三日月洋燈商會(ミカヅキランプショウカイ)目録
此瀬 朔真
Case1. 靑濁併呑《ブルー・メディスン》
お目通りしておきな、新人。
その言葉で送り出され、北へ列車に揺られること数時間。駅名標に刻まれた、イーハトーヴ、の文字が群青色に眩しい。タクシーに乗り換えて行き先を伝える。
「これはまた、遠くまで行くんですねえ。お仕事ですか」
仕事には変わりないので曖昧に頷く。ただし、実際何をするのかと訊かれたならば、ぼくにもわからないのですとしか言えない。
携えたトランクの中身は教えられていない。これを渡してこい、とそれだけを言いつけられている。
丘を越え、谷を渡り、ぐらぐら揺れる座席で荷物をしっかりと掴みながら、酔い止めを飲んできて正解だったと内心思う。山道ですから揺れますよと大袈裟に脅されたのは嘘ではなかったわけだ。ずれた眼鏡を直すと急に道が開け、砂利敷きの空地で車はぐるりと旋回し、停まった。
「着きましたよ」
代金を支払い、領収書とともにカードを一枚受け取った。電話番号と社名が書いてある。帰るときは呼んでくれれば迎えに来る、と数枚の札を満足そうに仕舞いながら運転手は請け合った。礼を言って降りる。
庭をふたつに分ける小路には点々と平たい石が埋め込まれ、奥へと続いている。それを辿って歩くうち、建物は次第に近づいてきた。白い壁と窓、一見すると殺風景な四角いビルだ。扉に提げた真鍮のベルを鳴らし、しばし待つ。
やがて音もなく扉は開き、向こうから人影が現れた。こちらを認めると軽く会釈する。
「いらっしゃいませ」
一瞬、返事が遅れた。
ぼくよりも頭ひとつ半ほど小さい背丈、短く切り揃えた榛色の髪、肌もシャツも真っ白で、怜悧な瞳は臆することなくこちらを見据えている。声は落ち着いていながら澄んで高かった。絵に描いたような美しい少年が、目の前に立っていた。
固まったままのぼくに対し、少年は鷹揚に微笑む。
「恐れ入りますが、お名前を頂戴してもよろしいでしょうか? ご依頼の品を準備してまいります」
「あ、いや……」
しどろもどろになりながら、どうにか名乗った。
「ラズロー商會の、サガイ
「はい、承っております。お待ちしておりました」
少年は一礼ののち、大きく扉を開いた。
「どうぞお入りください」
おずおず足を踏み入れると、薄暗い廊下にぽつぽつと小さな灯りが続いている。蝋燭だろうか。人の動きに合わせてかすかに揺らめいている。少年はごく自然に先に立って歩き出した。慌ててそれについていく。
二度ほど角を曲がった通路の突き当たり、開いた扉の向こうからふわりと温かい空気が流れ出てきた。道中はずいぶん冷えたからありがたい。一礼して部屋に入る。アンティークのキャビネット、ふかふかの絨毯、窓にはめてあるのは昔ながらのやさしい歪みを持つガラスだ。天井には小ぶりだが立派なシャンデリアが光っている。立派な革張りのソファを勧められて腰かけた。
「体が冷えていらっしゃるでしょう。お茶の準備ができております」
控えていたワゴンから、少年はソーサーと空のカップをサイドテーブルに並べる。無駄のない所作でポットの中身を注ぐとクッキーを盛り付けた皿を添えた。
「自家製のハーブティです。どうぞお召し上がりください」
湯気の立つ茶を啜るとたちまち甘い香りが鼻に抜け、心地好い刺激が舌に跳ねる。まったく知らない味だったが、抵抗はなかった。寒さに縮こまった神経をやさしく揺さぶりほぐしてくれる、力強い一杯だった。
「それでは、改めましてご挨拶申し上げます」
こちらの表情が緩んだのを見て取ったのか、少年は居住まいを正した。
「本日は、
再び、綺麗な一礼。慌ててカップを置いてこちらも応じる。
「遠方よりお越しいただいてたいへん恐縮なのですが、本日所長は不在にしております。つきましては、お許しをいただければわたくしがご用件を承りたいと存じます。いかがなさいますか?」
お許しも何も、頼まれていたものを渡すだけだ。相手は誰でも構わない。
