3-1 春風
ホームルームが終了すると、要は一番に教室を後にした。
誰ともすれ違うことのない廊下はいつもより広く、どこまでも長い。規則を破っている訳でもないのに、どこか後ろ髪を引かれているような感覚。通り過ぎる教室には綺麗に整列された生徒と壇上に立つ先生の姿。教室からどことなく視線を感じ、視線を下へと逸らす。
三つほどその光景を繰り返し、中央階段を上り、文化祭ぐらいでしか日の目を浴びない学校の備品がしまわれた無名の教室を抜けていく。廊下の突き当りに差し掛かるころには座学で凝り固まった身体もほぐれ、頭も幾分スッキリしていた。突き当り左手にある屋上階段を上ると、重苦しい鉄扉と半開きになった掃除用具入れが寂しく肩を並べている。
経年劣化の末、施錠の役割を果たせなくなった扉を開けると、見慣れた光景が映りこんでくる。飛び降り防止のために設置された背丈よりも一回り大きい緑の金網フェンス、広い空間にぽつんと並ぶ三人掛けベンチが二つだけ。
教室二つ分のスペースしかない屋上。空には深い蒼がどこまでも広がったいるのに対し、ここはとても窮屈だ。雲から吐き出される雨によって酸化が進み、壁やベンチの塗装は所々剥げている。それでもこの場所が『特別』とされるのは、清々しい開放感に溺れられるからだろう。視線は上を向き、その他一切を映さず、そして周囲など気にすることもなく立ち去り、二度と訪れることはない。
だからなのか。
(私はこの場所を『特別』とは思えない。)
要はベンチに腰を下ろし、鞄の中から一冊の文庫本を取り出した。わずかに顔を見せる栞の端に指をひっかけ、ゆっくりと目的のページを開き、昨日読み終えた一文を指でなぞった。耳に届くは風の音だけ。忍び寄る雨雲の存在など忘れ、今は物語へと没入する。悪戯に吹き抜ける風に時折髪を整え、いつ来るか分からない差出人を待った。
差出人を待つこの時間を読書の余暇時間として消化できるようになったのも、要が初めて告白されてからそう遠い未来ではない。要にも人を傷付けまいとする親切心は人並みに備えており、最初の差出人にはそれなりに気を遣った。言葉を尽くし、相手を拒絶せず、初めから色恋自体に興味がない程を装った。しかし、噂がジンクスとなり、それが要自身の耳に届いた後、そんな気遣いをする心など微塵も残っていなかった。
要の手中で繰り広げられる物語は佳境を迎える。犯人のトリックが違法手術の伏線によって成立していた事が明らかになり、闇に葬られそうになった証拠を寸前で見つけ、犯人に直接突きつける。いわばクライマックスシーンへと突入し、ページをめくる手が何度も往復する。時折前の章に戻っては、伏線となる会話の一言一句を探し指先で追っていく。子供心にはやる気持ちが抑えられらない。
そんな気持ちの高ぶりを真っ二つに両断するように、振動の刃が要を切り抜けた。
金属同士がぶち当たるような衝突音が静寂を押しつぶし、残響が空を翔けていく。
手に力が入り、眉間に皺ができるのを感じながらも、それを止められない。本を落とし落としそうになったこと、物語へと没入しきった要を現実に引き上げたこと。そのどれを追及するより先に身体が動きそうになった。いや、きっといつもの様に呼び出し人が現れていたら、足を踏んで去り際に捨て台詞の一つでも吐いていただろう。
しかし、その毒気はすぐに全身から抜け落ちてしまった。
「……」
女の子が一人、倒れている。
状況から察するに元凶であろうその人物は、開かれた扉の方角と同じ向きにうつ伏せで倒れいる。さながら、豪快なヘッドスライディングを決める野球選手のように、勇猛果敢に挑んでいった挑戦者そのもの。だがしかし、残念なことに彼女はユニフォーム姿でもなければ、下は柔らかい土でもない。
起き上がるそぶりも一塁コーチが指示を出しに来る気配もなく、時間は過ぎていくばかり。
手をピンと伸ばし、ヘッドスライディング直後の姿勢を崩さないままどれほどの時が経っただろう。
少しの緊張と冷静さを取り戻した要はその場に文庫本を置き、恐る恐る彼女のそばに歩み寄った。見て見ぬふ振りをし、彼女の羞恥心を
「だ、大丈夫?」
明らかに大丈夫そうには見えない相手に対し、要は最上級の当たり障りない言葉を掛けた。一瞬、要は問いかけを間違えたかなと逡巡する。
大丈夫、に込めた疑問符が彼女に対しての心配なのか、自分の質問内容に対するものなのか、分からなくなっていた。
