3-2 喪失

「だ、大丈夫なら、離れて。」


 彼女の両肩を抱いて腕を目一杯に伸ばす。わずかにできた距離に比例し、心臓の鼓動が緩やかになった。

 

 それでも、いかんせん視線の置き所に正解を見いだせない。

 

 しかし、視界の縁に映る彼女の表情に、先ほどと打って変わった曇りが見て取れて、視線は自然と彼女に向き直った。

 

「ど、どうしたの?」


「……あの、怒ってます、よね。ぶつかってしまったこと。」


 俯いて隠れてしまったが、明らかにその表情には陰りがある。

 

 彼女は人差し指をくるくると回し、落ち着きのない様子。時折こちらを覗くようにして様子をうかがうが、視線が合うとすぐに俯いてしまう。小動物が自分より大きい存在に対して怯えているような構図だ。

 

 早く安心させたい。そう思う気持ちが、活発だった彼女の弱弱しくいじらしい姿をもっと見ていたい欲望に邪魔されて、なかなか次の言葉が出てこない。

 

「べ、別に。これぐらい平気。」


 良心と欲望の葛藤に決着をつけた要は首をくるっと横に逸らし、彼女の視線から逃げる。秋の裏側にいるはずなのに、要の表情には紅葉が散っている。

 

 要の言葉を聞き、俯いた表情が屈託のない笑顔へと変わった。

 

「ありがとうございます、先輩!」


(眩しい……)


 眩しすぎるほどの陽光にさらされ、全身の体温が上昇していく。火照っていく身体は彼女の輝きに堪えかね後退する。

 

 しかし、彼女との距離は広がるどころかより近づいた。一歩さがれば二歩、二歩さがれば三歩と、距離を詰めてきた。

 

 (なんで近づいてくるの!?)

 

 カシャ、と音を立て、後手にフェンスを掴む。逃げ場を失い、これ以上の後退は不可能と察した。

 

 顔をそらし、直視は避けたが焼け石に水。視界の端からでも伝わる輝きは効力が衰えない。

 

 鼓動の音だけがうるさく、騒がしい。

 

 荒れ狂う心臓が悲鳴を上げかけたその時、焦る要の心を静めたのは、他ならなぬ彼女の言葉であった。

 

「そういえば、ここに二年生の先輩が来ていませんでしたか?お団子髪をシュシュで縛っていて、身長は先輩と同じくらい。あと、ふわふわ~って感で、ほんわか~って空気で、笑顔がとっても優しい人で!あとあと、料理もすっごい上手で……」


 最初の特徴以外、おおむね人を特定するには必要のない情報がつらつらと並べられる。情報、というより彼女の個人的感想に近い。後半、「きっと前世はマザーテレサ!」と言い出したあたりで聞くのをやめた。以前、クラスメイトがアイドルグループの推しなるもののCDを布教していたのを思い出し、その面影を重ねていた。そして、その熱量の前では言葉の矢じりは意味をなさず、ただただ冷めるのを待つしかないことも、要は経験済みだった。

 

 そして、新たに経験した。興味のない熱量は人を冷静にさせ、その熱量が大きければ大きいほど、効果は絶大だった。

 

 彼女の数分に及んで畳みかけられた先輩聖人論を菩薩の心で聞き流し、ようやく要は口を開けた。

 

「少なくとも私がここに着いてから、他の生徒は来ていない。それより前のことは分からないけど、私のクラスは今日早めにホームルームが終ったから、それ以前に人が来た可能性は低いと思う。」


「そうですか……」


「待ち合わせを、していたの?」


「はい。あ、いえ。」


 YesともNoともいえる答えが返ってくる。

「どっち?」


「私は待ち合わせているつもりというか、一方的に待っているといいますか……」


 もじもじと手を所在なさげにいじる姿が愛らしく、いつまでも見ていたい気持ちを押し殺しす。

 

「つまり、その先輩とは約束はしていない、と。なら来なくてもおかしくないんじゃない?」


「それは……、そうですね。」


 彼女の顔が感情と共に下をむく。陰る笑顔に動揺する要。しかし、先ほどまでの会話からいくつか気になる点があり、思考をめぐらす。

 

