第3話『ヘラ』(4)

「いい天気ね」

「ああ。雲ひとつない、綺麗な青空だ」

 ポプラの花が満開の時期を迎えようとしていた。もうあと数日もしないうちに目の前の木々には色とりどりの花が咲き乱れる事となるだろう。更に一月もすればそれらの役目を終えた花々は熟した実へと姿を変え、やがて果皮が割れたのちには、中から出てくる白い綿毛が森の地面を覆い隠すことになるだろう。

「そろそろ春だったかしら」

「そうだ。そしてもうすぐすれば、あれの見られる季節にもなるだろう」

「あれ……?」

 積もり積もったポプラの綿毛はやがてエリシウム島に吹き荒れる山風や海風に散らされて、宙を舞ったのちに散り散りとなって失せてゆく。この時、ポプラの綿毛の落ちる時期や時間帯、空気中の湿気の具合によっては、ポプラの綿毛が白く綺麗な状態のままで強い風が吹くのに合わせて一斉に空中へと巻き上げられる事がある。

「……、あぁ、初夏の名物の」

「そう。エリシウム島名物の一つ、ポプラの綿毛の散華飛翔だ」

 白く綺麗な綿毛が逆巻く風に煽られて空を舞って空中を埋め尽くす姿は、このエリシウム島のこの時期でしか見られないものだ。世界で唯一その時期その場所でしか見られない光景という謳い文句に弱いのはきっといつの時代の人間にも共通する特徴なのだろう。故にこの時期のこのエリシウム島には、値千金だと誰からも呼ばれるその光景を見る為に多く旅人が到来する。

「見るのは結構なんだけど、後が面倒なのよねー、あれ。見た目に反して肌触りがよくないし、そこらじゅうが埃っぽいみたいになるし、おかげでひどくむせるし、それに―――」

「それに?」

「……燃えやすいし」

「……そうだな」

 多分に漏れる事なく、私たちもその謳い文句に引き寄せられ訪れた旅人たちだった。かつて私らはその光景を見たいと懇願するヘラの為、ヘラを連れて父母と共にこの島を訪れた。あの日あの時初めて空の上で逆巻く風に吹き上げられたポプラの綿毛舞う光景を見た。もしも私もあれを見たのがヘラと同じく幼少の頃であったなら、私もその時の妹のヘラと同じよう、無垢で純粋な感動の表情を浮かべる事が出来たのかもしれない。

「……綺麗なのは確かなんだけどね」

「……そうだな」

 そう。それは確かに美しい光景だったけれど、感動は皆無だった。何故なら私はその光景を既に知っていた。何故なら私はこの光景がこの世にそんな光景があると知ったその時から、プレートの力によってこの光景を見たという記憶を数十数百数千以上も保有していた。何故なら過去より連綿と受け継がれてきたプレートの中には、そのプレートを受け継いできた人々たちが積み重ねてきた全ての知恵と知識と経験が保管されているからだ。

 プレートとは人間の生存を補助する究極の道具だ。生存の危機というものはえてして未知の出来事との遭遇によって起きてしまいがちなものだ。幼児が灼熱の鉄板に触れてしまうのは、熱いものに触れると火傷すると認識出来る知恵を保有してないからだ。幼児がよく迷子になってしまうのは、その場所の知識というものを保有してないからだ。子が危うきへと平気で近寄ってしまうのは、それが危険であるという経験を保有してないからだ。知恵や知識や経験を多く持たぬ人にとって、世の多くの場所や出来事は未知で、危うきと変わらぬものである。

 かつてまだプレートというものが存在していなかった頃、昔に熒惑とすら呼ばれた荒野ばかりだったこの星は、人という存在にとって未知で危うき事が何処にでも存在している危険な星だったという。故に人々はこの危険に対応する策として、プレートという万能の道具を生み出した。プレートは保有者の生存に必要な熱量を保存するのみならず、危険を危険と理解する為の知識と経験、そして、たとえそれが完全に未知な出来事であってもその未知にどのような危険が潜んでいるかを類推出来るようにする知恵というものを与えてくれる道具だった。

 故に私たちは成長してプレートの力を完全に引き出せるようなると初体験というものをする事が出来なくなる。成熟した私たちの世界からは、未知や未熟という危険の要素が完全に失われてしまうのだ。

