第11話

 エディゴと初めて会った日から、二年が経った。あれから、シェルドが忙しいときはエディゴが授業を行うことも増えた。エディゴは「私はあまり人にものを教えることが得意ではありませんので、わかりにくいところがあればすぐに教えてくださいね」と言っていたが、謙遜する必要もないくらいわかりやすい授業だった。大事なところを必要以上に強調するシェルドとは違い、エディゴはすべてを丁寧に説明する授業を行っていた。たまに受けることができるエディゴの授業は新鮮で、すらすらと頭に入るような気がした。

 この日もシェルドの授業を受けるために、通話の準備を終えて待っていた。いつもは遅刻など絶対にしないシェルドが、今日はなかなかやって来なかった。

「シェルド、遅いね。」

 アミは不安そうに言って、シェルドを心配しているように見せていたが、目元は少し笑っていて、この時間がもう少し続けばいいと思っているのがバレバレだった。

 アミと一緒に授業を受けるようになってから、三年以上の年月が流れた。初めて見た彼女と今の彼女を比べると、髪は伸びて顔立ちも大人びたように感じるが、強くてはっきりとした髪と瞳は変わらなかった。最初はあまり授業に集中しておらず、すぐに授業を受けることをやめてしまうのではないかと不安に思っていたが、アミはどんなに授業を面倒くさく思っていても、必ず毎回顔を出し、内容もそれなりに理解しているのか、授業終わりに行う試験は毎回ほぼ満点を取っていた。シェルドも、アミはただ授業よりも雑談が好きなだけで、決して学ぶことが嫌いなわけではないということをよく理解していた。

 今はシェルドがやって来ないこの状況を少し楽しんでいるアミも、もう少し時間が経ってもシェルドが来なければ、きっと私以上に心配するだろう。そう分かっていたので、少し笑顔で

「いつもは早いシェルドが遅刻だなんて、珍しいね。何かあったのかな。」

と大して心配していないように言った。私もこの状況を少し楽しんでいると分かったアミは、不安げな顔をすぐに笑顔に変えて、シェルドが今何をしているのか予想する遊びを始めた。

 ほどなくして、画面に人影が一つ増えた。

「こんばんは。映っていますか?」

 画質が粗く、人影があることしか分からなかったが、声でエディゴだと分かった。

「エディゴ?シェルドはどうしたの?」

 徐々に画質が上がって、エディゴの笑顔がはっきり見えるようになった。

「シェルド様はお仕事の都合で外に出ておりますので、戻るまで私が授業を進めます。」

 エディゴは手短に説明したが、彼も急に頼まれたことなのだろう。顔に少しの動揺が見えた。

「えっと……。最初に、今日読んだ本の感想を聞かせてくれませんか。」

 アミは少し申し訳なさそうに、今日は少しも本を読んでいないことを告げた。活字嫌いのアミでも、一日に少しも本を読んでいないというのは初めてのことだったので、私は少し驚いた。エディゴは、アミが活字嫌いであることを知っているので、ただ笑顔で

「読書は強制されるものではありません。時間を何に使うかはアミ様の自由です。」

と言った。アミの顔に笑顔が戻った。

「……ただ、この時間に話すことがないというのもさみしいので、アミ様が今日行ったことついてお話してくれませんか。いつもは読書に充てている時間を、今日はどのようなことに使ったのか、気になります。」

