第10話
「今日の講義を始めようか。早速だが、昨日話した特別講師が来てくれた。紹介しよう。俺の秘書、エディゴだ。」
シェルドがそう言った瞬間、シェルドの隣に男が映った。私は驚いた。シェルドの秘書と聞いて、特別講師は女性だと思い込んでいたからだ。
「ケイド様、アミ様、初めまして。エディゴと申します。ドルティット塔一階地区出身で、長らく靴磨きを生業としていましたが、縁あって今はシェルド様の秘書兼家政婦をしております。」
エディゴは褐色の肌に、ふわふわした黒髪と優しい金色の瞳をもっている男だった。アミも黒髪をもっているが、アミのそれとは随分違っていた。アミの髪は、はっきりとした輪郭をもっていて、周りのものが色褪せて見えるほど強い印象をもっているが、エディゴの髪は周りのものと溶けてしまいそうなくらい柔らかな印象をもっていた。優しそうでありながらも陽気な雰囲気を携え、秘書という堅苦しい職業をしているようには見えなかった。そんな印象のエディゴから丁寧な自己紹介、敬語が出てきたことに、私もアミも驚きを隠せなかった。
「アミです。よろしくお願いします。」
アミが自己紹介しているのを聞いて、やっと自分も名乗らなければと思った。手短に挨拶すると、エディゴは優しく微笑んだ。
「シェルド様からお話は聞いていました。私はリリカ様やアルフ様とも面識がありましたので、お二人に会えて本当にうれしいです。」
優しい口調でそう言った後、エディゴはシェルドに顔を向けてまた微笑んだ。
「話には聞いていましたが、本当によく似ていますね。アルフ様、リリカ様とまた会えたような心地です。」
「ああ、そっくりだよな。でも、いくら似ていてもケイドやアミはアルフやリリカとは違う人間だ。あまり二人の姿を重ねすぎないようにな。」
エディゴは「そうですね」といって、少し困ったように笑った。シェルドはいつになく真剣な様子だった。
「今日、エディゴをここに呼んだのは、お前たちにこの世界の仕組みを理解してもらうためだ。」
「今日の授業は、多くの仮国で布かれている身分制度について説明する。」
シェルドは淡々と説明し始めた。いつもは、身振り手振りも激しく、大事なところを強調しながら説明するのに、今日は声にすら抑揚がなく、動きも全くなく、ただ資料に視線を落として声を発しているだけだった。
人間がたくさんいる仮国には、今でも身分制度が布かれているということは知っていた。しかし、どこか本当のことだと思っていない節があった。シェルドの口からもそれが語られて初めて、現実にあることなのだと実感した。
一級国民から五級国民まで身分が分けられていて、数字が小さいほど身分が高いとされている。身分の低い者は地下に詰め込まれて、その日食べるものにも困る生活をしている。身分が高い者は上階で贅沢な生活をしている。シェルドは淡々と、ここまで一気に説明すると、ため息をついた。
「いつものような授業ができなくてすまない。この話は、説明しにくい。」
「大丈夫だよ。」
アミの言葉に力なく微笑むと、シェルドはまた資料に目を落とした。
「身分制度を布いている仮国は、見ただけでその人の身分がわかるように、身分証明リングを作り出した。」
そういうと、シェルドは自身の右腕を画面の前に向けた。それを見て、エディゴも服の袖をまくって右腕を画面の前に向けた。シェルドの右腕には緑色の腕輪が、エディゴの右腕にはうすい青色の腕輪がはめられていた。
「身分証明リング。これの色でその人の身分がわかる。生まれた瞬間に取り付けられ、死ぬまで右腕から離れることはない。」
あまり頑丈そうな見た目はしていなかった。こんなちっぽけな腕輪が示す身分で、苦しんでいる人がどのくらいいるのだろうと思うと、自分のことでもないのに辛い気持ちになった。シェルドもエディゴも、険しい表情を浮かべていた。
「この緑色のリングは、俺が三級国民であることを示している。」
「この水色のリングは、私が四級国民であることを示しています。」
一番高い身分である一級国民には紫色の腕輪、二級国民には赤色の腕輪、一番低い身分である五級国民には、その腕輪すら与えられないそうだ。
「さっきも話した通り、塔型仮国では、身分の高い者は塔の上階に、身分の低い者は地下での生活を強いられる。それぞれの身分には生活地区が決められていて、身分の高い者が他の自分より下の身分の生活地区に入ることはできるが、その逆はできない。今、エディゴは私の秘書という仕事として、三級国民生活地区で暮らすことが許されているが、これはかなり特殊な例だ。その他にもたくさんの決まりがある。しかし、どれも上級身分が有利なものばかりだ。」
シェルドが真剣に語る横で、エディゴは暗い顔をしていた。きっと彼はこの身分制度にかなり苦しめられてきたのだろう。暗い顔のまま力なくほほ笑んで、エディゴが語り始めた。
