第3話『ヘラ』

第3話『ヘラ』(1)

余熱の陽炎


三話 『ヘラ』


 今より上の幸せは、いらない。

 だから、今以下の未来をよこさないで。

 

 転がり落ちてくる大氷塊に向かい突撃してゆく存在がある。突撃する彼は大氷塊よりもずっと小さい存在だ。同年代と比べて大きめの体つきも、その体躯の数百倍数千倍もの大きさはありそうな大氷塊に比べてしまえば、砂粒くらいにしか見えてこない。そんな大きさのものに向かって開いた右手を突き出して突撃するその行為は、いかにも愚かで無謀なものにしか見えなかった。

 激突の終わりは数秒後に迫っている。もしもこのまま誰も何もしないでいたのならば、かつてのわたしのよう、彼はこのまま大氷塊の一部をほんの少しだけ赤く染めるシミになってしまう事だろう。

―――お願いだから、今すぐにその無謀な突撃をやめて!

 飛び出ていきそうなそんな懇願を口の中へと縫い留めたのは飛び出ていった彼の視線だった。

―――あの程度のもん、大した障害じゃねぇよ

 彼の瞳は無言のうちにそう訴えていた。今の彼の瞳に映っているのはわたしがあの時見た光景とほとんど同じものであるはずだ。細部にこそ多少の違いはあるけれども、少なくとも危機的状況である事は同然のはずだ。

 けれども彼は、そんな同じものに対して、かつての私とは全く違う目線を送っているのだ。

 彼は追い詰められて尚、その先にある未来を自らの手で掴み取ってやると折れずに抗っているのだ。

 彼はまだ、諦めず、もがいているのだ。

 その愚直さが、その諦めの悪さが、折れない心が、羨ましくて羨ましくてしかたなかった。

 彼はわたしがかつて失ってしまったものを今もなお持っている。彼は自ら行動した先にある未来は間違いなく良いものであると疑いもなく信じている。彼は差し出した右腕が自らにとって最善最良の未来を掴み取れると、自ら選び進んだ道の果てに手に入れられる未来をなんの疑いもなく良いものだと心の底から信じきっている。

 その純真さがとてもとても羨ましくて、目が離せなくなるくらい綺麗だと思った。

 己をひたすら信じ、己の選んだ道を迷う事無く即座に進み、後悔するよりも前に立ちふさがる障害に突撃し、他の誰かの意見に容易に靡く事なく、欲するものや欲する未来を自身の手で掴み取る為に、苦難に満ちていると分かる自ら決めた道をただ只管に突き進んでゆく、その姿。

 ……あれだ。

―――あれこそ、わたしの欲しかったものだ

 抑えようもなく涙が溢れ出た。

 体が動いてくれたのはその後すぐのことだった。


「ヘラ!」

「うぅ……」

 声に脳裏を直接叩かれ、目が覚めた。

「おい、ヘラ!」

―――うるさい

「うぅ、うぅぅぅぅぅ……」

 頭の芯へと響いてくる声がどうしようもなく鬱陶しくて、声を返すのも億劫だった。

「おい、ヘラ! もう昼も近いぞ! 起きるんだ、ヘラ!」

―――うるさい……

「あぁ……、もう……、うるさいなぁ」

 それでも聞こえてくる声が頭の中に残響するその感覚に耐えきれなくなって、身を起こす。

 遮光カーテンが隙間なく全て閉められている部屋の中は薄暗闇と静寂に支配されていた。

「お、ようやくお目覚めか」

 わずかな揺らぎも存在していないこの場所において約束を違えて声かけしてくる兄さんの存在とその声だけが異物じみていて、そのせいもあるのだろう、なんだか無性に腹立たしかった。

「ちょっと、兄さん。約束が違うじゃない」

 だからだろう、文句の言葉は思った以上にすんなりと出ていっていた。

「約束が違う?」

「晴れの日以外はやることないからどう過ごしてもいいって約束だったじゃない」

 わたしはみんなと違って熱をうまく操れない。雨の日のわたしに出来る事と言ったら、料理とか、読書とか、落書きをしたりとか、貯蓄してある熱や熱産物を使って暇をつぶす程度のことだけなのだ。

