第2話『ミウミ』(5)


アイオリスの風車塔の内部はまるで井戸の中のような造りをしていた。風車塔内部の空間には何十人もが手を繋いでも一周できない程に巨大で長い一本の金属軸棒がその中央にあった。そんな巨大な中央の軸棒と軸棒から数百人分程も離れて見える遠くの場所にあるのが風車塔の最外壁だ。また、そんな巨大軸棒と最外壁との間には、人が数人余裕で乗る事の出来大きさの板の足場が支えも何もない状態で螺旋階段状に設置されている。

そのよう螺旋階段状に設置された板の上を、徒歩のカミヤは、螺旋階段の横に沿って浮遊しつつ舟で下降するカロンの先導に従って只管に下ってゆく。カミヤの歩き進む速度はカミヤが“足”を用いて進んでいる時よりもずっと遅かったけれど、今のカミヤはまるで気にしていない様子だった。

「あちぃ……」

 きっと今のカミヤにとっては、進む速さよりも風車塔の内部が外よりも更に熱い、たいそう高熱の環境であるという事の方が重要だからなのだろう。或いは、思いもよらず風車塔の内部に侵入してそのような未知の場所を進む事になったという状況が、カミヤに“足”という手段を忘れさせたのかもしれない。

「―――くそあちぃ……」

ともあれ、風車塔内部の外より更に高熱の環境のせいで、カミヤは今、風車塔外部にいた時より汗だくだった。いつも保温と保湿の為に羽織っていた赤いジャケットは今では完全にその役目を失い、長袖の部分を結んで腹へ巻きつけてられてしまっていた。その下に着込んでいたシャツもその長い袖を可能な限り捲りあげられているし、裾もズボンから完全にはみ出させられている。まったくもってだらしない格好をするようなったカミヤはやがて手団扇を扇いで生み出した風を自らの顔や体に叩きつけだしたが、すぐにやめてしまった。

「そらそうだ。なにせこのプレート製の風車塔は今、熱過密状態だからなぁ」

カミヤがそうやって手団扇で扇ぐ行為をすぐさまやめてしまったのはきっと、カロンが今しがた言ったよう、風車塔の中の状態が手団扇作って上下に動かす程度では熱を逃す風を起こせない程に過密且つ高温平衡の状態を保たれている事に起因しているのだろう。炎の中で団扇を扇いだところで到来するのは肌を焼く程の熱風だけであるのとまったく一緒だ。

「熱過密状態?」

「消化不良―――てめぇで処理出来る以上の熱を取り込んでて、熱が多すぎるのさ」

 などと考えている間にあしらいかた覚えたらしいカロンは言いかけた言葉を瞬間的に易しく噛み砕いたものへ変換してからカミヤへと返した。

「熱が多けりゃ多い程に暑くなる。風車塔内部は世界で一番といっても過言でない程の沢山の熱に満ちている。それこそ入り口閉じてそこから数百メートル以上も灯り窓も灯りとなる道具がまるでないところへ潜ってきてもあたりの光景をくっきり見る事出来るくらいにな。―――あぁ、お前さん知らないかもしれないから言っとくが、熱はたくさん集まると明るくなるんだぜ」

「へぇ……」

「ま、この風車塔内でまともに視界が通るのは、大量の熱が満ちているって理由以上に風車塔のプレート自体が足を踏み入れた奴―――俺らみたいなのの為に自動的に調光してくれてるおかげの方がでかいんだがね……っと、そら、着いたぞ。ここだ、ここ、ここ」

応答が終わるとほぼ同時にカロンは立ち止まった。けれど螺旋階段はまだ下まで続いていた。ならばカロンは一体何を基準に着いたと判断したのだろうか。多分はそんな疑問を抱いたのだろうカミヤは、その疑問の答えを求めてだろう、カロンの視線の先へ向けて答えを探す仕草をした。

「これは……?」

そして少しばかりの間彷徨い続けたカミヤの視線は、やがてこの場所より少し離れた、中央に聳え立つ巨大な軸柱付近へと向けられた時に停止した。

「この風車塔のかつての主役―――風車羽の力を鐘へ伝達する為の歯車さ」

カロンは上から長く伸びてきている巨大な軸柱や、軸柱にくっつくように取り付けられている大きな歯車と、その大きな歯車と、組み合わさっているいくつかの小さい歯車の群れを指差しつつ、言った。