 先ほどまでの語りから、彼女がマザー先輩に対して好意を持っていることは明白。ただ、一方的に呼び出しをしているあたり、友達といった親しい間柄でない。何より屋上という場所。要件があるのならば教室に出向くか、玄関前で待っているものだろう。先ほどまでの彼女の振舞いから上級生の教室に立ち寄るのが恥ずかしい、玄関前で知り合いとすれ違うのが嫌などと、羞恥心をもつタイプではないことも。

 

 であるならば、何故屋上へ呼び出したのか。裏表のない気さくそうな彼女が、持って回った言い方で濁し、言うのを躊躇う何か。要のように、わざわざ告白にでも呼び出されていなければ、訪れることのなかったこの場所に。

 

「もしかして、告白しようと思って呼び出した、とか?」


 気づいた時には遅かった。


 確信をついた要の言葉が導線となり、彼女の顔はみるみる赤らんでいく。熱機関が暴走し、首筋から額の隅々まで循環する。すぐに手で顔を覆い、視線をずらすが、指先まで紅に染まってしまい、まったく意味を成していない。髪すらも真紅に染め上げられてしまいそうな勢いに圧され、要は目を奪われてしまう。快晴とは程遠い灰色雲の舞う空の下、視界には陽だまりを纏う彼女の姿がくっきりと映っている。

 

 彼女に触れたい、陽だまりを感じたいと要の潜在意識が告げる。それが淡く、他愛ない小さな希望なのか、羞恥の檻をかなぐり破ってでも叶えたい欲望なのか定かでない。

 

 それでも、この感情には裏も悪意も策も計略も罠も泥もない。そう言い切れる。だというのに。

 

 (力が、入らない。)

 

 足が鉛のように重く、地面に張り付いて離れない。腕はだらけきって頼りなく、彼女に触れたいと願った指先は、風に吹かれればなびいてしまいそうな程弱々しいしい。彼女を瞳に映すという、ただ一つの行動原理に従って踏みとどまる。

 

 それでも確認しなければならない事があると、要はベンチにかけよった。鞄にしまってあった一枚の手紙を取り出しす。

 

「あ、それ」


 手にした手紙を指さす彼女。

 

 予想通りの結果に、確定した事実に、要は再び動けなくなった。

 

 彼女も事態の全容が見えてきたようで、「もしかして……、先輩の下駄箱に?」と確認する。要はわずかに首を動かし、肯定の趣を伝えた。

 

 瞬間、彼女の頬がより一層赤みがかるのが見てとれた。

 

 慌てたように口をわななかせ、めちゃくちゃなジェスチャーを加えて何か言っていたようだが、要の耳に届くことはない。去り際に「本当に、すみませんでした!」と、その一言だけははっきりと、鋭利な刃をとなって要の胸を切り裂く。

 

 その後、彼女が逃げるように立ち去る姿を目の端で捉えながらも、どうすることもできずに立ち尽くしていた。

 

 灰色になった一人ぼっちの屋上で、どれほどの時間が経過しただろう。

 

 身体の熱が次第に失われていく。それが自身の感情に起因するものなのか、降りしきる雨に奪われたものなのか、要には解らない。だらしなく垂れ下がった腕に、かすかに残った力を込める。じっとりと重くなった文庫本をしまい、指の関節にひっかけるようにして鞄を持つ。

 

 少しでも衝撃を加えればずり落ちてしまいそうな、不安定で不格好な状態。

 

 その日の帰り道の記憶は朧気で、曖昧で、不確かなものだった。

 

 一年間、通学路を歩いた足の感覚だけを頼りに、前へ、前へと進む。

 

 雨に濡れて黒く染まったコンクリートも、砂と混じった桜の花びらも、今は等しく灰色に映り、雑然と流れている。雫の一粒一粒が鞭打つように全身を襲う。

 

 ふと立ち止まり、空を見上げて立ち尽くすと、胸中を悟ったかのように、空は暗く、どこまでも灰色だった。

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