1-1 Lighter Than A Feather

 元日のデートから3日後。所謂三が日が明け、今日から社会人の動きが活発化する。東京と甲信越地方を結ぶ高速道路は、前日ピークを迎えたUターンラッシュもほぼ終わり、大型トラックが多いものの比較的空いていた。

 9時前、高速道路を走る黒いセダンの後部座席に座る少女は、お気に入りのコートとバッグを隣に置いて目を閉じていた。眠気が残っているのは、久々に夜更かししたからだが、遊んでいたワケじゃない。3日前に聞いた、最愛の少年の告白が気になって、スマートフォンで調べ物をしていたからだった。

 その斜め前の席で、ステアリングを握るのは父親の後輩刑事。今日は山梨に住む少年の取調だ。当初は刑事1人の予定だったが、先輩の提案で娘を同行させることにした。

 少年にとって、彼女の存在は心強い……それが先輩刑事からの意見だったが、それはこの刑事……弥陀ヶ原陽介も身を以て知っている。この1年近く、この1組の少年少女の活躍ぶりを見てきて思う。この2人が揃って刑事にでもなった日には、ラディカルだが最高のコンビネーションを炸裂させるだろう、と。そして、そうなることを少なからず期待していた。


 ……3日ぶりに最愛の恋人に会うのは、少女……室堂澪にとっては楽しみなのだが、如何せん遊びではない。そして、元日の彼からの告白が、未だ澪の頭に残っていた。

 ……日本人の父とフランス人の母の間に生まれた少年は、パリ出身。2歳の頃に、西部のレンヌに引っ越した。その4年後に両親と離れ、山梨の親戚に預けられた。今から11年前の話だ。

 彼自身、教育上の都合……と言って隠していた、その本当の理由は、フランスの宗教テロから逃れるためだった。しかし、比較的平和だと思われていた日本で大規模なテロ……トーキョーアタックが起き、かつての恋人を殺され、自身も辛うじて逃げ延びた。2023年8月最後の日曜日の、忌まわしい記憶。

 絶望の深淵に沈む少年と澪が、SNSで知り合ったのはそれから1ヶ月後。そして今では、互いに背中を預けていられる存在だ。

 外ハネショートのシルバーヘアに、アンバーとライトブルーのオッドアイの瞳が印象的な少年。名前は、ルナ……宇奈月流雫。


 弥陀ヶ原が、東京と埼玉のほぼ県境で澪を拾って1時間。河月インターチェンジまで、残り20キロの看板が見えた。高速道路を下りた後が長いが、それでも1時間ほどで、目的地まで着けるだろうか。

 弥陀ヶ原は、ドリンクホルダーに置いてあったボトル缶のコーヒーに口を付ける。それと同時に、バックミラーが光った。

 ヘッドライトをハイビームにし、クラクションを鳴らしながら追い越し車線を飛ばす黒塗りの高級車が映る。皇族や官僚が乗っているのと同じ、日本を代表するショーファーカーだ。

「何だ……?」

と弥陀ヶ原は呟くが、それはライトが見えたと思った数秒後には既に弥陀ヶ原の前にいた。恐らくは時速180キロ近く。それは、ショーファーカーの風格とは雲泥の差の走り方。因みにショーファーカーとは、フランス語で専属ドライバーを意味するショーファーを擁する車のことだが、リムジンと云った方が馴染み深い。

