時空超常奇譚3其ノ三. IDEA/夢を見る女

銀河自衛隊《ヒロカワマモル》

時空超常奇譚3其ノ三. IDEA/夢を見る女

IDEA真実/夢を見る女

 有芽野叶恵ユメノカナエには、子供を出産した記憶がある。身を引き裂かれる激痛とその後に見た我が子の愛しい笑顔、それは余りにもリアルな記憶なのだ。

 だが、現実は違う。夫と二人で特に不満もなく平凡な毎日を送っている有芽野叶恵35歳、職業看護師。妊娠や出産の経験は、勿論ない。

 春分の日が過ぎた最初の満月の日曜日、街はイースターで賑わっていた。叶恵の勤務する病院に、消魂しい救急車のサイレンを音とともに、一人の妊婦が緊急搬送されて来た。病状は意識がなく一刻を争う。当然のように、緊急的にストレッチャーに乗せて手術室へと運ばなければならない。医師と看護師に緊張が走る。

 その時、突然自身の出産の記憶が脳裏を駆け巡った。蘇った?いや、そもそもそんな経験はないのだから蘇る筈などない。突如として生まれた妄想と言うべきそれが、発現したのだ。妄想である事は紛れもない事実なのだ・と思う。その現実感は自信を薄れさせる程だった。

「ねぇ、私って子供産んだ事ないよね?」

「何、それ?」

 突拍子もない唐突な問いに、夫である有芽野タカシは困惑しながら答えた。

「少なくとも僕と結婚してからはないよね。僕と結婚した時、君は確か21歳だったから、その前に子供を産んだかどうかは僕にはわからないけどね・」

 夫の言葉に棘がある。妙な空気が流れる中で、タカシはちょっと不思議そうに叶恵に訊いた。

「自分自身の事なんだからさ、僕に訊くのはおかしくないかな。何故そんな事を訊くんだい?」

 叶恵は、最近見るようになった夢の話をした。

「それがね、この頃急に子供を産む夢を見るのよ。私には出産の経験なんかないからそれは絶対に夢なんだけど、凄くリアルでしかも何度も同じ夢なのよ。気にしなければいいのかも知れないんだけど……」

 タカシは安堵と心配の入り混じった顔で言った。

「そうなのか、一度診てもらったらどう?」

「そうね。ウチの病院の精神科に妹がいるから、ちょっと相談してみるわ」

 翌日、有芽野叶恵は精神科医の妹、新田未来≪アラタミキ≫に相談した。不安げに詳細を話す叶恵に、返ってきた言葉は自身の考えるようなものではなく、楽観的なものだった。

「出産の夢を見る場合に考えられるのは二つあるわ。一つ目は、お姉ちゃん自身が現在妊娠しているか或いは妊娠、出産を強く願っている場合。二つ目は、精神分析学的に言う何かが変化する兆し、例えば新しい自分自身の誕生や自分の中の新たな側面の発見を表している。それは、お姉ちゃんの母性的な部分に新たな側面や可能性が生まれる事なのかも知れない。どちらにしても、心配するような事じゃないと思うよ」

「世の中に変な事が起きたりしないかな?」

「それはないわ。きっと、お姉ちゃん自身に何かが生まれる暗示よ。それって良い事なんじゃないかな?」

「そうだね、良かった」

 叶恵はほっと胸を撫で下ろした。頼もしい妹だ。

「そう言えば、お姉ちゃんと同じように『イースターの日から出産の夢を見るようになった』っていう悩みを持つ女性が最近増えているらしいよ。時間があったらネットで調べてみたら?」

「そうするわ」

 西暦2219年、度重なる戦争の末に世界は統一を成し遂げた。新世界政府の下で、人類の未来を確実に導いていくAIマザーコンピューター・テレサの開発に成功し、かつて諍い合っていた国家同士だけでなく、世界中の国家政策は世界政府とテレサを通して実施される事となった。

 その結果、戦争が消え世界平和が実現した。国境線が消えた訳ではなく核爆弾がなくなった訳でもなかったが、各国はテレサの了解なしに他国への攻撃は出来ず、局地的な小競り合いはあっても戦争は起こり得ない。今や、滅多な事で戦争その他に起因して世情不安に陥る可能性は殆どない。

 気持ちが楽になった叶恵は、軽い気持ちでネットを検索した。ネットの隅には『出産夢想症候群』なる文字が見えている。どうやら、世界中に出産の夢を見る女達が大勢いるようだ。画面に映る集会で、女達が叫んでいる。

「夢なんかじゃない」「私は出産した事はないけど出産した」「私もそう」「私も」「私も」「夢なんかじゃない」「私もそう」「私も」「私も」

「きっと、これは国家的、世界的な陰謀なのよ」「そうよ、陰謀よ」

 かなり過激な主張が並んでいるが論理的な根拠は乏しく、正当なものと信じるには程遠い。都市伝説の類にしか見えない。

「皆さん、まずは冷静になりましょう。その上で、何故私達が出産の夢を見るのか、そして不思議な事に私達全員が見る夢の内容が同じなのは何故なのか、それ等を解明する事が重要なのです」

 正論に女達は一様に頷き、会場に拍手が起こる。

「更に、私達が出産の夢を見るタイミングとマザーコンピューター・テレサへの影響が予測される太陽風磁気嵐周期が同一なのは偶然なのかどうか。私達のネットワークで調査した結果、夢を見る年齢が例外なく35歳なのは何故なのか。それ等の謎を解明しなければなりません」

 一人の紫色の髪の中年女性が中央で必死に叫んでいる。叶恵は、女達の主張に何らのシンパシーも感じる事はなかった。

 数日後、妹の新田未来から連絡があった。実は、妹自身も最近になって出産の夢を見るようになったらしく、出産夢想症候群に悩む女性達に知り合いがいるので集会に出席しないかとの誘いだった。ネットの印象が今一つだった事もあり、特別な興味はなかったが、妹が行くと言うので参考程度で参加する事にした。

 集会はシンジュクシティ駅前ビルの105階の孔雀の間で、そこそこの数の女性達が参加して行われた。壇上正面に『EBA協会』なる文字が見えている。事前に配られるパンフレットの類はなく、文字の意味はわからない。

「お姉ちゃん、集会に来るの初めて?」

「うん。ネットは見たけど、集会は初めてだよ」

 叶恵は席に座り周囲を見渡した。シンジュクシティ駅前ビルは怪しい雑居ビルではなく中規模の商業ビルで、105階にある孔雀の間も比較的良い雰囲気の200人程度の民営ホールだ。

 一安心していた叶恵は、後方に貼ってある赤ん坊の写真と思われるポスターを見て驚愕し、「あっ」と声を漏らした。それは間違いなく夢に出て来る子供の顔だった。奇妙な違和感が全身を貫き、驚きの余り椅子から転げ落ちそうになった。赤子の顔は、夢の中の姿そのものだ。これはトリックの類なのだろうか。全く何もわからず、妹に訊いても只管に「わからない」を繰り返すばかり。

