第17話

 シェルドと通話を始めた瞬間、シェルドは私に頭を下げた。

「本当にごめん。エディゴにも、ケイドにも色々説明しておくべきだった。」

 私は驚いて、声も出なかった。シェルドは顔を上げて、ひとつため息をついた。

「エディゴは、水槽の脳の話になると周りが見えなくなるんだ。俺の意見も通らない。やつに色々言われただろう。覚えている範囲、話せる範囲で構わないから教えてほしい。」

 シェルドは少し疲れている様子だった。きっと、以前にも似たようなことがあったのだろう。私はエディゴから言われたことを、そのままシェルドに話した。

「……なるほどな。やつにしてはまだ優しい方で少し安心した。」

 深いため息をつきながら、シェルドは背もたれにもたれかかった。あれを優しい方だというシェルドの気が知れなかった。

「エディゴは声を荒げて話していたか?」

「……ううん、口調はいつも通りだった。」

「……よかった。前はもっとひどかったんだ。水槽の脳の話になると、まさに我を忘れて自分の考えを人に押し付ける、反対意見は認めない、そんな感じだった。」

 安心しきったのか、シェルドは温かい飲み物を飲んでいた。

「……どうして、エディゴさんは水槽の脳の話になると、そうなってしまうの?」

 私が尋ねると、シェルドは顔を歪ませた。

「お前にとってあまり気分のいい話じゃないと思うぞ?それでもいいのか。」

 私は頷いた。ここで聞いておかなければ、きっと私は後悔する。やらずに後悔するより、やって後悔した方がよい。

「俺たちの住む塔のように、人が多くて、かつ水槽の脳をいくつか持っている仮国には、脳人教という宗教が必ず存在している。」

 シェルドは力なく笑った。

「エディゴはその一派に属している。脳人教は水槽の脳を尊んで、それを管理する管理人は神から人生を操る才を与えられた存在として崇める宗教だ。」

 エディゴと話しているときに感じた吐き気が戻ってきた。私は必死に吐き気を飲み込んだ。

「脳人教は脳の管理人を崇め、水槽の脳に与える人生に自分の人生が選ばれることを最高の幸せとしている。彼ら身内の誰かが死ぬと、その人の人生を一冊の本にまとめて教会に納める。月に一度、脳の管理人たちが教会に訪れ、納められた人生の中から水槽の脳に与えるものを選ぶ。人生が選ばれた人は神に選ばれし者として、特別な扱いを受ける。」

 具体的な説明を聞くと、背中に寒気が走った。私は耐えきれなくなってもぞもぞ動いた。

「ということは、シェルドの塔には自分が体験したい人生を要求してくる脳はいないってこと?」

「いや、いるよ。うちの塔には二十体の水槽の脳がいて、そのうち三体は自分の意思を持っている。しかし、残りの十七体はもう自分の意思を忘れてしまっているから、脳人教が使っている。」

 シェルドは少し大きなため息をついた。

「自分の意思を忘れた脳なんて、生きていると考えていいのか分からないよな。水槽の脳は維持にものすごく電力が必要だから、節電が求められるご時世になると、いつも自分を忘れた脳を排除しろという意見はチラホラが出るんだ。それでも、水槽の脳が残っているのは脳人教があるから。そのくらい数も多いし力も強い宗教なんだ。」

 シェルドは遠くを見つめながら続けた。

「随分と前に……それこそ、お前たちを始めてエディゴに会わせた日だったか。この世界で多く敷かれている身分制度について話をしたよな。」

 私は頷いたが、私の姿はシェルドの目に映っていないようだった。

「ケイドやアミのような水槽の脳の管理者というのは、二級国民の人間がなる。そして、管理者になった途端、その者は二級国民から一級国民に身分が上がる。一級国民というのは、その塔の王の親族くらいしかいない身分だ。そんな特別な対応がされるということは、水槽の脳はひじょうに尊いもの、水槽の脳を操れる管理者は神に等しい才をもつ尊い者、脳人教の思考回路はこういうものだ。俺はよくわからんが、この世界の創造主が水槽の脳として眠っている、という風に考えている連中もいるそうだ。脳人教は水槽の脳から離れた世界にいる人間、下級身分に広がっている。エディゴは幼いころから一家皆脳人教に陶酔していたから、なんというか、水槽の脳の話になると、本当に周りが見えなくなる。」

 私は急に自分の役目が恐ろしくなった。人がたくさんいる塔なら、自分は崇拝されていたかもしれない。そう思うと悪寒が走った。

「……シェルドは水槽の脳が人間だと思う?」

 あまりこの質問にいい思い出はないが、シェルドの意見も聞いておきたかった。答えが怖いが、今聞かなければ一生聞くことができないような気がした。

 シェルドは答えにおびえている私を見て、すこし笑った。

「俺はとりあえず、水槽の脳は人間だと思っている。正直、水槽の脳は人間とは思い難いところはあるが、あまりそのあたりを考えると、人間の定義についての問題にたどり着き、答えのない問いに迷い込んで精神的に病んでしまうから、とりあえずそう考えておくことにしている。」

