3-8 Spark Of Scandal

 V字に分かれたアルスと流雫。シルバーヘアの少年は、銃を見せびらかしている。自分に目を向けさせるためだ。大口径の銃口は、やはり流雫に向く。

「はっ!!」

壁側を走っていたアルスは、下から風が舞い上がるスカイウォーカーを、走り幅跳びの要領で跳び越える。しかし、窓側の流雫は……。

「ほっ!!」

と手摺に跳び乗り、天井にぶつからないように軽く跳び上がると身体を捻る。男と正対する形になり、スカイウォーカーの数センチ先、濡れたカーペットに僅かに滑りながら着地する。

 大股開きになり、銃を持たない手でカーペットに手を突いて身体を支えながら、

「クヮッ!!」

そう叫んだ流雫の背後で、アルスは窓側に移る。

 クヮッ。フランス語でクロスの意味……つまりはラインクロス。縦一直線に動かない、それは銃から逃れる時の流雫のセオリーだが、アルスは知らない。だから叫んだ。

 「うおぉっ!!」

と男は声を上げた。革靴が床から離れる瞬間、流雫は踵を返す。

 ……無意味に見える一瞬の出来事は、男の理性を欠かせるだけには効果的だった。今は、僕を撃ち殺すことしか頭に無い。ならば……。

「よっ!!」

フランス人がもう1箇所を跳び越えた。後ろを振り向き

「ルナ!!」

と呼ぶ。だが、日本人らしくない見た目の日本人には聞こえていない。否、イヤフォン越しには聞こえている。しかし、振り向かない。オッドアイの瞳が捉える男は、足を開きながら立ったままの少年に銃口を向ける。その瞬間、流雫の手首が少しだけ動いた。

 鳴ったのは、少年の背後を流れる突風に掻き消されそうな、2発の小さな銃声。

「だっ!!」

男は一度前傾になる。その瞬間に銃身から放たれた銃弾は、流雫の1歩左を流れ、外に舞う。

 ネイビーのスーツの下、黒いソックスに、赤黒い染みが滲む。足首を撃たれていた。流雫は踵を返すと同時にグレーの壁に向かって跳び、壁面を蹴ってスカイウォーカーを越えた。

「うぉああっ!!」

叫び、撃たれた足に無理矢理力を入れた男は、しかし跳び上がる前に崩れた。そのまま派手に転び、身体が金網に乗る。網が切れることは無いが、その目が大きく腕は地上に向かって投げ出され、顔も150メートル下に向いたままだ。

 「ふぅ……」

と溜め息をついた流雫に

「すげぇ……」

とだけ声に出すアルス。それ以外、形容しようが無い。

 ……動画で見た、それよりも過激なアクションを目の当たりにした。しかし、生きることへの、テロに屈しないことへの執念に圧倒された。

 ……こう云う戦いを何度も強いられてきて、しかし絶対に恐怖に屈しない。その強さが、オッドアイには常に宿っている。だから、こうして逃げ切れる。

「こっちだ!」

と特殊武装隊員が叫ぶ。もう脅威はこのタワーには無い。安堵の溜め息をついた2人は、誘導されるままに地上を目指した。


 赤い格子の奥に、最愛の少年が見えた。ブロンドヘアの少年も隣にいる。

「流雫……?」

澪は思わず声を上げた。その隣で、詩応も2人を遠目に捉える。

 足がコンクリートの床を踏んだ。軽く震えているのは、思ったより足を酷使した証左。しかし、非常階段で背中を打った以外無事だから、それぐらいどうってことない。

「流雫っ!!」

澪が大きな声で呼ぶ。アルスは隣の少年の背中を叩いた。行け、と。

 流雫は震える足を澪に向ける。そして澪も床を蹴る。そして……生きて再会した。2人にとっての、完全勝利だった。

「バカッ!!」

澪は言って、両手で最愛の少年の頬を挟むように叩き、そのまま包む。オッドアイの瞳を見つめる、ダークブラウンの瞳が一瞬で濡れた。

「怖かったぁぁっ!!」

叫びに似た声と同時に、首に滑る澪の手。泣き声が耳元で響く。

 ……怖かった。犯人と戦うことより、あの高く狭い展望台に1人残った流雫が死ぬことが。信じてはいるけど、そう云う問題じゃない。初めて頬を叩いたのは、澪を逃がそうとエレベーターに突き飛ばした仕返しだった。

