第2章|株式会社E・M・A <2>緒方先生とのイタリアンレストラン
<2>
インターネットで事前に調べてみたところによると、『株式会社
会社の公式ホームページ以外を見ると、緒方先生は、かつては外科医として働いていたみたいだ。
題名が英語の医学論文がいくつも検索に出てきたし、イギリスに留学していたこともあるようだった。
緒方先生から指定されたのは、赤坂のイタリアンレストランだった。白を基調にした店内に、太陽の光が差し込んでいる。テーブルには小さな花が飾られて、活気があり明るい雰囲気の店。
「この前はありがとう。当然だけど、今日は私のおごりね。あなた、若いのに偉いわよ。最近は、訴訟が怖いとか言って、医療職でも病院以外で患者を見つけた時、素通りする人が多いんだもの」
「いえ、あれは、偶然で……」
「あなた、看護師だ、って言ってたわよね。どこで働いているの? 私はこのあたりで、働く人の健康をサポートする、サービス関連の会社をやっているんだけど」
「えっ……あ、あの……」
その話題、来たか。華々しいキャリアと社会的立場を持つ、緒方先生のまっすぐな目線と笑顔の前で、私はしばらく、言葉に詰まった。
この人はきっと、挫折とは無縁の人生だったに違いない……。職業は、お医者さんだ。とうぜん、頭は抜群にいいはず。しかも、再会してじっくりと見ると、お顔も綺麗だった。年齢相応の皺はあるけれど、黒目が大きくてウルッとしている。若い頃は、アイドルみたいな甘い顔立ちだったろうなぁ、と思う。ミディアムロングの巻き髪には、白髪も、いかにも疲れたような老い特有のごわつきも見えない。服も、バッグも、詳しいことは分からないけど、たぶん質の良い高級品。
「ん?足立さん、どうしたの?」
「えっと……実は、私……今、無職なんです。今年の春に、北海道の田舎から出てきて、総合病院に就職しましたが、病棟でミスばかりして役立たずだから、ついこの間、クビになりました」
“クビ”という言葉が、魚の小骨みたいに喉に刺さる。すかさず水を飲んだ。
「あら、そう……」
「住んでいるところも病院の寮だから、1か月以内に退去しなきゃならなくて……私、もう26歳なのに、仕事もダメだし、彼氏もいないですし、将来の見通し、何もないんですよ」
自分の言葉が出来るだけ卑屈にならないように、冷静に伝えようとしたつもりなのに、言葉の途中から、なんとも言えない感情が沸き上がり、声が少し震えるのを抑えることができなかった。
「……26歳……」
緒方先生は、負け組の安っぽい愚痴を聞かせるのに相応しい人間ではないのに。話してしまった。
「看護師の資格はあるので、アルバイトしながら、次の仕事を探そうと思っているんです。でも、自信がなくて…働くのが楽しいとも思えないですし……」
大人だから、会うのが2回目という、よく知らない他人の前でうっかり泣いてはいけないと知っている。仲良くもないのに深刻な身の上話をするのは、空気読めてなくて歓迎されない、ってわかってる。だけれども、感情にいちど脳が支配されると、それを理性でコントロールするのは難しかった。
自分がしてきたミス、他人からの視線の痛さ、自尊心を失って迎える朝の重さ、色んなものが思い出される。誰かにぶつけてしまいたくなる。叱られてもいいから、バカにされてもいいから、打ち明けてしまいたくなる。こんな無様な自分を、緒方先生はどんな顔をして見ているのだろうと思ったら尚更に恥ずかしくて、私は、そのまま俯いていた。
涙たちが重力に負けて、レストランのパリッと糊を張られた白いナプキンの上に、ボタボタと零れ落ちた。頼んだランチセットがテーブルに届けられたけど、顔を上げることができず、かといって気の利いた言葉で誤魔化すこともできずに、ただ喉元にこみ上げた情けなさに耐えていることしかできなかった。しばらく、気まずい沈黙が続いた。
レストランに差し込む温かい日差しを受けて、消え入りそうな気持ちになったとき。
緒方先生は、静かな声で問いかけた。
「……あなたって、保健師の資格も持ってる?」
「あ、は、はい……持っています。看護師免許を取るときに、保健師免許も併せて取りました。でも、資格を持っているだけで…ッ、い、一度もそういう仕事をしたことはないです」
鼻水でぼんやりした声で返事はできたけど、目は合わせられない。
でも、その後、緒方先生が発した言葉は、意外なものだった。
「……じゃあ、あなた、もしよかったら……、うちの会社で働いてみない?」
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