5-5 クラシックに漂う本音
駐輪場の看板が見える窓際の席に案内され、その間互いに言葉を発することない。前を歩く要が奥の席へと座り、彼女は誘導されるように向かい側へと座った。椅子を前に引くと、足元に小さな違和感を感じ、身体を引いて下を覗く。そこには要に足で小突かれ、持ち場から離れてしまった荷物籠があった。要は荷物籠をテーブルの真横に戻し、バックを隅へと寄せる。
「一緒に置く?」
「えっと、その、大丈夫です。」
そう言って彼女は膝上にバックを乗せたまま、視線はそれを追うよに下へと向く。窓一杯に立ち込める茜色に照らされたまま、二人は沈黙を貫く。
二人が着席してから程なくして店員がお水を運び、こちらにオーダーの催促をした。
「エスプレッソのSサイズを一つ。」
要が注文を終えると、店員の視線は彼女へと向く。「次はあなたの番」とでもいうように、開かれた端末に指を添えている。
彼女は慌ててメニュー表を手にするが、明らかに視線は定まっておらず、右往左往と目を回している。メニュー表が逆さになっていることにすら気づかないくらい、彼女の視界は狭まっていた。
「私と同じ奴でもいい?」
顔を上げた彼女はこちらを一瞥し、小さく頷いた。恥ずかしさからなのか、メニュー表の隙間から覗くようにこちらを見つめる。隠れるような姿勢で、やや上目遣いの視線を向けられ、不意に言葉が漏れるのを堪えた。平静を装う一瞬の間が流れる。
「すみません、エスプレッソを二つでお願いします。」
「かしこまりました。」
そのやり取りを気にする素振りもなくパタっと端末を閉じ、店員は奥のキッチンへ向かった。
要はグラスに注がれた水を一口、二口と飲んだ。先ほどまでの緊張から一時解放されたためか、体の中をゆっくりと満たしていく。まるで深呼吸でもしたかのような、そんな解放感があった。
少しの平静と、状況を俯瞰できる視野を取り戻した要は、本屋での一幕を思い返していた。
(どうして私、ここにいるんだろう。)
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屋上で出会った、同じ学校の、名前も知らない後輩。
そんな彼女との突然の遭遇に、要は立ち尽くす事しかできなかった。
要は周囲から奇異の目にさらされながらも、彼女を視界から捉えて離さない。彼女は声をかけた相手が微動だにせず、本を落としたのに拾おうとしない事を不思議に思ったのか首を傾げていた。
「本、落としましたよ。」
手渡された本を、半ば反射的に受け取り、そこでようやく要の意識は現実へと戻される。
手を伸ばせば届く彼女との距離、途端気づく周囲の視線、そして変に折り目のついてしまった本。複合的に合わさった要因が、『一刻も早く、ここから立ち去りたい』と要を駆り立てた。
(なんで、今日に限って、こんな)
「ま、まってください!」
力強い言葉と共に、裾を引っ張られ静止する。
「なに?」と、少しぶっきらぼうな口調になりつつも、逃げだしたい思いを押し殺して言葉を返す。
「このあと、時間ありますか?」
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結局、そのまま流されるように約束を交わし、傷つけてしまった本を棚に戻すわけにもいかず、今に至る。
沈黙は続き、その間にテーブルには二つのエスプレッソが置かれ、重苦しかった空気が少しだけ和らいだ。エスプレッソの香りがそうさせたのか、要は背中を押されるように言葉を発した。
「それで、私に用があったんじゃないの?」
助け舟、なんて呼べるほど気の利いた言葉は出なかった。それでも、状況を好転させるには十分な一言だった。
俯いていた彼女の視線はようやく要を捉えた。顔を上げ、何度か視線を彷徨わせはしたが、意を決したように姿勢を伸ばし、胸に手を当て一息つくと、今度はまっすぐにこちらを見つめる。
「あの時は、本当にすみませんでした!」
彼女は深々と頭を下げ、前のめりになったせいか、肩ひじのあたりをテーブルにぶつけてしまう。ゆったり流れるジャズミュージックと交わり、それは不協和音となって周囲の人間へ伝播した。先程、書店での一件があったせいか、視線に敏感な要はいち早く事態の収束を図ろうとした。
謝罪の理由は皆目見当もつかないが、この構図は傍から見ても邪推されかねない。見ず知らずの井戸端会議に話題提供をするほど、要の心は肝要になれなかった。
「か、顔をあげて。謝罪される理由はないし、心当たりもない。」
その場を諫めようとするが、彼女は止まらなかった。