「歯車ってぇのは、異なる数の歯車の歯―――、あのギザギザしているところどうしを上手く組み合わせる事で力の伝達方向を変えたり、伝わる力の大きさを大きくしたり小さくする道具だ。あっちの縦向きをしてる歯車は風車羽からの力を上方向へ変換するもので、こっちの横向きの歯車が横向きの力を縦方向の力へ変換するものだ。で、風車羽から生まれる力がやがて歯車で変換されて屋上の広場にあった鐘の方にまで伝わると―――」

 カロンはそこで黙って、カミヤに視線を送る。

「鐘が動く?」

 するとそんなカロンの思惑通りにだろう、導かれるようにしてカミヤは答えた。

「あぁ。だが、見ろ」

カミヤの答えに満足げに頷いたカロンは、しかしすぐ柔らかくなっていた眼差しを固く真剣なものへと戻すと、鋭くなった視線を指先と一緒に下方にある大きな歯車―――の、更に下の方へと向けた。

「うわ……」

カロンの向けた指先と視線の行方を追ったカミヤがそうして大きな歯車の更に下の部分へと視線を移した瞬間、カミヤは驚嘆の声をあげた。

「……舟?」

カミヤが向けた視線の先には、カロンが今乗る舟よりも巨大で立派で帆のついた船が空中に浮かんでいた。

「もう少し正確にいうなら、大型帆船というのが正しいだろう」

眼下にある大型帆船は全体的に白い配色をしていた。大型帆船の大きさはカロンが乗っていた舟と比べると、まるで大型帆船の脇に付属しているとても小さな救命船にしか見えない程に巨大だった。そう。その大型帆船は百人が乗っても問題ない程の巨大さがあり、けれどその一方で軸柱付近にある直径百メートル以下の歯車の影にすっぽり収まってしまう程に小さかった。更にまた、そんな大型帆船の下には真っ黒な闇だけが広がっていた。

カロンは下を見る事もせず乗船していた小さな舟からその身投げ出すと、そのまま自由落下して宙に浮く船の甲板へと飛び乗った。こことあそこには結構な高低差があり、故に、それ程高い場所から飛び降りたのであればその際に生まれる衝撃は結構なものとなるはずだったけれども、その大型帆船は僅か程も揺れる事がなかった。現象はきっとカロンの“足”さばきによって生み出されたものであるに違いない。などと考察するなか、一方でカロンの突然の行為の意図が読めなかったのだろうカミヤが逡巡していると、そんなカミヤのすぐ側にカロンが先程まで乗っていた舟が近づいてきて、止まった。多分は乗れというカロンの意思表示なのだろう。同様の事を察したらしいカミヤは舟に飛び乗り、私もカミヤに続いた。すると舟は待っていましたといわんばかりに動き、カロンのいる甲板向けて下降していった。そして舟はやがて大型帆船の穂先にいるカロンのすぐ側で停止した。

「これが俺のプレートだ。―――俺も昔“足”の操縦が下手くそだったのさ」

 カロンはそれの確認もしないまま、振り向かないままに再び語りだした。

「……え?」

聞こえてきた言葉にカミヤは驚きの声をあげた。きっとカミヤにとっては、出会ってすぐさま己の弱い状態を容易く見抜き、次いで己の為に熱の道を拓いて整え、更には己が知らなかった多くの熱の知識を教授してくれたこのカロンという強い老人がかつては弱かったのだと言うその告白が余程予想外で信じ難かったのだ。

「とはいえ、見せたいものはこんな残骸のお付けの品じゃない。これの下だ」

 カロンは舟上のカミヤの表情の変化を見ると途端に苦笑いを浮かべつつ、指先を真下へと向けた。

「下……―――。…………―――!」

指先の行方を追い視線を向けたその途端、大型帆船は眩い光に包まれた。数舜後、閉じた目を開いたカミヤは、眼下に現れた光景を見て、背をのけぞらせ、目を丸くして絶句した。

「―――熱が……」

大型帆船の真下、闇に覆われているかのように真っ黒だったその空間は今、透明にも白く濁っているようにも見える、膨大な量の熱が満ちていると熱の才能無い者であっても一目で理解出来る空間へと変化していたのだ。

「―――」

 とても幻想的な光景だった。満ちる光はまるで海水のようだった。光は大型帆船の喫水線の上と下において、濃度が違う状態にあり、あちらの方が明るかった。光の濃度が違っているのは、あちら側とこちら側の熱量差によるものだ。あちらの熱量はこちらと比べ、比較にならないくらい膨大なのだ。大型帆船はそんな膨大な熱量が生む光の上に、まるで水の上に浮くよう喫水線から下の部分を高熱の光の下に沈めて佇んでいた。

