第3話『ヘラ』(2)
タルタロス海流の流れに逆らってケルベロス海とカロン海の境目を真っ直ぐ突っ切ってゆくと、やがてとある島へと辿り着く。その島の北側に大きく聳え立っているその山は、このエリシウム島の名前の元となっている、この星で二番目に高い山、エリシウム山だ。島の北部にあるこのエリシウム山頂からは、いくつもの大きな川が流れ出てきている。これら山頂から流れる複数の川のうち、一定以上の大きさを有する二つの川にはそれぞれ、エリシウム川とタルタロス川という古い言葉で天国と地獄を意味するこの領域を通る川の名が付けられていて、その二つよりも更に大きさを持つ五つの河はそれぞれ、ステュクス河、アケロン河、プレゲトーン河、レテ河、コキュートス河という名が付けられている。
「―――で、俺たちが今向かっている町は、その一つのレテ河の下流にあるレテの町って事でいいんだよな?」
「うん。そうだよ」
エリシウム山の頂きから流れるこれら五つの河のうち南東方面へと流れるレテの河は、確かにミウミに事前に教えられた通り、幅がとてつもなく広かった。そしてこの幅広い河の下流の右岸―――今の位置から見て左側の場所には、河の大きさに見劣りしないくらいの高さの巨大な建物群がいくつも並び立っていた。レテ河の下流の右岸にあるそれらの建物群は、小さくて百メートル、大きいものに至ってはキロメートル以上もの高さがあると見受けられるものばかりによって構成されていた。それらの建築物は高さだけ比較するとアイオリスの風車塔の大きさと迫力に遠く及ばないけれど、群れて横に並んだ姿にはそれ以上と思える大きさと迫力を持っていた。
「近づけるぞ」
「うん」
遠く彼方に見えるそれらのある方へ帆先を向けなおし、舟を飛ばしてゆく。見上げれば上空の太陽の高さから昼過ぎだろうと分かる今のこの時刻、陸に向かって強く吹いている海風を味方につけてやれば、目標としているレテの町までは辿り着くのはあっという間だった。
「たけぇ……」
目の前には首を直角に傾けたところ天辺が見えない高さ―――勿論アイオリスの風車塔程ではないが―――の建物がある。町の最も外れに建てられているその建物は、下部がレテ河の中にまで伸びていた。
「……この建物は河の中に建てられているのか?」
「そうだよ」
「……あっちのも?」
「うん。レテの町の建物は、その全部がレテ河の中に建てられているんだよ」
舟を少し浮かしてレテの町の全景が見えるよう遠ざけてやると、成程、ミウミの言葉が真実であるという事がわかった。遠くからでは見えなかった十数メートル程度の建物を加えれば万以上の数があるだろうレテの町は、その全てがレテ河の河川敷より内側に建造されている。
そしてそのよう河川敷内に建築されている町の建物の上や内部や外部では、大勢の人が忙しなく動いていた。働く彼らはハーシェルの家においてミウミがやっていたよう虚空から小さな部品や大きな建材を生み出しては、己の目の前の建物へと付け加えてゆく。建物はそうして働く彼らの手によりせっせと増築させられ続けてゆく。
「なぁ」
「うん」
さなか、気づいた。
「町の建物、どれもぶっ壊れてねぇか?」
レテの町の建物は、例えばある建物では屋根がなかったり、例えばある建物では扉や壁や柱が半壊状態のまま放置されていたりで、まともな姿を保っているもの、組み上がっているものが一つも存在していないのだ。
「……うん。そうだね」
そしてミウミは多少口を開け閉めして言い淀む仕草をすると、しかしいつも通りの穏やかな表情で口を開く。
「レテの町の人は、建物を完成させようとする気がないから」
「……建物を完成させる気がない?」
「うん」
ミウミは言いながらレテの町へと視線を送った。
視線の行方を追うと、とある建物の屋上で作業を行なっている人へと辿り着いた。外見、その建物はほとんど完成しているよう見えた。多分、そいつのすぐ側に転がっている己の手で生み出したのだろういくつかの部品を建物に引っ付けてやればそれで建物は完成するのだ。
けれどそいつはそれをやろうとしないのだ。後一歩で完成するだろう建物の屋上、己の手にて目の前の建物を完成に至らせる為の材料を生み出しただろうそいつは、しかし建物を完成させようとせずただ只管屋上に佇み、それどころかそいつはやがてのそのそと起き上がると、興味を失ったかのよう己がいた建物から視線を逸らし、その完成直前の建物から立ち去って別の未完成の建物へ飛び移っていってしまった。
「なんでだ。なんであいつらは、最後までやろうとしないんだ」