「あぁ、そうだとも。晴れの日は外に出て過ごす代わり、それ以外の曇りや雨天みたいな悪天候の日は家の中で何をしててもいい。俺は確かにお前とそう言う約束をした」

「なんだ、ちゃんと覚えてるんじゃない……、だったら……」

 今日のわたしは惰眠を貪りたい気分だった。

 だから『邪魔をしないで』と言葉を続け、再び体を横たえて眠りに入ろうとした。

「だから!」

 その時、手が伸び、目の前のカーテンが開けられた。

「今日は外に出る日だと言っている!」

「……うそぉ」

 すると直後、虹彩を完全に麻痺させる程の光が目に飛び込んできて、驚きの言葉が口から飛び出していった。飛び込んできた光は一部が部屋の内部を窓枠に沿って四角く白く切り取る程眩しかった。部屋の一部をいっそう明るく染める白い光やシーツの上に刻まれた濃淡はっきりとした陰影は、今日という日が晴れの日であるという何よりの証拠だった。

「見ての通り今日は目も眩むような晴天だ! だから今日は約束通り外に出て動いてもらう!」

「えぇ……、だって、昨日、確かに空模様は曇りのうろこ雲で……」

 予想外の事態が信じられず、兄さんの語る言葉など右から左に抜け出てしまっていた。うろこ雲とは積乱雲の外側にある、雨をまだ地表へ降らせてない雲がちぎれて生まれる雲のことだ。うろこ雲は、北緯三十度くらいの位置にあるこのエリシウム島において、雨の予兆であるはずなのだ。

「おかしい……。昨日の空模様から判断するに今日は少なくとも曇天のはずなのに……」

 昨日見た夕方の空は確かに魚の鱗をちりばめたようなうろこ雲で一面が覆われていた。数日続いた晴れの日の空にうろこ雲があるのを見てこれでようやく休めると思わず小踊りした記憶があるのだから間違いもないはずだ。

―――こんなの絶対におかしい

 もちろんエリシウム島の空模様は周囲の海流の勢いなどによって大いに変化する為、天気のあても確実でない。とはいえ、エリシウム山の頂きに笠雲がかかったり海側にたくさんの雲が見えるのは雨日が近づいている合図で、幸運の森に霧がかかったり鳥や昆虫が元気よく高く飛ぶのは明日が晴れの合図で、うろこ雲が空に見えたのなら次の日の空模様は曇天というこの天気の見分け方が外れた事なんてこれまで一度たりとなかった。

「―――ねぇ、兄さん。これってもしかして異変じゃないかな」

「……異変〜?」

 だからこその言葉だったのに兄さんは『急に何を言い出したんだこいつ』みたいな疑いの念たっぷりの表情と言葉をこの場に残すばかりだった。その様子からも兄さんがわたしの言い分を一欠片たりとも信じていないのは明らかだった。頑なにわたしの言葉をまるで信じようとしないその態度はなんとも今の兄さんらしいとも思った。……ともあれ。

―――流石にこうも不信ありありの態度を取られると……

 悔しい。ムカつく。

「だってそうでしょう?」

 想いが促したのか、続きの言葉は、ほとんど反射的だった。

「一度たりとも外れたことのない予報が外れるってのは、どう考えても大異変じゃない」

 そうともこれは、いつまでも続くはずだった日常に起きた、異なる変化なのだ

「そうでしょう、兄さん?」

「……」

 プレートの力によって運営され続けているというこの世界では、余程の事がなければ変化なんて起こらない。そしてプレートが絶対に間違いを起こさない事は、きっとわたしが他の誰よりもわかっている。というよりも、プレートが間違いを起こすなんて事態があってはならないのだ。もしそんな事態があり得るのだとしたらそれは、わたしたちにとって間違いなく即座に解明しなければならない異変と言っても過言でない出来事なのだ。