 私も一度、答えのない問いに迷い込んだ。経験があるからか、シェルドの言っていることはすんなりと理解できた。

「だから、俺は水槽の脳が生きているかどうかということに焦点を当てている。意思を忘れた脳は、エタナルーと生命維持装置によって、生物学には生きているのかもしれないが、俺はそう思わない。自分の力でも生きていけないうえに、自分の意思まで忘れた脳は、生きていない。自分の意思がある水槽の脳は、生きていると思っている。」

 シェルドの意見を聞いて「自分の意思もなく、誰かの指示がなければ自分から行動しない人間のことも、生きていないと言うの?」というアミの声が頭に響いた。

「ケイドは、水槽の脳をどう思っているの?人間か、そうでないか。」

 突然質問が自分に返ってきて、私は少し驚いた。

「僕は……、どう思っているのかな。……水槽の脳は人間ではないと思っていたけれど、色んな人の話を聞いて、自分の今までの管理を顧みると、彼らを人間だと思って行動していた時もあった。水槽の脳は、本当に自分が用意した人生を生きているのかと疑問に思ったこともあったけど、結局その答えは分からないし、これからもその答えを導き出すことは難しいと思う。僕が用意した人生を、水槽の脳が生きていなかったとしても、元々は自分たちと同じように生活していた人の脳だったと考えると、人間じゃないとも言うのもおかしい話だ。」

 真剣に私の話を聞いてくれているシェルドを見て、少し安心した。

「水槽の脳は「水槽の脳」という生き物で、人間の仲間だけど、少し違う。軍鶏と烏骨鶏みたいな関係と思えば、納得できるかもしれない。そう思ったこともあった。でも、それも変な話だよね。烏骨鶏は生まれた時から烏骨鶏、軍鶏は生まれた時から軍鶏だけど、水槽の脳は生まれた時から水槽の脳だったわけじゃないから。生まれた時は水槽の脳も人間だったのだから、やはり水槽の脳は人間なのだ。そう思っても、どうも納得できない。水槽の脳と自分は同じ「人間」というカテゴリーにあると思うと、どうしても違和感を抱く。なぜか、どうしても受け入れられないんだ。」

 長く話しすぎた。それでもシェルドは、黙って、時折頷きながら、私の話を聞いてくれた。私はシェルドをまっすぐ見て、結論を出した。

「今は、まだ、水槽の脳をどう思うか。人間か、そうでないのか。その答えは出せない。でも……すごく時間はかかるだろうけど、いつかは自分なりの答えをだせる。根拠はないけど、そう思っているよ。」

 シェルドは安心したように微笑んだ。

「俺の考えは参考程度に、ケイドなりの答えを見つけてくれ。」

 周りが水槽の脳について自分なりのそれなりに固まった考えをもっていたから、私は少し焦っていたのかもしれない。これは人間の定義にもかかわる問題だ。一生かけて水槽の脳について、人間の定義について考えて、死に際に自分なりの答えをだす。これでいいのかもしれない。自分のペースで自分の考えを磨いていきたい。

「それで……ケイド。アミのところに行く計画はどうする?俺は思いつきもしなかったが、エディゴの言う通り、お前がアミの所に行けば、お前の塔に在る水槽の脳は死んでしまう。それでも、お前はアミの所に行くのか。」

 シェルドに言われて、もう一度自分に問いかけた。

「……諦めていない。たとえ僕の判断で水槽の脳が死んだとしても、危険なことでも、アミの塔に行く。彼女を救いたい、傍にいてやりたい。」

 まっすぐシェルドを見て、はっきりと言うと、シェルドは泣きそうに顔を歪ませた。

「お前、本当に親父に似ているな。今の表情、アルフにそっくりだ。」

 父に似ていると言われて、嬉しくなって思わず口角が上がった。

「でも、瞳はやっぱり母親の瞳だな。アルフはそんなに鮮やかな瞳はしていなかった。お前の方が覇気のある目をしているよ。」

「シェルド、母さんに会ったことあるの?」

「あるよ。一度だけだが。」

 意外だった。母はあまり人と付き合いをしない性質だった。父はよく色んな人と連絡をとり、一家族しかいない塔で生きている割には広い人脈を作っていた人で、たまに相手に母を紹介したいと言っていたが、母はいつも断っていた。人と話すより、自分の趣味に没頭する方が好きで、母が絵を描いたり、自分の髪を編んで飾ったりしているときは、子供の私ですら話しかけてはいけないような気がしたものだった。そんな母が、シェルドの前に姿を見せたのか。

