「何かやったのか」

というクラスメイトの好奇の目が向けられる。なんでもないと装いながら、席に着く。内心は、ただただ自分とマミの間にある圧倒的な壁を感じて卑屈になる自分がいた。ふと、窓の外を眺めると、マミはちょうど体育の授業で、ハードルを練習していた。女子のほとんどがハードルの前で立ち止まるようにしてギクシャクと飛び越える中、マミは走るスピードを保ったまま軽々とハードルを越えてゴールしていく。俺の視線に気づいたのか、きれいな笑顔を作って手を振ってみせた。俺も教科書に隠れて小さく手を振って応える。あぁ。そうだ。卑屈になることをマミは望んでいない。

帰り道にスーパーに寄って、保育園に翼を迎えに行き、また翼を挟んで手を繋いで歩く。

すると、車体の下がった黒のハイエースがゆっくりと近づいてきて窓を開けた。

「よう。坊主。」

窓を開けると耳慣れない重低音の音楽が流れる。

「社長。こんにちは。」

社長の顔は一応俺の方に向けられていたが、視線は横にいるマミに向けられていることがあからさまだった。

「だれ?」

マミが耳打ちをしてきた。

「就職先を世話してくれた人だよ。母ちゃんの勤め先の社長。悪いんだけど、ちょっと翼と先に行っててくれる?」

「わかった」

小声で会話をすると、マミはすばやく翼を抱きかかえて足早に去った。

声が届かないほどの距離に二人が去っていったのを見て社長が薄笑いをしながら車の窓に手をかけマミの後ろ姿を眺めていた。

「今日はどうしたんですか?こんな方まで」

「いや、たまたま通りかかっただけだ。それより、今の彼女か?」

「幼馴染です。昔団地に住んでいたんで」

何だか嫌な予感がした。俺との関係が深いことを知られるのがマズイ気がしてとっさに誤魔化した。

「そうか。またな」

社長の車が去ってから、走って団地に向かうと、団地の横の公園にマミと翼の姿があった。

一人で滑り台を上り下りして遊んでいる翼をマミが見ていた。

「あの人と付き合うのやめた方がいいよ」

ベンチから目を翼に固定したままマミが言った。

「でも、中卒の俺を雇ってくれるところなんて…」

「あるよ。探してみたの?中卒って、なんで進学あきらめちゃうの?」

「仕方がないよ。俺んち貧乏だし…」

「仕方なくないよ。智史の人生でしょ。家柄とか関係なくない?」

「俺の人生なんだから、マミには関係ないだろ…」

「関係なくない!智史の人生が私の人生と関係ないわけなんかないじゃん」

今日は帰ると、小さくつぶやくとマミはそのまま去っていった。社長の紹介してくれた車の整備工場はいわゆる改造車を作っている。確かに、技術をつけるというのには偏った場所かもしれない。でも、学のない自分が生きてくために、コンビニバイトや日雇い労働で働くっていうのも先がない。

「にいに。かえろー」

俺の手を取る翼の小さな手は、団地の古びた遊具の錆びた鉄の匂いがした。



「ただいま」

家に帰ると、すでに母ちゃんが帰っていた。母ちゃんは、コンビニでダブルワークをしている。朝から夕方までのバイトをして帰ってからパブに働きに行く。

「今日は早くアガッテっていわれたの」

私服のまま化粧をしている母ちゃんから、香水の匂いがした。変な妄想が頭をかすめたが、頭を振って気が付かなかったことにする。

「今から、シチュー作るけど」

翼のコートを脱がせて、手を洗わせた。マミがバターから作ると言ってたのでシチューの素がないのが不安だけれど、電話で作り方を聞くのも躊躇した。もちろん、南国生まれの母ちゃんがシチューの作り方なんて知ってるわけがないとスマホで作り方を検索する。

「ゴメン。ちょっと横になってから出勤するから、ツバサ頼める?」

「わかった」

俺の言葉尻を聞くか聞かないかのタイミングで襖を閉じて母ちゃんは布団が敷きっぱなしになってる和室に籠った。簡単にレシピを調べると、スマホを翼に渡してしばらくの間スマホに子守りを頼んだ。あまりよくないのはわかっているが、動画サイトやゲームで一人で遊んでもらえるのでつい頼ってしまう。クリームシチューは茶色く濁り、ところどころ小麦粉の塊の浮いたシャビシャビの出来上がりだった。

