1章・第15話 鼻殺し


「い、いででえええええっ!」


「あらあら。よくこんなケガで動けましたね」



 翌日。

 残党処理を明け方までこなした俺はそこでようやく自分の体が予想以上にダメージを受けていたことに気付いた。

 『王』との戦闘中に尻尾で殴られた際のケガに加え、久々に術も体もいっぱいいっぱいまで酷使してしまったことの反動、そして切り札の行使。

 その中でもやはり『王』の一撃はだいぶ効いていたようで、受け止めた右腕と叩きつけられた背中は赤黒く変色していた。


 というわけで、今はアイリスの母でありこの村の薬師でもあるミリアから手当を受けている最中である。



「んー。やっぱりこれはアレを使うしか」


「な、なぬ!?

 そうじゃ、わしは村の被害を見回りに行ってくるでな!

 あとのことは頼んだぞ、ミリア!」


「あのー……アレってなんですか」



 村長が何かを恐れたように慌てて診療小屋を出ていく。

 もう、この時点で嫌な予感しかしない。



「うふふ。それじゃジールさん……服を脱いでくださる?」


「え、あ、え? ちょ、ミリア、さん?」


「ほら、恥ずかしがらないで。これは治療なのよ? ……ふふふ」


(おい! お主! 何をしとる!)



 出て行った村長と入れ違いでダリアが乱入してきた。

 いやいや、俺は何もしてないと思うのですが……あっ!



「それっ!」


「きゃああっ!」


(き、気持ち悪い声を出すでない!)



 ダリアに気を取られた隙に、俺の上半身はあっという間に裸にされてしまった。

 エルデとは全く異なる服の構造を理解しているのは一体どういう理屈なんだ。

 もしかして、ミリアは『脱衣』の固有スキル持ちなのでは――?



「あらあ。やっぱり凄い筋肉してるのねえ」


「あ、ちょ、ミリア、さん、そんな触り方って」



 などとアホな事を考えていると、ミリアは指と手の平で俺の身体をまさぐり始めた。

 触れるか触れないかの絶妙なタッチに思わず間抜けな声が出てしまう。



「そう言えば、ダリアさんは匂いも分かる、とお話されてましたわね」


「え、ええ。俺の感覚をっ、共有ぅ、してますっので」


「そんなことができるだなんて凄いわあ」



 そこでようやく触診が終わったのか、手を離してくれた。


 助かった……。

 それにしても、アイリスの身体を勝手に使った事は一応まだ伏せているとはいえ、まさかそこに食いついてくるとは思わなかった。

 ダリアの話なら『黒姫』伝説云々が主題になるとばかり思っていたが。



「はあ。そうですかね」



 色んな意味で肩透かしを食らった俺は気のない返事を返す。

 だがミリアはそんな返事を意にも介さず、娘そっくりに両手を合わせ、娘そっくりのほんわかした表情で話を続ける。



「だって、ジールさんが良い香りを嗅げばそれが共有できるのでしょう?

 とても素敵なことだと思うわ!」


「まあ、それは確かに」


(何を言うとるか。お主が好むのは『匂い』じゃろ。

 『香り』なんて高尚なもの、一度だって嗅いだことは無いではないか)



 俺はえて言葉にはせず、口を半開きにして眉にしわを寄せ、『はあ?』という顔を作ってダリアに見せてやる。



(……お主まさか、武器を手入れするための油だの、防具を接合するための革だの、そんなものの匂いが『香り』だと思ってはおらんじゃろうな!?)



 ……え。あれって凄く落ち着くいい香りだと思ってたんだけど。

 みんなもそう言ってたけどなあ。

 


(やはりか。

 良いか、香りというのはな、菓子や果物から漂う甘い匂いの事を指すのじゃぞ!

 じゃからお主はもっとそれらの香りをじゃな……

 あ、おい、何を無視しておるか、話を聞くのじゃ!)