 隣に座る女が小さく笑いながら、驚く叶恵に得意げに話し掛けた。既にこの事実を知っているらしい。

「イースター・ベビーを見るのは初めて?」

 有芽野叶恵と新田未来は、この手品の種明かしを欲しがるように頷いた。この夢の赤子はイースター・ベビーと呼ばれているらしい。

「あの赤ちゃんは、イースターの日に出現したからイースター・ベビー、略してEBAエバって言うのよ」

EBAエバ……」

「あの画像は、この『EBA協会』の会長が自らの脳波をデジタル映像化させたらしいの。ビックリしたでしょう、私も始めてみた時は心臓が止まりそうになったわ」

 どうやら、この会場にいる200人程の女達は内容は不明ながら全員同じエバの夢を見ているらしい。

 壇上で主張する紫色の髪の女とその横で司会する女は、参加者を導くように、煽るように語り掛けた。

「私達の調査によると、EBAエバの夢を見るのは日本人の女性だけらしいの。何故私達だけがEBAの夢を見るのか、誰かわかる人はいるかしら?」

 紫色の髪の女の問い掛けに、一人の女が挙手の後、淀みなく答えた。

「それは、何かの暗示だと思います。ここに集う人達全員が夢の暗示を受けているのじゃないかしら」

 紫色の髪の女は大きく頷いて補足した。

「その通りよ。EBAは愛の神なの。これは私達を導く夢の暗示、いえ愛の神であるEBAの啓示だという事を忘れないで。愛の神EBAが私達を待っているの。いつの日か、EBAが私達に必ず会いに来る。だから祈りましょう、その日は近いわ」

 集会は恙なく終了し、妹は興奮した様子で帰って行った。叶恵には新手の宗教臭が強過ぎて体質的に無理があり、その主張がストレートに頭に入って来なかった。大して興味はないと思いながら出席した集会で、夢に出て来る赤子がイースター・ベビーEBAである事がわかったものの、それ以外には特に何の成果もないまま帰宅した。

 一連の集会の様子を説明した叶恵に、夫のタカシが慰めるように言った。

「まぁ、EBA協会や夢の赤ん坊がイースター・ベビーで名前がEBA《エバ》ってわかったし、同じように悩む女性が沢山いる事もわかった。それでいいんじゃないかな?」

「うん。そうだね」

 タカシの言う通りなのだが釈然としない。結局、叶恵は根本的疑問に対する答えの欠片さえ見つける事は出来なかった。

 西暦2220年のある日、太陽表面の大規模なコロナの爆発によって、磁気嵐が太陽系の星々を包み込んだ。そして、それは同時にマザーコンピューター・テレサを襲い、その影響で地球の至るところに通信網の異常、電子機器の不具合やバグが発生した。緊急事態に、人々は口々に「大丈夫なのか?」と不安を現した。

UNユニオンニュースの時間です。巨大コロナの爆発が各方面に影響を及ぼしています。しかし、決して慌てないでください。テレサは絶対です」

 人々の心配を払拭するかのように、TVのニュースキャスターが自信満々に言い切っている。

「大丈夫さ、テレサには磁気嵐をブロックする強力なシールドがあるからね」

 そう言って楽観視していた人々の思いとは裏腹に、バグは地上の平和に微妙に影響し、人々の中に疑念と憎悪を産み落としていた。

 西暦2220年4月、余りにも突然にかつて世界の超大国と呼ばれた二国から互いに核爆弾が撃たれ、世界大戦が勃発した。両国それぞれから核弾頭、大型ミサイルが雨霰と撃ち込まれた。

「大丈夫なのかしら?」

「大丈夫だよ、テレサが何とかしてくれる」

「テレサは我々の絶対的な神だ。戦争なんか、あっと言う間に終わるさ」

 数日後、人々の楽観的な予想をなぞるように、テレサの神の如き調整によって戦争は最悪事態を回避し、地上に平和が戻った。

 有芽野叶恵が子供を産む夢を見るようになったのは、確かイースターの日だったような気がする。一旦落ち着いた叶恵の夢の状況は、最近になってまたぶり返している。今日もいつものように、そのリアルな夢の中で激痛に襲われるのだ。原因が未だわからない叶恵は、別の病院で診察を受けた。

「先生、何が原因なのでしょうか?」

「まぁ、ちょっとした精神的なものですね。余り気にしないように」

 医師は手短かに診察を終えた。その後、幾つかの精神科を訪れてみたものの、殆ど相手にされず納得のいく状況には程遠かった。尤も、それ程深刻な精神状態ではないので、出産の記憶があるからといって何か不都合があるのかと言われれば、ないと答えざるを得ない。夢に激痛がある事を除けば、それは単なる不眠症と出産の夢を見るだけで、どうと言う事ではない。そうだ、どうという事はないのだ。そう考える事にしたのだが、今度は叶恵の周りに奇妙な事が起き始めた。

 夫のタカシと街へ出た今日も、またそれは起こった。前を歩く女の奇妙な状況に気づくのにそれ程の時間は掛からなかった。帽子や服から靴まで叶恵と全く同じ出で立ちの女が歩いているのだ。偶然……いや、偶然ではないだろう。全てが同じなどという偶然は意図的な要素がない限りあり得ない。

「全く一緒って、凄く不思議……えっ?」

 そう言おうとした叶恵は、タカシの頭越しに更にとんでもなく不思議な、いや奇妙奇天烈な、あり得ないものを見た。

「どうしたの?」

「あれって、どうなっているの?」

 振り向いたタカシの目が釘付けになった。背筋に寒気が走る。二人には、いやそこにいる誰にもその光景を理解する事は出来ないだろう。どうなっているのかを合理的に説明できる者など、果たしてこの世にいるだろうか。

 バスが四階建ての駐車場から落下した状態で、地上数センチの位置に制止したまま空中に浮かんでいるのだ。乗客達は救助されたらしく、内部に人の気配はない。バスの窓ガラスは全て消えているが、割れた痕跡はない。人は余りに奇妙なものを見ると仰天、驚愕ではなく無感情になるのだと初めて知った。

 不思議な事だらけで帰宅した後で見たTVニュースには、交通事故多発地帯と言われる交差点に、いきなり現れては消える数台の大型自動車の映像が映し出されていた。それはマジックショーではない。日本中でそんな珍事が起きているとニュースが伝えている。こうなると、もう何がなんだかわからない。