「はっ、先輩!」
言葉を発した途端、硬直から解き放たれたかの如く動き始めた。周囲を見渡し、何かを探すように首を左右に振る。戻り切っていない意識を混濁させるように、何度も、何度も。
「よかった~、まだ来てない。……あれ、体中が痛い。」
何かに安堵すると同時に、置き去りにした痛覚が戻ってきたのか、ペタペタと傷に触れては「痛!」と言って確認する。
「それはそうでしょう」
彼女の素っ頓狂な発言に、自然と言葉が漏れていた。
顔を強く打ち付けたせいか、鼻のあたりが赤く変色している。ゆっくりと流れ落ちる鮮血を目にし、要は慌ててポケットのハンカチをあてがった。
「ふあっ」
これまた素っ頓狂な声が聞こえたが、構うことはなかった。
「いいから、血が止まるまでじっとしてて。あとハンカチ持ってて。」
彼女にハンカチを渡すと、要は片膝をついて左手で肩を抱く。なるべく身体が動かないよう固定し、小鼻のあたりをつまみ始めた。
(たしか、このあたりで良かったはず。)
幼き頃学んだ、遠い過去の記憶を頼りに止血を施す。彼女は借りてきた猫のように大人しく、目をつぶったままジッとしている。
(目をつぶる必要はないのだけれど。ま、いっか。)
言われて通り、ちゃんと両手でハンカチを抑えているため何も言わなかった。
(……)
互いに止血に専念しているため、言葉を交わさず時間が過ぎる。屋上でヘッドスライディングを繰り広げた名も知らぬ女子生徒の鼻血を止血しているなんて、この時この瞬間、全世界で私一人だろうと要は思った。
先ほどの奇怪な出来事を目の当たりにしたせいで気が付かなかったが、なんとも華奢な体躯をしている。
(まつ毛長い…、顔小さい…)
視線は次第に細かな部位へとフォーカスされていく。白と黒を基調としたプレイドのハンカチが彼女の血で赤く染め上げられ、それが純白の肌を一層白く強調させる。それは神秘的なまでに尊く、触れる事が罪であるかのように錯覚させるほど。
泡立つような柔らかい栗色の髪。前髪を束ねる桜のヘアピン。全体的に幼い雰囲気だが、サイドの編み込みによって覗けるもみあげが、どことなく色っぽい印象を与える。くすぐったいから逃げるように顔を背け、髪が揺れる度、ふんわりとした香料が鼻孔をくすぐる。
要の鼓動は激しくなっていた。不自然に込められる力をぶつけないよう、やさしく、丁寧に指を添えた。
「もう大丈夫そう?」
要は小鼻から手を離し、ハンカチを受け取った。彼女はかるく鼻に触れて確認し、うんうんと頷く。
役目を終えたとばかりに立ち上がり、一歩後ろへ遠ざかる。血の付いた面を内側にして折りたたみ、ポケットに仕舞おうとした。
「あ、ハンカチ洗って返します!」
要が仕舞おうとした瞬間、彼女の手が伸びる。しかし、勢いよく起き上がろうとしたためか、その勢いを制御することができず、制止しようと伸びた手は要の腰横を通過し、顔をおなかにうずめるような態勢になってしまった。
要も咄嗟の事で回避行動がとれず、後ろに一歩後ずさり、倒れ込まないよう彼女を支える。結果、抱き抱える形に落ち着いた。
二人とも倒れ込まなくてよかったと安心するべきか、落ち着きのない彼女の行動に憤怒すべきか。それらを冷静に考えられない程の鼓動の早さに、どちらの感情も選択できずにいた。彼女の軽すぎる、でもじんわり熱を帯びる確かな体温。両腕で抱きしめてしまいたくなる衝動を、理性で抑えつけた。
要の胸に埋もれていた彼女の顔が、見上げるようにして要へと向けられる。
「えへへ、また助けてもらっちゃいました!」
そのつぼみを膨らませ、一杯に咲き誇るようにはじけた笑顔に、視線が釘付けになる。魅惑の粒子に触れたが最後、要は体裁など忘れて視線を背けることができなかった。手は汗ばみ、口が乾く。距離を撮らなければどうにかなってしまいそうだった。それでも、この一瞬を放したくない、この光景を身体に刻み込んでしまいたい一心で彼女を見つめ続ける。
拠り所なく彷徨う手、繰り返される吃音。未完成な雲のパズルを何度も何度も繋ぎ合わせようとし、検討むなしく迷宮入りを果たす。
そんな要をよそに、彼女は腹部に頭突きを受けたにも関わらず微動だにしない要を不思議そうに見上げている。
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