「すげぇ……」

想像を超えた光景には問答無用の迫力がある。目の前にある膨大な熱量と光景が生み出す迫力に意識を奪われしばらくその光景を呆然と見つめていたカミヤは、やがてそれでもなんとか絞り出したという風に呟いた。

「そうさ。何せここにはこのアイオリスの周辺の天候全てを完全に操る事の出来る熱量が保管されているからな。そりゃ他所では早々お目にかかる事が出来ないすげぇ光景である事に間違いはないだろうさ」

一方でカロンは先程までとまったく変わらない様子のまま、足下の高熱空間を指差しながら続けた。

「―――」

カロンが説明するさなかにも、無言を貫くカミヤの目が下方にある膨大な熱量収められた空間から離れる事はなかった。人は本当に凄いと思う光景を目の前にした時、まともな言葉を発する事もその光景から目を離す事も正常に物事考える事すらも出来なくなってしまうものなのだ。今のカミヤの意識がそんな一般の人々と同様に、完全に下方にある膨大な量の熱が生む光景に囚われてしまっているのは明らかだった。

「そう。託された願いを果たす為、或いは、星のこの周囲一帯の環境を一定に保ち人を生かすという目的の為、万難を排し、周囲の熱を片っ端から吸収し、運用し、稼働し続ける」

けれどカロンは気にせず続けた。

「これがプレートだ」

見て、聞いて、なるほどこれはわかりやすいと感心させられた。カロンの言う通り下方に見えるあの光景は、本来なら視認不可能なプレートの内部を視覚化したかの様な光景といっても過言でないだろう。

「これがプレート……」

カミヤのよう、ある分野において才能や研鑽が足りない相手にその分野の本質を正しく理解させたいのなら、千のかみ砕いた言葉を積み重ねて説明するよりも、そんな説明行為を万回以上重ねるよりも、たった一つだけ、対象となる物事を突き詰めた際に生じる、才能や研鑽が足りていないその人の想像を遥かに超える光景や現象を見せつけてやればいい。百聞は一見に如かず、その人の人生の枠組みの外側に存在している想像を超える光景や現象というものには往々にして有無を言わさない説得力と迫力があるものだ。

「すげぇ……」

 そんな先人の知恵知識経験に基づく教えの正しさを示すかのよう、今のカミヤはすっかり今までの己の常識を遥かに超える眼前の光景の虜となってしまっていた。

「さっきも言った通り、風車塔も昔はこんなじゃなかったらしいのさ。風車塔内部は羽を回して鐘を鳴らす為に必要な支えや機構がぎっちり詰まっていて、窓も灯りもないここはもっと真っ暗で、大量にある支えの金属棒や歯車が格子のようなっていてさっと移動するなんてとても出来る様じゃなかったっていう。けど―――」

一方でカロンは、カミヤの思考も行動も停止させる程の熱量を前にしてもその表情変える事が全くなかった。それどころか言葉を続けたカロンはやがてゆっくりとした動作で瞼を落としてゆくと、そのまま目を細めた後に表情を胡乱気なものへ変化させ、更にはうんざりといった感じの表情浮かべつつ首をゆっくり左右に数度振ると、一つ大きく長く重苦しい溜息を吐いたのち、それでも語らずにはいられないといった様子で再び口を開いた。

「プレートを埋め込まれてから、風車塔は変わった。鐘の音で強風や大雨を知らせるどころか、周囲の熱を吸収、放出する事で、広範囲の天候を操る事が出来るよう―――、熱で天候を操作出来るよう、変質させられた」

「熱で天候を操作する―――」

一方でカミヤはカロンのそんな様子に気付かないまま、まるで抜け殻になったみたいに下方を見つめ続けつつカロンの言葉を復唱した。その目や口はいつもより大きく開かれていて、顎はいつもよりも少し下がっていた。それらの所作は即ち、今のカミヤがすっかり目の前の光景に―――突如として現れた膨大な量の熱の迫力の虜になってしまったという証だった。そうしてまさしく魂抜き取られたという形容が正しく感じられる今のカミヤの態度や所作からは、すっかりいつものふてぶてしさが抜け落ちてしまっていた。

「―――すげぇ……」

まるで壊れた機械のよう同じ言葉を繰り返すカミヤは、カロンの話の内容をまるで疑っていない様子だった。きっとカミヤは、眼下にある見た事ない程の膨大な熱量に、カロンが語る話の内容に嘘偽りがない事を直感的に理解させられたのだ。けれども今のカミヤには果たしてどうやれば熱で天候を操作するなんてそんな途方も無い所業を実現する事出来るのか想像もつかなかったのだ。そう。想像を超えた物事には問答無用の説得力がある。即ち、カロンが述べる話の内容や目の前の光景はどれもカミヤの持つ知識と想像と理解可能の範囲を超えていて、だからこそカミヤは今こうして魂消させられ、疑いを持つ事すら出来ず、カロンの言葉を反芻するしか出来なくなってしまったのだろう。