「四級国民生活地区での暮らしは、つらいときもありました。教育をうける場を与えられているのですが、四級国民はみな貧困であるため、学校に通う時間があるのなら働けという家庭が多く、学校があってもほとんど子供たちは通えないという状況でした。」
私たちの顔を見回して、エディゴは続けた。先ほどより笑顔が自然になっていた。
「私も幼いころは、仕事をしながら学校に通っていました。朝は四級国民地区に入る三級国民たちの靴を磨き、昼間は学校で授業を受けて、夜は父の製靴業を手伝う。忙しく、生活は苦しかったですが、それでも充実した楽しい毎日でした。」
エディゴの優しい口調で語られる、平和なエピソードにこわばっていた私たちの表情も徐々にやわらかくなっていった。
「私の家庭も、周りの人たちもみんな物を作る仕事をしていました。法律で特に決まっているわけではありませんが、私たちが住む塔では、四級国民がものを生産して、それを三級国民が上級身分に売るというシステムが出来上がっていました。」
「三級国民は商いを生業としている人間が多い。俺の家も商売をしていた。」
付け足すようにシェルドがつづけた。エディゴやシェルドの話に出てきた仕事は、私にもアミにも馴染みがないものだった。私たちは脳の管理という仕事しか知らない。商売という概念すらよく分かっていない。なんとなくわかる気がするという浅い理解で話を聞いていた。
「五級国民は何をしているの?」
アミが不安そうに聞いた。四級国民がものを作る人、三級国民がものを売る人、二級国民や一級国民がものを使う人、ここまでの説明を聞いていれば、五級国民は何をしているのかというのは自然な疑問だった。
「考えたこともなかったな。五級国民は何をしているんだろう。」
「そうですね……地下に住んでいるという話は聞いたことがありますが、それ以上の情報は聞いたことがありません。」
シェルドが顎に手を当てて考え始めた。エディゴも何か考え込んでいる様子だった。私とアミは顔を見合わせた。私たちには、二人の様子がものすごくおかしく見えた。二人は今まで生きていて、五級国民が何をしているのかと疑問に思ったことすらないのか。確かに、私も自分が住む塔のすべてを知っているわけではない。前に入ろうとした最下層である地下二階には、怖くて結局今でも入ることができていないし、私の塔は三階から二十六階まで閉鎖されており、どうやっても入ることができない。しかし、彼らが五級国民について知らないことは、私が塔のすべてを知らないことと同じなのだろうか。人がたくさんいる環境にいると、同じ塔に住む人間のことを、ここまで気にかけなくなるものなのだろうか。
「すごく気になるな。後で調べてみるか。」
シェルドの提案に、エディゴは頷いた。それを見て、シェルドは笑顔でアミに語りかけた。
「ありがとう。アミにきかれなければ俺たちは一生この疑問を抱くことができなかっただろう。」
アミは困惑した表情のまま頷いた。
「どうして、今まで疑問に思うことすらなかったのですか。いくら身分が違うといえども、同じ塔に住む人間のことなのに、そこまで興味がわかないなんておかしい……。」
私がそう言うと、シェルドもエディゴも顔を曇らせた。
「そうだよな、俺もそう思うよ。言い訳がましくなるが、俺は五級国民を見たことすらないんだ。興味がないというのもあるだろうが、俺たちにとって五級国民は存在していることすら忘れてしまうようなものなんだ。本当、いけないよな、こういうのは。同じ人間なのだから。」
エディゴも顔をゆがめた。
「三級国民生活地区に移ったとき、四級国民をいないもののように扱う二級国民や一級国民の姿に嫌悪を覚えました。自分知らぬ間に彼らと同じことをしていたと思うと、寒気がします。」
「身分制度というのは、そういうものだ。同じ人間なのに、人間として扱われない人間がいる。そしていつしか、人間扱いされていない人間よりも、人間を人間扱いしない人間の方が、人間らしさを失っていく。俺たちも、そうなりかけていたな。気を付けよう。」
唇をぎゅっと結んで頷くエディゴを、シェルドは見つめていた。一気に空気が重くなった。話題を変えようと思ったが、何も思い浮かばなかった。
「エディゴとシェルドはどうやって出会ったの?」
アミが純粋な疑問をシェルドにぶつける。話題を変えるために用意した質問ではなさそうだ。それを聞かれて、シェルドは懐かしそうにほほえんだ。
「俺が高等学校に通っていた時、教師を志す仲間たちと一緒に、四級国民生活地区でちょっとした授業を定期的に行っていた。教壇に立つ練習も兼ねたもので、子供が集っている所で突発的に授業を行う、資料も机もない簡易的なものだったが、意外と好評で、よく人だかりができていた。エディゴはその時の教え子よ。」
エディゴも懐かしそうに笑った。
「四級国民生活地区には、高等学校がありません。皆が一様に通う権利もっている国民学校に八歳から十八歳までの十年間通うことが、学びの唯一の手段でした。貧しい子供は仕事を優先しなければならないので、十八になる前に学校を出ていくこともありました。教育に力を入れることができない四級国民には、仕事の片手間に学ぶことができるシェルド様方の授業は私たちには適していました。」