「……」

 無言を貫く態度からは兄さんの戸惑う様子が伝わってきた。

 きっと兄さんは、なるほどそれは確かに一理あると心の何処かで思ってくれたのだ。

―――好機だ

「だから兄さん。今日は部屋の中で異変の原因がなんなのかゆっくりと話し合い―――」

 押し切れる。そう思った矢先―――

「あぁ、そうだな! 異変だ、異変、大異変だ!」

最も重要な論旨を述べかけたその時、兄さんはわたしの声を大きく遮って叫んだ。

「晴れの日だってのに、お前を昼まで寝かせちまった!」

「あ〜……―――」

 言葉に、今日もきっといつもと変わらぬ一日になるだろう予感が確信へと変化する。

「もう昼だ! お陰で今日はいつもの半分以下も外で動けないだろうよ!」

 天気の異変が起ころうと、兄さんはやはりいつもの兄さんのままだった。

「それでも約束は約束だ!」

 約束。そう、それはわたしと兄さんの間に交わされた約束なのだ。

「さぁヘラ! 今日の天気は晴れ! 太陽は燦然と輝いてるし、空には雲一つ見当たらないし、雨なんて一滴も降ってない! だから約束通り、今日は外に出てもらうぞ!」

「うぅ……」 

 あの時から兄さんは一度たりとも、わたしとの約束を破ったことがない。

 ……あの時から兄さんは、どんな小さな約束だって破れなくなってしまったのだ。

「ヘラ!」

「うぅ……、わかってますよ、兄さん……」

 だからわたしも、もう絶対に―――まぁ多少の嘘と誤魔化しは愛嬌ですませてもらうとして―――兄さんとの約束を破らないと誓った。そうとも、わたしは誓ったのだ。わたしは、約束を絶対に守らないといけないのだ。そんな思いが倦怠感に満ちた体を動かす原動力となり、わたしは横たえていた身をゆっくりと起こしてゆく。

「よし! じゃあさっさと外に出る!」

「うぅ……」

 そう。だってそもそもこれは自業自得の結果なのだ。だって兄さんはいつだって正しい事しか言わないのだ。だからこの徒労感は、うろこ雲が出たから明日はきっと曇天か雨模様になるだろうと勝手に思い込んだわたしの間抜けさから生じてしまったものであり、つまりは自業自得の結果に生まれた感覚に違いないのだ。

「あぁ……、さようなら、私のお休み……」

 けれど、たとえそれが自業自得の結果生じてしまった気分の落ち込みだったとしても、休日と思っていた日に予定外の労働をしなければならなくなった時程気分の下がる出来事はないと思う。そのせいだろう、枕元に用意してあった数冊の本を押しのけつつ布団から出ると、体がまるで自分のものじゃないみたいに重く感じられた。

「もたもたしない!」

「はぁーい……」

 徒労感から生じた倦怠の結果に生まれたものなのだろうその感覚を押しのけつつ外に出る準備をしていると、窓の外から飛び込んでくる光が再び目に飛び込んできた。わたしの予想を裏切って部屋へ飛び込んでくる太陽の光の中で着替えを行おうとすると、不意に腹立たしさが湧き上がって、倦怠感は更に増した。

―――でも

 服に手をかけつつ、思う。

―――まぁ、このめんどくささと気怠さはわたし自身の愚かさのせいであるとしても……

「絶対に雨になると思ってたのに、なんでかなぁ……」

―――なんでいっつも当たってた予報が外れちゃったんだろう?

 なぜ変わらないはずの法則が違えてしまったのか。なぜ兄さんはいつも通りに変わらないのに、法則が外れて天変起こって空が晴れてしまったのか。何故そんな風に変わらないものと変わるものが矛盾する事もなく世界に同居出来ているのか。その理由が、今のわたしにはさっぱり検討もつかなかった。

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