 その後ろから黒いSUVが、ショーファーカーと同じようにハイビームのまま弥陀ヶ原の隣を追い越していく。

 「カーチェイスか……!」

と呟いた弥陀ヶ原は澪に振り向かず

「飛ばすぞ!」

とだけ言い、サンバイザーに隠したLEDの赤色灯を光らせ、サイレンを鳴らすと無線機のマイクを手にした。

 「警視庁弥陀ヶ原より緊急連絡。中央高速でカーチェイス発生、八王子から河月方面!犯人は黒リムジンと黒SUV。今追跡中!応援求む!」

と言いながら、刑事はアクセルペダルを一気に踏み、本来大人しいハズのエンジン音を唸らせた。急加速でシートに体を押さえ付けられた澪が目を覚ます。

「弥陀ヶ原さん!?」

何が起きているのか判らない少女に、弥陀ヶ原は

「流雫くんに、少し遅れると頼む」

とだけ言って、目の前の車の流れに集中する。

 100メートルごとに設置された路肩のキロポストが、2秒毎に流れていく。弥陀ヶ原の声は聞こえていたが、しかし一体何が。

 澪は少しの恐怖を覚えつつも、やはり何が起きているのか気になる。

「少し遅れる」

と澪は流雫にメッセージを打ち、俯いてスマートフォンを握り締めた。……何事も無いといいけど、と思ったが、何事も無いならこんな事態になっていない。

 それが数分ほど続いただろうか。突然澪の体が前に大きく振られる。シートベルトにホールドされながらも前のめり気味になった少女は

「きゃぁっ!」

と思わず声を上げる。

 弥陀ヶ原がハザードランプを点灯させ、ブレーキペダルを限界まで踏んでいる。作動したABS特有の挙動を起こしつつ、黒いセダンはついには路肩に止まった。目の前の看板には、河月インターチェンジまで残り500メートルと表示されている。

「な、何……!?」

と困惑する澪に弥陀ヶ原は

「外に出るな!顔も上げるな!」

とだけ言い、ナビシート下の発煙筒を手にするとドアを開け、点火すると後ろへ向かって放り投げた。次々に後続の車が急ブレーキを掛けて止まる。

 顔も上げるな、と言われた澪は、しかし何が起きたか気になって、つい顔を上げる。視界に入ってきた光景に、少女は

「ひぃっ!!」

と顔を引き攣らせ、歯を鳴らした。

 片側2車線の道路を塞ぐ形で横転したショーファーカーのルーフに、SUVが突き刺さっている。その手前には、中央分離帯と路肩のガードレールを破壊した痕が有り、破片が散乱している。乗っていた人の様子は車内からは見えないが、想像に難くない。

 車に戻った弥陀ヶ原は、血相を変えた少女の表情を見るなり

「だから顔を上げるなと!」

と大声を上げながら、彼女の視界を塞ぐように再度無線機のマイクを手にし、先刻の2台が事故を起こしたと連絡する。

 何事か、と後ろで止まった連中が車から降りるが、その瞬間SUVのキャビンが膨らみ、そして轟音を上げた。

「っ!!」

開かれたドアから襲い掛かってくる爆発音に、澪は咄嗟に耳を塞ぐ。

「車両爆発!消防と救急も頼む!同乗者の安否は今から行う!」

とマイクに向かって怒鳴るように言った弥陀ヶ原は

「何なんだよ……!」

と無意識に口にすると、澪に向かって

「……絶対に出るなよ!」

と釘を刺して燃える車へと走った。

 ……澪は、昨年8月に起きた秋葉原の青酸ガステロの時に、弥陀ヶ原の制止を振り切って、最も被害が大きかった秋葉原駅前にいる結奈や彩花の元へ駆け付けた前科が有る。釘を刺されるのも当然だった。

 ……とんでもないことが目の前で起きた。最悪の予感がした澪は、ホーム画面に置いたトリコロールのアイコンをタップして、スマートフォンを耳に当てた。


 ペンションで振る舞ったモーニングの後片付けをしていると、流雫のスマートフォンが鳴った。そう云えば、澪が遅れるとメッセージを送っていたことを思い出す。

 流雫はテーブルをアルコールで拭いていたが手を止め、スマートフォンを手にすると通話ボタンを押した。

「澪?どうし……」

その声に被せるように澪は

「高速で弥陀ヶ原さんと……事故に遭遇して……」

と答える。流雫が焦り気味だったのは

「な……!?怪我は!?」

と問うた声で判る。

 「無事よ。カーチェイスしていた2台を弥陀ヶ原さんが追い掛けて、その犯人同士が事故を起こしただけ。でも……車が爆発したの」

と澪は言った。

 爆発の瞬間は、弥陀ヶ原が彼女の視界を塞ぐように身を乗り出したことで、見なくて済んだ。しかし、今はその火がショーファーカーに移っている。今から消火作業をしても、恐らく全焼は免れない。

