第五話 フランの声を聞かせてよ
青年はためらってしまった。
その少女のゾンビが学校の制服に身を包んでいたからかもしれない。彼女に妹の姿を重ねてしまったのかもしれない……。
青年の目の前で少女は足をもつれさせ、倒れかかるようにして彼を押し倒した。あるいは、青年がその身を受け止めようとしたのか、それは定かではない。
ともかく、少女は青年の上にまたがる形となり、涎を垂らしながら、その牙を彼の首に突き立てようと暴れ狂った。だが、青年は容易くそれを片手で阻む。悲しいほど弱々しい力であった。
涎が青年の顔にぼたぼたと落ちてくる。少女が暴れ、青年の腕や顔に幾つもの引っ掻き傷をつけていく。パンデミック直後であれば、青年はもうアウトであったろう。だが、ワクチンによって免疫を獲得した今となっては、少女のそのあまりの無力さは、ただただ青年に寂しさを覚えさせるばかりであった。
青年の右手にはナタが握りしめられている。こんな体勢からでも、少女の首にそれを食い込ませれば、事はただちに収拾するだろう。
――彼女に安らかな眠りを与えてあげよう……。
どんな理由で少女がゾンビに貶められたのかは分からない。だが、せめて彼女の心に安らぎを、健やかな魂を、取り戻してあげなければ……。
青年はナタを握る指に力をこめた――。
そのとき、一粒のしずくが青年のほおに落ちた。雫は、ほおを伝い筋をつくった。
涙であった。
少女の涙……。
青年は彼女の顔を見た。獣のような表情に変わりはない。その涙も今流したものではなかったかもしれない。まぶたの奥に溜め込まれていた、悔しさや怒り、哀しみの涙が、今になってこぼれ落ちたものであったかもしれない。だが、確実なことは、少女のほおに残る軌跡――跡が残るほどに、少なくない涙を彼女は流したという事実であった。
――そして、彼女は死んでしまった……。
青年はナタを手放し、両手で少女を突き飛ばした。体勢を入れ替えようと、仰向けに倒れた彼女の上に青年は馬乗りになる。すねの辺りに腰を下ろす形となったが、そこで青年は世界の不条理を目撃することになる。
すべてが繋がった――。
彼女はなぜ涙を流さなくてはならなかったのか。
倒れた勢いで少女のスカートがはだけ、太ももが露わになるほどにめくれ上がった。少女は下着を身につけていなかった。そして、その太ももの付け根あたりには、乾いて黒く変色したものが筋となってこびりついていた。
青年は激情にかられた。世の中に、こんなにも悲しい出来事があっていいものかと、憤りを超え、むしろ、やはり哀しみの感情を覚えずにはいられなかった。
――あいつらだ……。
あのスーパーで出会った三人組。人を人とも思わず、彼女の身体を、心を、もてあそんだ――。
――車に連れ込み、山奥で彼女に暴力を振るったか……。
青年は世界に幻滅しかけていた。自身には、もう幻滅していた。
死者を死者として敬いもせず、穢れとして扱う、この新たな世界――。
それじゃあ、死んでいった妹は穢れていたというのか――。
目の前に横たわる、この少女は穢れてしまったというのか――。
――そうじゃないだろう!
穢れてしまったのは――壊れてしまったのは、この世界だ! 自分自身だ!
妹もこの少女も何も穢れてなどいない。その魂は清らかなまま、だが何一つ納得もいかないまま、この世界を今でもさまよっている。
声を聞かせてくれ――。
彼女たちは、この世界に呪いの言葉を吐くのだろうか。
それとも、あるいは……。
だが、もはや彼女たちは語ることを許されない。
彼女たちの声を聞くには――。
残された手段は――。
――ただ、ひとつだ……。
青年は少女の腕を押さえつけながら語りかけた。聞こえていようがいまいが、そんなことは構わない。
「やあ、はじめまして――。僕の名前はコウ。とても長い時間を意味する言葉らしいんだ」
そして、胸の内で青年は自分と対をなす妹の名を呼んでいた。
――セツナ……。
「君の名は何だろう?」
もちろん答えが返ってくるはずもない。少女は押さえつけられた体を、ただジタバタさせるばかりだ。
「君に名前をつけよう。それは必要なことに思うんだ」
コウは思案した。ほどなく浮かび上がった名前がある。もうそれ以外には考えられないと思った。
「君の名はフラン……。皮肉にも聞こえるけど、こんな世界には、ぴったりな名前だと思わないか」
フランは何も答えない。
――さて……。
これからどうしようか。
まず、彼女を家に連れ帰り、身体をきれいに洗ってあげよう。服も洗濯しないといけない。
――そうやって、彼女にかけられた穢れを少しずつ落としていくんだ。
もちろん、それですべての穢れを落とせるわけではない。すべてをまっさらにするには、他にしなくてはならないことがある。
――奴らの居場所を突き止める。そして……。
奴ら自身の胸の内に、フランの声を響かせるのだ。
フランはもう言葉を失っている。だから、相手の心に聞くしかない。自身に問いかけ、自身の胸の内に生まれた、フランの叫びを――。
コウはもう一度、その少女に語りかけた。
「ねえ、フランの声を聞かせてよ……」
フランの声を聞かせてよ 芝大樹 @hiromaru_gt
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