5-7 稚拙な想い


 蛍光灯で人工的に照らされえた店内と打って変わり、外は夕暮れ時の薄暗い黒に染まっていた。周囲を見渡すには心もとない街灯、そのいくつかは明滅しており、今にも消えてしまいそうだった。近くには降ろされたシャッターが並び、人通りは疎ら。時折通り過ぎていく自動車の走行音がいつまでも残り続けているようにさえ感じられる。

 

 要は会計を先に済ませてから店を出て、それからほどなくして彼女も店を出た。自転車で来たという彼女と共に駐輪場へ向かおうとする。

 

 要はゆっくりと歩き出した。それに続いて背後から彼女の足音が聞こえる。自転車と聞いてすぐさま向かいの駐輪場を目指した要だったが、本当にそこへ停めたのかと心配になった。後ろへ振り向き『ここの駐輪場であってる?』と一言聞けば終わる事だったが、要にはできなかった。友人でもなければ先輩後輩と呼ぶにはいささか希薄な関係性。どうやって会話をすればいいのか、それどころか会話を始める切っ掛けすら測りかねているままだった。

 

 そうこうしている間にも、駐輪場は目前に差し迫っていた。普段から主張の激しい看板だが、今は薄暗く装飾され、赤字の注意書から畏怖の念を感じさせる様相だった。薄汚れた赤字が演出を際立たせ、血の涙でもながしているかのよう。

 

 彼女は自分の自転車が停められている番号札を確認する。ちょこちょこと小走りで戻ってくると、精算機を操作し始めた。

 

 「1、2っと」

 

 小さく復唱し、番号を入力し終えると、彼女は「あっ」っと小さく声をあげた。画面を覗くと『お金を入れてください。合計金額:100円』の文字。どうやら無料時間の一時間を超過してしまったため、駐車料金が発生しまったらしい。

 

 彼女はスマートフォンを片手に視線を彷徨わせる。しかし、その精算機はICカードに対応していなかった。所々パネルの文字は白く汚れ、横側面にはカラースプレーで描かれたサインのような英単語の数々。みるからに年代物であることが見て取れた。

 

 要は黒い二つ檻の財布から銀の硬貨を一枚、彼女へと差し出す。

 

 「これ、使って。」

 

 要は何の気なしに言った。他意はない。強いていえば、ポケットに財布を入れっぱなしにしていたから。それだけだった。しかし、彼女は後ろへ一歩後ずさり言った。

 

 「いやいやいや、悪いですよ!。さっきもコーヒーのお金出してもらったのに。」

 

 ぶんぶんと両手を振って、受け取りを拒否する。両手と同時に首まで左右に振っているあたり、遠慮というより申し訳なさがまさっている様だった。

 

 「気にしなくて大丈夫。コーヒーだって、元はと言えば私が勝手に頼んだものだから。」

 

 実際、コーヒーの代金を支払ったのは年上だからと気を遣ったのが理由ではない。

 

 要はメニューを決めかね慌てる彼女に助け舟を出すつもりで、自分と同じものを注文した。しかし、カップに口を付ける様子もなく、話が一通り片付いた後にはコーヒーも冷めきっていた。要は水を煽り、残ったエスプレッソの余韻を消すようにしてその光景を観察していた。

 

 彼女は要のカップが置かれた方向をチラッと覗いては、自身の手元を見て唇を丸め込む。喉を鳴らす音が聞こえてきそうなほど、真剣な表情を浮かべていた。

 

 要はこの時既に、『飲まない』のではなく、『飲めない』のだと察知していた。注文させてしまった手前、残すという行為に抵抗があるのかもしれない。そう思い、要は再び助け舟を出そうと声を掛けようとした。瞬間、彼女はカップを掴むと、その中身を一気に流し込んでしまった。

 

 ゴク、ゴク、ゴク、カチン。

 

 カップとソーサーのぶつかりあう甲高い音が響く。

 

