第12話

「今日はいつもより疲れたよ。」

 授業が終わって、アミは背伸びをしていた。シェルドはもういない。まだやることがあるそうで、授業が終わるとすぐに画面から姿を消した。こんなに忙しくても、私たちの授業は必ずいつも通りにすすめ、質が下がることはなかった。

「いろんなことがあったからね。」

 思いっきり背伸びをして、大きなため息をつくと、アミは微笑んで手をたたいた。

「さあ、今日も始めますか。」

 ここ最近、授業が終わってから、アミと二人で通話をつなげたまま仕事を進めている。私が授業や読書に夢中で、仕事がおろそかになっていることをアミに話すと、アミが一緒にやればそんなことにもならないだろうと言って始まった。

 しかし、今日は仕事を進めたい気分ではなかった。この時間にやらなければ、今日の私はもう仕事に手をつけないだろうと分かっていたが、それでもやりたくなかった。今は読書をしたい気分だった。

「ケイド、やらないの?」

 ふとアミを見ると、もう仕事をやり始めていた。水槽の脳に与える刺激をコードとして入力する装置を手元に置いていた。

「ああ、やるよ。アミの準備がはやすぎるだけだよ。」

 授業の資料を片づけて、私も刺激を入力する装置を取り出す。電源を入れて、設定をいじっている間、アミは「CVDとFGFにAKを六十五、KJH-D43を十二」と、コードをつぶやきながら入力していた。AKは触感、KJHは嗅覚の刺激で、その後につくコードはにおいの種類を示している。D43は確か花の香りだったような気がする。

 入力の準備ができても、やる気はやって来ず、机の端においてある本ばかりが気になった。しばらくやっていても、集中ができず、仕事に関係する本を読むふりをして『トストロの建国』に手を伸ばした。何か言われるかもしれないと思ったが、アミは私を見ようともしていなかった。

「……ケイド。」

 アミが顔を上げた、隠しきれず本の題名が見られてしまった。

「仕事、やらないの?昨日も一人分しか進められてなかったじゃない。」

 そう言われて、私は子供のようにアミから目をそらした。

「別にケイドの仕事のことなんて、私には関係ないけどさ。水槽の脳だって、生きているんだよ。放っておかれるのを見ているのは、気分がいいものじゃない。」

 アミの発言に、違和感を覚えた。アミを見ると、もう彼女は仕事に目を向けていた。

「アミは、水槽の脳は生きていると思う?」

 ふと思いついた疑問をぶつけると、アミは怪訝そうに顔を上げた。

「生きているに決まっているじゃない。もう五年以上この仕事やっている。生きている脳と、死んでいる脳の見分けくらいつくわよ。」

 エタナルーに満たされた水槽の中にあっても、人工血液を循環させたりする、生命維持に関わる機械が正常に稼働していないと、脳は死んでしまう。脳は水槽の中で死ぬと、溶けて液体のようになってしまう。アミはその「生死の違い」について言っているのだろうが、私が言いたいのはそういうことではない。

「違う。僕がききたいのは、脳は本当に僕らが与えた刺激を受け取り、僕らがつくった人生を生きているのか、という疑問の答えだよ。」

 アミが装置から手を放し、まっすぐ私を見つめた。

「生きていると思う。私が管理している脳たちは、一つの人生を体験し終えると、いつも私に体験した人生の感想を言ってくれるの。生きていなかったら、そんなこと言うはずがないでしょ。」

「その感想が、本当に脳のものとはわからないじゃないか。機械が勝手にそれらしく作っているだけかもしれない。」

 アミは、あきらかに不機嫌そうな顔をした。

「何?私たちがやっていることは無駄だって言いたいの?」

「……。」

 アミに指摘されて、よく考えた。そして、不機嫌なアミの目をまっすぐ見て、はっきりと

「うん。」

と言った。

「何を言っているの。今まで脳の管理に携わってきた人もたくさんいるのよ。あなたのお父さんや、私のお母さんみたいに、この仕事に一生をささげた人だっているの。その姿を傍で見ておいて、この仕事が無駄だなんてよく言えたわね。」

 アミは深いため息をついた。

「ケイド、あなたは仕事に疲れてしまったのね。そういうときもあるわ。今日はもう終わりにしましょう。しっかり休んでね。」

 アミは通話を切ろうとした。その行動の速さには、もう私と話したくないという意思すら感じられた。

「僕の言っていること、間違っているかな。」

 無理やり会話を続けさせた。ここで終わりたくないと思った。

「間違っている。」

 はっきりと、よく通る声で言われた。

「アミの管理している脳は、自分の意思を伝えてくれる。脳たちはきちんと自分がつくった人生を生きているという実感も得られるだろう。でも、僕が管理する脳は、自分の意思を僕に一切伝えてこない。果たしてこれは生きていると言っていいのだろうか。」