 遭遇したとは云え、実際には単なる目撃。当事者ではないことに流雫は安堵すると、思わず椅子に崩れる。

「遭遇って言われると……でも2人が無事なら……」

そう言った言葉に、澪は

「……でも、或る意味遭遇で間違ってないわ」

と返した。その言葉に

「……え?」

と声を上げる流雫は、一瞬イヤな予感を覚える。

「……単なる事故じゃないと思う。犯人同士、スピードが尋常じゃなかったから……」

そう言った澪のスマートフォンのマイクが、サイレンを拾った。緊急車両が駆け付けたのか。

 「……あたしが見た限り、それだけ。……また後で連絡するわ。……多分、かなり遅くなると思うから」

とだけ言って通話は切れた。

 ……しかし、澪の一言が気になる。……遭遇……。それがもし、単なる事故でなかったとするなら……。ただ、今はどうこう推測しても仕方ない。

 流雫はスマートフォンをポケットに入れ、アルコールスプレーの容器を手にした。


 消防車が駆け付け、漸く消火作業が始まった。しかし誰も脱出した様子も無く、最悪の事態は応援に駆け付けた警察官も含め、その場にいた全員が覚悟していた。

 澪は車内で俯き、外の光景から目を逸らしたままだ。……一度悪いことが起きれば、それに引っ張られる。流雫との通話を一方的に切ったのも、深追いしそうになったからだ。……ただ、やはり気になる。

 事故から1時間が経って、現場検証が始まった。乗っていた人の救出も行われているが、その全てが袋や毛布に包まれている。

 気晴らしにゲームをする気にもならない。完全に意識が、事故……に見える事件に引っ張られている。先刻の直感は、何時しか確信に変わっていた。

 車に戻った弥陀ヶ原は澪に

「悪いが、流雫くんに河月署に直接来るよう言ってほしい」

と頼む。元々は流雫を迎えにペンションまで向かうことになっていたが、その予定が事故で狂った。

 澪は頷き、スマートフォンを手にした。

「……年明け早々、何てことだ……」

とぼやいた弥陀ヶ原だったが、思うことは先輩刑事の娘もそうだった。3日前の楽しかったことを、上書きされないように必死だった。

「流雫……」

澪は思わず、これから警察署で会うことになる恋人の名を呟いた。


 「弥陀ヶ原さんから。直接河月署へ来てと言ってる」

そのメッセージを澪から受けた流雫は、部屋で一息ついた後、ディープレッドのショルダーバッグを襷掛けにした。

 夕方過ぎには帰れるハズ、と親戚の鐘釣夫妻に伝え、ペンションを出た少年はネイビーのロードバイクに跨がり、ヘルメットを被った。

 ロードバイクは、普通の自転車の速度で走ると逆に挙動が乱れる。マラソンランナーぐらいの速度で走るのは必然だった。

 河月駅の西のアンダーパスを潜ると、河月署が見えた。2ヶ月ほど前、学校を早退して弥陀ヶ原の取調を受けた時以来の地元の警察署。相変わらず古めかしさを感じさせる建物だ。

 自転車を入口に止めて河月署に入り、受付で2人を待っていると

「流雫!」

と名を呼び、近付いてくる少女と目が合った。

「澪!」

と呼び返した流雫は、彼女が本当に事故と無関係のようで、安堵の表情を露わにする。その後ろから

「遅くなった」

と手を上げながら弥陀ヶ原が言うと、流雫は問うた。

「弥陀ヶ原さん、一体何が……」

「180キロでカーチェイスした挙げ句の事故さ。ただ、色々と不可解だが」

と答えた刑事の手には、小指の爪ほどの小さなメモリーカードが握られていた。

 「ドラレコが、その不可解な瞬間を記録してあるハズだからな。こいつを提出してくる」

と言い、刑事は一度奥の階段へ消える。

 「……澪が無事だったから、ほっとした……」

と言った流雫は、澪に改めて問う。

「でも、遭遇って……」

「事故だけど、事故には思えなくて……」

そう言った澪は、険しくなる流雫の目を見据えた。

 「爆発の直前に、あたしが一瞬だけ見た時でも、確かに車は大変なことになってたけど、火や煙は見えなかった。それから一気に爆発するなんて……。何か、事故っぽく見えない」

