綺麗なお人形の夢

一葉 小沙雨

綺麗なお人形の夢

 その子の最初の持ち主は、とても綺麗な人間だった。

 少なくとも、その子の目にはそう映っていた。

 緩くうねったたっぷりの髪も、上質の宝石を思わせる奥行きのある繊細な瞳も、木目の細かいビスクのような肌も、均衡のとれたなめらかな形状の手も、その先に付いた濡れるように艶めく爪も、すべてが、……その存在のすべてが、きらめいて見えて、まるで星空の中心でひときわ照るお月様のようだと、その子は初めて持ち主に出会った時から思っていた。

 反対にそれらが調律的に動いて感情が表された時も、持ち主の容姿は崩れることさえも最初から計算されて作られたかのような崩れ整い方で、動くのだ。

 生まれてこの方、その子の世界は決して広くは無く、持ち主に連れて来られた書斎一室分のスペースだけがその子の全世界だった。窓から見える景色だってその子にとってはただの移ろう絵画でしかなかった。

 そんな窓枠に嵌め込まれた表情のある絵画も、書斎によく持ち込まれるぴかぴかした物たちも、それはたしかに美しいのだが。

 持ち主の放つそれには、どれもこれも到底及ばないような気がしていた。

 その酔うようなまばゆさを、その子はただ『綺麗』だと、それしか表現できなかった。

 ……『綺麗』、という言葉はその子にとって大切で特別な言葉でもあったから、その子が知る数少ない言葉の中で選べた、最上級で、その子が贔屓できる唯一の表現だったのだ。

 もともと人が好きなその子は、持ち主のそれらを感じて『綺麗』に浸るのが、好きだった。

 その子はよく、自分の持ち主に対して「貴方がどれだけ綺麗か」ということを言いたくて、必死に伝えようとするのだけど、反対に持ち主はその子と向き合うといつも、その子のことを「綺麗だ、綺麗だ」としきりに褒めるので、その子は途端に嬉しくなってしまって、疲れきるまで歌ってしまうので、いつもいつも上手く伝えることができなかった。

 持ち主も持ち主で、その子の歌をまた「綺麗だ」と褒めるので、その子はつい歌うことに熱中してしまうのだ。

 その子は、自分が綺麗であることよりも、持ち主に褒められたということの方が、ずっと嬉しかった。

 褒めてくれる時の持ち主の顔は、どんな時よりも『綺麗』なのだ。

 時に持ち主は、しばしばその子を困らせるのが好きだった。その子が、どうしようもなく困ったり調子の悪そうになったりするのを見て、嬉しそうにするのだ。

 ほんとうはその子は困るのも調子が悪くなるのも嫌だった。でも、持ち主がとても嬉しそうなので、その子はいつもその不思議な悪戯に付き合った。またその子は大分に高級品でもあったから、持ち主を満足させることに関しては矜持のようなものも持っていた。安物の粗悪な模造品では、きっとこんなことできやしない。自分は持ち主を楽しませることができるのだ、と。

 それを「個性が出て良い」と持ち主は褒めるようなことを言うが、この褒め言葉だけはいつもその子をどこか腑に落ちない気持ちにさせるのだった。

 しかし、それでもその子は持ち主が残念がるようなことはしない。

 いつも持ち主に応えるべく、その子は一生懸命に困ったり愚図ついたりして見せた。持ち主はいつも見ているだけだった。いつだって初口だけか間接的で、その子が目の前で困っているのを、何も言わず何もせず黙って見ているだけだった。その眩むような深い色の瞳で、やわらかな肌に纏われた容貌をほんのかすかに綻ばせながら、まるで何か愛おしい物でも見るかのように、じっとその子を眺めるのだ。

 対してその子は。

 その子は、そんな持ち主をひそかに見つめ返していた。身体中が痺れるほど朦朧となる感覚に襲われながらも、その綺麗な姿をこっそりと見つめて、息が詰まるほどの『綺麗』に浸る。たとえ視界が涙の水で霞んでも、持ち主のきらきらとした『綺麗』は、その子の些々にも満たない水膜の厚み程度では、決して陰りはしなかった。

 いよいよその子が堪えることができなくなって、本当にどうしようもなくなった時、持ち主はようやくその子に手を貸す。……ゆっくりと、優しく。

 その子は、持ち主に触れられるのが嬉しくて、その時はわざと思いっきり甘える。持ち主の綺麗な手が自分を撫でる感覚を得ることが、その子にとっては何よりもご褒美だった。

 ……人間の肌というのはどうしてこうも心地良い感触がするのだろう。

 どこを触ってもやわらかい。熱いところもあれば、ひやりとするところもある、まだらな体温。

 その子は人間に触れるのは、大好きだった。とりわけ持ち主に触れられるのは、特別だった。

 本当は自分から、抱き締めたい程に触れたかったのだけど、そんなことは自分で動けないその子には、当然のごとく無理な話だった。

 人間でも、ましてや生き物でもないその子には、本当は何もかもが無理な話だった。

 何かを伝えたくて言葉を話すことも、困ることも、自分から手を伸ばして触れることも。本当は全部、何一つができやしなかった。涙に濡れることも、触れた体温を感じることも、その肌の感触を知ることすらも。本当は、何もかもがその子の想像の中のことだった。

