5-2 鈍重


 熱に侵されていた身体は、いつしか記憶を漂う一人の女の子によって埋め尽くされていた。どれだけ思考をめぐらせ、物語の登場人物に自分を重ね合わせても、結論には辿り着かない。無数のサイコロが盤上に転がり、止まることなく転がり続ける。いつしか白とも黒ともつかない、おびただしい数のサイコロが思考を埋め尽くし、要を灰色に染める。

 

 部屋一帯に湿った空気が充満する。知由熱と体温が入り混じった蒸気は雲を造形し、いつしか霧のように全てを包み隠してしまうのでは、と錯覚させるほど、今の要は冷静と程遠い状態にいた。


 朦朧とする視界。力は少しずつ抜けていき、上半身は支えを失い振り子状態。重い頭が遠心力によって段々と速度を増していく。このまま身を任せたら横たわってしまう。そんな時だった。


 布団からのぞき込むようにこちらを覗いていた火花が、要の肩を両手でそっと引き寄せた。ふんわりと香るオレンジに包み込まれ、心地のよいシルクに覆われる感覚のまま、枕元に誘導されていた。要のヒートアップした姿を見かねての行動であったのだろう。

 

 「……」

 

 要を抱いた両手には、確かな温かさがあった。体に障らないよう、ゆりかごにでも寝かしつけるように優しい温もり。毛布を胸元にかぶせ、軽く払ってしわを伸ばす。流れるように自然な看病に、一瞬言葉を失う。要はすぐにでも感謝を言葉にしたかった。

 

 だというのに、要は言葉が出ず硬直していた。

 

 熱により脳回路がショートしたからではない。先ほどまで両手に隠されていた火花の顔が、要を支えるためにその手から離れ、表情があらわになっていた。

 

 瞳の奥底にあるのは嫌悪ではなく、情愛とも呼べる何か。それでいて、触れること許さない。今にもうれいに沈んでしまいそうで、いくつもの感情が数珠繋ぎとなり、何かの拍子に弾けてしまう。そんな危うさを孕んでいた。

 

 要の焼け切った脳にはそれを対処する気力も体力も残っておらず、ただただ見つめ返すことしかできなかった。

 

 「ごめん、要」

 

 かすれたような言葉で、ふり絞るように吐き出したのは謝罪だった。

 

 要の混沌した脳は一層の深みへとはまっていく。

 

 「要の分からないを、私は知ってる。でも、それについて私から答えることはない。要がどうこうとかじゃない、私自身が答えたくないだけなの。だから、ごめん。」

 

 要はいつになく真剣な表情の火花を目にし、その言葉に嘘偽りがないと知る。ただ、あまりにも真っすぐ過ぎるその言葉の真意が、謝罪ではなく別のところにあるではないかと、そんな気がしてならかった。

 

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 その後、言葉という言葉を交わすことなく、火花はその場から離れるように立ち上がり、どこかへ行ってしまった。くしゃくしゃと泡を立てる音が聞こえ、テーブルの上を確認すると、先ほどまで並べられていた食器類が綺麗に無くなっていた。

 

 要は呼び止めようと考えたが、先ほどの会話が脳裏を過りよぎる。喉元まで出かかっていた言葉は、そのまま飲み込まれてしまった。

 

 (火花のあんな表情、初めて見た。)

 

 水の流れる音が、熱を帯びた頭を冷ますように、次第に要は落ち着きを取り戻していった。

 

 丸い蛍光灯をぐるぐると意味もなく、なぞる。何度周回しても答えなど出るわけもなく、それどころか、屋上の女の子の事と火花の事、悩みの種は増えるばかり。いっそのこと、種に根が生え、成長し、互いの悩みが交じり合って解けなくなってしまったなら、これ以上考える必要もなくなるのではないだろうか。時のまにまに、そんな事ばかり考えてしまう。

 

 気が付けば皿を重ねる音も、水の流れる音も聞こえなくなっていた。戻ってきた火花はハンカチをスカートのポケットに閉まっている途中で、「じゃあ、もう帰るね。」と帰り支度を整えはじめる。もともと荷物という荷物もなかったため、支度をすぐにすませ、足早に立ち去ろうとした。

 

 お見送りだけでもと思い、要は玄関口まで駆け寄ろうとするが、咄嗟に起き上がろうとしたために、毛布が足にもつれて倒れ込んでしまう。

 

 (今日の私、本当に……)

 

 すべてが上手くいかない。今この瞬間、この世の不幸を一手に背負っているのではないか、そんな気分に陥る。張り付いた手の平に、力がこもる。この場に火花がいなければ、力に任せて拳を床に打ち付けていただろう。

 

 「大丈夫?ほら、手掴んで」

 

 ギリギリのところで理性を繋いだ要に、火花はそっと手を差し伸べる。姿勢を低くし、右手を差し出す。握り込まれた拳が次第に、ゆっくり開いていく。

 

 要はその手を握ったが、予想より遥かに強く引っ張りあげられ、今度は前かがみに倒れ込む。正面に立つ火花に、抱きかかえられるような姿勢になった。急いで肩を掴み離れようとするが、背後に回された左腕によって阻まれる。頬に当たる髪がくすぐったい。

 

 「今度、ちゃんと聞かせてね。」

 

 何を、という要の問いかけには答えず、続けざまに「その時、私も話すから」と。

 

 次の瞬間、火花は身をひるがえし、要を残して去っていった。

 

 「……」

 

 決して大きな音とは言えない扉の閉音が、残響となって鳴りやまない。

 

 要は鍵を閉めることも、布団に戻ることもなく、ただ呆然と立ち尽くしていた。

 

 身体を支えられ、耳元を通り抜ける、すぐさま身を翻し立ち去るその刹那。それが本当だったかどうか、朦朧もうろうとした意識が見せた虚像だったのか、確証はない。

 

 しかし、確かにそこにあった。

 

 あの崩れそうな表情笑みが、そこから消えようとせず居残り、要を引き留めて離そうとしなかった。

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