5-4 最高の厄日


 「きっと今日は厄日ね。そうに違いない。」

 

 ポツリポツリと、要は書店へ足を進めていた。緩やかに流れ聞こえる鉄の三拍子を背に、つぶやいた言葉は紅の空へと消えていく。無機質な音のみが世界に響く、要はこの瞬間が嫌いじゃない。ただ、降ろされたシャッターを一つ、二つと通り抜ける度、同時にもの悲しい気持ちにもなる。

 

 身体を伸ばし、先ほどまでバスに揺られていた身体をほぐすと、凝り固まった身体から鈍い骨の音が鳴る。睡魔のゆりかご、彼は非常に凶悪かつ巧妙であった。駅前についたことを知らせる警笛音を、耳をそっと塞いで遮音してしまい、おかげで「お嬢さん」なんて洒落た呼び方で、白髭の似合う運転手さんに現実までエスコートしてもらう始末。何度か声を掛けられ、肩を数度揺すられて、ようやく目を覚まし、今に至る。

 

 「本当、恥ずかしい…。」

 

 思い返し、恥ずかしさで顔を紅色に染める。運転手さんの声は、男性特有の低く落ち着きのある美声、航空機船内で流れるラジオ番組に、ナレーションとして流れていてもおかしくない。眠りにつく一歩手前、静まり切った深夜に添えるなら抜群の声も、あのタイミングではメリハリがない抜けた声でしかない。

 

 自責の念に背中を押されつつ、ほどなくして目的地の看板が見えてくる。白地の看板には黒字で料金が記されており、「入庫後、1時間無料」の文字だけが赤く強調されていた。本屋の真向かいに位置するその駐輪場は、その規模よりも主張の激しい看板が目立っており、目印としては最適。本屋の入り口にある立て看板と比べれると、親子にさえ感じられるほど、その大きさは歴然であった。

 

 本屋の立て看板に記された「営業時間 9:00~21:00」の文字がクッキリと視認できる距離まで来たところで、駐輪場の方角から三人の女子生徒が歩いてきた。要とは異なる、左胸に小さなエンブレムが刺繍された制服を纏った女子生徒達。耳にピアスを付け、爪はネイルで色付けされており、他の生徒よりも一段と濃い装飾を施していた。かと思えばネクタイは見当たらず、ボタンの外れた制服から見えるワイシャツは、首元をさらすように広がっている。

 

 見た目で人を判断してはいけない、と要も頭では理解しているが、「この人たちは本を読まない」と内心結論付けていた。案の定、店内に入った直後、彼女達は入口の傍に飾られたポップを一瞥することなく、脇にあるエスカレーターへと向かった。どうやら答え合わせの結果は「正解」だったようだ。

 

 本屋の二階は喫茶店となっており、そこはコーヒーよりもスイーツのバリエーションに定評がある。学生のたまり場としては勿論、甘いもの付きの女子高生にも大変人気がある、と以前火花が言っていた。要も購入した本の内容が気になり、待ちきれなくなった時に利用する。ただ、コーヒー二杯分の値段で文庫本が一冊買えてしまうという事実が、要の来店頻度を減らしていた。

 

 (この匂い……、やっぱりいつ来てもたまらない。)

 

 先ほどまで答え合わせに興じた脳は、広がる大小色とりどりの本の海に支配されていた。今月の新刊がまとめられたコーナーから順に、雑誌、自己啓発、エッセイと棚は並び、要はその宝の山を隅々まで見渡した。入口から店内をほぼ全て一望できるこのお店は、決して品揃えが豊富とは言えない。だからこそ、限られた本棚のスペースには書店員から選び抜かれ、厳選された本達が並ばれている。幾度となく訪れたであろう本屋のラインナップなど、ほぼ全て覚えてしまっているはずなのに、「新しい本に出会えるのでは」という好奇心が胸を叩く。

 

 冒険にでも出かけるような膨らむ期待に突き動かされ、店内を練り歩く。

 

 (あ、○○先生の新作が出てる。こっちは▲▲先生の続編だ。)

 

 要はまだ知らぬ作者の新刊、愛読している作品の続編、続編が期待されていたのに突如行方をくらました流浪作家の本にひとしきりリアクションを返した。思わず声に出してしまいそうな興奮を抑え、それでもにじみ出てしまう百面相を手で覆い隠す。一つ棚を抜けるごとに、名残惜しく足踏みする気持ちを押し殺し、やや狭まった歩幅で歩みを進める。