「……」

翼も黙ってしまう出来だったので、ご飯にはかけずにふりかけを掛けて夕食をすませると、母さんはいつもの派手なメイクで出勤していった。片づけて風呂に入ると、うとうとし始めた翼を布団に入れて寝かせつける。

自分も寝てしまいそうになるのを何とか意識を取り戻すと、いつの間にか帰っていたのか父ちゃんが台所の食器棚の引き出しを漁っている。

「父ちゃん、家計費のお財布もうそこに入れてないよ」

「……」

気まずそうに、引き出しを閉める。父ちゃんは、母ちゃんが父ちゃんを見るだけで激怒するので、こうして夜の仕事に行っている間に家に帰ってきては仮眠したり、シャワーを浴びたりしている。

「シチューあるよ。まずいけど、食べる?」

「あぁ。ありがとう」

「用意するよ。シャワー浴びて来いよ。匂うから」

「あぁ。すまんな」

緩慢な動作で風呂に向かった父ちゃんを見送り、ひっくり返してごちゃごちゃになった引き出しをしめると、押し入れから父ちゃんの服を見繕って洗面所に置いておく。ついでに洗濯機の中のものを出して、ベランダの洗濯物を取り囲み交換する。父ちゃんは、もうずいぶん前から家で暴れなくなった。昔は金がないと、暴れてあちこちめちゃくちゃにされてた記憶があるのに、俺の背がぐんと伸びて父ちゃんを追い抜かし、やられっぱなしだった母ちゃんが口で負かすほどになるとだんだん家に帰らなくなっていった。こんなん、家族っていえるのだろうか?黙々とシチューを食べる父ちゃんの髪の毛は、この間見た時よりも後退していた。洗濯物を畳みながら俺はぼんやりと考えた。こんな風にみじめな生き方をさらしながらそれでもなんでギャンブルを続けるんだろう。働けばいいのに。自分に向き合えばいいのに。言いたいことはいえない。

「智史、来年は高校か?」

「いや、とりあえず就職っていうか、働こうって思って。まだ翼も保育園だし、」

「そうか…」

高校の費用出してやるよ…といわれなかっただけましか。どの口が…と殴り掛かる事態にならずにすんだ。感情が荒れてくすぶる。一緒にいるだけで、ジワジワと末端が冷える感覚を素知らぬ顔をして明日も学校だからと障子の向こうに逃げた。結局母ちゃんと一緒なんだ。月明りに人形のような翼の顔が見える。ここにある。俺の本来の形が。バラバラになってる家族の姿を見て見ないふりして、翼との関係だけが、俺とこの家を確かにつないでいた。

翌朝は寝過ごしてしまった。玄関ドアをカンカン叩く音で目覚めると、アラームのスムーズが何度も止められていた。

「悪い、マミ。遅刻するかもしれないから、先学校いってて。」

急いで、ストーブを付けると、翼を起こした。寒さにぐずってしまう。隣を見ると、母ちゃんは帰ってこなかったみたいだ。マミは、冷蔵庫の中を漁ると、台所に立って朝食を作り出した。トイレに連れて行くと、洋服を準備して着せた。

「一人でやるよりは早いから間に合うよ」

と、目玉焼きとウィンナーの乗ったご飯を食卓に並べると、翼を抱き寄せ食べさせる。

「本当ごめん」

「いいから、自分も準備して」

食べさせながら、翼の髪を一つ括りにして通園バッグを用意する。

荷物をマミに持ってもらい、自分は翼を抱きかかえダッシュで保育園まで届けると、折り返してマミの手を取ってダッシュで中学まで走った。俺の気持ちなどどこ吹く風か、翼も、マミも向かい風にキャッキャいいながら、全速力を楽しんでいた。どうにか始業のチャイムに間に合って自分の席についても、動悸はしたままだった。空っぽのままの母親の布団。このまま、ずっと帰ってこなかったら?昨日みた社長の車。母ちゃんの違和感。気が付くと、昼休みになっていた。

