傷跡
気味の悪い話を聞いたのよ。隣のイマイさん家、あるでしょう? あの裏手に井戸があるのを知ってる? あそこから、夜な夜な叫び声が聞こえるんだって。
そういう噂を聞いたのは、5月の頭のことだった。大方、たちの悪い、根拠のない噂であるか、野犬か何かの遠吠えなんじゃないかと、俺はたかをくくっていた。幽霊の正体見たり枯れ尾花、というやつである。私は学校への道を歩きながら、冗談めかして友人にその話をした。
「絶対野犬の遠吠えだよな〜」
するとその友人は笑っていた。静かな友達だったから、それでその話は終わった。俺はその話をしてはずみがつき、その後でその井戸の張り込みをしようかと思いついた。予想通り野犬なら、またそれを笑い話にできる。それに、他人の恐怖心を拭い去ることもできるのだ。こんなに得でかっこいい話はない。
その夜21時頃、俺はイマイ家の裏手の野原に立っていた。さあ、来い。その正体を見破ってやる。そよそよと晩春の夜風が吹いていた。その心地よさに、俺はついぼんやりとまどろんでしまっていた。普通なら風呂に入ってゴロゴロしている時間帯である。すると、何やら人の話し声が聞こえてきた。俺はハッとして、とっさに井戸の後ろに姿を隠した。話し声はどんどん大きくなる。
「タカ、早く歩きなさい」
それは女の声だった。俺はギクリとした。タカ。それは昼間に噂話を伝えた、俺の友達の名前だった。イマイタカというのが、その本名だ。タカの声は聞こえない。元々とても大人しい奴だ。俺は胸騒ぎを覚えながら、二人の会話を聴いていた。
「さぁ、始めるわよ」
無音。それから、タカの悲鳴が聞こえた。俺は恐怖心で動けなくなった。タカ。何されたんだ。助けてやりたい気持ちはあった。しかし、事態のあまりの異常さ、それから女への恐怖心が俺の足をすくませた。
ぼとり……と何かが井戸に落ちる音がした。タカの荒い息遣いが聞こえる。
「よく頑張ったわね、タカ」
それから、足音は遠ざかっていった。二人が完全にその場からいなくなったのを確認して、俺は一目散で家に逃げ帰った。
あれはなんだったのか。俺は一人自室で悶々と考え込んでいたのだが、やがて寝てしまった。翌日、タカといつもどおり学校に行ったが、昨日のことを聞き出すのは憚られた。あまり深入りしてはいけないような気がした。しかし俺は見てしまったのだ。タカの脇腹に痛々しい傷跡があるところを。それから、俺は母親から、イマイさんの家は新興宗教にハマっているということも聞いた。それが何を指し示すか、ぼんやりとしか分からないが、俺はそれまでより一層、タカに優しくしてやろうと思ったのだった。
短編集 はる @mahunna
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