2 宵宮祭をたのしもう(6)
どこをどう逃げ回ったのかも定かでない。気が付いたときには鍾乳洞を抜けて山のただ中にいた。走っている間、腕や首の剥き出しになっている皮膚を木の枝や藪の棘が撫でる熱だけを感じていた。脳みそは白くかじかみ、精神は痙攣していた。考えることを放棄して、理解を拒んでいた。
何があった。一体、何が起こった?
弐座は殺されたのか? 本当に?
ぼくのもつ現実感覚と眼前で起こった出来事の間で矛盾がおきて、常識の平衡感覚が狂わされる。テーマパークのアトラクションだと割り切ることができない。お遊びの域を越えている。あの現実には質量があった。重さがあり、法則があり、手触りがあった。薄っぺらで身軽になった皮膚は気流になびいていた。生剥ぎの肉体からは蒸発する血の香りがした。千切れ飛んだ言葉は無慈悲な消失を意識させた。
無意識に体は逃げ出すことを選んでいた。
どことも知れぬ山中を方角もわからずに掻き分ける。
深い山は深海に似ていた。空は幾重にも塞がれて、暗闇に沈んでいる。地に這う根と腐葉土に足を絡めとられ、起伏の斜面は体力を奪っていく。鬱蒼とした緑の呼気は、蒸気とガスを放ち、ぼくの肺を窒息させようとする。
歩き疲れて少しは冷静さを取り戻してくると、様子がおかしいことに気が付く。
山を抜けられない。
目印として拾った石で樹皮に傷をつけていく。何度も同じところを回らないよう、出来る限り目印をつけた樹から直線状にある樹へ向かう。お菓子や糸の代わりに、引っ掻いて足跡を残す。しかし、いくら気を付けていても、しばらく歩くと村が見下ろせる場所にいる。村は盆地の底にあるから斜面を登り続ければ抜けられるはずなのに、どうしても村に戻ってきてしまう。一歩ずつゆっくり進んでも、体の向きが180度逆向きに変っている。
さらに異常な事態は、戻ってくるたびに風景が違うことだ。
不可視の重力が、ぼくの存在を村に縛り付けているかのように。
日が傾き、ぼくの焦りが頂点に上り詰めたころ、村の集落を見下ろす神社の境内に抜け出た。正しくは村の神社に戻された、とでも言うべき状態だった。
「ここは瑞上神社か」
鳥居から麓まで伸びる数百段ありそうな石段と、麓から村の中心まで一直線に伸びる道で、自分の現在地を確認できた。境内の上からでも公民館が遠くに見下ろせ、道には祭りの灯火が揺れていた。赤い明りが点々と、生者を幽界へと導く標のように浮かんでいる。妖しく、歪んだ世界の有様を象徴するように。
瑞上神社は塗装の剥げた鳥居と小さな木造の社があるだけの素朴な神社だった。中を覗いてみても、古錆びた鏡が置いてあるだけで、賽銭箱も鈴もない。崩れかけた石灯籠にも小さくなった蝋燭が灯っていた。
「こんばんは、雪原岳人」
社の裏からふらりと人影が現れる。巫女装束に着替えてこそいたが、それは紛れもなく洞窟で弐座の皮を剥いだ超能力女子高生だった。
ぼくは一歩二歩と後退りして、身構える。何かあればすぐにでも逃げ出せるように。
「逃げ回っても山を越えることはできませんよ。外界と瑞尾村では時間の流れと空間の構造が異なるのです。一般相対性理論において、重力が強い所では時間がゆっくり進む、という現象があります。故に標高に高低差がある場所では時間の流れる速さがことなるのだとか。その話と似たお話です。この瑞尾村は、周囲の世界と比べると極端に重力が強い。つまり、瑞尾村はブラックホールの中心というわけです。発生しているいくつかの事件の、渦中の中心座標が今いるここ。あなたはその重力を逃れて、外に飛び出せるほどの速度を持っていない。すべての事件を解きほぐして、ブラックホールを消滅させなければ、外にでることは叶いません」
「あんた何者だよ。わけわからない事ばかり言って」
なにか理屈のようなものを説明されたが、まるで意味不明だ。要するに、客が勝手に外に出られない仕組みが存在するのだ。
「私は女子高生で、巫女です」
「そういう設定だろ。村の周囲に人が迷うような仕掛けがしてあるに違いないさ。カモフラージュして出られないよう誘導する仕掛けがある。道を茂みで塞いだり、樹の配置をずらしたり。ぼくのことも監視していたんだろう。すべては掌の上、超能力にだってトリックだ」
勢いに任せて口に出すうちに、トリックだったという気がしてきた。むしろ、本物だと思う方がどうかしていた。海砂利のときと同じだ。ショックの強い演出で脅かされただけなのだ。小心者な自分が嫌になる。
ここはテーマパークなんだ。これじゃあ、まるっきりホラーハウスのゾンビを本物だと思い込み、本気で怖がる幼い子供と同じじゃないか。冷静になれ、と自分に言い聞かせる。