「この風車塔はその時から他人の手を必要としなくなったんだ。プレートを得た風車塔はそうなった瞬間から、修理も修復も修繕も他の誰の手を借りる事なく単体で行えるようにすらなり―――」

けれどカミヤのそんな魂消た陶酔状態に気付きもしない様子のカロンは、やがて閉じた目をゆっくり開くと、どこか遠くを見つめるよう瞳の焦点どこにも向けられていない様子で上へ向けた目を細めつつ、言葉を続けた。

「―――やがて世界から孤立した」

続くカロンの口調は、抑揚がなく、平坦で、落ち着いた調子のものだった。けれどその静かな口調の中には、他の誰が聞いてもそうであると首肯するだろうくらいの寂寞さが含まれていると感じられた。

「プレートを得て熱操作が単独で出来るようになったアイオリスの風車塔はもはや誰かの助けなど必要でない。誰との繋がりがなくたって単独己の力のみで己を存続させ続ける事が出来る。だから放置されるようになった。手が掛からない良い子だねといわれるよう放置され、一途に求められた役割を果たすその間にそんな役割すらもこの世界から不必要なものとなってしまい、やがて疎ましがられるようなってしまった」

 カロンはもうカミヤとの会話の為に言葉を生み出していない有様だった。

「わからなくはない。老人は若者に疎ましがられちまうもんなんだ。口煩く文句ばかりをいう頑固な年寄りより素直で話を聞いてくれて変化の余地がある若い方をありがたがる気持ちだってわかる。既に自分より大きな力や知識を持っていて自分の助けを必要としない奴にわざわざ何かしてやろうと思えないのだって理解出来るんだ」

それはもう、プレートや風車塔の解説でなく、カロン自身の独白だった。

「わかるんだ。俺だってそうだった。老いた奴よりも若い奴の方がいい。愚痴る暇があったら行動した方がいい。その理由はわかるし、そいつには有用だけれど大勢にとっては異端で有用ではないやり方がありがたがられない理由もわかる。愚痴ったところで世界が自分の思い通りに変化してくれる事なんてまずありえない。そんな妄想ただの熱と時間の浪費行動だ。無駄遣いだ。どれだけ愚痴ったところで、都合のいい妄想繰り返したところで、老いた存在よりも若者の方がありがたがられるっていうその真理が、人のそんな心理が変わるなんて事はない。そんな理屈わかるし、そんな理屈がわからない程愚かでも耄碌しているつもりもない。ない、が―――」

わかるわかると誰か―――きっと、自分自身―――に言い聞かせるよう何度も何度も本来ならば首肯の言葉を繰り返し続けたカロンは、やがて固く強く握りしめた二つの拳を近づけさせると、のち、瞼を強く硬く閉じて、口を窄めさせ、強く歯を噛み締めているのだろうと一目でわかる程に上下の顎に力を入れ、離れたこの場所にも聞こえるくらい大きく歯を軋ませたのち―――

「―――っ、悔しいじゃないか!」

高く上げていた両腕を振り下ろすと共に激昂した様子でおもいきり地団駄一つしつつ、大きく叫んだ。地団駄によってだろうカロンの足元にある大型帆船が大きく揺れ、また、咆哮に含まれていた熱両の影響によってだろう周囲の大気が小さく震えた。

「……!」

それらの大声と眼下の大型帆船の大きな揺れと大気の小さな振動によって意識を取り戻したのだろうカミヤは、慌てた様子でカロンの方を振り向くと、先程までとはまるで異なる種類のものとわかる驚いた顔を浮かべた。

「誰かの都合で勝手に生み出されて、才能ないよう見えるからと勝手に力を与えられて、必要なくなったからと勝手に見切って切り捨てて―――、お前らは一体何様なんだ!」

カロンは再び地団駄を踏みつつ咆哮する。その様子はまるで、欲しかった遊具が手に入らなかったと泣き喚く子どものようだった。今のカロンからは先程までは確かにあった年齢相応の威厳が完全に霧散してしまっていた。