不思議に思って尋ねると、ミウミはやはり言い淀んだ仕草をしたのち口を開いた。
「―――カミヤはそれを最後までものを作ったら、どうする?」
「どうするって……」
ミウミの言葉に、自らの手で作った窓や扉の存在を―――それを作った後どうしたかを思い出す。
「作ったら使って、使ったらその感想を抱いて―――、他の完成品と比較する」
元々家にあったそれらを見習ってこの俺が見様見真似で作り出した自作の窓や扉は、元々備え付けられていたミウミ作のそれ等と比較すると、見た目も機能もひどく劣っている、酷い出来のものだった。あの時俺は―――
「他の誰かが作った完成品と比較して劣っていれば悔しいと思う。もっと良い物を作りたいと思う。それ以上のものを作りたいと思う。次に作るときは、もっと優れたものを作りたいと思う」
あの時の俺も自分が作ったものとミウミの作ったものを比較して、ミウミが今言ったのと全く同じ感想を抱いた。やった。試した。作ってみた。作った不恰好なそれらとミウミのを見比べて、次はもっと上手くやろうと思った。勿論結局俺はその後にどれだけ試してもミウミの生み出したそれより優れたものを作る事が出来なかったけれど―――ともあれ、ミウミの言う事は、まったくもって正しいと思う。
「そう。比較して、次はそれより上手く作ろうとして―――けど出来なかった。出来ない事をわかってしまった。だってプレートの中にはあらゆる知恵と知識と経験が詰まっている。それらによって作られたものを越えようと足掻いた。けれどどうにかしようと一つの思考を巡らせるたびに百以上の回答が返ってくる。百千以上の回答を必死で検討しているうちに回答は千にも万にも億にも兆にも増えていって―――、やがて、何をどう足掻いても、結局出来るのは他の誰かが既に作ったものだったり、以前に他の誰かが作ったものの方が優れていたりで―――、だから彼らはやがて、自分の力だけでは他の誰かが過去に作った建物以上のものを作り出す事が出来ないのだと心底そう思いこむようなってしまった」
「―――」
その言葉にハーシェルにいた頃、山の向こうへ行ってみたいと足掻いた日々を思い出させられた。
山の向こう側にどうしても行きたくて、でもどうしても自力では行けなくて、けれどもハーシェルの上空には山の向こう側を飛ぶ奴らがいるのが見える事があって、だからどうやったら己も彼らのよう空を飛ぶ事が出来るようなるのかとミウミに聞いた事があった。ミウミはその時はっきりと『カミヤにそれは出来ない』と断言した。
カミヤには出来ないという言葉が悔しくって、どうにかしてやろうと思考を巡らせた。無理だという方法も、ダメだと言われた案でも片っ端から試してやった。―――けれど。
「試しても試しても報われない。一回思考を巡らせるごとに、その数億倍以上もの答えがすぐさま返ってくる。思いついたその方法はもう既に誰かが考えたものだった。思いついたその外見はすでに過去の時代の他の誰かによって作られてしまっているものだ。どれだけやっても新しい何かを生みだしてやる事が自分には出来なかった。過去の人々より優れた解答を出す事がどうして出来なかった。望みを叶えられる事が出来なかった」
早く走れるだけではダメだとわかった。葉っぱ等で羽を作り高い木の上から飛び降りてもダメだとわかった。ジャケットを利用してみてもダメだった。あれもダメこれもダメと繰り返し、ミウミにダメ出しされた案すらも試してみて、結局それらのどの案も当たる前のように失敗し、結果としてカミヤという己にはミウミの言う通り空を飛べる能力などないという事実を嫌になるくらい思い知らされる事となった。
「プレートが存在する以前に生きていた人の数億倍以上の速度と密度で繰り返される徒労の日々。自身の存在の無意味さを実感させられる瞬間が、今の時代のプレートを使いこなせる人々の心には延々と襲いかかってくる」
あの日々に感じた熱はたった一度であっても二度と味わうのは御免だと思える、カミヤという己のそれ以降の生涯の過ごし方を決定づけるに十分な痛さの熱だった。
「自らの存在を否定され続ける痛みに耐えかねた人は行動に救いを求めた。一途に何かに取り組んでいる間は、例えそれが過去のやり方をそのまま真似るだけの行為であっても、必死になって誰かが作り上げた設計図の通り組み立てているその間だけは何も考えなくてすむ。自分を痛くさせる熱を感じなくてすむ」
だから動き続けると決めた。出来る唯一を極めると決めた。その為に進むと、二度と止まらないと決めた。