顔を引き攣らせた光景を思い出しながら、しかし冷静を装いつつ言った澪に流雫は

「じゃあ……まさか……」

と呟くように言った。そして、あの渋谷で見たドライバンを思い出す。澪は軽く頷き、言った。

「……自爆。弥陀ヶ原さんが不可解と言ってるのも、恐らく……」

 「……君たちが警視庁に来るなら歓迎するよ、」

と2人に近付きながら言った弥陀ヶ原に流雫は

「警視庁?僕が弥陀ヶ原先輩の下で?」

と言って戯けてみせる。弥陀ヶ原はすかさず

「俺の下はイヤじゃなかったのかな?」

と返す。

 しかし、その流雫との遣り取りは、澪の言葉が刑事に聞こえていて、そして当たっていたことを意味していた。

 「……自爆、ですか……?」

とだけ問うた澪に弥陀ヶ原は

「取調室でな」

と言って2人を殺風景な部屋に案内した。


 「……他の事件になるからアレだが、俺は先刻の事故……爆発は自爆だと思ってる」

狭い部屋で高校生2人と机を挟み向かい合う刑事は、その話から切り出した。

「爆発の瞬間を俺は見たが、爆発したのはキャビンだ、エンジンルームではなかった。それに、それまで火も無ければ煙も無い。ドラレコにはその様子が映っていたハズだ」

その言葉に、流雫と澪は目付きを険しくする。

「追突して無理矢理止めさせて自爆……が犯人の狙いだった可能性は有る。ただ、横転に突っ込むのは流石に予想外だっただろうが」

と弥陀ヶ原が続けると、流雫は唇を噛む彼女の名を呼ぶ。それしか、言えなかった。

「……澪……」

 澪は、彼女の父に言われて弥陀ヶ原に同行し、その結果遭遇した。しかし父に文句を言う気は無い。全ては、犯人が悪い……それ以外に無いのだ。尤も、それは自分が無事どころか当事者でもないから、そう思えるだけなのだろうが。

「……あたしは無事だからいいけど、でもどうしてこんなことに……」

澪は声を震わせる。流雫はその手を優しく握る。今彼が恋人を慰めるには、これしかできない。しかし、それはそれで、何か無力感を感じる。

 「……さて、その話は此処までだ。今日はその話題じゃないからな」

と言った弥陀ヶ原は流雫に顔を向け

「去年2月の河月市内の、教会爆破事件についてだが……」

と言った。

 まさかの話に、流雫は目を見開く。確かに気になってはいたが、しかしあれはトーキョーアタック、トーキョーゲートとは無関係では……。

「……何か気になるのか?」

と弥陀ヶ原は問う。流雫は問い返した。

「弥陀ヶ原さんって、トーキョーゲートを追ってたんじゃ……」

「その過程で、少し気になってな」

と言った弥陀ヶ原に、流雫は更に問う。

 「それで、僕に何を?」

「……トーキョーゲートで駒に使われた連中、半分以上が特定の宗教の信者だった」

弥陀ヶ原の言葉に、澪は

「え?」

と声を上げる。その隣で流雫は

「特定の……」

と呟く。……祖国に似ている。確かに今までは日本では起きなかったが、それは幸運に過ぎないと思っていた。

 弥陀ヶ原は溜め息をつき、言った。

「カルトと云うか……。……やはりカルトになるのか」

「弥陀ヶ原さん?」

流雫が先に反応する。カルト……その言葉に、条件反射を起こしていた。

 「世界終末説を唱え、死後魂を神に救済されるためには、弛まぬ信仰を続けなければならない。尤も多くの場合、信仰や信心の深さは寄進した金の多寡、マンパワーの貢献度に比例するがな。数滴の血や浴槽の残り湯が軽く6桁で売られるほどだ」

「……ただ、中には信仰上の理念などで集団自決をしたり、異教を壊滅しようとしたり……。崇める者のためなら、人の命など羽の1枚より軽い」

弥陀ヶ原に被せるように言った流雫は続ける。

 「肉体は単なる乗り物でしかなく、魂が操縦している。だから人としての死は、肉体を乗り捨てて、もっと高次元な世界へ進むための謂わばレベルアップのタイミング。そう云う連中だっていたし、今も何処かにはいると思う。ただ表立たないだけで」