「俺を憐れむな! 俺を見縊るな! 俺を見下すな! 俺を……この俺を、馬鹿にするな!」

それはもはや駄々と変わらなかった。けれどその駄々が同時、彼の魂の咆哮である事に違いはないと思った。だってカロンが叫ぶたび、動くたび、周囲に熱が撒かれ、大気が小さく揺らぎ、大型帆船が大きく揺れるのだ。その都度にカミヤは身を揺らし、右腕を前に突き出してカロンが生み出した熱を奪い、乗る舟が転覆しないよう調整する事を余儀なくさせられてしまうのだ。

「馬鹿にしやがって! 馬鹿にしやがって! 馬鹿にしやがって!」

カロンは大きく咆哮する。カロンは何度も地団駄を踏む。カロンの声と地団駄によって発散されるその熱量は、カミヤがハーシェルからこのアイオリスの風車塔に至るまで“足”を用いて来た熱量よりもはるかに多かった。

「勝手に俺に与えるな! 勝手に俺から奪うな! 勝手に置いていくな! 勝手に納得するな! 勝手、勝手に―――勝手に! 勝手に! 勝手に、俺の―――!」

けれどカロンのその、今のカミヤからすれば膨大という枠にすらも収め切れない程の量の熱が込められている叫びや地団駄はけれど、プレートによって構成された風車塔内部の世界―――大気にわずかな揺らぎや風を生む程度の影響を与える事しか出来ていなかった。カロンの大きな叫びや地団駄の持つ熱量に大きく反応したのは、カロンのプレートである大型帆船やカロンよりも弱い今のカミヤだけだった。そう。カロンの持つ熱量程度では、この世界の安寧は、それを調整する一躍担う風車塔の中の平穏は崩れないように出来ているのだ。

「俺は……」

自らが全力で発した熱でも自分のプレートが属する存在以外にほとんど影響を与える事が出来なかったという事実にきっとこれがお前の限界だと告げられたよう感じたのだろう、カロンの声の勢いは一気に萎んでしまった。伴い、カロンの表情は憤怒のそれから苦悶と呼べるものへ変化していった。唇は歪み、眉間に深い皺が生まれ、大量の熱が溜め込まれた両腕が勢いよく振り上げられ、けれども発散される事なくゆっくりと下されていった。

「俺は―――」

言葉を詰まらせたカロンは直後、全身を震わせた。下げられた両腕の先にある拳は、再び、左右のどちらもが固く握りしめられていた。その様子はまるで噴火直前の火山のようだった。

「気づかされてしまった!」

やがて震えるカロンの顔が溜め込まれた熱によって真っ赤に染まったその時、我慢が臨界点に達したのだろうカロンは大きな声で吠えた。今のカロンの顔の赤さと必死の態度と周囲へまき散らされた熱量から推測するに、今のカロンは先程までよりも抱えている怒りの量が更に多くなっていると感じられた。

「俺の―――」

しかしそれでもカロンの激情は、熱意は、プレートに、今の世界に、風車塔の内側に、たいして大きな変化をもたらさなかった。やはり大気は先程と同じくらいしか揺れなかったし、吹いた風もまた同様にわずかだった。

「俺の代わりなんていくらでもいる!」

そんな光景を見て、微風を肌で感じたのだろうカロンの声は更に大きくなった。それは、溜め込み、溜め込み、溜め込み、溜め込んで、限界一杯に溜め込んでようやく表に出した激情の熱を用いてさえもカロンという存在は世界に大きな変化を起こす事が出来なかったという現実にカロンが傷つけられてしまった証のよう思えた。

「どうして俺はこんな程度の屑星に生まれてしまった!」

カロンはそれが自傷になるとわかりながら、己の理想と現実の差異について叫ぶ事を止められないようだった。

「どうして俺はプレートなどという万能の道具が当たり前のように存在しているこんな息苦しいだけの時代に、プレートをまともに扱える才能を持たず生まれ落ちてきてしまった!」

現実と理想の不一致から生じる差に身や心を焼かれる事を、苦悶という。また、野生の命にとって苦悶とは、如何に熱の飢餓状態から逃れつつ自らの熱を後世に残すかと言う問題に等しいものだ。

例として一般の動物の生涯を思えばわかりやすいだろう。彼らの苦悶とは即ち、如何に安全な場所を得るか、如何に食料を得るか、如何に己の熱―――命を奪おうとする敵に対処するか、如何に自らの子孫を残すか―――如何に己の熱を残してゆくかという問題に集約する。

同様の問題を、優れた道具により一般の動物が抱えているそれらの苦悶を、今でこそプレートによって完全に解決出来るようなった人間もかつての時代には抱えていた。

「この時代の誰もが俺の力を必要としていない! 誰も―――誰もだ!」

 苦悶の問題は人間の場合、絶対に解のない問題であり続けるはずだった。何故なら人間の場合、苦悶の問題を完全に解決するには、誰もが平等に完全な安全を、食料を、己の熱を残す手段を、その為の力や熱量を得る事が出来る状況―――即ち、完全平等社会を完璧に作り上げなければならないからだ。