「けれど完成させるのは駄目だ。完成したと思えてしまうのはダメだ。着手しているそれはいつまでも未完成のままでないといけない。だって完成したと思えるところまでやり遂げてしまったら、その時点で自分はきっと、作り上げたそれと過去の遺物を―――、あるいはそんなものを作り上げてしまった今の自分自身と過去にそれを作り上げた人物の能力を比較して、痛みを―――嫉妬や羨望の熱を感じてしまうに違いない」
止まればあの消化不良出来ない熱がこの身を焼き尽くすということを知っている。
「だから完成させられない。だからレテの町にある建物は永遠に壊れたままであり続けなければならない」
むかつくが奴らの気持ちは分かった。だから文句を言おうという気分にはなれなかった。
「なぁ」
でも、不思議だ。
「レテの町の奴らはそうやってずっと過去のレテの建物を再現して建築し続けながら過ごして来たんだろ?」
「うん」
「どのくらいだ?」
「もう千年二千年以上も昔からだよ」
「でもってこのレテの町に住む人たちはさっきのやつがやったみたいに、その気にさえなれば一瞬でレテの町の建物の材料を生み出す事ができる。作る事が出来ちまう」
「うん。一度に作れる量とかには多少の差があるけどね」
「じゃあ、なんで町はこの程度の大きさで、完成しないままなんだ?」
歩き続けてればいつか道は終わるものだ。奴らは熱を奪い進むしか出来ない俺と違って、あんなにもなんでも生み出す事が出来る、なのに、レテの町にはそんな事の出来る奴らが数万を超える数はいるように見えるのに、何故レテの町の大きさは、大きいと言っても少し遠ざかるだけで俺の視界に収まってしまうくらいの程度なのか。何故レテの町の建物は、千年二千年かけても完成に至らないというのか。
「それは―――」
問いかけに、言い淀むミウミの視線が上へと無垢。行方を追うと視線はエリシウム島で一番目立つそれ―――エリシウム山の頂へと向けられている事に気が付いた。
「十年に一度。だいたいそれくらいの周期で、エリシウム山の頂きの上に冷たく強烈な北西風が一昼夜も吹く。その一昼夜の間にエリシウム山の頭頂湖は完全に凍りついて、やがて中央部分が一気に砕ける。湖が砕けた後、砕けた湖の氷は南東に位置するレテ河に続く谷へ一気に流れこむ。この時、レテ河を流れてゆく氷塊群の中にはたった一つであってもレテの町にある建物を全部完全に壊してしまうくらいの大きさの氷が多数含まれている。それらの氷塊群がレテ河流域にある全て―――下流の河川敷内にあるレテの建物だろうとなんだろうと―――を洗い流してしまう。人々が積み上げた全てのものを洗い流して、世界から失わせてしまう。リセットしてしまう」
エリシウム山の頂きからは確かに冷たく強烈な北西の風が吹き下ろして来ていた。
真昼時の今、その強烈な山風は確かに背筋まで凍りつきそうなくらいに冷たく乾いているものだった。
「レテの町は約十年おきに破壊される。つまり、十年耐え切る事が出来ればレテの町にある建物は全部壊れて、次の十年にも同じ生き方をする事が出来る。耐えられる限り、いつまでも同じ生き方を続けていく事が出来る」
冷たく乾いた風に体の中の熱が根こそぎ奪われていく感触を覚えた。確かにこの冷たい風に身を任せていれば、熱を大量に保有しているやつらはきっと終わりの時まで心地良く過ごせるだろうという考えが思い浮かんだ
「あてもなく強い痛みを心に抱えたまま世界を彷徨うのはもう嫌だ。そんな事をするくらいなら、それがどれ程実を結ばない行為だとわかっていても、より痛みを感じる機会が少なくてすむ安楽で手軽なやり方を選びたい。余計な苦労を背負い込まない方を選択したい。だから―――」
それを。
「……気にくわねぇ」
そんな風に熱と心を奪われかけた己を、そんな風に頼って委ねて目を逸らして過ごし続けている町の奴らを、そんな弱い奴らと同じだと思ってしまった己を、ぶん殴ってやりたいと思った。
「カミヤ」
「気にくわねぇよ、それ」
そいつが奪ってきた以上の熱を奪ってやらないと気が済まないと思った。
人を腑抜けにするそれの姿をこの目で見ておかないといけないと思った。
「原因は山頂にあるんだな?」
「……うん」
聞けばいつも通りの返事でミウミは答えてくれた。
「―――行くぞ」
だから俺はミウミの言い淀みと心配の態度を完全に無視して帆先をレテ河上流へと向けると、エリシウム山の頂き目掛けて一直線に舟を進ませた。冷たく強烈な向かい風の中、ミウミの舟は追い風の時よりもさらに速度を増してエリシウム山の頂上目掛けて突き進んでゆく―――
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