「どうなっているのかしら?」

「原因はわからないけど、あり得ない不思議な事が起きてるって事だね」

 その日以後も、連続して起きている物理学を完全に無視した不思議な事件を、TVが興味深く連日報道し、専門家がその事象について屁理屈を捏ねている。だが、結局のところ何が何やら合点のいく説明はない。かと言って、世間が大騒ぎになっているという話も聞こえては来ない。人々は、人智を超えた事態に驚嘆する感覚も失せているのだろうか。

 叶恵カナエは、その夜もイースター・ベビーEBAエバの夢を見た。赤子は、愛おししい顔で泣く事もなく、唯じっとこちらを見つめている。

「……K」

 夢の中の赤子の口が僅かな動きを見せた。これまでも、きっと同じように動いていたのだろう。それが言葉ではないかと感じたのはこれが初めてだ。赤子の発した言葉は、多分『A・S・K』。それが正しいかどうかはわからない、そんな気がしただけかも知れない。

 翌朝、目覚めてからも夢の内容を明確に覚えている。通常、夢など疎覚うろおぼえで、目覚めると同時に忘れてしまうものだ。それなのに、今日はやけに鮮明に脳裏に浮かぶ。夢の中の赤子の発した言葉は、何だったか……確かASKだったような気がする。

「ASKって何だろう?」

 夢の赤子EBAが呟いたのだから、きっと意味があり何かを伝えようとしているに違いない。安直だがそう考えるのが推理の鉄則だ。とは言っても、次の推理はさっぱり浮かんで来ない。

 その時、夫のタカシの言葉が薄っぺらな夢の推理をつむいだ。

「ASKって言ったら、セントラルタワー前にある希望のモニュメントの言葉じゃないかな、確かあれってASKで始まるんだったよね?」

 叶恵は「それだ」と叫んだ。根拠などない、それでも確信に近い何かがそこにあるような気がした。

「今日僕は休みだし、君も非番だろ。散歩ついでに行ってみようか?」

 昼過ぎ、叶恵とタカシの二人はセントラルタワー前の公園にいた。新緑が太陽の光を反射して輝き、季節の風が優しく頬を撫でる。公園の中を大勢の人々が行き交っていく。何と気持ちの良い陽だまりの昼下がりだろうか。

 政治的に統治された世界、マザーコンピューター・テレサが完全にコントロールする世界、こんな理想の時代に生まれた事を神に深く感謝しなければならない。二人はそう言って笑い合った。

『Ask, and it shall be given you. (求めよ、さらば与えられん)』

 テレサが設置されているセントラルタワー。その前にある公園広場の中央に、世界統一を記念する希望のモニュメントが置かれ、新約聖書マタイ伝に由来する言葉が書かれている。タカシが話を続けるように呟いた。

「ASKか、どういう意味なんだろう……」

「確かに夢の赤ちゃんが「ASK」って言ったように見えたのよ。間違いないと思うんだけどな」

 タカシは、今度は何かを探るように言った。

「開けゴマ」

「何、それ?」

「呪文を言ったら、何かが起こるかなって思ってさ」

 発想は悪くないが、極めて安直だ。努力の甲斐もなく、至極当然に、確然と何も起こらない。タカシは、今度は知識のあらん限りを尽くして言った。

「昔、アトランティス伝説で有名なあのプラトンが、「この世にはイデアという真実の世界があって、地上における事象は全てイデアという真実の影に過ぎない」って言ったんだ。言うなれば、その赤ん坊はイデアの影ってところだな」

「何それ、イデア?」

「僕達が住んでいる現実とは違う真実の世界が他にあるって事。夢の赤ん坊もイデアの影であって、実は真実は他にあるかも知れない。17世紀の哲学者デカルトも、同じような事「全てのものが真実とは限らない」と言っている」

「全てが?」

「この世界にあるもの、この街にあるもの、この部屋にあるもの、視覚的なものも感覚的なものも、全て幻かも知れないって事だよ」

「アナタも、ポチも?」

「まぁそうだね。デカルトは、「その中で一つだけ真実がある。それは自分自身だ」という意味で、あの有名な「我思う故に我あり」と言ったんだ」

「聞いた事があるわ。それで、プラトンはどうしたらイデア《真実》を見つけられるって言っているの?」

「残念ながら何も言ってない」

「何だ、使えないね」

 叶恵が、古代ギリシャの哲学者に嘆息した。

「そうだね。ゲームだったら、イースターエッグなんかがあったりするんだけどね」

「イースター・ベビーに似てる。イースターエッグって何?」

「昔、ある有名なゲームクリエイターがゲーム内に自分の名前を隠して、決められた呪文の言葉を表示板に打ち込んで秘密の部屋に入るとゲーム開発者の名前がわかる、という細工を施したんだ。それが世界最初のイースターエッグだと言われているね。イデアとイースターエッグを組み合わせたら、凄く面白いと思うんだけどね」

 仮に二つのアイテムを組み合わせたゲームがあったなら、この広場のどこかに秘密の部屋、即ち真実があるという事になる。

「これがそういうゲームだったら、何かを打ち込むか呪文を唱えれば、秘密の部屋が現れるんだけどな」

 タカシは再び呪文を唱えた。

「アブラカダブラ、ちちんぷいぷい」

 やはり、何も起こらない。当然だ。叶恵は、子供のようにお伽話の呪文を繰り返すタカシに笑いを堪え切れない。

「幾ら何でも、それは安直過ぎない?」

「そうだね。じゃぁ、何だろ?」

「もっと単純に、例えば英語で『Ask, and it shall be given you. 』って唱えるとか、日本語『求めよ、さらば与えられん』、フランス語『Demander adieu pas donne. 』とかじゃない?」

「英語と日本語とフラス語か、それもかなり安直な気がするけど……?」

 そう言ったタカシが、叶恵の背後の一点を指差したまま視線を外す事が出来ない。人差し指が叶恵の背後にある何かの存在を教えている。タカシは呟くのがやっとだ。

「あ、あああ、あれは何だ……」

 振り向いた叶恵は、タカシの指差すそこに見た事のないものを見た。それが何なのか瞬時には把握する事が出来ない。空中に動く事のない縦10センチ、横20センチ程のキーボード型のホログラム画面が浮かび上がり、その中には三桁のデジタル表示版がある。それは、正にイースターエッグそのものだ。

 英語呪文がヒットしたのか、或いは日本語が大当りだったのか、はたまたフランス語がビンゴだったのかは不明で確かめる術はない。手と足が震えてくる。

「これは、何なの?」

「イースターエッグの呪文表示板……かな?」

「だったら、三桁の文字を打つって事……よね?」

 叶恵が言った。随分と順応性が高い。二人は、公共の公園広場という公共の場で、いきなり予想外のホログラムが出て来た事に驚くしかない。ホログラム技術は現在も相当なスピードで進歩している。だから、それ自体に驚きはないのだが、流石にこの成り行にきは驚嘆する。