「いえ、私にはあるんです。」
深々とした姿勢のまま、言葉は続けられる
「屋上での一件、もう気づいていると思いますが、先輩の下駄箱に入っていた手紙。あれを入れたのは私です。」
数日前、要の下駄箱にあった一枚の手紙。手紙と予備にはいささか派手にも思える動物のキャラクターがあらわれたオレンジ色の手紙。あの一枚の手紙をきっかけに、要は彼女と知り合うことになった。要本人に宛てたものではない、それに対する謝罪は終わったものだと記憶している。
(少し、いやかなり曖昧だけど。)
「ああ、そのこと。それなら気にしなくても。」
曖昧です、とも言えず、それとなく会話を合わせた。
「よくありません!」
顔を上げた彼女と視線が交わう。力ずよく、それでいてはっきりと視線はこちらに向ける。要の意識は完全に彼女に吸い寄せられていた。ドク、ドク、ドク、と、脈打つ鼓動の音だけが全身を支配する。
「あの時、先輩に一杯語って、止まれなくって、置いてけぼりにて、手紙は先輩が持ってて、それが原因で好きな人を知られて、てんぱって、頭がこんがらがって、あ!でも先輩が悪い事なんて何一つなくて、それは私の不注意が招いたことであって、でもでも、私みたいなのがあの先輩に告白するなんて身分不相応もいいところで、あ!今の先輩っていうのは手紙を出そうと思っていた相手の事で。」
彼女は屋上での事をひたすらに語った。時折、身振り手振りを交えて必死にあの時の心境を伝えようとするが、段々と早くなる喋りに、要は付いていくのがやっとだった。
止め処無いと思われた話は、彼女が呼吸を思い出したところで切れる。
「だから、逃げました。知られてしまったから、逃げました。おかしいですよね、恋人同士になる事が、あのひとに告白する事がどういう事か分かっていて告白しようとしているのに。」
言葉は次第に力を失い、テーブルに注がれるようになった。ウッドテーブルは、その言葉を要に伝えることはない。優しく、柔らかく吸収していく。
「でも、でも!。家に帰って、頭が冷えて、冷静になって考えてみたら、先輩は無理やり、しかも勘違いで呼び出されて、知りたくもない見ず知らずの他人の想い人を勝手に知らされて。傍迷惑もいいところですよね……」
またしても、言葉は次第に力を失う。気持ちが先走り、何度も言葉を紡ごうとして、紡いだ先から罪悪感に押しつぶされて、かき消されている。
愚直な発露が、要の脈動を刺激してやまない。
何故、ここまで彼女に感情揺さぶられるのか。
なぐさめか、気休めか。少しでも彼女の想いに寄り添いたいと、気づけば、口を開いていた。
「私は、これまでに数多くの人から告白を受けてきた。」
彼女は困惑の表情を浮かべるが、要は言葉を続ける。
「みんな最初は本気だったかもしれない。でも、私には届かなかった。そのまま屋上の風と一緒にどこかへ行ったっきり。そして、いつしか瞳に私を映さなくなった。私の先にある、他の誰かを見据えて、告白の言葉を吐くだけ。」
感情を言葉におこす。深く、語るに沈んでいく何かを感じつつも、止めることはできなかった。しっとりと流れる曲調に、ただ流されるまま口を開く。
「だから、あなたを見つけるまでは『またか』って、そう思っていたの。」
形だけの告白と言葉を儀式のように執り行って、帰っていく。
ジンクスを信じて現れた男を振り、数分後にはいつもの日常が戻ってくる。家に帰り、読みかけの小説を開き、スタンドライトの明かりと紙のめくれる音だけしか存在しない寝室で、気が付けば夜を置き去りにして、朝を迎える日常。
でも、違った。
「他の、私に告白をしてきた誰とも違う、何か。」
あの日、めくったページの先に待っていたのは真っ白な光景。不確かで未知なものとの遭遇に、雨に打たれた体は熱を帯びたまま。夢にまで現れた彼女に、回答の見えない感情の火照り。要の膨大な歴史のページのどの節を切り取っても、それは言葉で言い表せない。日常が、非日常へと変化した瞬間。
(そうか、私は……)
「きっと、あなたの熱にあてられたのね。」
きっと彼女は『釣り合いのとれていない自分と一緒に並ぶ相手』を想い、これまで悩み続けてきたのだろう。
だから、こんなにも揺れ動いた。動かされた。
好きを語った彼女の声に、想い人を悟られて赤面する彼女の表情に、その場にいられず逃げ去った彼女の背中に。
嘘で固められた壁を、ふっと吹き溶かしてしまうかのように、自然なまでの浄化だった。
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