 一瞬の硬直のあと、頭の先からつま先にかけて身体が小刻みに震え、また硬直した。冷めたコーヒーの、どこまでも付いて回る粘着質な苦味に堪えつつも「ご、ごちそうさまでした…」と最大限の笑顔で答えてみせた。笑顔の裏では今なお体中を駆け巡る苦味に侵されながらも、必死つに取り繕った笑顔を見せてくれる彼女に、要は不覚にも、愛らしいと思ってしまった。潤んだ瞳がまたいとおしい。そんなことを思ってしまった後ろめたさに、自然と財布に手を伸ばしていた。

 

 (とはいえ、どうしよう。)

 

 差し出した硬貨を受け取る素振りはない。このまま精算機に入れてしまうことも考えたが、いささか無粋だろうと思って止めた。彼女に負い目を感じさせず、素直に受け取ってもらう方法。

 

 こういった状況は珍しくもない。直接のお金の貸し借りはなくとも、奢る、奢られるなんてのは日常的な事。過去、要と火花は駄菓子屋に通い合った仲であり、互いに数えきれない程やってきたことだ。どちらかが与えれば、いずれどちらか与え返す。それに義理なんてなかったと断言できる。

 

 でもそれは、要と火花の間に『友人』という関係性が出来上がっていたからではないか。友人でもなければ先輩後輩と呼ぶにはいささか希薄な関係性。喫茶店でその関係が深まったとはいえ、『押し売り協力者』の域は出ないだろう。

 

 ちぐはぐで、曖昧で、奇異な偶然が度重なって奇跡的に紡がれた、か細い縁。

 

 要は得体の知れない苛立ちに襲われた。現状の彼女との関係性に不満のようなものを感じつつも、それを言葉にできず、何を望んでいるのか分からない。嫌だ嫌だと駄々をこね、その実何がしたいか分からない。そんなもの、厄介以外の何物でもない。

 

 (私は、自然に、義理とか関係なく、もっと、彼女に…)

 

 彼女に…、彼女、彼女?。

 

 「な、名前!」

 

 言葉は思いのほか、強い口調になってしまい、要の言葉に彼女はビクッと身体を揺らした。

 

 「名前、教えて。それで、100円…。駄目?」

 

 要が思いついたのは等価交換。こちらの提示した要求を満たすならば、対価として硬貨を報酬として渡す。契約上の取り決めとしてなら、互いに損なく憂いを残すことはない。

 

 要と手のひらの硬貨を見渡して、彼女はクスリと笑った。

 

 「それって私の名前が100円って言ってません?」

 

 完璧だと思われた作戦は瓦解した。土台となる前提がそもそも成り立っていない。指摘されるまで、完璧と思っていたことが羞恥に変わる。

 

 「い、いや、そんなことは思ってなくて、ただ」

 

 「冗談です。何となく伝わりましたから。少し、意地悪したくなっただけです。」

 

 要を指す街灯の灯が彼女の悪戯な笑顔を照らし、二人だけの舞台を演出する脚光へと化す。要の手のひらに、彼女の手が重なる。それは硬貨を受け取るだけの動作なはずなのに、まるで指輪を手に取るようにさえ思えた。要の積み重ねてきた本が見せる妄想なのか、夕暮れの時間がそうさせるのか。舞台を飾る道具すべてが演出となり、要の視界をお伽へと導いた。

 

 「春風小春はるかぜこはる。春で始まり、春で終わる。それが私の名前です。」

 

 「…黒崎要くろさきかなめ。よろしく。」

 

 小春の名乗り文句に対し、ぎこちなく名前だけを告げる要。

 

 二人は互いの名前を今更知った事実に苦笑した。この時、名前を対価に求めたはずが、互いに名乗ってしまったため条件が成立しない事など気づくことなく、ただただ舞台の幕が落ちるのを、ゆっくりと眺めていた。

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