 アミが頬に手を当てて考え始めた。

「今日はずっと脳の管理の仕事をしていたかな。」

 エディゴの表情がパッと明るくなった。

「仕事のお話、詳しく聞かせてくれませんか。」

意外な問いだった。エディゴは脳の管理に興味があるのだろうか。

アミはどう伝えたら分かりやすいかを考えながらエディゴに説明して、一通り説明し終えると、エディゴは満足そうに微笑んだ。

「なるほど、脳の要求にあった人生を脳にお届けしているのですね。一人一人の要求にこたえるのは、大変でしょう。」

「確かに大変だけど、私の塔には水槽の脳は三人しかいないから、まだ何とかやっていけているよ。」

「そうですか。」

 エディゴは笑顔で頷くと、私に視線を向けた。

「ケイド様も水槽の脳の管理をやっておられると聞きました。アミ様と同じように、脳の要求をきいて人生をつくって提供しているのですか。」

「僕の塔にある脳は、自分の意思を伝えてきません。だから、同じ仕事をしていても、アミとは人生の作り方が全く違い、僕は本を参考にして人生をつくっています。」

 エディゴは驚いていたが、その目はきらきらと輝いていた。よほど脳の管理に興味があるのだろうか。

「そうですか。なかなか聞けないお話がきけて、とてもうれしいです。」

「個人的には、脳の管理の話をもっと聞きたいのですが、時間が無くなってしまうので、また今度聞かせてください。」

 エディゴは、仕事と趣味を分けて動くことができる人なのだろう。切り替えるように手をたたいた。

「さて、次はケイド様が読んだ本について聞かせてください。」

「あ……はい。僕は『トストロの建国』を読み進めました。」

 普段の落ち着いた表情に戻っていたエディゴの顔が、また明るくなった。

「わぁ……『トストロの建国』……懐かしいです……。」

「エディゴも読んだことがあるの?」

 アミの問いにエディゴは懐かしそうに微笑んで、頷いた。

「シェルド様から勧められて、この本を読み始めました。この本は、私が外の世界に興味を持つきっかけとなり、私をアルフ様やリリカ様と出会わせてくれた。私の人生を大きく変えた一冊です。」

「エディゴも『トストロの建国』の感想を語り合うコミュニティに参加していたのですか。」

「参加していました。本当に懐かしい……。」

 最後は独り言のようだった。

「みんなが絶賛するくらい面白い本なら、ちょっと読んでみたいな。」

 アミが小声でつぶやいた。懐かしさに浸っていたエディゴも、その言葉を聞き逃さなかった。

「ぜひ、読んでみてください。きっとお気に召すと思います。」

 エディゴは少年のような顔をしていた。

「ケイド……」

 アミが何か言いかけたが、なんとなく言いたいことは分かったので、手を前に出して制止した。

「大丈夫。いつかアミがこの本を読む時のために、僕は内容に関する感想は言わないようにするね。」

 そういうと、アミは「ありがとう」と言って、やわらかい笑顔を見せた。黙っていると、人を寄り付かせない雰囲気のある彼女だが、笑顔は花開く瞬間のように繊細で温かみのあるものだった。アミの笑顔から、視線をエディゴに戻した。

「この本は、本当に外の世界への興味をそそられるものですね。父が熱心に外の世界について語るのを、幼いころから聞いていたので、外の世界に関する知識は人よりある方だと思っていました。しかし、この本を読むと、自分が知っていたのは外の世界のほんの一部分にすぎない、私は外の世界について無知であると思い知らされました。」

「外の世界は、本当に広いです。きっと一生かけて外の世界について調べても、そのすべてを知ることは不可能でしょう。」

 エディゴの言葉に、アミが小さく驚いていた。この本を読んでいなければ、私もアミと同じような反応をしていただろう。

「外の世界について知れるという点でも、素晴らしい本だと思いますが、それ以前に物語の構成、内容が面白い。僕はこの本があまり人に知られていないことが不思議でなりません。」

 私の言葉に、エディゴは笑った。その笑顔は、いつものような優しい微笑みではなく、悪巧みをするような、歪んだ笑顔だった。エディゴの見たことない表情、その変貌ぶりに、私は寒気がした。

「シェルド様から聞いていないのですね。……いや、きっといつか話すつもりなのでしょう。そうでなければ、私を秘書として紹介しなかったはず。」

 エディゴが何を言っているのか全く分からなかった。アミと顔を見合わせて、お互いに同じ気持ちであることを確認して、なんとか少しの安心を得た。

「ケイド様、その『トストロの建国』は多くの仮国で禁書となっているのです。」

 一息ついて、エディゴはいつもの落ち着いた表情と声に戻った。しかし、その顔に笑みは全くなかった。

「え……。」

「……どうして、禁書にする必要があったの?そんなに危険な本なの?」

 動揺したアミが、立て続けに質問した。読んでいる私でも、その理由は全く分からなかった。

「世界が定めた法律、仮国共通法で、私用で外の世界に出ることを禁じられていることは知っていますか。」

「知っている。」

 アミが答えたので、私もエディゴの目を見ながら頷いた。

「仮国共通法のほかに、仮国選択法というものがあります。そのうちシェルド様から話されるでしょう。仮国共通法は五十三条の法律であるのに対し、仮国選択法は何万という法律の集まりで、その中でそれぞれの仮国が独自に何を施行するかを選ぶことができるものです。その中に、外の世界について調査研究すること、外の世界への興味を抱かせる言動や表現を禁ずる法があります。」

