5-6 蜜と猛毒
「……」
言葉を尽くすと、段々と思考世界から現実世界にフォーカスが切り替わる。
語り切った充足感よりも、自分語りをしてしまった後悔が残った。彼女が抱ている自責の一部を取り除ければと思い、頭よりも先に身体が動いてしまった結果、自分の恋愛遍歴を語るという奇行を侵してしまう。要は語り終えた直後、逃げ場でも探すようにあたりを見回し、諦めて、俯き目を伏せた。
それでも、これ以上ありもしない重荷で苦しむ事がなくなるのであれば救われるというもの。先程の話によって、彼女を微塵も恨んでいないことが伝わっただろうか、と要は彼女の反応を待った。
(……?)
けれど、反応はない。あまりの静けさに、不安が違和感へと変わる。
ゆっくりと顔を上げ、恐る恐る瞼を押し上げていく。
「……」
要は目を見開いた。
彼女の頬を薄っすらと駆け落ちる雫。瞳に溜まった涙が宝石のように輝き、脆く砕けそうな結晶にも見えた。その潤んだ瞳に、要は自信の姿をはっきりと見つける。それぼどまでに、彼女の瞳は澄み切っていた。
その輝きにあてられたせいか、要の思考は未だかつてないほどの困惑で埋め尽くされていた。いっそ彼女が涙を武器に使う悪女であれば、これほど戸惑うこともないはずなのに。流れる涙には一切の濁りを感じない。それ故に、要は答えが見つけられずにいる。
要の慌てふためく姿を見てか、はたまた自身の涙に溺れてか、彼女はすぐさま涙を拭い袖口を濡らした。
「あれ、ごめんなさい。気が抜けてちゃって。おかしいな、あははっ。」
屋上で見せたあどけない表情に似つかわしくない、一滴の不純物。
「っ」
気づけば立ち上がり、要は彼女の頬に手を当てていた。じんわり伝わる熱と、人差し指を流れる一滴の涙。こぼれ落ちるその一滴を落とすまいと、指で拭った。目じりにかけて、ゆっくり、丁寧に、崩れないように。
(ああ、なんてはかないのだろう。)
指先にふれた要の指先を、彼女の白肌が優しく押し返そうとしてくる。
「先、輩。あの、もう大丈夫ですから。」
彼女はわたわたと手を振り、やんわりと距離を取ろうとする。先ほど見た、メニューを決めかねた状況に近い視線の動きをしていた。手の平から、今なお上がり続ける熱を感じ、要も事態を察っした。
要は慌てて席に座り、またも衝動に駆られてしまった自身の軽率さを悔いた。周囲の視線が一段と刺さる気がしてならない。
彼女もそれが気になってか、ちらほらと周囲を覗く。要に気付くと、照れた表情を誤魔化すように微笑んで見せた。要もぎこちなく、最大限の取り繕った笑みを浮かべた。
「なんか、最初から最後まで迷惑かけっぱなしですね、私」
そういって頬を掻く彼女に、先程まで見せていた陰りはなかった。店内で見た憂鬱そうな雰囲気もなく、屋上で出会った時の彼女のまま。
「屋上でのことは本当に気にしていないから。だから」
だから、これで。
要の言葉は後に続かない。数手先に続く言葉の意味を思い浮かべて、言葉を止めた。彼女が会う理由。それは要への謝罪であり、罪の清算。それが要によって許された今、これ以上の会話に意味はない。同じ学校に通う、上級生と下級生に戻る。律儀な彼女のことだ、学校で要を見かけても隔てなく挨拶を交わし、他愛のない話を繰り広げてくれるに違いない。
(それで、いいじゃない。それが、普通じゃない。)
容易に想像のできる未来に、おぞましさを感じる。
胸が、詰まる。言葉が、出ない。
それでも、要にはどうすることもできない。ありもしない選択肢を手繰るように、思考は模索してやまない。チカチカと明滅する視界。額が段々と熱を帯びていくのを感じる。
(嫌だ嫌だ嫌だまだ終わらないでここにいて理由がないどうしよう引き留めないと彼女に怒りをぶつけて駄目だそんな事したくないでも居なくなるここから嫌だ早く言葉を何で出てこない嫌だ嫌だ嫌だ…。)