 真面目に聞いて損した。

 人生でもかなり上位にくるレベルの無駄な時間を使ってしまったぜ。



「あらあ? ダリアさん、今はそちらに?」


「はい。物凄く下らないことを言っていただけなので。気にしないでください。

 あ、もしかして、あいつに何か言いたいことがあったりします?」


「ええ、まあ……実は、今から塗るお薬は少しだけ独特の匂いがするものですから。

 苦手な人もいるのですよ」


「何だ。薬なんて皆そんなもんじゃないですか」



 良薬口に苦し、なんて言うしな。

 この怪我が早く治るなら多少染みたり不味かったりするくらい、なんてことないさ。

 しかも匂い程度ならほんの一瞬我慢すればいいだけのことだし、全然問題ない。



「ええ。私はとてもいい香りだと思うのですけれど。

 アイリスもあの香りが大好きだと言っていますし」


「ははは。それなら尚更問題ないじゃないですか」


「ええ。きっとお二人も病みつきになりますわよ」


(あのな。儂、とても嫌な予感がするんじゃが。

 お主、鼻にあの丸いのを詰めといてくれんか)



 ダリアの指差した先には親指の先程もある黒い丸薬があった。

 ……アホか! 鼻の穴が裂けるだろ!


 と、そんな下らないやり取りをしている間に、ミリアは棚の奥から小さな壺を取り出していた。

 広げた手の平程度のその壺は、何故か布でぐるぐる巻きにされている。



「……ず、随分厳重なんですねえ」


「ええ……父も、亡くなった主人もこの香りが苦手だったもので……こうしておかないと叱られるんです」


「へ、へえー。そうなんですねー」



 ここに来て、俺もダリア同様に嫌な予感をビンビンに感じ始めていた。

 壺の『封印』は一巻き、もう一巻きと徐々に解かれていく。


 いやまさか、そんなはずは。アイリスも好きだって言ってたじゃないか。いやでも、村長たちは違うって、さっきのはもしかして逃げた? いやいやちょっと待て……


 俺の頭の中で楽観派と危険派が激しくせめぎ合う。

 そして、その結論は出ないまま……ぽこっ。という間抜けな音を立て、最後の『封印』である木の蓋が、外された――



「……ん?」


(……う)



 俺の鼻が瞬時に異常を検知。

 これは匂いではない。もちろん香りでもない。これは、におい、だ。



「――うぅごっはぁ!」


(――うがぎゃあああああああああああ!)



 古今東西、ありとあらゆる悪臭と呼ばれるものを結集し、混合し、そして濃縮したようなそのにおい――それは、鼻腔を貫通、脳へと直撃し、人格を破壊する。

 はっきり言おう。これは……俺の嗅覚とその他色々を破壊する究極の魔術兵器! 鼻殺し《ノイズ・スレイヤー》に違いない!



「ごほっ! ごっほぉ! は、はな、はながああああああっ!!」


(おぅえええええっ! あぅおっ! えぉぉっ!)



 鼻を押さえ、ピルピードの王の如くのたうち回る俺。

 そして、そんな機能はない癖に激しくえずくダリア。



「あ……あらあ?

 ジールさん、駄目でしたか?」


「ごほっ、ごほっ!

 だ、だべだんでものじゃ……ごほおっ!」



 例の壺型兵器から一トール以上離れているというのに、この威力……っ!

 もしこれを王都の武装研究棟に持ち帰ったら俺はきっとその日のうちに開発部門のトップになれる! やったぜ、大出世! まあ、俺は王都から追放されてるんだけどね!



「そう……残念ねえ」


「あやぐ、じまっで、ぐだざい」



 一イリムの隙間もないほどに完全に鼻を摘まみ懸命に抵抗を試みるが、鼻殺し《ノイズ・スレイヤー》はそんなものは易々と貫通し、脳を突き刺す。

 今の希望はただ一つ――。どうか、もう一度、再封印、を――。



「あら。駄目よ」



 だが、そんな微かな願いにすがる俺をミリアの言葉が更に絶望の淵へと叩き落す。



「――だって、今からこの薬を塗るんですから」



 ……何が『ほんの一瞬我慢すればいいだけのことだし、全然問題ない』だ!

 問題しかないじゃねーか!

 こ、こんな……事なら……ダリアの言う通り……あの丸薬を……詰めときゃ……良かった……。

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