 エディゴは表情を暗くして、うつむいた。鮮やかな金色の瞳が、くすんで見える。深呼吸をして、エディゴはつづけた。

「仮国選択法第四千八十七条、外界思想について。……この法律によって、私たちは外の世界に興味を持つことすら許されていないのです。そして、この法律はほとんどの仮国で施行されており、私の住むドルティット塔でも施行されています。本来、この『トストロの建国』は、この仮国にあってはならぬ本なのです。」

 顔を上げたエディゴの瞳は、獲物を狩る獣のような強い光を放っていた。

「どうして外の世界に興味を持つことすら禁じられているのか、シェルド様はそれを国に直接尋ねたことがあります。しかし、その答えは教えられず、シェルド様はそのまま国の施設に三か月軟禁され、外の世界の危険性を教え込まれたそうです。釈放された後も、三か月監視がつけられました。それほど国は外界への興味を失くすことに徹底しているのです。」

「シェルド様、アルフ様、リリカ様、そして私は、この一件をきっかけに、外の世界の調査研究を始めました。」

「父が!」

「お母さんも?」

 私とアミは同時に声を上げた。し

「私、そんな話お母さんから聞いたことないよ。お母さんは私に隠し事なんてする人じゃなかった。それに、そんなことしているところなんて見たことない。本当にやっていたの?」

 アミはエディゴが嘘を言っていると疑っているようだ。私も彼の言葉を信じられない。母が死んでからは、父と行動を共にし、すべての時間を同じ部屋で過ごしていたが、調査研究らしきことをしている所は見たこともなかった。

「この調査研究は、法に反するものです。自分が犯罪行為をしていることを、わざわざ子に言う親などいますか?」

 私もアミも何も言い返せなかった。

「外の世界の調査研究というのは、禁書となっている本を読み、そこから外の世界の情報を仕入れることが主な作業でした。黙っていれば、ほかの人間には読書をしているようにしか見えません。」

 アミはうつむいた。長くて艶やかな髪が前に垂れる。母に隠し事をされていたのがショックだったのか、それとも母が自分を守ってくれていたことに涙を流しているのか、こちらには分からなかった。

 昔のことが頭によぎって、私はあっと声を出した。

「どうかしましたか?」

「いや、父の遺品の中に二冊の古い本があったのを思い出して……。もしかして、それは研究のために読んでいた本だったのかな。」

「……それは、見たこともない文字で書かれていましたか?」

 頷くと、エディゴは微笑んだ。

「それは間違いなく、私たちの研究のために読んでいた本でしょう。禁書となっている本の中には、人間が外の世界で暮らしていた地上時代の旧言語で書かれている本もあります。アルフ様は旧言語に詳しい方でしたので、解読を任されていました。」

 父が旧言語に詳しいなんて聞いたことがなかった。その知識を少しくらい私に分けてくれもよかったのに。

「そんな話、私たちにしていいの?私たちが誰かに通報するかもしれないじゃない。」

 アミが顔を上げてエディゴに尋ねると、彼は冷たい表情を張りつけた。

「構いません。失礼ですが、あなたたちはドルティット塔の役人とつながりはないでしょう。仮につながりがあっても、自身の親を犯罪者にするようなことはしないでしょう。」

 エディゴは笑顔に戻ったが、穏やかさも温かさもない、取り繕った笑顔だった。

「それに……私が話していなくても、シェルド様はこの話をあなたたちにするつもりでしょう。」

 口を開きかけたアミを制止するように、エディゴは言葉をつづけた。

「シェルド様から同じ話が語られた時は、初めて聞いたふりをしているのですよ。」

 二人で黙ってエディゴを見つめていると、満面の笑みを浮かべていたエディゴが、一瞬で真顔に戻った。

「そして、彼はあなたたちを外の世界の研究に誘うつもりでしょう。先に言っておきます、参加するか否かは自由です。もし、お二人が人のいる仮国で生活している方なら、誘われてすらなかったでしょう。誘ったとしても、断るという選択肢を与えていなかったでしょう。彼はそれができる人です。環境に救われましたね。」

 最後の一言には、心がこもっていなかった。

「……シェルド様がお二人を研究に誘うのは、きっとかなり後の話でしょうが、今話したことは頭に入れておいてほしいと思います。」

 断るという選択肢を与えない、シェルドはそれができる人、それを聞いて私の中に初めてシェルドへの恐怖が現れた。彼はただの教師ではないのだろう。エディゴは微笑んだが、もう彼の笑みも笑みではなかった。