「そうだよ、弐座さんだって生きているはずさ。皮が剥がれたなんてのもトリックだ。例えば皮膚の上に、肌色のセルロースみたいな薄い膜が被せてあったのを、合図に合わせて引っ張っただけだ。薄膜の下は特殊メイクだ。本物の皮膚が剥がれたわけじゃない。あの薄暗さのなかでは仕掛けも見えにくい。天王寺が吹き飛ばされたのも、ワイヤで引っ張っただけ。カンフー映画のワイヤ・アクションだよ」
「なるほど、面白い解釈ですね。確かに弐座武秀は死んでいません。そうやって頭の中で理屈付けして、歪曲していたんですね。認識した現象を自己のもつ常識とすり合わせるだけの、合理化の限界ともいえるでしょうけど」
女子高生はゆったりの緋袴の裾を揺らして、こちらに歩み寄る。
「なにか間違っているとでも?」
「いいえ。その調子で事実を解き明かしてください。自己解釈による真実ではなく、現実に起こった出来事をね。あなたは観客のひとりでありながら、舞台に上がり込んで、気付けば演劇の世界に没入している狂人です。それが実生活の空間と重なったテーマパークの厄介なところであり、一番重要な仕掛けです。故に、私にもわからないことがいくつかある」
少女の言う通りだ。このテーマパークの真に怖い所は、現実と創作が混ざり合っていることだ。もしかしたら、仕掛け人側の村人さえも判断がついていないのかもしれない。
「私が誰か、と問いましたね」
少女は村の明りを背景にして、こちらを振り返る。凛と澄んだ顔立ちのなかにあって、そのふたつの瞳は異様な存在感がある。だれか知り合いに似ている気がするけど、うまく思い出せない。そんな顔。
「私は村のなかでは女子高生と神社の巫女という役を持っています。そして、村の外ではもうひとつの役を兼務しているのです」
少女はスカートの裾を摘まんでお辞儀するように、袴の裾を広げ優雅に膝を折る。
「私は探偵、
「村で潜入捜査してるってことか? なにを探しているんだ」
「御神体です。とある宗教団体から盗み出されて、以来行方知れず。あなたにも心当たりがあるのではありませんか? 奥の院で目にしたでしょう。あの、空っぽの神殿を。あそこには本来御神体があって、次の例祭の日まで生活しているはずなのです」
「御神体って……まさか、現人神か」
脳裏に浮かんだのは弐座の話していた瑞尾村と瑞上神社の起源。超能力を持った人間を現人神として祭り上げたことが始まりだったという話だった。そうだとすると、目の前の戯言虚有子と名乗った少女の役割に齟齬が生じないだろうか。
彼女は自分が外の役割として探偵であると明かした。しかし、彼女のいう宗教団体が瑞尾村の村人たちのことで、探している御神体が現人神だとすれば、それは村内の問題だ。外の探偵に依頼したのだとしても、役割的には内側のものだ。それに行方不明になっているのに、村のなかで村から消えたものを探しても無意味だ。
「あんたの言っていることはおかしい。辻褄が合わない。村の外の探偵だというけど、村の御神体探しは村の内側の役目だろ。それに行方不明なら、外に探しに行くべきだろ」
「私の言動に矛盾はありません。私はこの因習村に参加することで、御神体の行方を探しにきました。雪原岳人なら、その在処を見つけ出せるかもしれないと思ったのです」
「馬鹿言うなよ。ぼくは昨日この村にきたばかりだ。御神体がどうとうか、知るはずない」
戯言虚有子は口元を隠して、くすりと嗤う。
「いいえ、あなたは知っているのですよ。誰よりもよぉく知っているはずですよ」
からころと漆塗りの下駄を鳴らして石段を下って行く少女。夕闇の帳が降りた村からは祭囃子が流れてくる。笛と太鼓、鉦の音に加えて微かな喧騒が神社まで届く。
「さぁ、参りましょう。宵宮祭がはじまります。どうせ逃げられないなら、とことんまで付き合ってみてはいかがです?」
「そんなことより、さっきの言葉の意味を教えろ。どいつもこいつも、訳の分からないことばかり吹き込んで、ひとつも本当のことを喋らない。言い逃げなんてさせないぞ」
思わず追いすがって、袖を掴んで引き止めた。
「教えて差し上げてもよろしいですけど、本当に聞きたいですか?」
血の気の冷めた薄紫の唇が、月明かりに歪む。
少女は狂喜じみて微笑む。
「あぁ、教えろ」
もしかして、ぼくは選択を間違えたのだろうか。まだ聞いてもいないのに、後悔が胸いっぱいに広がっていった。
「御神体の名前は、上郷美折」
公民館の広場で大きな火の手があがる。盆地を赤く照らす焚き火だ。火の穂先が垂れ下がった夜の天幕を焦がしていく。赤く、赤く、少女の頬を染めている。
爆竹が合図を知らせる。
さぁ、宵宮祭がはじまった。
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