第5話
翌日、さっそくシェルドから連絡がきた。アミの予定も考えた結果、急遽今日の夕方から授業を始めることになった。昼に目が覚めた私は、急いで食事を済ませ、顔を洗った。汚れてぼんやりとしか自分の姿が映らない鏡を見て、授業が始まる前に髪型を整えた方がいいのではないと思った。以前の通話のように、お互いの顔を見ながら授業をする可能性もある。二人にみっともない姿を見せるわけにはいかなかった。最初にシェルドと通話したときは急だったので、シェルドには既にぼさぼさ頭を見られているのだが。
とりあえず、汚れた鏡を掃除した。最後に掃除したのが、いつだか思い出せないくらい放置されていたので、汚れがこびりついていた。きれいになった鏡の前で、髪を櫛で梳かす。櫛は母のもので、ところどころに小さい模様が彫ってある木製の櫛だった。木は、外の世界にしか生えていない。木でできたこの櫛は、かなりの高級品だ。唯一外の世界を感じられるものなので、母も父もこれをとても大事にしていた記憶がある。母は、この櫛で私の髪を梳くのが好きだった。
「貴方の髪は、お父さんによく似ている。綺麗にしてあげると宝石のように輝くの。どんな宝石よりも美しい、私とアルフと、そして貴方の宝物」
私の髪を梳かしながら、母がつぶやいたこの言葉は今でも忘れられない。
母は私の髪をいじることも好きだった。母は自分の髪も編み込んだり飾りをつけたりして、常に綺麗に飾っていた。きっとあの人は、髪を飾ることが好きだったのだろう。母の手つきをまねて、自分の髪を編み込んでみようと思ったが、うまくいかずぼさぼさになってしまった。他にも記憶をたどって、いろいろやってみたが、どれもうまくいかなかった。結局、大しておしゃれもできず、髪を綺麗に梳かし、普段の黒い服に白い上着を羽織っただけの姿で、授業をうける準備にとりかかかった。
準備を済ませて二人を待っていると、シェルドが先にやってきた。シェルドの顔が表示される。シェルドは私の顔を見て、少し驚いた。
「アミはまだ来ていないのか」
「うん」
「そうか」
シェルドは私の姿を改めて見て、眉を上げた。
「おお、その上着懐かしいな。アルフがよく着ていたやつだ」
私も自然と笑顔になった。私の知っている父の姿を、シェルドと共有できることが嬉しかった。
「そうなんです。父の遺品の中から発見しました。なんとなく気合が入るので、最近は大事な時に羽織るようにしているんです」
シェルドは優しいほほえみを浮かべながら頷いた。
「うん。そういう切り替えは大事だな。その服は、人間が外の世界で暮らしていた時代の、医者の正装だ。仮国で生活するようになってからは、脳の管理人の仕事服になっている」
初めて聞いた。父は単純におしゃれでこの服を着ているのかと思っていたが、この服には、ちゃんと意味があったのだ。
「よく似合っているよ」
シェルドは私に微笑みかけた。その笑みが驚くほど美しくて儚げで、私は照れて口の中で礼を言うことしかできなかった、
しばらく沈黙が続いた。シェルドは気にしていないようだったが、私はなんとなく気まずさを感じていた。
「そういえば、ケイドはアミと通話したことがあるのか?」
沈黙を破ったのはシェルドだった。
「ない……です」
答えながら、私は今日初めてアミの姿を見るということを実感し、急な緊張感に襲われた。
「そうか、じゃあお前たちは初めての顔合わせというわけか」
「あの……アミはどんな顔をしているのですか」
シェルドは眉を上げて、にやっと笑った。
「そりゃあ、自分の目で確かめろってやつだよ」
なんともすっきりしない答えだった。少しくらい教えてくれてもいいのにと思った矢先、画面に一人の女の子が現れた。
女の子はまっすぐに私を見ていた。睫毛が長い。瞬きをするたびに、ばさばさと動いているが、絡まりもせず一本一本が綺麗に伸びている。その下で、黒くて大きな瞳も、睫毛に負けないほどの存在感を放っている。髪は黒くて艶やか、肌は驚くほど白かったが、ほんのり赤い頬と真っ赤な唇で、健康的な印象を持たせていた。美しさがすぎるあまり、一度見たら忘れられないくらい強い印象をもっている女性だった。
黒髪や黒い瞳を持つ人は、本の挿絵でしか見たことがなかった。物珍しさで見つめていた面もあるが、単純にその整った顔に見とれてしまった。
彼女もまた、じっと私を見つめていた。お互いに見つめあう、この時間に恥ずかしさを感じて、彼女から目をそらしてしまった。
「……ごめん、金髪に緑の瞳を持つ人なんて初めて見たから、つい見つめちゃった」
