第8章|右肩上がりの市場価値 <5>リーマソ・ショックって
<5>
緒方先生の話によると、栗栖貞乃さんが社長を務める投資会社の若手男性社員が、最近メンタル不調のようだという。
精神科にかかるように促し、受診もさせたけれど、なかなか元気にならないということで、『株式会社E・M・A』に相談が持ち込まれたそうだ。
診断名は『適応障害』。
「鈴木先生……今週のスケジュール、月曜から木曜はびっちり埋まっていますから、『ジュリー・マリー・キャピタル』にお伺いするとしたら、金曜日ですかね」PC画面のスケジュール表を見ながら、私が声をかける。
鈴木先生と同行することになって、仕事のカレンダーを共有するようになった。
鈴木先生は月曜から木曜、第1週から第4週はほぼ毎日、外回りで、出ずっぱりだ。
ただ、スケジュールの金曜日と第5週は空いていて、そこは『予備日』の扱いだ。
顧客先から追加対応の要請があったり、定例訪問日が祝日だったりした場合、振替のための日程が必要なので空けてある。
「そうですね。今回の依頼は『スポット対応』ということですので、とりあえず今週金曜日にお伺いしてみましょうか」
『株式会社E・M・A』との契約には“定期契約”と“スポット利用”がある。
“定期契約”は、継続して毎月一回、産業医が訪問し対応するサービス。
“スポット利用”は、主に産業医選任義務のない会社で、臨時的に、産業保健職に相談を行いたいときなどに利用するものだ。
「はいっ。緒方先生から頂いた連絡先に、訪問日程のご相談メール、入れておきます」
「お願いします。念のため、足立さんからメールを送信する前に、僕にも文面を見せてください」
「はいっ!」
産業医がスムーズに働けるよう、事務的なサポートをするのも、保健師の仕事。
社会人として恥ずかしくないメールを作成するぞ! と、気合を入れた。
*********************
「……鈴木先生、ところで、この“リーマソ・ブラザーズ”って、いったい何ですか?」
私は、先ほどのエリート御用達雑誌をもう一度眺め、おやつの“とらやのミニ羊羹”をパクつきながら訊いた。
『株式会社E・M・A』の喫茶コーナーには、デパ地下で売られているような和洋の高級菓子が置いてあり、従業員が自由に食べていいことになっている。
「『リーマソ・ブラザーズ』というのは、会社の名前です。2008年に倒産してしまった、アメリカの大手投資銀行のことです」
鈴木先生が、コーヒーを片手に天井を眺めながら言った。
「“リーマソ・ショック”っていう言葉も、どこかで聞いたように思うのですが……それとは関係ありますか? 」
「ええ。関係あります。『リーマソ・ブラザーズ社』は、一国のGDPを超えるほどの巨大な負債総額を抱えて倒産した会社なのです。……“人類史上、最大の経営
「うーん。説明をお聞きしても、私にはやっぱり、何のことか、よくわからないんですが……」
もう一度、雑誌の記事を眺める。
「――――栗栖氏は言う。“女性は、男性よりも慎重に行動する傾向があります。ですから、もしもリーマソ・ブラザーズが『リーマソ・シスターズ』であれば、経営破綻の原因となったサブプライムローン問題も避けられたであろうと、私は考えています”――――
……って、記事に書いてありますねぇ……もぐもぐ」
口に入れた羊羹の濃い甘さが、疲れた身体に染み渡ってくる。
ああ、伝統に裏打ちされた上品な甘味っ。緑茶が欲しい。
「『リーマソ・ブラザーズ』社は、その名の通り“リーマソ兄弟”という男性2人が起業して作った会社です。かといって、ずっと社員が全員男性だったわけではないのですが、男性が圧倒的多数を占める、画一的な組織構造が、リスク判断の誤り、行き過ぎた拝金主義などを引き起こした一因だったのではないか、という見方もあるようです。
しかし、まぁ……。医者の僕には金融や投資の世界はよくわかりませんので、何とも言えませんね」
「ふーむ。栗栖さんが経営している『ジュリー・マリー・キャピタル』って、どんな会社なんでしょうか……。えーと」
私は、栗栖さんのインタビュー記事を読み上げた。
――――“我々は、少数精鋭のプロフェッショナル・チームによるファクト・ベースト・デューデリジェンスを強みとするほか、CSR、ESG、SDGs含め、独自視点からビジネスのソーシャル・シグニフィカンス(社会的意義)を評価し、投資先を厳選します。コンプライアンスとガバナンスを重視したハンズオンに定評を頂いており、プライベートエクイティ投資、プレIPO投資で実績を上げてきました。当社の昨年の運用成績は+12.7%を達成しており、次号ファンドでは投資規模を100億円水準に拡大させる計画、スモールキャップファンドからのミッドキャップへのマイグレーションを……”――――
「……はて……? 書いてある文字は、一応私にも読めるんですが、内容と意味はさっぱり、わからないです」
横文字だらけの文章を見て、頭の中がハテナ? でいっぱいだ。
(とうし、きぼ。ひゃく、おく……えん。)
同じ東京に住んで、働いているはずなのに、栗栖さんの写真や言葉は、私から見ると、どこかおとぎ話のようで現実味がない。
繁華街の1Kに住んでいて、夜に部屋の窓を開けると、周囲の飲み屋から流れ込んでくる煙の臭いでむせかえってしまう私。
室外置きの洗濯機が、雨の日にめっぽう使いにくいと、最近気付いた私。
貯金が底をつきて、次の給料日が待ち遠しくて仕方ない私。
私と栗栖さんは、まったく別世界の生き物みたいだな。
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