 社会というものを構築する生物である人間にとって、たった一人であっても条件を満たさない存在が生まれてしまえば、それが苦悶の源となる。けれど人間を含む全ての動物は必ず肉体や才能に差を持って生まれてくる。個人の持つ肉体や才能によって分野ごとの得意不得意の差がある以上、また、生まれ落ちた環境、生まれてから育つ環境に差が生じる限り、誰もが平等に完全な安全や食料や己の熱を残す手段やそれらを得る為に必要となる力や熱量を得る事が出来る状況など、そんな社会など作り上げられるわけがない。

 かつての時代、人間はこの苦悶という問題の答えとして『共存共栄』という解を長い間君臨させ続けてきた。何故なら『共存共栄』が、安全と食料と己の熱を残す手段を確保する事とそれらを実現する為に必要な力や熱の確保の効率に最も優れ、また、それの実現の為に多くの人を必要としたからだ。故に『共存共栄』という答えは長年人間の苦悶の解として君臨し、以降も永劫にわたって人間の苦悶の答えとして君臨していられるはずだった。人が人である限り、個人の持つ肉体や才能に差がある限り、生まれ落ちた環境や生まれ育つ環境に差がある限り、人間の苦悶の答えは『共存共栄』であり続けるはずだったのだ。

「誰にも必要とされない人生に何の意味があるんだ!」

けれど理想と現実がプレートという橋で繋がれた今、事情は一転した。

「そんなつらい現実だけの世界に、誰が産み落としてくれと頼んだ!」

今の時代、人間は大人となったその瞬間からプレートという万能の道具によって全ての差が失われる。

「どうして世界にはこんなに余地がないんだ!」

その瞬間から全ての人間は、餓えない、死なない、能力の差がない、ありとあらゆる環境にすら適応可能な、他者の助けを一切必要としない生き物へ変化する。誰の力も必要としない生き物に変化し、苦悶の問題はもはや誰にも必要とされない自らの命の熱を何の為に使うのかと言う問題へと切り替わってしまうのだ。

「そうだ、余地がないんだ! 人間は現実と理想の差を想像と行動で埋める事によって文明の針を進めてきた! 進歩とは現実と理想に差を埋める行動の名だ! 現実と理想の間に、人と人の間に埋め難い差があるからこそ、進歩は生まれて来た! 人間は現実と理想の差を埋める為、自分と他人との間に広がる差を少しでも縮める為、事前に知識を収集し、想像の翼を広げ、行動し、行動し、行動し、行動して、多くの苦しさを解消してきた! 人間は今と未来に差があるからこそ自らをそんな未知なる場所へ到達させる為に歩み続けられてきた! けれどプレートという存在の登場で、理想と現実の間に、人と人の間に差がまるで生まれなくなった! 誰もが他人と同一存在になれるようなった! 理想と現実が完全に一致した! 差が、余地が、完全に失われてしまった!」

人間は突如として、苦悶の答えを自助努力で見つけ出さなければならないという事態へ陥ってしまったのだ。さなか、やがて人間は自分の力で苦悶の問題が解けない事を悟ると、今のカロンのよう現実から目を背けつつ、言葉を弄しては愚痴るか、或いは、苦しみ悶える事に耐えかねて砕けて散る人ばかりとなっていってしまった。

「俺はもう必要とされていない!」

カロンが見出した苦悶の答えとは、かつての時代の人たちと同じく、今の時代に生きる多くの凡人と同じく、他の誰かに自らの力を必要とされる事―――即ち、『共存共栄』だった。

「俺には突き抜けた才能がない!」

けれど世界は、プレート時代に生きる人々は、プレートの中の積み重ねられてきた知恵や知識や経験を超える能力や才能を保有していないカロンのような凡人の力を必要としていないのだ。彼らが欲しているのは、人類が長き間に積み重ね続けてきた知恵や知識や経験を超える新しい何かを生み出せる、伝説の英雄の如き存在なのだ。『共存共栄』において積み重ねられてきたものを遥かに超える新しい解答であり、それを生み出せる個人なのだ。

「俺はその他一般の括りにまとめられてしまう側の人間だった!」

このカロンという年老いた男は、まさに多数の凡人の成れの果てなのだ。きっとカロンもプレートの中に保管されている数多の才人同士の研磨研鑽によって改善され続けてきた知恵や知識や経験を前に、自分にはそれらを凌駕する才能は宿っていないと、力がないと、己を見限ってしまったのだ。