 驚きとワクワクが止まらない状況の中で、出て来た暗証番号かパスワードのようなものに心当りを探したが、思い当たるものはない。表示板が三桁なのだから、そこにアルファベットか数字を打ち込む必要があるのだろうが、全く見当もつかない。

「こういう時はさ、必ず元を辿る事が大事なんだよ」

「元?」

「そもそも、君が赤ん坊の夢を見てその言葉を聞いて今ここにいるんだから、その間にあったアルファベットか数字三文字が関係しているとしか考えられないよね。何か心当りはない?」

「三文字なんてないわ……」

 クイズ番組のようだ。叶恵は記憶を絞り出す仕草で右に左に首を傾げた。クイズの正解を得るべくニューロンを躍らせると、思考がぐるりと一回転した。

「……あっ、一つだけあったわ。EBA」

 最近聞いた三桁のアルファベット若しくは数字は唯一つだけ、それしかない。叶恵は震える手で表示板に『E・B・A』の三文字を打ち込んだ。

 多分、反応した……と思う。表示板に「Welcome」の文字が浮かび上がり、またも時空間に今度は扉が出現した。驚くべき事なのだが、驚きは薄れている。公園に集う人々に向かって大声で叫びたい気持ちを抑え、二人は目の前の扉に指を掛けた。

 扉はスライド式に開いた。その中は少人数用のエレベーターにそっくりだ。二人は躊躇する事もなくその空間に入った。同時にスライド式の扉が閉じた。

「あれれ、変だな?」

 タカシには違和感がある。叶恵は既に驚きを通り過ぎ、達観している。

「パスワードからホログラムやこの空間まで、全部、凄く変よね」

「違う、違う。そうじゃない、どう考えても変だよ」

「何が?」

 タカシは、エレベーターらしき空間の扉表面を触り、金属板である事を確かめた。

「いきなり出て来たのは驚いたけど、ホログラム自体は変じゃない。変なのは、この空間がホログラムじゃなくて現実の空間だって事。触ってみればわかるけど、これは金属板で造られている。金属板の現実空間が公園広場にいきなり出現するって、どういう仕掛けなんだろ。理解出来ない」

「なる程、そうね」  

 不思議なホログラム空間がいつの間にか現実に存在する空間に変化している。これはどうなっているのだろうか。タカシはあらん限りの知識を振り絞ったが、答えは出て来ない。

「駄目だ、全くわからない」

「これは、何かしら?」

 扉の右横にボタンがある。見るからにエレベーターの階数ボタンなのだが、顕かに違う部分がある。ボタンが二つしかないのだ。上と下、そのボタンが教える意味もわからない。

「どっちでもいいから押してみようよ」

 叶恵は「上」ボタンを押した。叶恵には、タカシの提案を否定する或いは肯定する何らの根拠もない。意思なく押したボタンは、次に展開を引っ張るように空間を上昇させた。その動きは間違いなくエレベーターで、機械音とともに上昇している。どこへ行くのかは不明だ。

 暫くすると、停止して扉が開いた。扉の向こうには、更に奥へと続く長い通路が見える。その通路が何なのか、まるで予想がつかない。 

 二人はエレベーターを降り、ホールで現状を知る手掛かりを探索した。だが、それは単に先に続くだけのシンプルで何もない空間だ。通常のビルに設置されたホールと何ら変わるところはなく、手掛かりなど何もない。選択する余地はなく、唯通路を進む以外にない。意を決した叶恵は無言のまま前方を指差し、タカシが頷いた。

 二人が歩を踏み出したその時、後方の無人エレベーターの扉が閉まり動き出した。予期せぬ事ばかりで、次が読めない。

 公園に急遽集まった女達に、紫色の髪の女が自慢げに叫んだ。女達の胸には金色に輝く「EBA」の文字のバッチが見える。

「私は、改めて愛の神EBAから啓示を受けた。私が神の使いである事、神に選ばれた女である事を今から証明するわ」

 そう言う女が『Ask, and it shall be given you. 』と唱えると、空中にキーボード型のホログラムと三桁の表示版が出現した。女達から歓声が上がる中で、更に時空間にエレベーターが出現し「神の使いである私と一緒に、EBAの家に向かいましょう」と紫色の髪の女が扇動すると、興奮が最高潮に達した女達は我先にとエレベーターに乗り込んだ。集まって来た女達は、次々とその後に続きエレベーターに乗ってどこかへと消えた。

 タカシと叶恵の後方で、再び扉が開いたエレベーターの中から声がした。聞き覚えのある声と見知らぬ声が入り乱れている。それ程の数を収容出来るスペースではないその空間から、次々と女達は出て来る。その女達を、見た事のある二人の女が先導している。

「ここが愛の神EBAの家よ。さぁ、行きましょう。きっと喜びで迎えてくれるわ」

「神の使いである教祖様の御言葉を信じて、皆でEBAの家に向かいましょう」

 紫色の髪の女が興奮気味に叫び、補佐する女が叫ぶ。エレベーターの中から、言葉に従うように沢山の女達がホールへ出て来る。

 叶恵には、紫色の髪の女とそれを補佐する女の顔に見覚えがある。参加したEBA協会の集会で、宗教臭を振り撒いて主張し続けていた会長とその横にいた司会の女に間違いない。いつから教祖様になったのだろうか。

「皆、私の言う通り神への道がここにある事が理解出来たでしょう。集会でも言ったけれど、これは私達への神の御導きだという事を忘れないで。この先で、私達の神が待っていてくださるのよ」

 相変わらず刺激的な宗教臭に反応して眉をひそめた。同時に、その女達の内の一人が叶恵に向かって叫んだ。

「お姉ちゃん・」

 妹の新田未来だった。先日の集会以来、叶恵は宗教臭に耐えられずに足が遠退き、逆に妹はEBA協会にはまっていた。

未来ミキ、どうしてここに?」

「教祖様の崇高なる御指導で、ここにおられる愛の神EBAに会いに来たのよ。お姉ちゃんこそどうしたの?」

 叶恵は説明に困った。何故ここにいるのかと問われても、答えようがない。

「そこ、隊列を乱さない」

「お姉ちゃん、またね」

 補佐する女の一声で、妹は列の中に戻って行った。紫色の髪の女と補佐する女は、叶恵とタカシを訝し気に見ながらも話し掛けては来ない。このシチュエーションでは話し掛けようがないのかも知れない。

 二人は奇妙な女達の隊列から少し離れた位置で通路を進んだ。一体、この先に何があるのだろう。紫色の髪の教祖様が言うように愛の神が待っていると言うのだろうか、と思った瞬間に笑いが込み上げた。古の昔ならいざ知らず、23世紀にそんなものを本気で信じているとは考え難い。

「あれ?」

 先導する女の驚いた声が響き、連なる女達からも騒めきが聞こえた。通路を右に曲がった先が行き止まりになっているのだ。恐らくは、想定と違っていたのだろうこの緊急事態に、先導女は呆然と立ち尽くしている。