その2人の遣り取りに、澪は唖然とした。

 世界史や日本史など、歴史を学ぶ上で宗教の話は避けて通れないが、此処まで踏み込んだ話を聞くのは初めてだった。しかも、教師からではなく、宗教家でも何でもない普通の恋人と父の後輩刑事から。

「……それが、流雫が遭遇した教会爆発と……」

と澪は呟く。その言葉を拾って

「ああ」

と頷いた弥陀ヶ原は、流雫に問う。

「流雫くんは、通学中にあの教会の前を毎日通っていたんだろう?何か特徴は有ったかい?」

 「特徴らしいものは特に……。出入りする人と話すどころか見たことすら殆ど無いし……。多分タイミングの問題だったんだろうけど……」

と答えた流雫の隣で、澪は

「まさか、流雫が遭遇したのって……テロ……!?」

と呟いた。……彼が初めて引き金を引いたあの日を、あの日の夜を少女は思い出していた。


 メッセンジャーアプリのチャット画面の流れが止まった瞬間、澪はルナ……流雫が泣いていると思った。そのまま返事は返ってこなかったが、1人泣いているのだろうと思っていた。

 ……流雫は泣かないように必死だった。でも、抑えられなかった。頭を抱えながら1人泣いていた。

「あたしがついているんだから、泣いてもいいよ?」

のメッセージを開いたまま、目の前に顔すら知らない少女の存在を意識しながら。流雫がミオ……澪の存在を、今までと違う形で意識した最初の瞬間だった。

 そして澪も、ルナが無事だったことに安堵しながら、少しだけ複雑な意識を感じていた。


 弥陀ヶ原は、澪の呟きに頷きながら言った。

「異教を相手にした、宗教テロの犠牲になった可能性は有る。何しろその時の犯人は2人、どっちも死んでいるからな」

その言葉に、流雫は思わず俯いて唇を噛む。

「っ……」

その様子を見た弥陀ヶ原は、咄嗟に

「君の銃弾が死因じゃない。自殺だ」

とフォローした。

 いくら正当防衛とは云え、自分の発砲で人が死ぬことは流雫にとって後味が悪過ぎる。だからそうやって思い詰めないように、と弥陀ヶ原は思っていた。

 刑事と犯人の関係でないことだけは幸いだが、如何せん知り合って既に1年近くの付き合いが有る。そして、この少年の性格もそれなりには判っていると思っている。流雫に対しては、澪よりセンシティブな扱いを強いられているのも判っている……と思いたい。

 「……本当に?」

流雫は顔を上げながら問うた。

「ああ。調書に目を通したが、1人はあの後逮捕寸前までこぎつけた。だが、ドライバンの中で銃で自殺したようだ。君が撃った奴も、銃弾の摘出手術後に病院で自殺した。致死量を超える薬物が、胃から見つかっている。恐らく、自らの口封じのためだろう」

その言葉に、澪が

「自分の命よりも、守りたい秘密や信念が有る……?」

と問う。

「恐らくは。そうでもないと、自殺なんか選ぶワケがない」

と答えた弥陀ヶ原は、犯人や関係者の自殺によって事件が迷宮入りに陥ることに、何よりも苛立ちを抱えていた。遺族のためにも……だが、刑事としてのプライドも有る。

 「……1枚の羽よりも軽い人の命は、自分の命も含めてなんだ。……だけど、だからって……」

と言葉を切った流雫は、奥歯を軋ませる。無意識に今まで遭遇したテロを思い出していた。

 ……その全てで、奴らは命を軽く扱っていた。テロだけでなく、通り魔も。そして犯人だけでなく、ヤジ馬ですらも。澪以外に味方が欲しい……とは思わないが、あまりにも敵が多過ぎる。

 そして、軽んじるのは自分の命すらも。それが連中のポリシーだから、それに向かって自分が言っていることは単なる理想論、綺麗事に過ぎないことは、流雫にも判っているが。

 澪に顔を向けた少年は、怒りと悲しみを交錯させていた。その表情に、澪は昨日夜中に見た文字を口にした。

「ノエル・ド・アンフェル……」

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