まるで自らの脳を覗いているかのように、視界は歪曲し始めた。
「私、これが初めての告白だったんです。」
焦れる想いを断ち切ったのは、彼女の一言だった。
あまりに突然で脈絡のないその言葉に、要は見つめ返すことしかできない。
「二年一組の
その人物の名前を口にした彼女は、夢心地に言葉を続ける。
「初めて出会ったのは中学三年生の時でした。この高校では毎年、地元の中学校に向けて学校見学を行っていて、その中でも特に力を入れていたのが部活動説明会なんです。運動部、文化部、一部同好会も含めると三十以上にも及ぶ団体が参加して、私もそれを見学する予定でした。でも、初めての校舎で迷ってしまい、吹奏楽部の部室が分からなくて彷徨っていたんです。」
部活動説明会の存在は要も知っていた。主に体育会系の部活が未来の新入部員を募り、有望そうな人材には声掛けをすると聞いた事がある。要も入学前、文化系の部活動には目を通した。茶道、書道、演劇、美術、吹奏楽。メジャーな部活動は一通り揃っていたが、文芸部だけ虫食いに抜けていた。もし文芸部があれば、説明会で出会えていたかもしれない。そんな妄想は端に寄せた。
「一緒に来た友達ともはぐれて、その時はスマホを持ってなくて連絡も取れない。誰かに聞こうにも、既に各部活が説明会を始めていて、割り込める状況じゃなかった。授業の始まった教室の外で、途中から教室に入るのがどこか罪悪感というか、なんというか。」
要も、その気持ちには共感できた。いつもの日常で遅刻することなどほとんどないが、小説の新刊発売日の次の日は、寝不足で遅刻した経験がある。
「取り残されて、頭も真っ白になっちゃって、その場から逃げるように廊下を歩いてたんです。変ですよね?早く場所を聞かなきゃいけないのに、誰かに見つかるのが、その、恥ずかしくなっちゃって。そんな時、どこからかほんのりと甘い香りがしたんです。既に説明会は始まって、教室は扉が締められている中、その教室だけが不自然に開いていたんです。すぐにそこが香りの場所だと分かりました。」
甘い香りに誘われるなんて、ミツバチみたいですね。そんな彼女の茶目っ気にも、要は反応できない。
「扉を覗くと、楽しそうに鼻歌を歌いながら料理する結先輩がいました。広い、広い家庭科室の片隅にある調理台の一角で、思わず身体が動き出しそうなぐらい楽しそうに。」
聞くと、料理部も部活動説明会に参加しているらしく、説明は別教室で行われていたらしい。他の部員は皆教室に向かい、白河結だけがここに残って料理をしていたという。
「結先輩は私を見つけると、一緒に食べないかって誘ってくれたんです。あの時のマカロンの味は、今でも忘れられません。知ってますか!焼きあがってすぐのマカロンってすごいサクサクで、しっとり生地とはまた違った美味しさがあるんです!あいたにクリームチーズ挟むとそれもまた美味しくてっとすみません、関係ない話ばっかり。」
甘い香りとその思い出を懐かしむように、頬が一段緩む。
「それから沢山お話をしました。私の通う学校の事、部活の事、そして会場が分からず途方に暮れていたこと。結先輩はどれも楽しそうに聞いてくれました。私もついついお話をしてしまい、気づいたのは吹奏楽部の演奏が聞こえてきた頃でした。」
クスっと、ほころんだ彼女は言う。
「そしたら結先輩、『お菓子を食べながら演奏も聞けるなんて、今日はラッキーだね』って。その瞬間、さっきまで沈んでのが嘘みたいに満たされたんです。楽しみにしていた見学会だったのに、さっきまで不安で一杯だったのに、どうてもよくなっちゃって。演奏が終わった後も、見学会が終わる時間いっぱいまで一緒にいました。多分、その時から、だったんだと思います。」
語り終えた彼女の表情は恍惚としていた。流れる時の軌跡を手繰るように内容は鮮明で、記憶の齟齬など感じられない程。要には、家庭科室で繰り広げられる光景を、明確に想像できた。故に、要を抱える腕に、力がこもる。