「智史!行くよ!」

教室に急に現れたマミは、俺の手を掴み席から引っ張り起こした。

「??」

わけがわからないまま、ずるずると連れていかれた先は職員室だった。

「ここで、待ってて」

と、一人職員室に入っていくとなぜか昨日の学年主任の先生を連れてきた。そのまま、個別指導室に向かう二人のあとをついていく。

マミは指導室の扉を閉めると同時に、持っていた資料を出した。

「中卒でも雇ってもらえるところを真剣に探したいんです」

中身は、近くの整備工場のリストだった。整備士に関する資料もあった。

「外山は、確か知り合いの整備工場に就職するんじゃなかったのか…」

マミの迫力に押されつつ、学年主任は俺に尋ねてきた。

「先生、そこはだめです。このHPを見ればわかるとおもいますけど。とにかく今からでも技術のつくような会社を探さなきゃ、そのためには子どもよりも学校の先生が窓口になってもらえば中学しか卒業できてなくても、お話を聞いてくれるところはあると思うんです」

マミが指さしたHPのコピーを見ながら、学年主任はあごを擦った。

「確かに、一条のいっていることにも一理あるけど、一番大事なのは外山の気持ちじゃないのか?」

鋭い眼差しで見つめられて、俺はしばらく黙り込んだ。昨日会った出来事。母ちゃん。父ちゃん。自分の立ち位置。翼。マミ。俺の大事にしたいもの。

「先生、俺は…僕は自分の人生を諦めたくないです。確かにうちは貧乏で、両親も頼りなくって…高校いく金もないけど。俺は働いて、自分の人生を生きたい…金を貯めて、高校にも行きたいんです」

最後に絞り出した声は情けなく、震えていた。自分のしたいこと、こんな風に口に出してしまうのはガキのすることだって思ってた。机の上で握り込んだ拳をマミの白い手が包んだ。横を見ると、マミの目がまたキラキラ光って、そのうち大きな涙が落ちた。

「わかった。保証はできないけど、先生に出来ることで一生懸命外山の応援するよ」

学年主任にマミは俺より長く頭を下げていた。教室に戻ると、マミにお礼を言い忘れたと、スマホを取り出し、母ちゃんからのラインに気付く。

―昨日は飲みすぎちゃって始発乗り過ごしちゃった

―寒くなったから家計費多めに置いとくね

―灯油買っといて

母ちゃんが一日帰らなかっただけで絶望する俺はまだまだガキだ。でも、ガキだから夢を見る資格がある。

放課後、帰りの挨拶とともに超特急でマミの教室に行く。教室の扉から見えたマミの横顔は整っていてまっすぐ教壇を見つめる目が凛としてきれいだ。俺が教室をのぞいているのにクラスメイトに指摘され気付くと、マミはにっこりとアイドルスマイルを作って俺に手を振った。そのかわいさに教室がどよめく。

「今日は本当にありがとう」

マミの手をとって俺は鼻を掻きながらいう。

「智史の人生はわたしのと一緒っていったでしょ。それに…」

マミは手を放し俺の前に来るとまたアイドルスマイルを作った。

「わたしもうれしかった。智史があきらめないでいてくれて」

心臓がドクドク波打った。



結局、マミの探してくれた大きなチェーン店では、中学卒業の年齢ではと断られてしまったが、地元の小さな整備工場に電話を掛けまくってくれた一件から面接OKの返事がもらえた。当日のためになけなしのお小遣いで伸びっぱなしにしていた髪を千円カットした。着丈が合わないまま二年間着ていた学生服も、当日だけ友達に借りて整え面接にいくと、70近いおじさんが一人でやっている小さな整備工場だった。強面と思って身構えていたけれど、奥から同じような年齢のおばあさんがお茶を汲んでくれて面談というよりは、工場の歴史のような演説を長々聞かされ、最後には

「跡継ぎがいないような寂れた工場だけど、君が高校を卒業するぐらいまでの間だったら隠居せずに続けようと思ってるからよかったら来なさい」

といわれて、引率してくれた学年主任とともに最敬礼をして帰った。

卒業までの数か月の土日は、来春から勤める予定のその工場にインターンと称して見学に度々いった。

「園児の妹がいるんです」

というと、

「うちの娘は遠くに嫁いでしまったから、よかったら一緒に」

という言葉で日曜はほどんど翼を同伴していくと、奥さんが喜んでお昼を準備してくれる。車内掃除ぐらいしかさせてもらえなかったが

「筋がいいよ。この調子で来春も頼むよ」

と親父さんは褒めてばかりいた。一度マミも職場見学だと付いてきたが、その時は

「女優さんかね。よかったらサインをもらえないか」

と言って、マミは色紙を断るのに必死だった。



俺の人生はまだまだこれからだ。でも、すでに失くしてはならない宝物を俺はもっている。きっと、昨日の、今日の、明日の俺の積み重ねが道を作っていく。





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