第13章|あなたはここにいる <11>『注意を怠るな』(大山彦和の視点)
<11>
―――今日も良く働いた。
皆が帰宅したあとの『エイチアイ石鹸』オフィスで、総務部のデスクに戻り、ひとり息をついた。
こういう時って、つい甘いものが食べたくなる。
ストックしておいた好物のお菓子を取り出そうと机の引き出しに手をかけた時、保健師の足立さんに渡されたパンフレットが目に入った。
「……………そういえば、宣言したっけ。1日100kcal減チャレンジ………」
ふと思い立ち、お菓子の代わりにイヤフォンを取り出して、目の前のパソコンにつないだ。
整理整頓ができていない私のデスクトップ画面は、最小サイズのアイコンがごちゃごちゃ詰め込まれて今にもあふれ出しそうだ。
その中から『マイフォルダ』を探し当て、目当てのファイルを開いた。
退職前に広瀬くんが送ってくれた、音声メッセージだ。
目を閉じて待つ。
耳の奥に懐かしい声が届く。
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………大山さん、聞こえますか。広瀬です。
『エイチアイ石鹸株式会社』に入社し、
総務部に配属されてから、色々お世話になりました。
このたび、退職することになりました。
本当はお手紙を書きたかったんですが、
もう手が動かないので、ボイスメッセージで送らせてもらいます。
大山さんは僕にとって、尊敬する先輩でした。
しかし一つ、僕がいなくなったあと、心配なことがあります。
それは大山さんの健康について、です。
大山さんは、いつも会社のことを思い、縁の下の力持ちをやってくれます。
でも、大山さんがみんなのために一生懸命働いて、
自分のケアは後回しにしてしまうこと、ストレスが溜まるとつい甘いものを食べ過ぎてしまうこと、僕は知っています。
だから大山さんのために、僕は会社の玄関に、別れの挨拶として、花を置いていきます。
花の名前は『ジニア』。花言葉は『注意を怠るな』です。
『ジニア』は、春から秋にかけて、大した手入れをしなくても、綺麗な花を咲かせ続けます。
花が咲き乱れている期間には、見慣れてしまい、
最低限の手入れも忘れてしまいがちな人が多かったようです。
そのことから、『注意を怠るな』という花言葉がついたそうなんです。面白いですよね。
人間って、普段から持っているものの輝きには、つい、慣れてしまうみたいです。
僕もこの病気になるまでは、健康のありがたみに、ぜんぜん気付いていませんでした。
意識しなくても毎秒、呼吸ができること。
ご飯を美味しく食べられること。
手足が自由に動き、
自分の力で、身支度をして、
社会の片隅で汗を流し、働いて………、
こんな自分の小さな仕事も、きっと少しは誰かの役に立っているのだろう、って、思えること。
健康でなくなると、そんな“当たり前”が、毎日少しずつ失われていく。
夜眠るとき、考えます。今日できたことが、明日の朝にはできなくなっているかもしれない。
そして、夢に見るのです。病気ではなかったころの自分のこと。
けど、原因も治療方法も見つかっていない僕の病気と違って、
日々の暮らしで少し気をつけるだけで、防げる病気もあります。
どうか僕がいなくなったあと、玄関を通り、僕が置いた花を見たら、
『注意を怠るな』、思い出してください。
あなたの後輩であり、“不自由の先輩”になった広瀬からの、生意気なメッセージです。
そして、ジニアのもうひとつの花言葉は『不在の友を想う』です。
これから僕が、どんどん重くなる障害を持って生きていくことは、決して楽なことではないでしょう。
先が見えない、絶望的な人生だ、と感じる日もあります。
でも、遠く離れても、大山さんの心の中に僕がいると思えたら。
暗い海を進む船出の、羅針盤になります。
希望の光になります。
だから、忙しくて花のことや、僕のことをすっかり忘れてしまった時でも、
年に一度、花が枯れる秋ごろには、僕のこと、思い出してください。
もしも色々あって、僕がみなさんより先にあの世に逝ってしまったら。
そのときはきっと、白い鳥になりかわって、自由に空を飛んで、
会社の玄関に咲くジニアの花を眺めに、また東京に遊びにきます。
どうかずっとお元気で。
お世話になりました。
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…………目を開けると、PC画面が、音声データの再生終了を示していた。
思わず目頭に熱いものがこみ上げて、指で押さえた。
「……安心しろ。忘れてないぞ」
彼と過ごした日を思い出す。
初夏の日差し。ビールケースに腰掛けた広瀬くんの、細い肩。
なんということもない、会社での昼下がり。上司と部下。
不完全で、漠然として、目にも見えない。
でも確かにそこにあったもの。今もまだきっとあるもの。
明日への希望と……信頼。
―――――あたりまえの日常に、あたりまえに存在しているもの。
そういうものが、本当は一番、底力のあるものだと思うんです…………
「………うん。やっぱりお菓子は、やめとこう。今日は一駅、歩いて帰るぞ」
イヤフォンをしまい、PCをシャットダウンして、帰り支度を始めた。
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