「ええと……じゃあ、対楽さんにお願いできれば」
「承知いたしました」
傍らの荷物を引き寄せる。質素でもひと目で頑丈とわかる造りのトランクには、同じくがっちりとした錠前がついている。鎖で胸にぶら下げておいた鍵を差し込んで、捻った。
入っていたのは、分厚い紙の包みがふたつ。対楽氏はいつの間にか手袋をはめていて、布越しにもその細さが際立つ指先で荷物を取り出した。十字に掛けた紐が手際良く解かれ中身が露わになった瞬間。
きりりと、目の奥が引き締まる音がした。
透明なパッケージのなかを、ふたつの異なる青色が泳ぐように流れる。皮膚に撫でつければそのまま深く染み込んでいきそうなほど細かい粒子。固体と液体のあいだをしなやかに行き来する粉末。
「……なんですか、これ」
「
突然飛び出してきた聴き慣れない言葉たちに戸惑う。それが顔にも出たらしく、対楽氏は重ねて解説してくれた。
「当研究所は一般的な流通システムでは取り扱われない薬剤の製造を生業としております。お客さまのご依頼に応じてひとつずつ調合し、お渡しするのです」
つまり。
市販薬でも処方薬でもなく、しかも効き目はオーダーメイド。さらに材料には聞いたこともない物質がわんさか使われている。
ぼくの勤め先の取り引き相手にも、妙な連中が多くいるのは入社してすぐにわかった。
だから立場上、声高に糾弾するわけにもいかないのだけれど、今の話から合法な薬を扱っていると判断するほうがどうかしている。
とんだ初めてのお使いだ、と内心頭を抱えたぼくの鼻先を、ふうわりと湯気が掠める。
藍色の唐草模様が踊るボーンチャイナ。
「……自家製なんですよね、これ」
「はい。そちらの茶葉も、当研究所が保有する創薬の知識と技法を応用したものです」
対楽氏が涼しく継いだ言葉がさらに追い打ちをかけた。
呑気に茶を滑らせてしまった喉に嫌な寒気が走る。
仕事の内容も持たせた荷物もろくに明かさず、行き先は極寒の僻地、しかも得体のしれない薬屋。
この出張は、使えない新人を秘密裏に『処分』するための体の良い口封じなのではないか。熊の肝が薬になるなら、同じ雑食の人間だって、ひょっとしたら。
「……サガイさまのご想像なさっているようなものも、製造は可能です」
対楽氏は苦く笑って向かいのソファに座った。体が沈み込むほどやわらかい座面にも、ぴんと背筋を伸ばしたままだ。
「たとえば、こちらをご覧ください」
キャビネットから取り上げた壜には、
「これは
詳細はお教えできませんが、と言い添えて、話は続いた。
「もともとは、重度の精神疾患を持っていらっしゃるお客さまのためにお創りしました。一時期は入院を要するほどでしたが、服用を開始して以来、お仕事にも復帰されるほどお元気になられたのです。現在も定期的な服用指導のもと、ご利用いただいております」
理解を促す視線がぼくをやさしく射る。
「毒と薬は紙一重。違いは人の助けと救いになるか否か、それだけです。薬剤に限らず創るという行為には常に責任が伴います。ゆえに、遠方から初めてお越しくださったお客さまを害する愚行は、
やわらかく、そのために芯の強さが際立った声に思わず顔を伏せる。丁重にもてなしてくれた相手をいい加減な予想で疑うなんて、失礼にも程があった。耳がかっかと熱くなる。
「……申し訳ありません、対楽さん」
ふっと、短く吐いた息におそるおそる視線を上げると、対楽氏は先ほどまでの穏やかな笑顔でぼくを見ていた。音もなく立ち上がって歩み寄ると、ティーポットを取り上げる。
「配合は季節ごとに変えております。本日は代謝向上の効能を持つハーブを中心に、体の温まる材料でお創りしました」
深い瑠璃色の瞳が、やわらかく細まる。
「おかわりはいかがですか。サガイさま」
かじかんだ手がすっかりほぐれた頃、対楽氏の提案で研究所のなかを歩いて回ることになった。実際に薬を製造している部屋には入れないが、博物館のバックヤードツアーのようなものと思ってついてきてほしい、だそうだ。ミュージアムならなんであれぼくの大好物だ。喜んで部屋を出た。
