4-9 Not Sword But Word

 1学期最後の1週間が始まった。梅雨明けが宣言された月曜日の放課後、澪は同級生と渋谷に少しだけ寄ることにした。新しいレモネード屋ができたから、行ってみようと彩花が誘ったのだ。

 澪は脳に突き刺さるほど強い酸味が特徴のレモネードを頼んだ。あれから1週間が経ったが、色々引っ掛かるものが残っている。紛らわせられるなら、本来得意でもない強い酸味にすら縋りたかった。

 3人は渋谷駅で別れることにした。改札前で

 「じゃあね!」

と声を合わせる3人。そのタイミングを見計らったように、澪は1人、踵を返した。

 すぐ近くの無機質な慰霊碑の前に立ち

「……美桜さん」

と呟く少女。

 「流雫のこと、頼むよ。澪」

彼女から、そう流雫を託された。あれからもうすぐ1年。全ては夢で見た話で、自分にとって都合がいい夢でしかなかったが、その約束は、今のところは果たせている。そう思いたい。今、彼女は自分に向かって微笑んでいる……そう思いたい。

「美桜さん……あたしを、流雫を……見守っていてください……」

何度も今まで口にした言葉を、澪は言った。

 今度も、見守っていてほしい。避けられない大きな脅威に抗い、全ての真相が明らかにされる日まで、流雫が言う……美桜さんが救われる日まで。

 少女は顔を上げ、一礼して踵を返そうとする。その瞬間、中年の男性と目が合った。

 ……流雫に見せられた顔写真と同じ。まさか。

「……欅……平……さん……?」

澪は無意識に口にした。

「……君も、美桜の知り合いなのか?」

そう低い声で問い返された澪は、2秒待って

「知り合いと云うか……」

と答える。夢で一度逢っただけで、顔を合わせたことは無い。

「それに、流雫と言ったな……あの少年を知ってるのか」

と被せた欅平千寿の目には、一種の憎しみが滲んでいる。

 ……隠しても仕方ない。流雫をバカにされなければ、それでいい。意を決して澪は言った。

「……あたしの恋人です」

「……そうか……」

意外な返しに、思わず怪訝な表情を浮かべた澪。欅平は

「……其処の店でもどうかね」

と言った。


 2ヶ月前、娘の恋人だと言った少年と入ったのと同じ喫茶店、あの時と同じテーブル席に向かい合って座る宗教学者と女子高生。

 「学生時代から、この店はお気に入りでね。サイフォンで淹れたコーヒーが格別なんだ」

と言って、警戒心を解かせようとする欅平に澪は切り出した。

「……流雫から、話は聞いてます……。あの会見も拝見しました……」

 「私は宗教学者だ。旭鷲教会のことは、誰より知っている。だからこそ、時が来るまで黙っていようと思った。国益のためだ」

「国益……?隠すことが日本のためになると……?」

と問うた女子高生に

「判ったような口振りだな」

と言った欅平は続ける。

 「国のためだけじゃない、国民のためだ。君を含む日本国民の不利益にならないよう、そう思ってのことだった」

「だが、フランスからスクープが打たれた。即座に彼の仕業だと思った。私が話したのは、他の誰にも話さなかったことだからだ。尤も、フランスでは周知の事実だったから、厳密には彼は、リシャール・ヴァンデミエールのトリガーを引いただけだが」

「……結果、フランスでテロが起きた。そして日本でも。それも、秋葉原の件は太陽騎士団への総攻撃と言える。とんでもないことになった」

と続けた欅平と澪の前に、コーヒーが出される。夏にホットコーヒーだが、店内の冷房が強いと思った澪には寧ろ有難い。

「……だから、河月の学校に……」

と澪は問う。欅平は

「その通りだ」

と答えた。

「……彼は冷静だった。そして、あの真実を追う目付きは本物だった。……あれほど、鋭い目をした高校生を私は他に知らない」

「彼は言った。美桜が生きていた頃のような日本で、大切にしたい人と生きていられれば、それでいいと」

その言葉に、澪は思わず呟く。

「流雫……」

 澪を失わないために。何度銃を手にテロと戦っても、流雫の芯は寸分も曲がらない。

「……正直に言う。あの日私が出頭したのは、その言葉が有ったからだ」

「え……?」

 「国益を優先していたが、それ以前に美桜の父親だ。忌まわしいトーキョーアタックで、娘を殺された恨みは有る」

「合法的に、恨みを晴らしたい。だから翻意して出頭した。それも全ては、あの少年と会ったからだ。……お前の信念はその程度か、そう言われても文句は言えんが」

「……あたしが同じ立場なら、そうしたと思います……」

そう言った澪に、欅平は

「フォローの礼は言おう」

と返し、コーヒーを啜って続けた。

 「彼は、自分のことを愚者だと言っていた。……偶然かな、愚者はタロットの最初のカードだ。指す意味は何だと思う?」

「愚者……。……愚か者……ですか?」

と澪は答える。タロット占いに興味が有るワケでもなく、文字通りの意味しか予想できない。

 「簡単に言えば自分勝手で無謀、後先など顧みない。読んで字の如く、愚か者だ。ただ、これは逆位置の場合だ。正位置は、無限の可能性を指す」

「後先を顧みず、自分勝手に無謀なことをしでかす。しかし、同時に無限の可能性を秘めている。旭鷲教会の思惑を崩壊させる可能性すら」

その言葉は、今の澪には十分な説得力を持っている。

 ラディカルで、見ている方が心臓に悪いアクションだって厭わない。しかし、流雫はそうやって今までテロと戦ってきた。そして、トーキョーゲートの謎と云う扉を開けてきたし、今もそうだ。