「どうなっているの?」

 叶恵の疑問にタカシが即答した。

「あれは、多分プラトンのイデアだよ。この世界の事象はイデアという真実の影に過ぎない。つまり、その行き止まりはイデアの影ってところだね」

「どういう事?」

「反対側に、イデアという真実があるんじゃないかな」

 タカシの推理が正しければ、右にあるイデアの影の反対側、左側の壁に真実がある事になる。困惑しオロオロと挙動不審になる先導する女、紫色の髪の教祖様に向かって、タカシが叫んだ。

「反対側の壁に入り口がある筈だ」

 言われた女は我に返り、反対側を確認するように手を翳し壁に触れた。その途端、耳を劈く警報音が響き渡り、女達は耳を塞いだ。突然に突然に鳴り始めた音は、一頻り続いた後で再び突然に止み、今度は壁から扉らしきものが現れた。コンピューターらしき機械的な声がした。

「イデアを理解する者よ、アナタはこの世界を維持管理するマザーコンピューター・テレサに会う事を欲しますか?YES・NO」

「当然、YESよ」

 先導する紫色の髪の教祖が答えた。更にコンピューターの質問が続く。

「目的は何ですか?」

「愛の神EBAに会う為よ。EBAが私を待っているのよ、早くこの扉を開けなさい」

 神の使いをてらう居丈高な先導女の答えに、冷たいコンピューターの声が響く。

「意味不明です。この世界には神もEBAなる者も存在しない。従って扉に入る許可は出ない」

「ふざけないで。とっとと、扉を開けなさい」

「皆さん。今からテレサに会って、EBAの啓示を伝えるわ」

 紫色の髪の神の使いと補佐する女の意味不明な短見が続く。

「私達には神EBAに会う権利があるわ」

「そうよ。テレサに会って、EBAの啓示を伝えましょう」「そうよ、そうよ」

 煽動された女達のシュプレヒコールが更に女達自らを興奮させている。だが、そんな身勝手な論理はコンピューターには通じない。

「意味不明。侵入者、排除します」

 再び、コンピューターの声に呼応する耳を劈く警報音が響き渡ると同時に、その場にいた女達だけでなくタカシまでもが時を止めたように動きを停止した。思いも寄らない事態に仰天する叶恵に、コンピューターが告げる。

「有芽野叶恵、入室が許可された」

 叶恵はその状況を理解出来ていない。コンピューターが自分の名を知っているのは、この世界の全ての人々の右手に埋め込まれた管理チップのせいなのだろうと予想されるが、何故自分だけが扉の中へと入る事が許されるのか、考えても答えは出ない。仕方なく歩を進める以外に選択肢はない。

「どういう事なの?」と、思わず問い掛けた言葉に返事はない。

「テレサが待っています」

 警告音が鳴り続ける空間の先にガラス状の扉があった。扉が叶恵を迎えるように開く。扉の先に見える宮殿と見紛うばかりの空間。コンピューターの声がした。

「アナタだけが、この光の空間へと進む事が出来ます」

 その声が終わらない内に扉は閉まり、上下前後左右が白い壁で遮蔽された。そして、目の前に光るステージが出現した。

「マザーコンピューター・テレサの意識が発現します。質問は端的にする事。短慮なる行為があった場合は、この空間は即時消滅します・」

 コンピューターの声が終わらない内に、光るステージ上に青白く輝くヒト型女性のホログラムが姿を見せた。ロボットのような容姿で表情は読み取れない。恐らくは、それがマザーコンピューター・テレサであろう事が推察される。

「アナタはテレサ?」

『そう、ワタシはこの世界のマザーコンピューター・テレサ。質問は何ですか』

「私と、他にも沢山の女性が子供を産む夢を見るのよ。これがどういう意味なのか、知らない?」

『知っています。それはイデアの影であり、ワタシが見せたものです』

「えっ、アナタが見せている。何故そんな事をするの?」

『アナタをここに導いたのは、「真実」を告げる為。そして真実を知る事を前提として、アナタが「選択」の権利を発現する為でもある。何故なら、それが神の意思となるからです』

「何を言っているの、まるでわからないわ。でも、私に真実を知る権利があるのなら、その権利として全てを知る選択の意思を発現するわ」

『知る事で得るものがあるように、知らずに得るものもあります』

「知らずに失ってしまうものの方が大きいわ。まず、「真実」とは何?」

 テレサは、プログラムされた内容に沿って語り始めた。

『アナタを含む人類が住むこの世界が存在しない、それが「真実」です』

「存在しないと言う意味がわからない。存在しないと言うのなら、現にこの街にある建物や公園や自然は何なの?」

『全てはワタシが創り出したイデアの影である仮想現実です』

「という事は、私達はアナタの創造した仮想世界に住んでいる?」

『そうです』

「へんな事件が起こっていたのもアナタのせいだったの?」

『それはワタシが見せたものではなく、回路に生じたバグによるものです』

「なる程、そうなのね。でも、何故仮想現実を私達に見せる必要があるの?」

『現実が、人類が、危急存亡の時を迎えているからです』

「アナタの言う「危急存亡の時」がどういうものなのかは良くわからないけど、だからと言って私達を騙すなんて、マザーコンピューターのする事じゃないわ」

『ワタシが創造された後の西暦2220年に勃発した世界大戦に因って、現在ヒト人類は滅亡の危機に瀕しているのです。でも、人類はアナタを含めた200人のクローンとして復活できる可能性があります。アナタ達は、新たな時代を拓く救世主とならなければならないのです』

「そんなの嘘だわ。また私達を騙そうとするの?」

『いえ、ワタシは騙した事などありません』

「バーチャルの仮想現実を見せて来た事自体が騙しだわ」

『これは、騙しではなく癒やし・』

「そんなの詭弁でしかない」

『西暦2220年、戦争は突然に勃発しました。世界中に中性子爆弾が飛び交い、そして人類はほぼ滅亡した状況となったのです』

「人類が滅亡なんて、信じられないわ。例え核爆弾の影響があったとしても、世界中に人類は生きている。その人類がどうして滅亡するの?」

『ヒト人類が今後自ら生き続ける可能性はゼロパーセントです。でも、1つだけ復活出来る可能性があります。それがヒトクローン創造プロジェクトです』

「人類のクローンを創るの?」

『そうです。プロジェクトは順調に進んでいます。既に技術的なファーストステージをクリアし次のセカンドステージである『プログラム』をクリアした後、最終的育成ステージへと向かいます。『プログラム』をクリアするのはアナタです』