「じゃあ、あなたは自分の意思もなく、誰かの指示がなければ自分から行動しない人間のことも、生きていないと言うの?……言わないでしょう?それと同じよ。」

「水槽の脳と、人間って、同じなのか?」

 頭に振ってきた疑問を、そのまま口から吐き出した。アミが血相を変えた。それまでの不機嫌そうな顔は、一気に怒りに染まった。

「何を言っているの?同じに決まっているじゃない。そんなこと言うなら、一度自分の頭かち割って中身を見てみなさいよ。水槽に納められているものと同じものがあるはずよ。私たちと水槽の脳の違いは、体があるかないか、たったそれだけ、ケイドはその程度の違いで私たちとは別の生き物だというの?」

「うん。」

 アミの大きくて黒い瞳をまっすぐに見つめて、はっきりと声に出して、頷いた。

「僕たちは、エタナルーと生命維持装置がなければ生きていけないわけじゃない。」

 アミは言葉が出なくなっていた。しばらく悔しそうに顔をゆがめていたが、やがて絞り出すように声を出した。

「それでも、私は水槽の脳と人間を別のものだと思えないのよ。彼らは、私と文章のやり取りができる。まるで、姿を見ることができない遠くの人間と話している感覚と、全く一緒なの。」

 その言葉の意味に気づき、私は寒気がした。アミは、笑っていた。

「私にとって、ケイドと話すことと脳たちと話すこと、それに大した違いはないのよ。」

「一緒にするなよ。僕と水槽の脳を。」

 耐えがたい侮辱とは、こういうものなのだろう。全身に静かに怒りが広がっていった。

「そんなに一緒にされるのが嫌?」

「嫌だよ。僕らと水槽の脳は違う存在じゃないか。」

「もとは同じよ。」

 アミは私をにらんだ。

「あなた、水槽の脳を下に見ているでしょ。確かに、私たちとは違うものかもしれないけど、私たちと同じように考えることができる存在よ。そんな風に思っているとは思わなかったわ。」

 私が何も言わずに黙っていると、アミは続けた。声は怒りで震えていた。

「あなたと同じ仕事をしていると思いたくない。見損なったわ。」

 アミをにらむと、彼女もにらみ返してきた。

「もういい。さようなら。」

ぶちん、と音が鳴って通話が切れた。画面は真っ暗になり、怒りで歪んだ私の顔が反射していた。

「ケイド様、見回りのお時間です。」

 扉をノックする音とともに、秘書の声が聞こえてきた。アミとの通話が切れ、鬱憤を抱えながらベッドに飛び込み、寝ようとしたが頭の中に考え事が多くて眠れず、いらいらしているときだった。

 「今日は体調が悪いから休みたい」と言いたいところだったが、それを言えば秘書は私を心配して、勝手に部屋に入ってくるに違いない。なんとなく、それは嫌だと思った。昔は自ら秘書を部屋に招き入れて、他愛のない会話などしたものだが、ここ二年ほど秘書を部屋に入れていない。

「今、行くよ。」

 大きなため息をついて、私は答えを出した。脳の部屋を適当に歩いて、それで済ませればいい。


 脳の部屋に着いて、ずらりと並ぶ五つの脳を目の当たりにすると、少し落ち着きを取り戻しかけていた気分もまた乱れた。アミの言葉、脳を異常なまでに大事にしていた母の姿が思い浮かんで、頭を抱えたくなった。この水槽につまっている脳みそは人間と同じ、その考えは全く理解ができなかった。

 脳の周りをうろうろ歩く。いつものように、脳の様子や電光掲示板を確認するほど心に余裕はない。しかし、確認しなければ秘書に怪しまれる。何があったのかを秘書に説明する事態は避けたかった。秘書には、アミやシェルドといった外部の人間と連絡を取り合っていることすら話していない、そこから説明しなければならないのは本当に面倒くさい、嘘をつくのも面倒くさい。私は形だけでもまじめに見回りに取り組むことにした。

「Aの一番、電光掲示板、生命維持装置、異常なし。」

 何も考えずに口を動かそうと思っていたが、この点検の文言を唱えると、脳の管理の仕事をこなす母の姿が頭に浮かんだ。幼いころの私は脳の部屋が怖くて、入るときは母の服に顔をうずめて周りを見ないようにしていた。脳の部屋の薄暗くて青っぽい照明、母が着ていた白い上着、それによって私の視界は淡い青色に包まれていた。その青の中で、母が脳に語りかけているのをただ聞いていた。

 母は、脳を名前で呼んでいた。名前で呼んでいると、いつか脳が体をもっていた頃の自分を思い出し、意思を伝えてくるようになると、母は本気で思っていた。アミも脳を名前で呼んでいると言っていた。彼女は脳が自分から名乗ったと言っているが、今の私はそれを信じていない。それどころか、アミが管理する脳が意思を持っていることすら、今ではすべてアミの妄想だったのではないかと疑っている。私の母のように、そうであってほしいと願いすぎて、妄想と現実の違いが判らなくなっているのかもしれない。