 でも、彼の頬を叩いた疼くような痛みも、身体に触れるほのかな熱も、澪に2人が生きていることを伝える。

 ……2人を護ったのは、ソレイエドールでもテネイベールでもない。……美桜さんが、2人を護った。澪はそう思った。

「流雫ぁ……っ!流雫……ぁ……!」

泣きじゃくる澪の背中と頭に手を回す流雫は、

「サンキュ、澪……」

と囁いた。……澪の存在が、流雫の原動力。だから、今生き延びている。

 その光景を見ながら、アルスは詩応に

「ルナ……恐ろしい奴だ」

と言った。数十分前に少しだけ相容れた2人だが、敬虔な信者であること、そして詩応の強い性格がアルスに親近感を持たせた。アリシアと似た臭いがするからだ。

 「……何をしたんだい?」

「非常階段で飛び下りた」

自分の問いへの答えに、詩応は

「……はい?」

と問い返すのが精一杯だった。……名古屋でも新宿でもそうだったが、その比じゃない。

 非常識……だが、テロから逃げたいなら、形振り構っていられない。シルバーヘアにオッドアイの少年は、突き付けられた現実と戦っている。

「……これが日本なのか」

と呟いたアルスに、詩応は

「残念ながら」

と答え、彼女にとって最強で最高のカップルに目を向ける。

 「……悪いが、また署へ逆戻りだ。いいな?」

と言った父に、娘は頷いて流雫と離れる。そこに2人が合流した。

 アルスは流雫に手を差し出そうとし、流雫はそれに応える。はにかみ混じりの微笑を湛えた顔の高さで、合わせた掌が綺麗な音を立てた。まるで、小雨が残る東京の片隅から世界に響かせるように。


 2時間ぶりの臨海署、通された取調室は先刻と同じだった。

 淡々と進んでいた取調のペースを落としたのは、流雫の一言だった。

「……あの犯人……まさかOFAの……」

その言葉に、刑事2人と澪だけが反応する。アルスはふと、スマートフォンを取り出して翻訳アプリを開いた。彼が何を語ろうとしているのか、自分とは無関係だとしても気になる。

 「何故そう言えるんだい?」

と問うたのは弥陀ヶ原だった。

「……日本語も英語も通じなかったから、だけじゃない。……何か、何も怖れていないような……」

と答えた流雫は、去年遭遇した事件を思い出していた。

 名誉の功徳のためには、己の命さえも簡単に捨てられる連中と戦わざるを得なかった。撃つための正当防衛を成立させつつ、逃げ切る……その絶対条件さえクリアできるなら、後は形振り構わない。

「それだけで断言はできないと思うけど」

と流雫は言ったが、刑事2人はその線を拾った。

 手帳の端に走り書きした常願のスマートフォンが鳴った。

「……そうか、判った。こっちも、それに関連した線が浮かんできたところだ」

その言葉に、流雫と澪は唇を噛む。詩応とアルスは、その2人を見つめている。

 1分足らずの通話を切った常願は、娘の恋人に目を向けて言った。

「……OFAか……再度強制捜査の必要が有るな」

「えっ……?」

と声を上げた澪に、流雫は顔を上げる。

「……君が読んだ通りだ。実行犯は全員、正体不明。尤も、全員死んでいるがな」

「っ……!」

流雫は奥歯を軋ませる。……護身のためとは云え、殺す気は無かった。そして、あの犯人も元は恐らく……。

 澪は恋人の背中に触れる。彼が何を思っているか、簡単に判る。その様子に常願は

「原因は銃じゃない」

と言った。

「2人は自爆、もう2人は服毒だ。シアン化物によるものだ」

その言葉に、流雫は一瞬安堵を滲ませ、しかしあの頃と同じだと思うと怒りを目に宿す。

 「……どうして……」

そう呟いた流雫の声が詰まる。澪は父の顔を見るなり、立ち上がった。……2人きりになりたい、流雫のためにも。


 最上階の休憩室、其処に居合わせた警察官や刑事にも、ベテラン刑事の一人娘とその恋人は知られている。何故か誰よりも事件に遭遇して、臨海署に連行されては、警察に有力な情報を与える高校生2人組として。臨海署では、ちょっとした有名人だ。