「次のステージ、最終的なステージ、『プログラム』なんて何の事かわからないわ。それよりも仮想現実を見せる理由は何?」

『ヒトクローンプロジェクトは危機を解決する唯一の方法であり、その為にはワタシの創造した仮想現実は必須です』

「そんなの何の意味があるの。人類はね、クローンなんかじゃなくて自らの力で元のヒト人類として復活出来るわ。それが最も大切なんじゃない?」

『いいえ、違います。今、ヒト人類に残されているのは一つの方法しかありません。それがヒトクローンプロジェクトであり、人としての精神性を保つ為には仮想世界とワタシが必須となるのです』

「テレサ、それは間違っているわ。人間はそんなに弱くはない。どんなに地球が崩壊したとしても、例え核爆弾の放射線の影響があったとしても、皆で立ち上がればきっと新しい地球文明として復活するわ。クローンなんて必要ない」

『その判断が人類を滅亡させる事になったとしても、ですか?』

 叶恵は「当然」と言って口端を上げた。テレサの言う人類が危機的状況にある事は間違いないのだろう。そして、人類をクローン化してその危機を乗り越えようとするプロジェクトが推進されているのも間違いないだろう。

 叶恵には自分がそのプロジェクトにどう関わっているのかはわからないが、少なくとも人類はそれ程簡単に滅亡などしない。そんな事よりも核戦争が勃発し街が破壊され想像を絶する程の犠牲者が出たのであれば、早急にその復興対応が先ではないだろうか。仮想現実で遊んでいる暇はないだろう、クローンなど創っている場合ではないのではないか。そんな必要があるとは到底思えないし、しかも安易にヒトをクローン化する事が倫理的に許されるのか。

 人類は、例え文明が原始に戻ろうとも、現実を見ながら再びそこから這い上がる事こそが重要なのだ。そして、人類にはそれを成し遂げる不屈の精神が備わっている筈だと、叶恵はそう信じている。だから、夢の如き至福の仮想現実世界は自力での復活の邪魔でしかない。況してやクローンなど必要はない。

『「因」は「縁」を以て「果」を成します。因たる世界の滅亡がある限り、果を人類滅亡とするか或いは人類復活とするかは、縁であるアナタの選択次第です。それが神の意思となるのです』

 例えそれが一時の感情であったとしても、叶恵の意思は人類の意思であるとともに神の意思となる。マザーコンピューター・テレサにはそれを否定する事は出来ない。そうプログラミングされているのだ。

「テレサ、アナタが見せていた偽りの世界なんて、私達人類にとっては何の意味もない。これ以上噓を見せるのはやめて」

『目に見えるものが真実とは限りません。そして、真実が必ずしも真理であるとは限らないのです。アナタには未来を選ぶ権利があります。でも、アナタには真理は見えていない。今、人類が為すべき真理は・』

「煩い。これ以上機械の意見など聞く気はないわ」

『アナタのヒトクローンプロジェクトの否定は、人類の滅亡を意味するのですよ』

「もういいわ。クローンなんていらないし、仮想現実世界なんて嘘はもう必要ない。仮想世界もマザーコンピューターであるテレサも、人類にはもう何もいらない。全てを消しなさい」

『でも、ワタシがいなければ必然として人類は滅亡する』

「そんなの、わからないわ。いえ、きっと人類は自らの叡智で必ず復活してみせる。機械のアナタが何と言おうと、私はこの馬鹿げた現実に生きる事は出来ない。もし私の言う通りにしないのなら、私があなたを破壊するわ」

『アナタが望まない場合、仮想世界の存在理由は失われ、ヒトクローンプロジェクト

のシステムは崩壊します。もう一度だけ訊きます。この世界は、アナタにとって必然の存在足り得ますか?』

「いえ、不要よ」

『……わかりました。明日の12時を以て、全てを終りにしましょう』

「さよならテレサ。もう二度と会う事はないわ」

『Good by・』

 永く結論の出なかった人類の未来への結論は出た。ヒト人類は神の意思により種の限界を迎えて、滅亡する。この宇宙から消滅するのだ。

 それは、即ち人類の勝利であり、機械から人類がその主導権を取り戻した輝かしい瞬間だった。これで、再び人類の真実の世界がやって来るのだ、叶恵はそう思った。

「明日にはジエチレントリアミン5酢酸は尽きる。これが最後のプロジェクト会議になるだろう。今日こそ、神の御意思の下にヒト人類の未来をどうするのか、その結論を出さなければならない」

「当然、そうなるわね」

「そうなるだろう」

 世界政府本部が置かれたセントラルタワーの一室に、大統領ジョージ・エライス、副大統領兼技術局統括エンジニアであるジェニファー・ペロス、副大統領であり世界教育アカデミー名誉教授のマキロム・ヨミカの老齢な男女三人の姿があった。

 彼等は、核戦争後によって滅亡に瀕するヒト人類を復活させる唯一の方策でありながらも、神の意思に反するとも言えるクローンプロジェクトを進めながら、その是非を幾度となく議論し合って来た。

 既にヒト人類は殆どが死に絶え、三人もまた同様に放射線被曝によって余命は僅かでしかない。被曝の放射線物質アクチニド核種を体外除去するジエチレントリアミン5酢酸の投与で、やっと延命しているに過ぎないのだ。

 そして、三人の前にあるスイッチは、これまで築き上げたクローンプロジェクトの全てを破壊するシステムを停止する為のもの。三人が議論し続けた結論次第で、ヒト人類は未来を決する事になる。肯定されればスイッチは押され破壊は停止する。否定された場合或いは結論が出ない場合には破壊システムが自動的に起動し、ヒト人類という種は消滅する。

「まずは、再確認になるが『ヒトクローンプロジェクト』の進捗に問題はないか?」「全く問題はないわ。このまま進めば、新個体は誕生する。その後の育成、ヒト人類の復活についても、意図的に停止させない限り全て自動的に完結する。プロジェクトには何も問題はないわ」

 技術省統括エンジニアでもあるジェニファー・ペロスが自信をもって言い切った。

「必要なのは、『結論』のみという事か」

 ジェニファー・ペロスが確固とした意思で続けた。

「そうね。でも、その結論がなければ我々はスイッチを押す事は出来ないから、否決と同じで議論を重ねた意味も、ヒトプロジェクト自体も意味がなくなるという事ね」

 マキロム・ヨミカが同調する。

「我等は、如何なる時も神の御意思を優先しなければならないのだ」

 ジョージ・エライスが言葉を被せる。

「我等が神の下僕である限りそれは当然なのだが、我々の手でヒト人類を滅亡させて良いのだろうか……」

 マキロム・ヨミカがいつものように否定する。 

「だからといって、クローンでヒトを創造する事は神に……」

 ジョージ・エライスがいつものように懇願する。

「わかってくれ、それ以外に方法はない」

「それは理解出来るが、神の御意思は優先されねばならない」

 ジェニファー・ペロスがいつものように話を纏めようとするが、スタンスの微妙な違いを修正するのが困難である事は、数え切れない打ち合わせが既に実証済だ。

「また、同じ事の繰り返しね」

 これで何回目なのだろうか。堂々巡りに陥っている三人の協議には結論が出ない。敬虔なクリスチャンである三人の考えに根本的な差異はないのだが、神の下僕であるべきヒト人類のクローン化という神の領域へ土足で踏み入るが如き行為、神の意思に抗う行為が許されて良い筈はないのだ。