 

 目的なく、偶然の出会いと安らぎを求めて彷徨う本屋はまさに至福の一時。店内を一周した頃には興奮もひと段落し、今度はいくつかの当たりをつけて、二周目に突入する。毎月のお小遣いから、要の一月に購入できる本は、どれだけ切り詰めても五冊が限度。文庫本等の比較的安い品を購入しても六、七冊が限界。その中で選ぶ一冊は、この月のモチベーションを左右するといっても過言ではなかった。

 

 真っ先に最新刊の特集コーナーに立ち止まり、今月の代一冊目の選書にうつる。だがしかし、目の端に捉えたモノは、推理でも、SFでも、青春でも恋愛でもない。

 

 『世の中の全ては筋トレが解決してくれる。全てを叶える科学的メソッド』

 

 筋トレ、ではなく、限りなく筋トレ本に近い自己啓発本だった。

 

 他の本が霞むほど、主張の激しい大胸筋がでかでかとイラストされている。かつてこれほどまでに、自己啓発本が自己啓発していることがあっただろうかと、要の思考は照りつく大胸筋に侵されていた。

 

 だが、問題は主張が激しいことでも筋肉が小麦色に焼けていることでもない。ましてや、これまで一度も運動部に所属してこなかった要が筋トレに興味があるわけもない。

 

 問題は『全てを叶える』の一言。そう、この一文に引き寄せられてしまったのだ。

 

 タイトルの誇張表現、拡大解釈は昨今珍しくもない。一冊でも多くの本が売れてほしい出版社からすれば、目を引くタイトルにするのは間違いではないだろう。しかし、だれでもできる工夫は真似されるが世の常。すべてが同種の本になってしまっては、陳腐な一冊と言わざるを得なくなる。近年の主流を考えれば、この本のタイトルはテンプレートに分類されるであろう。いつもの要なら立ち止まることなく通り過ぎ、数ある本の一つぐらいにしか扱わない。それなのに、一度気になりだすと止まらなかった。まるで要の心情を知り、甘言を駆使してもてあそぶように。本を選びに来たはずが、こちらが選ばされているようにさえ思う。

 

 「……」

 

 推理、ライトノベル、大胸筋。SF、恋愛、大胸筋。右往左往と揺れる視界の間を縫って、あの大胸筋が要を見つめ、今にも動き出しそうな圧力を放つ。子供の頃は絵本に登場する妖精と会いたくて、何度もめくるページに思いを馳せたていた要も、『面会拒絶』の張り紙を握りしめていた。

 

 とはいえ、内容が気になるのは事実。一読書家として、内容の良し悪し以外で評価を下すことは要の理念に反する。好みのジャンルではないし、鍛えることそのものに興味はない。しかし、筋トレに紐づけられた科学的メソッドの内容には多少の興味があった。

 

 手に取れば後戻りはできない。実態のない大胸筋が、要に訴えかける。『私を手に取れ』と。

 

 脳に語り掛ける声を振り払い、「目次だけ……、いや最初の章だけ……」と、深夜のお菓子でも手に取るように、棚に置かれた本を取り、ゆっくりと開いた。

 

 最初の数ページしかめくっていないのに、目次に並ぶパワーワードの数々に圧倒される。各章のタイトルが『大きな主語+筋トレ』で構成されている、これほどまでに力強い目次もないだろう。それゆえに、著者の筋トレに対する信頼、いや崇拝といえるレベルの強い信念のようなものが伝わってくる。思わず喉をならし、手に取るページに緊張が伝わる。

 

 「あれ、先輩?」

 

 要の思考はそこで停止する。そして、フラッシュバックされるあの時の声。振り向くまでの刹那、要の脳内に「先輩」の声がいっぱいにこだまする。元気よく呼びかけられた時とは違い、疑問符をのせ、語尾がやや高い音で飾られた「先輩」。はじき出された予想とほぼ同時に答え合わせが行われる。

 

 スルリと手から滑り落ちる本。鈍い音が店内に響き渡り、若干のざわめきと奇異の目を背にしても、要は振り向きもしなかった。後ろには何もない。世界が視線の先に広がっている。いや、世界のすべてが一点に集約しているといわんばかりに。真っ白な時空の境界線で、彼女だけが色を持って、顕現けんげんする。夢か、妄想か、幻想か。要の視線は不確かな存在を確実にするため、ただただ彼女だけを見つめ続けた。

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