第3話『ヘラ』(3)

 強い眠気に手を引かれつつも体を強引に寝床より起こしてゆく。毎日十分すぎるくらいに睡眠をとっている。それでも尚起きた後に強烈な眠気を覚えるのは、体というよりも頭―――特に心の方の問題なのだろう。

 だって起きたところでやる事がない。家事、炊事、趣味ごと。手持ち無沙汰を慰める為に何をやってみても、別に誰かが喜ぶわけじゃない。退屈な日常に凄い変化が起こるわけじゃない。何かが大きく変わるわけじゃない。

ただただ漫然と続いてゆく平和な毎日。それはそれで悪くないとは思うのだけれども、続く平和の日常に大した刺激がまったく発生しなければそんな平和の日々を退屈と感じて物事に取り組む気力が激減してしまうのもまた人間の性質というものなのだろう。

「兄さん」

「ん」

 呼びかけると瞬時に服装が寝巻きから外行きのものへ変化してゆく。そうして袖と襟の長さが多少短くなったいつもの着衣を見ると、ふと、この生活を始めた当初の事を思い出した。

 視線を収納棚へ向ける。我が家の収納棚の中には今着ている服とは意匠の異なる服がたくさん収納されている。それらはどれもこの場所でこの家でこの退屈な生活を始めた当初、兄さんに頼んで作ってもらったものだ。

 また、収納棚の隣へ備えつけられている箪笥の中にも同じくらいの数の服と肌着がもちろん収納されている。それらの服や肌着は、作ってもらった初めのうちこそは喜んで日毎にそれらから律儀に一つ選んでは袖を通し、着用した服などはこれまた律儀にその日のうちに洗濯して収納棚や箪笥にしまい込むというのを繰り返していた。けれど日が経つにつれて、収納棚や箪笥の中から自ら取り出して着用する服の数は一枚、また一枚と減ってゆき。また、伴って、着用したものを洗う習慣は一日おき、二日おき、と長くなってゆき。

「いつもありがと」

「ん……」

 そして結局最終的には頼み込んで作ってもらった服は全て箪笥の肥やしとなり、洗濯なんてのはしなくなり、毎朝毎晩こうして兄さんに頼んで当日着用していた物を処分してもらっては、起床後や就寝時に着用するものを新たに作ってもらうという怠惰の極地みたいな生活習慣が身についていってしまった。

「今日のご飯はー?」

「昨日と変わらん」

 こんな生活の日々を、退屈だと思う。何か、面白いことが起きて欲しいと思う。

「ですよねー」

「変えて欲しければお前の方から何か提案しろ。でないといつまでもちっこいままだぞ」

 けれど。

「うん……。でも、ならいいや、別に」

「そうか」

 だからといって積極的に動くことはしたくない。自分から動くなんて事をするくらいなら、このままでいい。消極的な気分のまま居間の机まで足を運ぶと、椅子が動き、机の上にいつもと変わらぬ食事が現れた。

「ごちそうさま」

「ああ」

 少しだけ時間をかけて出された見慣れた食事を平らげると、机の上に並んでいた食器が勝手に消え失せてゆく。食器が汚れごと消失してゆくのを尻目に椅子から立ち上がると、軽く大きく伸びをしたのち、玄関へと向かった。そうして辿り着いた玄関口、家と外との境界である線を跨ぐと、素足を玄関口の地面の上へ振り下ろすと同時、兄さんはわたしの素足に合う靴下と外履きの靴を生み出して履かせてくれた。

「どうも」

 いつも通り簡単な礼を言いつつ家の扉を開いてゆく。すると、扉の隙間から溢れんばかりの光が部屋の中へと飛び込んできた。そのまま扉を全開にすると、淀んだ部屋の空気を浄化してゆくかのよう、光は床や壁を這って進んで切り取っていった。

 侵入してきた光が家の一部を染め上げる様子は綺麗だった。見て、沈んでいた気分がわずかだけ改善された。のち、得られた愉快の感覚が退屈に落ちこむよりも先に扉を完全に開いて家の外へと出た。扉を閉めて森の方を振り返ると、いつもよりも強く照りつけてくる日差しや、木々と植物の影がひどく短い状態である様子を見て、成程、今が正午近くなのだという事を強く意識、実感させられた。

―――ふーむ……

 頭上では木の葉がそよいでいた。聞けば落ちる木の葉と木の枝が身をぶつけ合い、掠れた音を鳴らしていた。いくつかの木の葉はそのまま地面へと落ちていっていた。地面へと落ちた木の葉はやがて強く冷たい風によって銀一色の外見の我が家の屋根より高くへ吹き上げられていった。

 それは朝にも見ることの出来る光景だった。それは日の強さと影の位置と大きさ以外が違わない光景だった。それはけれど外れないはずの雨の予測が外れたからこそ見ることの出来た、いつもと異なる光景だった。

―――さて

 たおやかというには多少強くある降り注ぐ日差しを受けながら、異変の起こった世界の中へ足を踏み出した。もしかしたらこんなところも違っているのではないのだろうか。ほんの少しだけの期待を胸に一歩を踏み出すも、足裏より帰ってくる感覚はやはりというかいつもと全く変わらなくて、その変わらない地面の感覚に少しばかり落胆させられる。

「……ヘラ?」

「なんでもないわ、兄さん」

 わずかな胸のざわつきを察知して兄さんがよこした心配の言葉を一言で切り捨てると、期待外れに満ちみちるいつもの日常へと向けて、いつも通り一歩一歩を踏み出していった。

 見上げた空は青かった。快晴と呼んで全く差し支えない空の下、森の中の整った道を歩いてゆくというのは、多少乾いた気配があるとはいえ、悪い気分にならないものだった。とはいえ、もう十数年もの間繰り返してきた作業のようなその行為に今更特別良い気分を覚えることはなかった。だってほら、歩き出してから数分もすると、森の中の光景は見覚えあるものばかりへと変化し、飽きがやってきてしまうのだ。たとえ良い出来事であろうとそれを数十数百数千と繰り返したなら、それは退屈を招く呼び水となってしまう。 同じ場所で全く変わらない生活をずっと永劫続けられる程に人間は強く出来ていないのだ。たった一つの同じ喜びだけで満足し続ける事が出来る程人間は謙虚に出来ていないのだ。だからこその退屈で、だからこそ日々の生活に変化を大いに希望した。だからこそか世界に異変は起こってくれたけれど、だからこそか、世界に起こった異変はわたしに大した感動をもたらすこともなく終わってしまった。自ら動かなければ、自らの気持ちが大きく動くような事は起こらない。過去の経験からわたしはそれを嫌というほど理解はしている。それは本当嫌になるくらい理解しているけれど、だからといってわたしはわざわざ自ら動いて日々の生活に大きな変化をもたらそうとは思わない。

 だってわたしが自ら動くと、絶対、最悪の結果を招くことになってしまうだろうから。

 だってわたしは、そうして自ら動いた結果、家族を全て失ってしまったのだから。

 だからわたしは兄さんがなんと言おうと、絶対に自らは動かない。退屈上等。それでこの平和な日々が送れるというのなら、兄さんを再び失うような事が起こらずにすむというのであれば、わたしはいつまでもこの退屈を昔と変わらないこの体のまま享受し続けよう。何故なら、そう、この続く退屈の日々と不自由な体は間違いなく過去のわたしの罪の証であり、同時に、愚かなわたしにたった一つ遺された唯一の償いの手段なのだろうから。

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