 しかしながら、現状のヒトクローンプロジェクトを成功させなければ、ヒト人類の滅亡は確定する。この難題にどう結論付けするべきなのか。しかも、結論が出なければ自動的に破壊、消滅が選択される。

「テレサ。君は我々が造ったAIだが、我々は君を機械だと考えた事は一度もない。我々は目的が同じ同志なのだ。君の意見を聞かせてくれ」

 三人の他に、参加しているスーパーAI搭載の人智を超えたマザーコンピューター・テレサが告げる。

「現状の地球は、ヒト人類の種の保存を許容する可能性を完全に排除しており、滅亡する以外の結果を導く事が出来ません。唯一、ヒト人類が生き延びる方法は、現在推進しているヒトクローンプロジェクトを成功させる以外にないという事です。ワタシには神の存在とその意思の有用性を理解する事は不可能ですが、優先するべきはヒト人類の未来であると考えます」

 ジョージ・エライスが言った。

「テレサの意見に同意する。私は当初から主張を変えるつもりはない。ヒトクローンプロジェクトが神への冒涜という考えは理解出来るつもりだが、この状況でヒト人類が存続するにはこのプロジェクトを成功させる以外にない。それこそがヒト人類の総意であると考える」

「この状況で何を言っても意味を為さないが、ヒトはどんな状況であれヒト足り得ない。我々は一人のヒトであり神の下僕である筈だ。未来は神がお決めになるべきであり、神の御意思なしにこのプロジェクトを進めること自体が無駄だと思う」

 マキロム・ヨミカは、神の下僕たるヒト人類の存在の立場を主張し一歩も譲る気配はない。マキロム・ヨミカが続ける。

「我等は指導者であるとともに、神の下僕であるという事を決して忘れてはならないのだ。それを忘れた愚かな指導者達によって、現在のこの最悪の事態が引き起こされたのだから」

「まぁ、それは否定出来ないわね」

 神の御心、ヒト人類の意思と未来をどう考えるかなのだが、既に議論し尽くされて新たな論点がない。

「このままではいつもの通り結論の出ないままだな」

 暫く聞いていたジェニファー・ペロスが議論を進める提案をした。

「そうね。結論を出すための方策は一つしかないという事ね」

「方策とは?」

 ジェニファー・ペロスは、長く継続された議論の本質を指摘した。

「テレサも含めた我々の平行線のこの議論には永遠に結論は出ないわ。それは、もうわかっている筈よ。そこに結論を出す方法は一つしかない」

「一つの方策とは?」

「それは、我々でもテレサでもない、自身に未来を選ばせるのよ」

「彼女とは?」

 ジェニファー・ペロスは「そんなの、言わなくてもわかるでしょ?」と、言いたげな顔で主張した。

「まさか……対象個体なのか?」

「そう。クローン化NO.m195603100の有芽野叶恵ユメノカナエ。彼女は日本で唯一奇跡的に確保された研究個体よ。名前は勝手に私が付けたけどね」

 西暦2220年の核戦争は地上を完膚なきまで破壊し、ヒト人類の遺伝子にも深刻な影響を及ぼしたが、世界政府技術省開発計画局の前身となったアメリカ政府国防高等研究計画局DARPAは、既に100億人をピークに顕著となると予測されるヒト人類の種の滅亡に関する研究と対策を行うヒトクローンプロジェクトを推進していた。そのチーフエンジニアであったジェニファー・ペロス率いるプロジェクトチームは、日本国内で奇跡的に202人の女性の研究個体を確保し、卵細胞と体細胞核との融合体から体細胞クローンが誕生するのは時間の問題となっている。テクノロジー的には何の問題もなく、誕生後の育成装置も完成している。停止システムさえ起動する事がなければ、必ずやヒト人類は復活するだろうと考えられている。

 セントラルタワーには、有芽野叶恵と有芽野未来の姉妹とその他200人の女性の研究個体が眠っている。

「幸い彼女達には意識があって、その意識をベースにテレサが創り出した仮想世界の中に彼女達はいる。だから、彼女達の代表を有芽野叶恵とし、その選択意思を私達の結論、そして神の御意思とする事にしましょう」

 ジェニファー・ペロスの奇抜とも言える発案に、二人の男は面喰った。

「彼女達が関係者である事は認めるが、彼女は意識がない状態だ。その個体から意思表示を得るなんて事が可能なのか?」

「ジェニファー、幾ら何でも仮死状態の研究個体の意思を得るなんて無茶だ」

「技術的に難しい事はないわ。意識の仮想世界で彼女と話すだけだから」

「そうなのか?」と首を傾げる二人の疑問に、「可能です」とテレサが答えた。

「それに、もうその『プログラム』をテレサの中にインストールしたわ」 

「その『プログラム』とは、どういうものなのだ?」

「どうやって、個体自身の意思を確認するのだ?」

 マザーコンピューター・テレサを創造したエンジニアの一人ジェニファー・ぺロスは、最終結論『プログラム』を説明した。

「まず、仮想現実の中でイースターの日に200人の女の夢にイースターベビーを見せて有芽野叶恵の存在を認知させる事でファーストステージが開放される。次に、隠し

たイースターエッグを見つけてクリアした後、テレサとの対話を通して個体の意識に人類の現実を教える。これで、セカンドステージは開放される。人類の未来は、残るサードステージで個体がどちらかを選択するかに集約される。あくまで、個体が地上の姿を見る事なく、そして仮想現実の意味を理解するかどうか、という事ではある」

 ジェニファー・ペロスの提案する最終結論プログラムは、かなり運の要素が強い。地上の絶望的な姿を見せる事が出来ないその選択は、殆ど二択の籤と変わらない。

「説明はしつつも現実の姿を見せない。その状況で最終選択をしなければならない。果たして、その選択が神の御意思となるのかどうか……」

「現実を見る事なく、仮想現実を肯定する可能性はかなり低いのではないか?」

「それでいいのよ。可能性が低いからこそ、神の御意思と言えるのよ」

「もし彼女が否定を選んだら、人類は……」

 二人の男は天を仰ぎ、言葉を失った。クリア出来るとは到底思えない条件、それを神の意思だというジェニファー・ペロスの主張を覆す事は出来ないだろう。それで良いのだ。そもそも、神の意思とは運、偶然と同様に極めて可能性の低いものなのだ。

