2-2 今まで通り
「おはよ」
背後から聞きなじみのある声が聞こえ、要は読みかけの文庫本に栞を挟んだ。気づけば朝の清々しい静寂はなりを潜め、クラス中に騒がしいぐらいの喧騒が充満している。
「おはよう」と、いつもの挨拶を交わすと、クラスメイトは隣の席へと腰掛けた。
「要はいつも早いね~、あといっつも本読んでる。」
「そういう
火花は要の指摘を気にする様子もなく、だらしなく身体を丸め机に突っ伏した。顔だけこちらに向けるようにして、眠気交じりに要を覗く。夜更かしでもしたのだろうと、容易に想像ができた。いまにも充電が切れそうなロボット状態だが、くるっと整ったまつ毛を見やると、相変わらず手入れに抜かりがないな、と感心する。細くとがりの少ない手には淡いオレンジのシュシュ、体躯に合わず一周り大きい白地のカーディガン、校則で指定されている丈長を明らかに下回っている膝上のスカート。左耳に見えるピアスから、幼き日の彼女を連想することはできないだろう。唯一、変わらずにいるのは髪の色だけ。
いつ見ても女子高生らしい女子高生を崩さない
「……」
その岸本火花が、先ほどの眠気が混濁した瞳と明らかに違う、邪推を含んだ視線を向けてくる。ネコのように瞳孔が開き、得体の知れない威圧感と存在感を放つ視線。当然、本人に攻撃にの意思はないのだろうが、不意に背筋が震える感覚は、どうやっても慣れることができない。
「また告白された?」
「まだされてない。」
「なるほど、じゃあ放課後か。」
火花は納得し、
「また無謀な犠牲者が増えるわけか。」
「私、加害者側じゃなくて被害者側だと思うけど。」
要は「私は何もしていない。ただ静かに生活しているだけ」と言い捨てた。そんな願いをあざ笑うように、毎日は過ぎてゆく。
彼らが犠牲者だというのなら、要自身に原因の一端があって然るべき。
しかし、告白をしてくる生徒は皆、ほぼ初対面と言っていい関係性だった。クラスメイトなんてこともあったが、知り合いの域を出る人は一人もいない。もし仮に、サキュバスがフェロモンでもばら撒くように周囲を魅了するならともかく、名前すら覚えのない生徒にどうこうできる術など、要は持ち合わせていない。
「女優やスポーツ選手みたいに、存在そのものが影響を与えるってこと。罪作り?な女ってやつ。」
「それは憧れであって、恋愛感情とは違うでしょ?あと、私にそんな影響力はない。百メートルを十秒切って走れないし、
「いやいや、百メートル十秒台とか世界記録だし、真っ先に思い浮かぶ女優像って割烹着姿の御上さんなんだ……。多分、というか絶対にあのドラマのあの女優さんをイメージしてるのが分かる。でもさ、影響力って派手な事をするイコールとは限らなくない?静かに本を読んでいるだけで、傍から見れば『深窓の令嬢』に見えてるかもしれない。自称感受性豊かな映画評論家とか、なんにでも影響受けるじゃん。」
「その例えはどうかと思うけど、だからって、それが恋愛感情になるわけではないでしょう。」
ラブストーリーは突然に、なんてのは飽和したJ-popの歌詞の中だけ。人間の信頼関係が物理的距離と時間に比例するように、たとえ加害者と被害者の関係であったとしても、長い時間を同じ場所でともにすれば、好意や共感といった感情を抱くもの。
誰かを想い慕う気持ちは尊く美しい。しかし、華やかで煌びやかなものに目を惹かれ、生まれ出たその感情をはたして恋愛感情と結びつけて良いのだろうか。
そういうと、火花は肩ひじをつく姿勢に直り、片目をつぶると得意げに口角を吊り上げた。
「恋愛経験ゼロのお姫様が、何をおっしゃいますか。」
火花のからかうような口調の指摘に、要は怪訝な表情を浮かべる。
こと恋愛において、要は告白どころか好きな相手すら生まれてこの方いたことがない。得たいとも思わないその経験でも、他から「未経験」とレッテルを張られるのは
そのため、要はこの手の話題に気乗りしない。対する火花は恋人こそいないものの、想い人がいると以前クラスメイトとの雑談の中で話していたのを覚えている。話半分に聞いていたため深堀はしなかったが、片思いも恋愛の一部と定義されるなら、火花もこと経験者に分類されるのだろう。
「それにしてもいつからだっけ、あのジンクスが広まったのって。」
「さあ、興味ない。」
あのジンクス、というのは、要とその告白に関係する。要は二年生になった今に至るまで、数多くの男性に告白されてきた。そのどれも実ることなく打ち砕かれてきたのだが、いつのことか「
このたった一つの成功体験が噂となり、面白おかしく誇張され、ジンクスまで昇華し、挙句の果て『崎要への告白が意中の相手に告白する前の通過儀礼』となっていた。ジンクスなどという、神頼みをしにくる
「要はさ、試しに付き合ってみるとか考えたりしない訳?」
火花の質問に、「ない」ときっぱりと返答した。
数々の物語というフィクションに触れてきた要には、この点他よりも知見がある。昔からの幼馴染に向ける感情が友情から愛情へと変わるもの、俗物的な関係から次第に素顔を知っていき、穢れすら愛しく感じられるもの。そのすべてにはプロセスがあり、ドラマがある。すなわち、恋人に発展するまでには出会い、時を重ね、互いを知る必要があり、それを数式のごとく順を追って踏んでいくことで、恋人へと導かれるのだ。いきなり現れた男性に惚れてそのまま結婚、なんて箸にも棒にも、誰の心にも響かない。なにより、要の心は激動しない。
「ま、要はそうだよね。A=B、B=C、ならC=Aみたいな。型にはめて、崩さない感じ。要っぽい。一見、手順さえクリアすればよさそうに見えて、その手順自体が迷路のようにこじれてる、現実主義なロマンチスト。」
「融通が利かないって言われてるみたいで、腹立つ。」
要をからかう火花の表情が、優しくほころぶ。
「ごめんごめん、でもさ」
ゆっくりと席を立ち、おもむろに鞄を持ちあげて後ろの席へと移動しようと背を向ける。
「理屈にならない感情って、自分じゃどうにもならないんだよ。」
それが誰に向けて放たれた言葉か測りかね、要は返答ができずに授業の鐘がなってしまった。
「あ、それと置き土産に一つ、今日は夕方に天気が乱れる予報。用事が終わったら早く帰るべし。」
身体を進行方向に向けたまま、首をひねってそう答える。
いつもの調子で答える火花に、先ほどの陰りはもう見えない。
その後の授業中も、要は黒板の板書を見やる度、突っ伏して寝入る火花を視界の端で追った。去り際に残した言葉が脳裏をちらつき、意識が後ろに引っ張られる。しかし、先ほどのまでの陰りは一切見せず、堂々と睡眠を貪るのを確認し、そんな心配は杞憂に終わったのだった。
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