「俺の熱は誰にも必要とされていない!」

カロンは、自分の為だけに自分の命を必要としてやる事が、過去の功績を超える熱の使い道を見つける事が、どうしても出来なかった。プレートの力を使いこなせるようなったカロンは、プレートの中にある膨大な知恵と知識と経験を前に、カロンという男の肉体にはプレートの中にある大量の知恵や知識や経験―――今まで人類が積み上げてきた過去を超える新しさを生む才能や適性がないと、心底確信してしまった。

「なら俺は今いったい、何のために生きている!」

プレートがカロンから苦悶の答え『共存共栄』を、命の答えを取り上げた。プレートという補助器具が広まり、食事、運動、生殖、競争といった、かつての人々が背負っていた苦労をこなさずとも生きてゆけるようになった今の時代、カロンは、老いた己という存在がもはや進歩の階段の最先端にいる、誰からも必要とされなくなった、無価値に生きて無意味に死んでいく存在になのだと考えるようになってしまった。

「プレートは何で俺を生かす! 何で自分の目的の為に生きる熱意も他の誰かの為に自ら死する度胸もなければ新しい何かを生み出す才能もないこの俺を、プレートは生かす! なんでこの俺はこんな風に息苦しい世の中に生まれてきてしまった!」

形を変えて繰り返されるその言葉はきっと、カロンの苦悶の原点だった。

「必要とされてないのに生き続けるのなんて、苦しいだけじゃないか!」

必要とされたい。応じられたのならば応えたい。けれど助けを必要とする存在は今の時代に存在していなくて、例えばまだ年若くプレートの力を十全に使えない子どもならば力を必要としてくれる事もあるだろうけれども、カロンや他の誰かが力を貸す程に彼らが大人に近づくまでの―――息苦しさ覚えて苦しみだすようになるまでの時間は短くなってしまうから、彼らの時計の針を早めて苦悶抱くまでの時間を短くする真似が、それがどれ程の苦しみであるかを理解しているカロンにはどうしても出来なくて。

「必要ないものに熱と時間を注ぎ込んでどんな意味があるっていうんだ!」

老いたカロンは己の幸せの為だけに子どもたちの幸せを奪う事が出来なかった。カロンは相手の迷惑になるとわかっている物事に対して情熱を注ぎ込む事が出来なかった。カロンはそれが相手の負担になるとわかっている物事に対して厚顔無恥の態度でそんな事情を無視して悦に入る事が出来ない人間だった。カロンは徒労と苦悶が嫌いなどこまでも普通の凡人で―――、今の時代にはどこにでもいる、ただの老いた善い大人だった。

「でも、なら俺は―――、プレートは何でこうも誰にも必要とされない熱を望んでもいないのに取集して俺を生かし続けるんだ! 俺たちは何の為に、こうして何の意味もないままこうして徒労のような苦悶の生涯を―――」

良識がカロンの櫂にまとわりつくヘドロだった。身に過ぎたる知識と熱は身を動かなくする魔性の泥だった。尚も紡ぎ出され続ける言葉は間違いなくカロンの苦悶の証であり、もはやこれ以上他人の常識と熱に満ちている世の中を歩けないという悲鳴に、助けを求める声に、相違なかった。

「苦しさを抱えたまま生きたくない! けれど、全てにさっぱり諦めつけて死んでしまう事も出来なかった! 自死を選べる強さすらをも持っていなかった! ―――強欲さと生き汚さだけは一人前以上にあった!」

カロンは知識先行型の人が罹患しがちな哲学の麻疹にかかっているのだ。思うに、カロンが放つ言葉はきっとカロンの真意の言葉ではなく、カロンの持つ過去の優秀な誰かが導き出した知恵や知識や経験によって作られたフィルターに今のカロンが抱えている思いが片っ端から代入された結果、助けて欲しいという悲鳴すらも絶望の言葉として変換されて噴出しているだけに違いないのだ。

「醜い―――、なんて醜い! 汚い! 見苦しい! ―――けど死ねない! 死にたくない! もうだめだ! おしまいだ! こんな熱いらない! こんな熱欲しくない! 違う! そうじゃない! 俺が欲しいのは―――、俺が本当に欲しかったのは―――!」

 カロンの出鱈目に聞こえる言葉からは苦しいという想いや助けて欲しいという願いがひしひしと伝わってきた。狂乱し悶える様子からは、カロンが多く懊悩抱えて生きてきた事が、己の生涯が徒労だったと思っている事が、己の苦悶解消する答えを得たいという想いが、痛いくらいに伝わってきた。

