第三話 世界の片隅に咲く少女
「今日は、お客さん一人だね」
高原のさらに山道を上った先、世界のどん詰まりのような場所に、そのキャンプ場はあった。それこそ、パンデミックのときみたいに息を潜め、ひっそりと。
「もうシーズンも終わったんですか?」
「まあ、休日とはいえ、昔ほどキャンプも盛り上がらなくなってきたしね――ほら、こんなご時世でしょ。大丈夫とはいっても、外で夜を明かすのも、あまり気分のいいもんじゃないし……。お客さんみたいに、ソロでキャンプするなんて、なおさらだよ」
「ここは、出たことあるんですか?」
「人里から離れているからね。あいつらはここまでは辿り着けないよ。登山客がたまたま……。まあ、そういうことになったら分からないでもないけどね。今まで、そんなことはなかったよ」
青年は書き上げた利用申請書を、キャンプ場の管理人に手渡した。管理人はその書類に目を通しながら言った。
「まあ、大丈夫だとは思うけど、何か用意はしてるのかい? 私は夕方にはいなくなるけど、よければナイフでも貸しておこうか?」
「いえ、大丈夫です。薪割り用のナタもあるので――。クマが出たら、役に立たないですけどね」
「大丈夫、大丈夫。クマなんて、ここら辺にはいないよ。住んでるのは鹿ぐらいのものさ」
青年は、管理人の気をつけてという言葉に見送られ、事務所を後にした。車から荷物を下ろし、それを背負い、手に持ち、駐車場からキャンプサイトに向かう。ざっと見渡しても、炊事場と簡易トイレぐらいしか見当たらない。
――近くに車を駐められるなら、少しは安心だけどな……。
まあ、心配する必要はないだろう。奴らが出たところで、集団でない限りは問題ない。最悪、駐車場まで走って、車の中に逃げ込めばすむ話だ。
道が森の中へと続いていた。青年はためらうことなく足を踏み入れていった。
陽はすでに落ちていた。焚き火の灯りが森の底を焦がす。テントを、青年を、陽炎のように、ゆらゆら照らしていた。
――まあ、そうだよな……。
誰が好き好んで、こんな暗闇の中、外で寝ようなんて思うだろうか。
青年は食後のコーヒーをすすりながら、闇夜の声に耳を傾けていた。その多くは過去からの呼びかけであった。すでにこの世にはない亡霊達の囁き声であった。
『お兄ちゃん、どうして……』
責めるでもなく、慰めるでもない。妹の声が――最後の声が、頭の中で繰り返される。
――いや、妹の最後の声は断末魔だった。
何を取り繕おうとしているのだろう、自分は……。そんなことをしても、何も変わりはしない。どんなに悔いたとしても、やってしまったことを無かったことにはできないのだ。
青年はまぶたの裏を熱くした。
ガサッ――。
そのとき、遠くで茂みがかき分けられる音がした。
――鹿か……?
だが、その何かをかき分け近づいてくる音は、断続的に一直線にこちらに向かってきている。明確な意思を持って――。
――間違いない、あいつらだ……。
青年は焚き木に食い込ませていたナタを引き抜いた。
――よりにもよって、妹のことを考えていた、このタイミングで……。
これは、何かの啓示なのだろうか。それとも、単なる皮肉か……。
そして、そいつは青年の前に姿を現した。足を引きずるようにして。その目は、世界を恨むようにして――。
一人の少女であった。
いや、正確には、かつて少女であったものだ。
生ける屍――少女のゾンビであった……。
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