「そろそろシェルド様が戻るころですね。最後に一つ、あなたたちと同じようにシェルド様の授業を受けてきた身から、助言させてください。彼の言葉を信じすぎてはいけませんよ。」

 衝撃的な言葉だった。私たちは三年以上、シェルドの授業をうけ、シェルドの言葉を信じてきた。

「嘘を教える人ではないので、ほとんどの言葉は信じていいと思います。しかし、教師というのは、恐ろしいものです。その気になれば、教え子に自分と同じ思想を植えつけることだってできます。シェルド様はそんなこと絶対にしませんが、どれだけ気を付けていても、言動に思想は表れてしまうものです。これはシェルドの考え方が混ざった言い方だと思ったら、その言葉は鵜呑みにせず、一度自分で調べてみるとよいでしょう。自分で調べることも学びの一つです。」

 私とアミは、張りつめた顔でゆっくりと頷いた。エディゴの表情から、これは本当に私たちとシェルドを気遣って言っていることが分かった。「シェルドは自分の思想を教え子に植えつける人ではない」というエディゴの発言は、噓偽りのないことだろう。私も、シェルドはそういう人ではないと思う。明確な根拠はないが。

「それでは、またお会いしましょう。」

 エディゴは微笑んで画面から消えた。この笑みは心からの笑みだろうか。

しばらく緊張感に包まれ、二人とも動けずに固まっていた。しばらくして、アミが大きなため息をつきながら肩の力を落として、背もたれにもたれかかった。それを見て、ようやく体が動いた。

「なんか……すごい話を聞いちゃったね。」

「そうだね。」

「……もし、シェルドから外の世界の研究に誘われたら、ケイドはどうする?」

 訊いておきながら、答えを聞くのが怖いのか、アミの表情はどこか不安げだった。

「僕は……参加すると思う。外の世界について、知りたいことがいっぱいあるんだ。」

「例えば、どんなことを知りたいの?」

「空について知りたい。空はだだっ広い青色の領域で、時間帯によって暗い青になったり、緑っぽい青になったりするんだって。父からそれを聞いた時から、どうしてそんなことになるのか、知りたくてたまらなかった。……本当は、この目で空を見てみたいんだけどね。それは叶わないから……。」

「空か……。私も見てみたいな。」

「アミは、どうするの?」

「私は……参加しないと思う。」

 アミはそう言うと、少しうつむいた。

「どうして?」

「……外の世界に、興味がないわけじゃないわ。でもね、私は椅子に座ってあれこれ考えるより、実際に目で見て、感じた方がいいと思うの。」

 顔を上げて、アミはまっすぐ私を見つめた。

「……ずっと前、ケイドと初めて仕事の話をしたときのこと覚えている?」

 アミと初めて話した時の話だ。そのときはまだ、彼女の顔も知らなかった。

「覚えているよ。」

「そのとき、ケイドは脳に与える刺激が経験したことのないもので、どのようなものかどうしてもわからないときは、本を読んで理解すると言っていたよね。」

 確かにそんなことを言った気がする。もうよく覚えていないが。

「私は、違うの。脳に要求された刺激が、頬を打たれた時の痛みなら、私は自分の頬をぶって、その痛みを体験する。青空の下で駆けるときの爽快感なら、私は空気清浄機の近くに立って、綺麗な空気の中で、明かりをたくさん灯して思いっきり走って、その爽快感に近いものを体験するの。」

 アミは一瞬私の目を見て、申し訳なさそうに笑った。

「ケイドのやり方が悪いって言っているわけじゃないのよ。本に書いてあることだけで、その刺激を想像できるのは素晴らしいと思うわ。ただ、私は身をもって体験することが一番大切だと思っている。私は、そういう人間なの。」

 そう言った途端、画面に人影が一つ増えた。

「遅れて申し訳ない。仕事が立て込んでいてね。少し遅くなってしまったが、今日の授業を始めよう。……こんなに遅くなってしまうなら、エディゴに頼んでおけばよかったな。」

 いきなり現れたシェルドは、こちらの混乱を気にも留めず早口でぺらぺらと話し始めた。しかし、そんなシェルドよりも気になることがあって、私とアミは顔を見合わせた。おそらく思っていることは同じだろう。シェルドは、不在の間に授業を進めるようにエディゴに頼んでいたわけではなかったのだ。

「どうした?二人で見つめあって。」

「何でもないよ。」

 笑顔で平然と嘘をつくアミを見て、人は案外簡単に嘘をつく、信じすぎるべきではないと、人生で初めて思った。

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