「俺は―――、俺は―――!」

もうきっと私が何を言っても無駄だろうと思った。人間こんな狂乱状態に陥ってしまった場合、耳に聞こえるあらゆる言葉が自分を責め立てるものであるかのよう聞こえてしまうという知識を私は持っているからだ。

「―――カロン」

けれど。

「アンタと、プレートの事情はよくわかった」

そんな知識まるで持っていないカミヤは、馬鹿で愚かで弱くてプレートの力を未だ十全に使えないカミヤは、狂乱し苦しみ悶えるカロンの懐にずかずかと踏み込んでいった。

「アンタが自分をどう思っているのかは、よく分かった」

 カミヤの口調は平坦だった。

「アンタが世界やプレートを嫌ってるって事も―――」

けれどカミヤの言葉からは、固く握りしめた両拳から、震える眉間や眉から、カミヤが努めて胸の内に生じる怒りを抑え話しているという事がひしひしと伝わってきた。

「アンタが自分の力を認められないってのも、よく分かった」

 カロンは呆然とした様子でカミヤの事を見上げていた。

 カロンはなぜカミヤが怒っているのかまるで分らない様子だった。

「アンタのその力がないって嘆きは、俺にも痛いくらいに理解出来る」

けれど、私にはよくわかった。

「―――とりあえずさ」

カミヤはカロンの事を、強い人と認めていたのだ。

その力を、その言葉を、その存在を、自分のそれらよりも上の力を持つ存在だと認識していたのだ。

尊敬していた。敬意を抱いていた。超えてやりたい存在だと思っていた。

けれどカロンはそんな己を否定した。呪う言葉を吐いた。自らの命と力を不要と断言した。

生きているべき存在でないと言ってのけた。

カミヤは弱い存在が嫌いだ。

カミヤは強者は弱者よりも偉いと思っている。

カミヤは弱者は強者に何をされても文句を言えない存在だと思っている。

カミヤは強者の言葉は弱者の言葉よりも正しいとそう思っている。

そしてカミヤは今、今の己はカロンより弱い存在だと考えている。

だからこそカロンの悲鳴はカミヤからすれば、己を否定する言葉としてしか聞こえなかった。カロンの悲鳴はカミヤにとって、お前の存在は、お前の生き方は、無価値で無意味で徒労に等しいと言われているに等しかった。

カロンの語りはカミヤにとって、カミヤの全ての否定しているよう聞こえた。だからカミヤはカロンの論理を、言葉を、生き方を、否定を、哲学を、思想を、絶対に受け入れられなかった。

「カロン、アンタ―――」

それはカミヤにとって、絶対に否定しなければならないものだったのだ。

だからカミヤはこうも敵愾心露わな表情を向けているのだ。

だからカミヤはこんなにも今にも爆発しそうな声をしているのだ。

だからカミヤの拳は甲に骨が浮き上がる程硬く握りしめられているのだ。

だからカミヤの体は小刻みに震え続けているのだ。

だからカミヤの髪は逆立つほどに元の位置より引き上げられているのだ。

「―――その熱、要らないんだよな?」

カロンの生み出した舟上、湧き上がる怒りの全てを全身全霊で抑え込み平静の態度と口調を維持し続けていたカミヤは、やがてカロンの大型帆船とその下に広がっている膨大な熱量に満ちる空間を交互に見やりつつ言った。言葉には熱がこもっていた。カロンは全く返事を寄越さないまま黙りこくっていた。

「なら、俺が貰ってっても文句はねぇよな?」

言うや否やカミヤは呆けるカロンを無視して舟から飛び降りていった。カミヤの行動はまるで雷のようだった。あっと思った時にはもう既に行動へ移されていて、気付けたのはその行為が終わった後だった。

「え、―――は?」

それを見たカロンが間の抜けた顔で短く驚きの言葉を発した。さなかにもカミヤは重力に従い落下していた。カミヤはやがて空中で器用に身を捻ると己の頭と足との位置を逆にした。上下が天地に対して通常と逆になったカミヤはそして右腕を頭の前―――すなわち下方、大地の方へ突き出すと―――

「いらねぇってんならここの熱は全部俺がいただいてく!」

宣言と共にカロンの大型帆船の下方にある膨大な熱に満ちた空間へと開いた右掌を叩きつけた。直後、耳を劈く大きく甲高い轟音が周囲へと鳴り響いた。音色はまるでカミヤと熱との戦闘の開始を告げる鐘の音のようだった。


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