「アルフから色んな話は聞いていたけど、メレルさんはたしかに静かな強かさをもった女性だと思ったよ。」

 ものすごく久しぶりに母の名を聞いた。しかし、それよりも気になることがあった。

「強か?母さんはそんな強そうな見た目じゃなかったはず……。」

 母はそこまで身長も高い方ではなく、体も細く肌の色も白い。暗い茶色の髪を、どうやってやったのかよくわからないくらい細かく編み込んで一つにまとめて、どちらかというと大人しいような印象をもっていた。

 一瞬、シェルドの表情が固まって、気が抜けたかのようにふっとほほえんだ。

「違うよ。見た目の話じゃない。全体からでる雰囲気とか、口調とか、そういうところだよ。」

「口調!シェルド、母さんと話したの?」

 驚いてつい大声を出してしまった。シェルドは驚いて目を大きくした。

「話したよ。少しだけね。」

 意外なことしかなかった。そもそも、シェルドは母の口調のどこに強かさを感じたのだろうか。私は母に優しい印象しか抱かなかった。思ったことをそのままシェルドに話すと

「そりゃあ小さい息子の前で常に厳しくいる母親なんてなかなかいないだろ。」

と言われた。確かにそうだった。

「普段優しそうな人ほど、怒ると怖いもんだ。俺はそんな雰囲気を彼女から感じたよ。多分アルフは、尻に敷かれているのだろうなと思ったよ。」

 私は母に叱られて、小さくなっている父の姿を思い出し、思わず笑ってしまった。父がなぜ母に叱られていたのかはもう思い出せないが、珍しく大声を出す母と、母より身長は高いはずなのになぜか母より小さく見えた父の背中は、鮮明に思い出せる。

「うん、尻に敷かれていたよ。」

 そう言うと、シェルドは「だろうな」と言って笑った。

 お互いに思い出すことがあったのか、しばらく沈黙が続いた。口を開いたのはシェルドだった。

「お前にはつらい話かもしれんが、俺はメレルさんの最期を聞いて、本当に強い人だと思ったよ。」

 母の最期は、忘れられない。母が病気になってから、父は私を母に合わせないようにしていた。後から理由を聞くと、私の母のイメージを綺麗なままにしてやりたかったそうだ。痩せこけて、自分の家族のことも、自分のことも分からなくなった母で上書きしてほしくなかったそうだ。しかし、流石に父も最後には母と合わせてくれた。母も、その時は私や父のことをはっきり覚えていた。

 痩せて、髪も艶を失っていたが、髪を細かく編み込んでいるのは変わらなかった。母は私を見るなり、ベッドの近くに呼び寄せて、泣きながら乾燥した手で抱きしめた。一度は私を忘れてしまったことを、かすれてほとんど聞こえない声で何度も謝っていた。その日は朝から晩まで、父と母と一緒にいた。ずっと母に話したかったことを話すと、母は嬉しそうに頷いてくれた。今思うと、もう母には声を出すこともできないくらいに弱っていたのだろう。夜になると、母は目を開いているのか閉じているのかも分からないくらい衰弱しきっていた。それでも母は私を抱き寄せようと手を伸ばしていた。父が「三人で寝よう」と言ったので、私たちは医務室の狭いベッドで、親子三人川の字になって寝た。母は必死に腕を伸ばして、私と父を抱いた。私はその時に泣いてしまった。幼いながら、母と父と三人で寝ることができるのはこれで最後だと分かっていた。泣く私を、父が後ろから抱きしめてくれたのをよく覚えている。

 そのまま、母は息を引き取った。

 衰弱しきった体で、母は最後まで息子と夫を抱き寄せようとしていた。今思うと、相当強い気持ちがなければ成し遂げられないことだろう。

「母の最期も、シェルドは知っているんだね。」

「ああ、アルフから聞いたよ。」

 色々思い出して泣きそうになって、私はうつむいた。シェルドの優しい視線を感じる。

「メレルさんは、間違いなくお前とアルフを心から愛していたと思う。アルフも、不器用だから伝わりづらかっただろうが、ちゃんとお前を愛していた。若いうちに両親を亡くして、親と過ごした時間は他の子よりも短いかもしれない。でも、両親から受けた愛情は誰よりも大きい。お前はしっかり愛されて育てられているんだ。」

 止めることができず、目から大粒の涙がぼたぼたとこぼれた。

「……ケイド。」

 シェルドに呼ばれて、涙でぐちゃぐちゃの顔を上げた。

「お前、絶対生きてアミに会いに行けよ。」

 そう言うと、シェルドの目からも大粒の涙がこぼれた。私は、嗚咽をもらしながら、大きく頷いた。

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