「あの時からずっと、結先輩と同じ高校に通うため、必死で勉強しました。何度も誘惑に負けそうになって、挫折もしかけました。先生や両親からは、『レベルにあった高校を探したらどうか』って何度も言われました。心配して言ってくれたのは分かっていました。でも、私はそれを押し切って、必死に勉強して、友達にも沢山協力してもらって、両親には塾にも通わせてもらえるようお願いしました。『あの学校の吹奏楽部に入りたい』なんて嘘までついて。正直、罪悪感と受験とプレッシャーで病みそうになりました…」
よどみの消えた表情で、はっきりと要を捉える。
「それでも、結先輩と一緒に高校生活を送りたかった。あの
張り付くような空気が消え、要を見据えるため顔を上げる。
「手紙を見られたのが、先輩でよかったと思ってます。胸の内を知っても、自然体で接してくれる、そんな先輩で。」
純粋で、穢れを知らない無垢な少女の、一点の曇りなき笑み。浅ましい欲望に駆られていた要には、その笑顔は毒でしかなかった。
それでも、ただ一つ考え続けているのは『彼女を繋ぎとめる言葉』。
(私に何ができる?この縁を途切れさせないために、何が残されている?)
焼ききれそうな脳回路を駆動させ、わずかなリソースから必死にその答えを導き出す。カチリ、カチリと、手持ちのピースを彼女にあてがう。一つ、また一つと揃わないピースが捨てられていくたび、積み重なるそれらが焦燥となって要を急き立てる。
「わ、私にっ」
続く言葉は決まっておらず、あとに続かない。少し、ほんの少しでも、脳に時間を与える苦し紛れの苦肉の策。
「私に、告白を、手伝わせて、欲しい。」
「……え?」
素直な疑問をはぎだす彼女。要は自らの言葉の正当性を、価値を説明するため、思考はなおも駆動し続ける。
「ぐ、偶然とはいえ、あなたの告白を知ってしまった以上、私にも関わる権利があると思うの。いや、違う、権利じゃなくて。支援、援助、後押し?。違う、そうじゃなくて。応援、そう応援!。」
会話の中で自問自答、自己解決を繰り広げる。一言、また一言と選び間違える度、足を踏み外しそうにしながら綱渡りをしているかのよう。
「あなたの想いを聞いて、手伝いたいと思った。そして、私にはそれにかかわる権利があるし、あなたは告白のやり直しをスムーズに進められる。悪い話じゃないはずよ。」
「は、はい。」
強引に話を押し進めたせいか、彼女の言葉はやや上擦る。要の言葉を承諾していないことは見て取れた。
「ご、ごめんなさい。つまり、あなたの白河結に対する想いに共感して、その顛末を見届けさせてほしいと思った。願わくば、それがあなたの望まれる結果としての顛末として。だから、どうかな?」
その言葉に焦りはなく、言いよどむことなかった。落ち着きのある言葉で、丁寧に気持ちを伝える。
「……」
承諾とも拒絶ともとれない沈黙。彼女の視線は真っすぐと要を見据え、要は思わず息を飲んだ。
「…で…かった。」
「え?」
聞き取れずに、思わず聞き返してしまう。
「私、手紙を見られたのが先輩でよかったです。」
彼女は「よろしくお願いします」と深々とお辞儀をした。
『私、手紙を見られたのが先輩でよかったです。』
先ほどの返答が、要の提案に対する承諾の意であることは明らかなはず。そのはずなのに、要の心臓は絶えず殴りつけるように脈動する。
そのあとの会話はほとんど耳に入らなった。熱の抜けたエスプレッソを何度も、何度も口に運ぶ。苦みとえぐみが強調され、眠気覚ましにしかならない水と化していた。それでも、麻痺した脳は求めるように、それを口に運ぶ。夕暮れが終わる時を待って、何度も、何度も。
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