 しかし、今は誰も近寄れない。端の椅子に座り、腕を組んで俯いたまま

「……澪……」

とだけ声に出した流雫。その視界は滲んでいた。

 どうして?その理由は判っているし、間違っているとは思えない。しかし。

「流雫……」

とだけ囁いた澪は、しかし次の言葉を見つけられない。

 ……定義からは外れるが、宗教難民に近い境遇を持つ流雫にとっては、難民が捨て駒として扱われたことに怒りを覚えるのは当然のことだった。自分の過去とリンクする……それがどれだけ辛いのか、しかし澪には判らない。

 だから、あたしのような……何の不自由も無く生きてきた者が、恋人と云えど迂闊に触れてはいけない。澪はそう思っていた。臆病だの何だのと言われても、それは澪が見出した、流雫を愛しているからこその答えだった。

「……あたしが、ついてるから……」

澪は囁きながら、流雫の背中を撫でる。

 ……その言葉しか言えない自分に苛立ちもする。しかし、下手な背伸びはしない。等身大の自分で、最愛の少年に並びたい。それは、流雫も望んでいた。

 流雫は頷く。今まで何度も耳にした言葉、しかしそれだけで流雫は立ち上がれる。何度だって。

「サンキュ、澪……」

そう囁くことしかできない流雫のシャツに、悲しげな瞳から落ちた雫が散った。


 取調が終わったのは、昼過ぎだった。今日は、単に臨海署と首都タワーを往復しただけだ。この辺りで何かドリンクとスイーツでも堪能して帰りたい。そう思った4人は、しかしまた2組に分かれた。組み合わせは、言わずもがな。

 集合時間だけ決めると、流雫と澪はアイスラテを手にレインボーブリッジを眺めるプロムナードの端へ行く。

「……今度は、もっとゆっくりしたいね」

と言った澪は、束の間の休息を得た戦士のような表情を浮かべる。

 ……アルスが日本にやって来て、一連の事件の真相には近付いているように思える。しかし、流雫と高校生らしくデート……の時間は無い。先刻も今も、詩応とアルスが気を利かせたから、実現しているだけだ。

 戦いも無く、平和に過ごしたい……。

「うん」

と頷いた流雫は、澪を見つめた。

 生きてきた証、生きていく希望。その全てが、室堂澪と云う少女に集約されている。先刻の、初めて叩かれた頬の痛みも、抱きしめた身体の熱も刻み付けて、だから僕は戦える。そして今、こうしていっしょにいられる。

 ……分かれたと言いながらも、偶然通り掛かった詩応とアルスの目に映る流雫と澪。

「敵わないよな、あの2人」

「……ああ」

と言葉を交わす男女の奥で、それに気付かない2人は身体を寄せ、目を閉じ、そして……流雫から唇を重ねた。今までで最も長く感じる。

 音も無く絡めた指から滲む切なさ、唇に伝わるほのかな熱が指し示す2人の未来。今日の悪夢すら掻き消す光を、互いの瞳に見た気がした。


 先に名古屋へ帰る詩応を品川で見送り、澪と新宿で別れた流雫とアルスは、特急列車で河月へ戻る。フランス人は、先刻のキスを揶揄うことは無かった。

 帰り着いてすぐ、ペンションの手伝いを始める2人。手分けしてディナーを捌く。今日の疲れは見せること無く、淡々とこなしていく。

 その後で訪れた自由時間、流雫とアルスは部屋で一息ついていた。

「あれが日本の現実か」

アルスは言った。未だに、不審物の爆発から地上に下りるまでのことが、悪い夢だったのではと思えてくる。しかし悲しいことに、全て現実だ。

「うん」

流雫は頷き、続けた。

「……だから、戦うしかないんだ」

その目には、悲壮感が漂っている。

 ……落ちれば即死不可避の非常階段で、流雫は命知らずのジャンプを見せた。男のターゲットを自分に向けさせるためには、その前に出るしかなかったからだ。

 「日本は、思った以上に重症だな……」

とアルスは言った。結末までこの目で見ての、最も正直な感想だった。

 展望台には、他にも観光客が多数いた。しかし、銃を握ったのは澪と詩応、そして流雫だけだ。国民の2人に1人は銃を持っている計算らしく、それならあと50人は持っていても不思議じゃない。日本人だけでも、100人はいたからだ。