耳に心地いい声だった。アミからすると、私の容姿は珍しいものなのだろう。
「光が反射して、きらきらしてる……。綺麗な髪……。瞳も、ずっと見ていたら吸い込まれそうなくらい深くて綺麗な色……」
人に容姿を褒められるなど、初めての経験で、どう返したらいいか分からなかった。
「ありがとう。……アミの髪も艶があって綺麗だよ……。瞳も……大きくて……うん……綺麗……だよ」
綺麗だと思ったことを、口に出そうとすると恥ずかしさに襲われてうまく声にならない。私は耳まで真っ赤になっていくのを感じながら、精一杯伝えた。それでも思ったことの十分の一も伝えられず、歯がゆい思いが残った。
アミは私の拙い褒め言葉にも笑顔を返してくれた。
「ありがとう」
照れくさくてアミから目をそらすと、頬杖をついて、にやにやしているシェルドが目についた。目が合うと、その笑みは一層深くなった。
「いいねぇ、初々しい。まさしく若くて純粋な男女という感じがする」
アミが不審そうにシェルドを見た。
「急に何を言っているの?」
「気にしなくていいよ」
満足げに微笑みながら、シェルドは手をひらひらと振った。
「それより、時間もあまりないから授業を始めようか」
軽く息をついて、背筋を伸ばした。答えをはぐらかされたアミは、不服そうな顔をしていたが、あきらめたようにため息をついて、まっすぐシェルドを見た。
「まず、今後の予定について話そう。最初は人類の歴史について、人類が外の世界で生活していた、地上時代と呼ばれる時代から、仮国の建設までの話を進めていこうと思う。その次は仮国の社会構造や、塔型仮国と屋敷型仮国それぞれの特徴について話そうと思う」
「すべて教えるには、早くても三年ほどかかると俺は予想している。まあ、途中で嫌になったらやめてもらってもかまわないから、気楽に受けてくれ」
文字として残っている人類の歴史だけでも五千年以上ある。それを三年で学べるのならまだ早い方だと思ったが、アミは三年ときいて少し顔を引きつらせていた。
「それと、お前たちには本を読んでもらおう。お前たちの塔には図書室があると、アルフとリリカから聞いている。せっかく大量の本を独り占めできるのだから、すべて読みつくすくらいの勢いで読まないともったいないだろう」
「……本を読むことはあんまり好きじゃないんだけどな……」
「僕も仕事以外では読まないな……」
アミが驚いてこちらを見た。
「仕事で本を使うの?」
「うん。僕が管理する脳は、アミのところみたいに、自分の意思を伝えてこないから、とりあえず本読んで、その本の主人公の人生をそのまま体験させているんだ」
アミが「なるほど……」とつぶやいた。シェルドは難しい顔をして顎をさすっていた。
「日頃から読書をしているのはいいことだ。だが、脳の管理の仕事で使うために読んでいるのなら、ジャンルに偏りが出るんじゃないか?」
基本的に仕事で使える本は、主人公の死まで描かれているものだけだ。必然的に自伝や、伝記に偏る。そうでないものも使えないことはないのだが、本に書かれていない部分を想像で補う作業は面倒くさいので、やらなくて済むものを選んでしまう。創作の小説は、主人公の人生の最期まで書いていないものも多い。主人公の最期は、読者の想像に任せる終わり方をされると、仕事に使いづらくてかなわない。読んでいる本のジャンルに、偏りがあるのは事実だった。頷くと、シェルドは私の回答を分かっていたように、笑みを深めた。
「アルフにも、読書について聞いてみたことがあるんだ。その時にも同じようなことを聞いたから、なんだか懐かしくなったよ。」
表情を引き締めて、シェルドは続けた。
「今日から、二人とも自分のために本を読むんだ。無理強いはしないから、読みたいときに読めるだけ読みたい本を読めばいい。一冊でも読めたら上等だ」
アミが目を丸くした。
「一冊でいいの?」
「ああ、一冊でいい。短い本でも、挿絵の多い本でも構わない」
「それならできるかもしれない」
アミは安心したかのように肩の力を落とした。彼女は本当にこういうことが苦手みたいだ。
その日は説明だけで終わってしまった。やる気満々だっただけに、少し残念だったが、シェルドも忙しいのだろう。
通話が終わって、真っ暗な画面に自分が映っているのを見た途端、気が抜けたのか、急に腹が減った。思えば、こんなに長く人と話をしたのは久しぶりだった。どことなく気分がいいので、常備している味気のない栄養剤ではなく、ちゃんと飯を作って食べることにした。
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