「あの頃、俺は二十歳になったばかりだったから……お前は十一か?」
「そうですね。」
「エディゴは優秀だった。もっとも効率的に物事を進める方法を考えるのが得意で、物事の本質を理解するのが早かった。学ぶ意欲も人一倍強かったから、俺はこいつを四級国民生活地区においておくのがもったいなく思った。ちょうど実家をでて一人暮らしを始めたころだったので、家事の手伝いとして家に呼んで、家に来るたびに興味のある本を貸したり、合間にちょっとした授業をしたりして、エディゴに色んなことを教えていた。まあ、その時から秘書としてやってもらっていたようなものだな。仕事としてなら、四級国民が三級国民生活地区に入ることも許されるからな。」
シェルドは出来のいい弟を自慢する兄のように、エディゴの話を嬉しそうにしていた。シェルドは人を教えることが好きで、まともに教育を受けられない子供を放っておけない性質なのだろう。まさに教師になるべくしてなった人だ。仕事の合間を縫って、私たちに授業をしてくれているのも、きっと私たちを放っておけなかったのだろう。そう思うと、涙が出てきそうになった。自分をこんなにも気にかけてくれる人がこの世にいること、それがとてもうれしかった。
「シェルド様と私のつながりがきっかけとなり、商いをしてらっしゃるシェルド様のご実家と、製靴業を営む私の実家がつながり、仕事の幅が増え、収入も増えました。その縁が続いて、二十三になった今でもシェルド様の秘書兼家政婦として、お傍で勤めさせていただいております。」
落ち着いた声と、丁寧な口調がそうさせるのか、エディゴは二十三歳には見えなかった。
「すごい……二人は実家ぐるみの付き合いなのね。」
アミが感心していた。塔の中に人家族しかいない環境で育った私たちには、おとぎ話のような話だった。
その後もシェルドやエディゴは人がいる仮国での生活を話してくれた。シェルドは三級国民、エディゴは四級国民、身分の違いでその生活は随分違ったが、どれもにぎやかで楽しそうだった。友人の話を一つするだけでも、話の中にたくさんの人の名前が出てくることが私には羨ましかった。二人にそのことを伝えると
「塔に一人ぼっちというのは確かに孤独でさみしいだろうが、塔のものすべてを独り占めできるのは少し羨ましいぞ。」
とシェルドに言われた。エディゴも笑いながら
「たくさんの人と関われることは、楽しくて考え方の幅も広がりますが、よくないこともたくさんあります。例えば……。」
と、たくさんの苦労話や、人間の恐ろしい部分が垣間見える話をしてくれた。穏やかなエディゴの口調が恐怖を一層引き立て、私もアミも震え上がった。シェルドも苦労話や失敗経験などを話してくれて、それは聞いている私まで恥ずかしくなるような話や、腹がよじれるのではないかと思うくらい面白い話ばかりだった。
とても賑やかな時間が流れ、気づけばいつも授業が終わる時間を過ぎていた。
「また雑談で時間をつぶしてしまった。そろそろまじめに授業を進めないとまずいな。」
「明日はちゃんとする」といいながら自身の両頬を叩くシェルドに、エディゴは微笑みかけた。
「たまには雑談もいいのではないでしょうか。案外、こういう話が役に立つこともありますよ。」
それを聞いて、アミが小声でつぶやいた。
「私としては、毎日雑談の方が嬉しいけど……。」
「こら、アミ。聞こえているぞ。」
呆れたように叱るシェルドを見て、私とエディゴは笑った。
今日の授業は、今までにないほど賑やかで楽しくて、忘れられない一日になった。
笑顔で三人と別れた後、端末の電源を落とした。いきなり部屋がしんとして、周りに賑やかさも楽しさもない環境に引き戻された。とてつもない寂しさが胸にあふれた。今までみんなと話していたのはすべて幻だったのではないかと思うくらいの不安に襲われた。自分がここに立っていることすら不確かになるような感覚に襲われ、床に崩れ落ちて、ベッドから飛び出ている布団にしがみついた。その瞬間、涙がこぼれた。処理しきれなかった不安や寂しさが涙として流れて、気づけば布団に大きなシミができていた。私が、布団を、濡らした。濡れた布団に触れて、そう思うことでようやく自分がこの世に立っている実感がわいた。そ
うしなければこの世にいる実感を得ることすらできない。自分がものすごく不安定になっていると思うと、また不安になって涙があふれてきた。
気持ちが落ち着いてきたので、立ち上がって水を口に含んだ。喉を鳴らして飲んで、意味もなく器を勢いよく机にたたきつけた。そのまま何も考えないように、すぐに布団に潜り込んで、目をつぶって眠ることだけ考えて、無理やり眠りについた。
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