「流石に十回以上も同じもの見てると、食傷気味―――、飽きちゃうなぁ……」

「そうだな」

 たとえそれが伝承に長く語られる程荘厳華麗な光景であろうと、たとえそれが本来生涯でたった一度しか体験出来ないような特別の出来事であろうと、物事は体験するごとに、特別さ、神秘性、価値を失ってゆくものだ。当時私―――プレートの力を使いこなせるようなっていた私と父母は、死ぬ前に一度は自らの目で見ておきたい光景として常に上位へと位置しているその光景を、すでに何度も脳裏で、五感で、体験したという知識や経験を持っていた。私たちはその光景を見た時、その光景を見飽きたと思えるくらいにそれの記憶を持っていたのだ。だからこそ私と父母は、はしゃぐヘラと異なり、酷く退屈な気分でその身飽きた光景を眺めていたのだ。

 そう。飽きとは慣れだ。楽だ。積み重ね慣れてゆく故に、人間は楽に生きられるようになる。けれど―――、時としてこの飽きより生まれる慣れと慣れによって生まれ出てしまう意識の空隙は、取り返しのつかない事態を引き起こして人に永劫消えぬ傷跡を残す事もある。

「……もう十年になるのかぁ」

「……そうだな」

 十年前。当時すでにその光景に見飽きていた私と父母は、ほとんど幽鬼のような状態ではしゃぐヘラの様子をただ見守っていた。心の中は美しい光景を見たという感動ではなく、私たちにとっては見慣れた光景を見て喜ぶヘラを羨ましいと思う気持ちとどうして私と私の父母はこんな風になってしまったのかという慚愧の念にばかり支配されていた。ヘラの保護者である私たちの心は、陽気にはしゃぐヘラとは対照的に陰気で満ちていたのだ。

 天道、善に福し淫に禍す。古く天変地変というものは世に陰気が満ちた折に生じる応報の事象であるという。 

 ならば―――

「あの火事からもう十年か……」

「……」

あの火災によって、ヘラという私たちの宝物が傷ついてしまったのも、私たちが今の姿になってしまったのも、きっと私たちの陰気が招いた罪業であるはずなのだ。

「……ごめんね」

「何を謝る」

「だって、わたし―――」

 だから。

「馬鹿を言うな。いつも言っているだろう。それは私たちが招いた事情であって、決してお前の過失の結果などではない。謝罪なんていらない。して欲しくない。むしろお前は、俺や父さん母さんに対して恨み辛みを吐いていい立場なんだ」

 そう。ヘラがその身に普通とは異なる事情を宿すようになってしまったのは、私たちの犯した罪の結果なのだ。ヘラがその身に今のよう厄介な事情を抱える事となってしまったのは、私たちの監督不行届の招いた事情なのだ。それは決して当時まだ幼かったヘラが抱えこむ必要のない罪悪感なのだ。罪なのだ。

「うん……」

 けれどヘラはそう感じ取っていない。ヘラは己がわがまま言ってこの地にやってきた結果、私たちにとっての最悪の事態を招いてしまったのだと心の底から思っている。信じ込んでしまっている。

 あの日以降ヘラは自ら行動を起こそうとしなくなってしまった。表面上私の指示に文句を言う事はあっても、結局最終的には私の言う事に粛々と従うようになってしまった。

 ヘラはまるで従順な羊のようになってしまった。悲しかった。ヘラのわがままこそが、無欲で無気力の状態に堕ちた私たちを生かす為の原動力だった。弱いあの子のわがままを叶え続ける事こそが、万能に近い力と肉体を手に入れた代わりに生きる意味を見失っていた私たちを生かす甲斐だった。

 そのヘラがいなくなってしまったのだ。私たちの失態がわがままなヘラを世界から消失させてしまったのだ。わがままなヘラの喪失が成長の結果の変化によって起こった出来事というならば私たちも受け入れられただろう。けれどヘラのその変化が私たちの陰気や監督不行届によって生まれてしまった罪故の結果であるというのなら、私たちはどんな手段を用いてでもヘラを元の通りにしなければならないのだ。

 今の時代に生きている私たちは、今の私は、プレートという万能の道具のおかげで万能に近い力を持つ。

 けれどその私たちですら、失せてしまったものを蘇生させる術と時を巻き戻す術だけは持ち合わせていない。

 私たちは私たちの力によって私たちの思い通りになるヘラを求めているのではない。

 私たちは私たちの意図通りには決して動いてくれない自由なヘラを求めているのだ。

「だから、ヘラ―――」

 踏み込まなければ、向き合わなければ、解決しない出来事がある。

「……ねぇ。この話はやめにしよう、兄さん」 

「……わかった」

「ん……」

 けれど、ヘラが望んでいない。

 それがわかるから、今の私には何もできない。

「……」

 雲一つない晴れ空とは裏腹に陰気な空気を纏ったヘラは以降ずっと黙りこんでいた。その沈黙は雄弁に拒絶の意思を表しているよう見えた。推測を事実と示すかのよう、異変が起こったという空の下、ヘラはいつも通りに見知った道だけを選んではゆっくりとゆっくりと進んでゆく―――

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