廊下を曲がり、階段を昇り、通路を挟んで建物から建物へ。靑色研究所は複雑に入り組んで薄暗く、迷路のようだ。対楽氏の提げるランタンが方角を指す星のように先導していく。
「これまでに何度も増改築を繰り返しておりますが、そのどれもが所長の思いつきによるものでした。ですので、このように面倒くさ……失礼」
面倒くさい、と言いかけた横顔に年相応の素直さが垣間見える。今は不在である所長の気まぐれに付き合わされ、ときにはそれは叱り飛ばしながらここで働いているのだろう。そんな姿が浮かんだ。
「所長さんって、どんな方ですか」
「迷惑な人です」
即答だった。
「あらゆる面において問題を抱えている人物です。性格は気まぐれで自分勝手、行動は著しく計画性を欠いています。加えて近年は虚言癖の傾向も見受けられます。生活能力が皆無ですので部屋は恒常的に廃墟ですし、金銭感覚は皆無に等しく、研究に没頭すると平均して四日ほどの絶食を行います。総合すると、第三者の介助なしに長期の生存は不可能と言わざるを得ません」
そしてその第三者を引き受けているのがわたくしなのです、ため息混じりにそう締め括った。
「なんだか……大変ですね」
勝手に思い浮かべた、師匠と弟子の微笑ましいやり取りの光景があっという間に崩れる。話を聴く限りはどうも本格的にダメ人間のようだ。
「それでも、当研究所の核である事実には変わりありません。薬剤の設計と製造はすべて所長が一人で行っておりますから」
「そうなんですね。対楽さんもそういうお仕事をしているんだと思いましたよ」
「わたくしはお客さまの対応全般を担当しております。所長には絶対に任せられませんので」
「絶対に?」
「……危うく、ダース単位でお得意さまを失うところでした」
片手で顔を覆うあたり、思い出すだけでも悲惨な事件が起きたらしい。上司に振り回されるのはどこでも同じであるようだ。親近感が湧いたぼくはその後も研究所内を歩きながら対楽氏と会話し、気づいたときにはとうに夕刻を過ぎていた。
「予報ではこのあと、さらに天候が崩れます。どうぞお気をつけて」
迎えを頼むとタクシーはすぐ飛んできた。荷物を積み込み、再度頭を下げる。
「今日は本当にありがとうございました。……また、来てもいいですか」
「もちろんです」
すっと差し出してきた手を何気なく握り返して、その冷たさと思いがけない固さにびくりと肩が震えた。
「またお話ししましょう。色々と」
いたずらっぽい瞳の意味を問う暇もなく、運転手に急かされて乗り込む。
まっすぐに立つ姿は、車がカーブを曲がり切るまでこちらに手を振っていた。
「ラズローの新人くん、どうよ?
「信頼のおける方だと思います。素直で、自分を省みることに躊躇いがありません」
「疑いを持たないから御しやすいと。なるほどね」
「……彼を利用するのには賛同しかねます」
「人間嫌いのおまえの口からそんな台詞が出るとはね。気に入ったか」
「またお会いしたいのは確かですが」
「ま、縁はできた。願ってりゃまた会えるさ。それよりおまえ、俺のことあんな風に思ってたのかよ」
「あんな風とは?」
「あらゆる面において問題がどうこうとか」
「サガイさまも上司に恵まれない方とお見受けしましたので、連帯を示しつつ率直な感想を述べたまでです。ああ、対楽などというまったくのナンセンスな偽名を思いつく人物だ、と言い添えるべきでしたか」
「決めた。今日メンテナンスするわ」
「建前つきで部下に暴力を振るうのは感心できませんね。しかし、どうしてもと言うなら瞳の研磨を希望します」
「ぴっかぴかにしてやるよ、けっ」
三日月洋燈商會(ミカヅキランプショウカイ)目録 此瀬 朔真 @konosesakuma
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