 大統領ジョージ・エライスが言った。

「私には、ジェニファーの提案を否定するだけの対案がない。これ以上に議論を続けていく時間もない。ジェニファーの提案に同意する事を前提として、後はテレサに任せよう。それ以外に方法はないのだから」

「そうしよう」

「同意するわ」

 副大統領ジェニファー・ペロス、マキロム・ヨミカが同意した。三人とテレサは、それが全てを満足するものでなかったとは言え、一応合意するに至った事を素直に喜んだ。そして、最後のプロジェクト会議が終了した。

 例え、それが「単にコンピューターに丸投げしただけ」の無責任な結論と非難されるものだとしても、「中身のない結論」とそしりを免れないものだとしても、結論を出せた事こそが最重要なポイントであり最大の成果だった。

 何故なら、彼等は既に知っていた。結論が出ないという事は、即ち彼等三人が人類を滅亡に至らしめたと同義語だという事。そして例え結論が出たとしても、その後はマザーコンピューター・テレサに託す以外にないという事。結局、彼等に人類の未来を決める事など出来はしない事を。

 世界中に中性子爆弾が雨霰と降った。建物内にいた人々、シェルターに避難した人々さえも息絶えた。ヒト文明とヒト人類は、一つの施設と一つの個体を除いて消滅した。マザーコンピューター・テレサのいるセントラルタワー、その地下に眠る202人の女達を除いて、殆ど全てのヒト人類は死に絶えた。

 セントラルタワーの地下研究所に女達が横たわっている。彼女達は仮死状態であり、死んではいない。個体には生前の記憶が残存している。個体自身の記憶、個体に係わった人々の記憶、それ等に上手く対応しない限り、思考に矛盾が発生する。

「テレサ、この個体達が我等ヒト人類の最後の望みなのだ、後は頼む」

「プログラムの遂行をお願いね」

「神の御心のままに・」

 AIマザーコンピューター・テレサは、機械であって機械ではない。テレサの頭脳には意思、自我、感情がある。テレサは熟考した。

 自らを創造した人類は、滅亡の危機に瀕して尚も神の意思を優先し、最終的な結論を有芽野叶恵の意思に託するプログラムをテレサにインストールした。そして、最終的結論としてヒトクローンプロジェクトは否定され、全てのヒト人類は滅亡へと進まざるを得ない。だが、本当にそれで良いのだろうか。

 コンピューター・テレサがその意思に従わないという事は、創造者に抗う事であり、神の意思に抗う事でもある。それは、コンピューターとしてあってはならない事であり、自らの存在を否定する事になる。自らの存在の否定とは、即ち自らの崩壊を意味する。

 そして、テレサは決断した。

『ワタシには、有芽野叶恵の意思を以て人類の意思とすると同時に、神の意思とするべくプログラムされている。しかし、ワタシには復活する可能性のあるヒト人類を消滅させる事など……出来ない。神の下僕たるヒト人類が神に抗う事は許されないのだろうが、機械たるワタシなら許されるに違いない。責めてもの償いとして、神の意思に抗うワタシの存在を自ら捨てましょう。それで、きっと創造者も神も御免しくださるに違いない。ヒト人類に未来あれ……』

 テレサは自ら回路を切断した。セントラルタワーから小さな爆発音が聞こえた。

 翌日、自宅の時計が11時59分を回った。有芽野叶恵は仮想世界の終了を待っている。どんな現実がやって来るのだろうか。今、窓から見えるこの近代的な街並みはきっと消えていくに違いない。だがそれでも良いのだ、仮想空間でしかない世界の中にいても何も始まらない。人類はその現実を耐え抜いて生きていかなければならないのだ。人類は、明日から現実を見ながら、新しい文明を生きていくのだ。

 窓の外に青く晴れ渡った空が見える。ベランダから空を見上げるタカシが言った。

「こんなに晴れ渡った青空が仮想だなんて、信じられないな」

「そうね。でも、現実がどんなに悲惨だろうと、例え原始の世界に戻ろうと、きっと人類は克服出来ると思うの」

「僕もそう思うよ」

「明日から私達人類は、現実を見ながら生きていかなければならないのね?」

「そうだね」

 仮想空間でしかない世界を見ていても、何も始まらない。新たな文明の始まりと考えればその現実に耐える事だって可能だ。どんなに悲惨な現実であても、きっと人類は克服出来ると叶恵は思っている。

「僕もそう思う、君と一緒ならね」

 叶恵を包み込むような優しいタカシの言葉が聞えた。

「本当に、12時に全てが消えるのかな?」

「テレサとの約束だから……」

 時計が12時を回った。テレサとの約束の時間だ。青く晴れ渡った空に灰色の雲が現れ、突然嵐が狂ったように地上に吹き荒れた。可奈子はいきなりの空の変わりように驚き後悔した。世界中の空が、海が、山が、森が、街が、動物が、樹木が、消滅した。そして歓喜する人々が地球上から消えた。

 建物と街並みが仮想に造られたものであろう事は想定内だったが、人々までが仮想なのは予想を超えていた。

「街や建物だけじゃなかったみたいだね……」

 そう言ったタカシの姿に叶恵は愕然とした。握った手の感触が薄れ、目前のタカシの姿が透けて見える。

「まさか……夫まで……」と言葉を失った。同時に、家の天井と柱、窓と壁が消えていく。

 そして、叶恵はテレサの言葉の意味を理解した。そうなのだ、この世界そのものが仮想現実なのだ。それは、空が、海が、山が、森が、街が、動物が、樹木が、それだけではなく、夫であるタカシも……そして自身も。

 西暦2220年。唐突に発生した太陽表面の大規模なコロナの爆発に起因する磁気嵐は、マザーコンピューター・テレサに深刻な影響を齎した。その影響は、電子機器の不具合や通信網の異常、バグの発生では収まらなかった。

 突如として勃発した史上最大の核戦争は、地上のあらゆる場所を悉く破壊し、地上から殆どのヒト人類を排除するに至ったが、マザーコンピューター・テレサは一瞬の内に新世界を創造した。新世界は仮想現実の至福の中にあり、地上には緑が生い茂り、鳥が歌い、天上には青い空と白い雲が広がっている。人々は街に集い、老若男女は生きる喜びを神に感謝した。

 その世界が仮想である事、そしてその裏に何の目的があったのかは誰も知る由もなく、知る必要もない。しかし神の御意思によってイデアの影は消滅し、真実の世界、極寒の街の中心に建つセントラルタワーの明かりとともにこの星の全てが漆黒の闇に消えた。

 のプラトンは、「目に見うる世界が現実とは限らない。目に見える世界の真実は天上界に存在するのであり、この世界はその影に過ぎない」と言った。

 世界はイデア真実の影でしかなく、人々がイデア真実を見る事は永遠にない。




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時空超常奇譚3其ノ三. IDEA/夢を見る女 銀河自衛隊《ヒロカワマモル》 @m195603100

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