 書斎に置かれた一体のビスクドール。人形自体の大きさは三十センチほどだが、佇んだ足の下に分厚い台座がひっ付いているので全長としては五十センチを超える。この台座の中にはオルゴールが内蔵されていて、音が鳴ると同時に台座上のビスクドールはからくりの力で動き出す。それはもちろん、ビスクドール自身の力で動き出すことは決して無く、動力源となるゼンマイを人の手で巻いてもらわなければピタリとも動くものではない。


――オルゴール人形。それが、その子に与えられた存在のすべてだった。


 かつての著名な職人の作を模倣して作られたらしく、素材も大分オリジナルに寄せられているが、製作者いわく、全体的にあまり出来は良くならなかったらしい。特に目玉にあたるガラスの製作に手こずり失敗したとのことだった。

 今の持ち主の手に渡ったのは、製作者と今の持ち主が友人関係だったという所以からだ。


『……ああ、だめだな。これは今までで一番だめだ! 肌の色も上手くいかなかったし、髪の素材は間に合わせ、それに見ろよこの顔、へんに歪んじまった! 瞳なんて最悪だ。動きもスムーズじゃないし、情緒に欠ける。服はきみが立派なものを用意してくれたが、これじゃあまるで似合わない』


 捨てるしかないな。工房で製作者がじつに苛立だしげに、その隣にいた今の持ち主へと言ったのをその子は良く覚えている。

 だがそのときに、今の持ち主がその子の瞳を見つめて言ったのだった。


『十分に綺麗じゃないか』


 製作者はとても驚いた反応をしていたが、……結局、ほぼ譲られるような形で、その子は今の持ち主のもとへと渡ったのだった。

 本来はオーダー品だったらしく以降も必要だとのことで、台座の中のオルゴールと服だけ製作者のもとへと置いていくことになった。その子は代わりに持ち主に新しく服を仕立ててもらい、別のオルゴールを内蔵してもらった。


 ……それから、その子はずっと持ち主の書斎に置かれている。

 綺麗だ、綺麗だ、と幾度となくやわらかくて優しい声をかけてもらいながら。

 その子は持ち主に何十年も大切にされて、いつしか持ち主は書斎で仕事をすることが少なくなり、肌も髪も、指先さえも、つやが見られなくなった。それでも不思議と持ち主の『綺麗』はなくなったりはしなかった。

 そのあたりの頃から、その子は書斎から持ち主の寝室へと移された。窓枠の中の絵画が、三日も白化粧が続いていた日のことだった。

 寝室での持ち主は、かつて書斎でそうしていたように椅子に座ることはほとんど無かった。ほとんどずっと横になっていて、ときおり部屋へ違う人間が様子を伺いに来る以外は何もしていなかった。

 寝室にも窓があったが、暗くなっても空に雲が覆ってしまって、星も月も見えない日が続いた。


 ……窓枠の絵画が白く染まって六日目の夜、その子は唐突に目が覚めた。

 目が覚めたという感覚もその子にとっては初めてのことだったが、なんとなく『目が覚めた』と自覚した。

 寝室の電灯もとうに落とされた暗い部屋の中で、月明かりだけが持ち主の輪郭を映しだしていた。その子はそこでようやく自分が、持ち主がいつも眠っているベッドの脇に自らの足で立っていて、眠る持ち主の姿を見下ろしていることに気がついた。

 目の前には持ち主の、目の閉じられた綺麗な顔があって、その子には人間のような体があった。その子は自らの意思で手を動かすことができた。

 恐る恐る、持ち主に触れてみた。いつもは感触など感じもしない指先に、感触を感じ、その子は初めて想像ではない本当の人の肌触りを知る。ゆっくりとなぞるように持ち主に触っていく。持ち主の髪、額、頬、瞼、唇。触るとやっぱりやわらかくて体温はまだらで、……愛おしかった。

 そのとき、持ち主がその子の手の感触に反応するように瞼を開けた。持ち主はその子を目にしてかすかに瞠ったが、すぐに何かを理解したように微笑んだ。


「……きみか。きみは相変わらず、綺麗だね」


 そのどこか嬉しそうな笑みは、今までの持ち主のどんなそれよりも『綺麗』に見えて、その子は一層と嬉しくなった。

 その子はゆっくりと持ち主の手を握って、その感触と体温をたしかめた。


「ずっと、貴方だけのお人形でありますように」


 その言葉を聞くと、持ち主は「ありがとう」と小さく零すように言って、その子の頭を優しく撫でた。

 その夜は、持ち主とずっとお喋りをして過ごした。歌もたくさん歌って、その子は今まで以上に褒められた。持ち主はずっと綺麗で嬉しそうな顔をしていた。



 ……夜が明けてその子は、今度は気がついたらいつも通りに戻っていた。

 その子の足はいつも通り台座に固定されて、声も出せなければ、自分でゼンマイを巻くこともできない。ベッドの上の持ち主もいつの間にか静かに眠ってしまっているようだった。

 窓枠の絵画には久しぶりに晴れ間が見えていて、カーテンの隙間から光りが差し込んでいる。

 しばらくして、いつものように寝室へと人が様子を伺いに来たが、持ち主はそれでも目を覚ますことは無く、以降ずっと眠ったままだった。

 静かに目をつむる持ち主を見て、その子ははじめてこう思う。


 (……今までで一番、綺麗。まるで、お人形のようだわ)


――……、キン……。


 ふいにゼンマイが揺らいで、オルゴール曲の最後の音色が微かに響いた。

 オルゴール人形のその子は、そのときはじめて眠りについた。




〔了〕

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