 詩応やアルス、アリシアの力を借りながら、固く閉ざされ続けてきた幾重もの扉を、少しずつ開けている。そして、ようやく最後の1枚か2枚まで辿り着いた。

「恋人の君に言うのもアレかもしれんが、……彼は手段を問わないが、救世主なのかもしれんな」

その言葉は、澪の息を止める。流雫の前では疫病神だと罵った宗教学者は、今は少なからず彼を認めていたからだ。

 「あの男が、美桜の最初で最後の彼でよかった。今では、そう思っている」

その態度の変わりように面食らいながらも、澪は少しだけ頬を紅くした。美桜が流雫の手を引っ張った、その役目を自分が引き継ぎ、今彼の隣に立っている。

 「……今更だが、君……名前は?」

「澪です。……澪標の澪」

「そうか……。いい名前だ」

と、澪の答えに返した欅平は、初めて微笑を浮かべた。しかし、すぐに表情を戻す。

 「言葉と武器……そう、剣だ。英語だと一文字違いだな。使う者を護る一方、刃向かう者にダメージを与えることができる。その点は同じだ。だが、言葉に有って剣に無いものが有る」

と言った宗教学者に、澪は

「……言葉にだけ……」

と呟く。十数秒待ったが、答えは出てこなかった。

 「……癒やしだ。言葉は人を癒やすことができる。そして、君は見たところそれに長けている。剣の疵痕すら、癒やせるだけの言葉の遣い手だと思っている。……美桜がそうだったからな」

と答え合わせをした欅平の表情は、今は亡き娘に注げなかった愛情の分だけ、悲しみを滲ませていた。

「……君に、美桜を見ているのかもしれん……」

とだけ言って目を閉じ、溜め息をつく宗教学者に、澪は何時かの流雫を見た。

 ……身近な人の死の数だけ、人は弱くなる。でも、だからと強くなろうとして死者を忘れるぐらいなら、弱いままを選びたい。人を失ったことが無いから、理想論だと言われても文句は言えない。

 何も言えない澪は、少し冷めたコーヒーを飲み干す。……少し強めの苦味に逃げようと思った。しかし、それは叶わなかった。


 「毒突いた手前、私は彼と歩み寄ることはできない。だから、代わりに君に言う。私からの、礼と詫びだ。……無事であれ」

と、喫茶店を出た欅平は言った。澪は、それだけで十分だった。

「……有難う、ございます……」

そう澪が頭を下げた直後、近くに止まっていたセダンから男2人が降りてきた。父とその後輩刑事だった。重要参考人としての連行が決まっていたが、その直前に偶然、澪と出逢った。これも、何某かの神の導きなのか……、宗教学者の男はそう思った。

 「私は今から、署で全て話す。この国のためにな」

と言い、手錠を掛けられないまま車に乗ろうとする欅平を、澪は

「あの!」

と呼び止める。目が合うと、少女は頭を下げた。

 「……有難うございます」

「流雫はあたしが護ります。美桜さんが生きていた頃のような平和な世界で、美桜さんの分まで生きたいから」

瞳を濡らしながら、そう続けた澪に、欅平は口角を上げて後部座席へと消える。

「……遅くなるなよ?」

常願は言った。澪は

「判ってるわ……」

とだけ答え、踵を返した。


 「……うちの娘が、突然失礼したようで」

そう言ったベテラン刑事に、宗教学者は少しだけ目を丸くして

「……君の娘さんだったか」

と言った。

「一人娘です。正義感が強いのはいいが、時折肝を冷やさせる」

「澪……いい名前だ。流雫とか言う恋人がいるんだろ?……名は体を表すと云うが、その通りだ。彼の、いや……みんなの澪標となって、導いてやれる」

そう言った欅平は、久々に饒舌になっているのを今更実感する。今日の偶然の出逢いを、忘れないだろう。


 剣の疵痕さえ、癒やせるだけの言葉を持つ。

 欅平千寿からそう言われた澪は、帰る前に再び慰霊碑に戻る。

「……美桜さん。あたしは流雫を、絶対に死なせはしない……。あの夢での約束、あたしは……必ず果たします……」

そう、小さく声に出す澪。ふと、その肩を優しく包まれた気がした。誰も触っていないのに。……美桜が抱きしめているのか。

「……ありがと、美桜さん」

そう言って澪は、踵を返した。

 少しだけ軽くなった足取り、クリアになった頭。そして少しだけ冷えた瞳。今日と云う日を、絶対に忘れない……。セーラー服をなびかせる少女は、そう思った。

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