 ふと、顔を上げると脳が目の前にあった。あまりじっと見ていたくないが、どうしてか見てしまう、そんな見た目をしていた。

 母は精神から病魔に侵された。母の病気がわかると、父は母と私を引き離し、一人で母を看病していた。あるとき、私はどうしても母と一緒にいたくて、父の言いつけ破って母の病室に入った。母は少し痩せていたが、声をかけると変わらぬ優しい笑顔を向けてくれた。思ったより母は元気そうで嬉しくなって傍に駆けよると、母は私を抱きしめて「ダッカス、よく来たね」

と、私に言った。私は怖くなった。「僕はケイドだよ」と言っても、彼女は私のことをダッカスと呼ぶ、ダッカスが脳の名前の一つであると気づくのに、そう時間はかからなかった。気づいた途端、私は母を母と思えなくなって、ただひたすらに逃げ出したくなって、何か理由をつけて部屋から逃げ出した。部屋の前には父が立っていた。怒られると思ってうつむくと、父は私を優しく抱きしめて

「母さんを嫌いにならないでくれ。誰が、何が悪いわけでもないんだ。」

と私の頭を撫でた。私はその日、初めて父の腕の中で泣いた。

あの時の母は、見た目はそこまで変わっていないのに、病魔に侵される前の母とは別の人に思えた。病気のせいで、母は別人になった。もし、病魔に侵される前の母の脳を、水槽の中に納めていたら、私はその脳を母と思って生きることができただろうか。そうしていれば、脳を人間だと思うことができただろうか。

今まで、水槽の脳は人間なのかなんて、考えたこともなかった。今日は突発的に、私は水槽の脳を人間として見ていないと言ったが、本音を言うと、本当にそう思っているのかは自分でもわかっていない。私が脳たちに見せているのは「人生」だ。そう分かっていながら、水槽の脳は人間でないというのは矛盾している。私は、できる限り人間らしい日々を送らせている。きっと水槽の脳に「お前は何だ?」と問えば、自信満々に「人間だ。」と言うだろう。本人が自分は人間だと思っていれば、人間になれるのだろうか。しかし、水槽の脳を外から客観的に見ている私からすれば、臓器の一つに過ぎない。

自分が己を人間だと思っていれば、人間と言えるのか。それとも、他の者から人間と思われて初めて、人間と言える存在になれるのか。

そもそも、人間の定義とは何だろう。

例えば、誰しもが人間といわれて思いうかぶ五体満足の姿、これは疑いもなく人間である。その姿から、四肢を落とす、その姿も間違いなく人間だ。では、四肢を落とした姿から、頭と胴を切り離す。その場合、人間らしい姿はどちらか?頭と胴を切り離した時点で、もう人間ではないのか?そういうわけでもないだろう。頭と胴を切り離せば、大体の場合そのものは「死者」となるが、だからと言って人間でなくなるというわけではない。人間の見た目から定義を考えることはできない。

言葉を使ってコミュニケーションをとることができるものが人間か?その定義では不十分だ。人間のほかにも他者とコミュニケーションをとることができる生き物はたくさんいるし、ここに定義を置けば機械の秘書も人間ということになってしまう。

崇拝が人間の定義か?窮地に陥った時、何かに祈るということができるのは人間だけだ。もしかすると、これが人間の定義なのかもしれない。しかし、これを人間の定義とすると、水槽の脳は人間ということになる。私は脳たちに与えた人生の中に、何度も「祈ること」をさせた。自発的に祈ることを人間の定義としても、脳たちは自発的に祈っていると思い込んでいる。ここまでくると「自発的」の定義もややこしくなってくる。

私は顔を上げて、目線の高さにある水槽の脳を見つめた。

本当に、彼らは人間なのだろうか。水の中で、血管も何もかもむき出しにしているこれらが?

私は崩れ落ちそうになるのに耐え、うつむいた。これ以上人間の定義について考えても、答えは出てこない。何を考えても、水槽の脳は人間ではないとは言えないのだ。人間の定義に答えはないのだ。

顔を上げて、もう一度水槽の脳をじっくり見た。冷汗が噴き出てきた。


人間とは何だ?


この言葉が私の頭を支配した。たくさんの考えが、浮かんでは消えていく、これ以上水槽の脳を見ていたら気が狂いそうだった。

私は逃げるように脳の部屋を出た。出口までの道のりが、いつもより遠く感じた。

部屋を出て、膝に手をついて荒く息をついている私に秘書は「大丈夫ですか」と声をかけた。秘書を見上げた。人間らしい容姿をしているのに、人間ではない秘書を見ていると、また人間の定義について考えてしまいそうになって、私は急いで彼女から目をそらした。

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