 ……しかし、銃は護身のためと云う或る意味最終手段なのだ。咄嗟に銃を手にすることなど、普通はできない。……それができることは、やはり日本人3人が置かれている環境が異常でしかない証左だった。

「退屈はしないと思うよ」

と、流雫は軽く笑ってみせた。

 その皮肉を彼に言わせている今の日本は、アルスは好きじゃない。ルナの家に滞在でなければ、つまらなかったに違いない。レンヌでの偶然の出逢いは、ルージェエールの導きだろう。

 明日から、また普通の日常に戻る。淡々とした学校生活だが、ルナとだからどうにかなっている。アルスは小さく溜め息をつき、ベッドに身体を預けた。

 流雫はその様子を見ながら、このフランス人までテロに遭遇したことに、頭を抱えていた。ただ居合わせただけだ、と判ってはいるが。

 しかし、今日も死ななくて済んだ。澪も伏見さんも、そしてアルスも。それが唯一の幸いだと思い、流雫は床に転がった。


 次の日、河月創成高校は相変わらずだった。昼休みでも、誰も流雫とアルスに近付かない。尤も、1デイの中間試験であと1科目だけ残っているから、話している暇など無いが。

 かつての同級生2人も、フランスから短期留学生が来たことは聞いていたが、それだけだった。

 流石に澪には敵わないが、それでも自分たちよりは仲よく話せていることだけは、遠目から見ていても判る。……河月にいる限り、黒薙は流雫と普通に話す訳にはいかない。笹平はその柵こそ無いが、如何せんクラス替えで接触の機会を失った。

 それでも、この学校では2年近く見ていなかった、日本人らしからぬ見た目の少年が普通に話している光景は、少しだけ微笑ましく思える。しかし、留学生が帰国した後は、また流雫は孤独になる。

 自分たちが、その穴を埋められないことを、手を差し伸べようにも全てが遅過ぎたことを、2人はこうして思い知らされる。ただ、この学校で年頃の少年らしい表情を見ることができた、それだけで満足だと思うことにした。


 ……試験中、答案用紙に向かう必要が無いアルスは図書室にいた。他に誰もいない部屋で自習……のフリをして、昨日アリシアと遣り取りしていたメッセージを読み返していた。

 ……昨日のミサの後に、赤毛の少女は意を決して血の旅団の幹部に問い詰めた。プリュヴィオーズ家が教団内での地位を剥奪され、没落していく……その一部始終を見てきたヴァンデミエール家の末裔が気になっていたのは、クリスマスのテロを画策し、実行に移したのは誰か、だった。噂では日本人らしいが。

 単なる末端信者でしかないアリシアは、しかし1時間以上粘って……ついに聞き出すことができた。その人物が旭鷲教会の創設と関わっているのなら、此処で引き下がるワケにはいかない……その言葉が、レンヌの司祭の重い口を開かせた。

 ……日本にとって、最悪なほどに不都合な真実だった。関係者が、関連する情報へのアクセスを遮断したい理由も合点がいく。そして、一度は時代の流れで片付けたと思っていた、銃社会化の真相も。

 あと10分で全ての試験が終わり、流雫と合流できる。その時、何と切り出せば……どう話せばいいのか。アルスは逡巡したが、チャイムがタイムアップを告げた。彼は結局、ストレートに言うことにした。なるようにしかならない。

 今日はもう終わりだ。アルスは教室へ戻ると、流雫を屋上へ誘った。

「……夜中に、アリシアが送ってきたものが有る。……覚悟はいいか?」

そう話を切り出したアルスに、流雫は怪訝な目を向ける。オッドアイの瞳が小刻みに震えるが、頷くしかなかった。その様子を見て、アルスは続けた。

 「……ノエル・ド・アンフェルを起こした真の首謀者と、旭鷲教会の創設者は同一人物だ。それも日本人」

「え……?」

その言葉に、流雫は目を見開く。……日本人が、パリでテロを……?

 「その日本人に接触したケヤキダイラは、そのことを隠している。……バレれば、巨大スキャンダルになるからだろう」

隠したかったのは、隠さざるを得なかったから。世界から見た、日本と云う国の評価のためにも。

 早まる鼓動を抑えようと深呼吸した後で、流雫は問うた。

「……誰なんだ?」

アルスは一度、河月の景色に目を向けるとレンヌで知り合った日本人に顔を向け、言った。

「……タケオ・イノウエ。昨年暗殺された政治家だ」

 

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