第2話『ミウミ』(4)
高気圧と低気圧の間に作られた風の通り道を抜けてゆく。道すがら眼下にずっと見えている風車塔の天辺は、数百人の人間をその内部に呑み込んで尚もあまりある大きさの巨大な鐘を中心として作られたひらけた空間だ。数十人が肩車しようと届かないだろう天井と床の間、千人でも余裕で収納出来るだろうそんな空間の中央には、かつての熱とプレートがない時代には万人以上が力を合わせなければここへと移動させる事が難しかっただろう巨大な鐘が吊り下げられている。また、風車塔の屋上の地面の隅っこには、その巨大な鐘を鳴らす為に作られたという風車の大十字や小十字の一翼の一部が見えている。巨大な鐘を鳴らす為に作られたというそれら風車羽もまた、風車塔の屋上にある巨大鐘と同じかそれ以上巨大に作られている。
「おう、こっち、こっち」
風車塔屋上にある鐘の最外周円のすぐ側では、一足先に屋上の地面へと降り立ったカロンが手を振っていた。カロンが立つ巨大な鐘の最外周円の近く、風車塔の天辺地面と地面を覆う天井との間にある巨大な鐘の為だけに存在しているその空間は、積乱雲の中心、台風に目にあたる場所に位置しているというにも関わらず、高気圧が保たれていてからっとしている無風地帯だった。
通常、台風の目にあたる場所は極低気圧の状態であり、上昇気流と下降気流の入り乱れる場所であるはずだ。そんな事実から推測するに、この自然法則に反する状況が人為的に整えられたものである事は疑いようもない。そしてまた塔の本来の機能から考えるに、この反自然状況を作り上げたのはおそらく過去にこの塔を作り出した人たちであり―――、この反自然状況はおそらく風車塔自身の機能によって当時から保たれ続けているのだろう。
そんな風車塔の屋上空間へとカロンが事前に整えてくれた高気圧と低気圧の谷間の道を突っ切って、手招きに吸い寄せられるようカミヤは最短直線を進んでゆく。鐘の最外周円のすぐ直下に佇んでいるカロンは、カミヤが自らの声の届くと思われる位置にまで接近したのを確認すると、にっ、と人懐っこい笑みを浮かべた。
「なんとなく推測出来ると思うが、このデケェ鐘がこの場所にアイオリスの風車塔が建てられた理由だ」
カロンの指差と呼称がカミヤの意識を、改めて己の頭上にあるアイオリスの風車塔の象徴の一つとして有名な巨大な鐘へと誘った。視線をゆっくりと上げて言ったカミヤはやがて口を開くと―――
「でけぇ……」
呆然とした様子で言った。見上げた先にある巨大鐘は、カミヤを放心させて素直な感情を引き出すだけの迫力があったのだ。カミヤは視線をそのまま直上の鐘の内側側面から鐘の内側にある広い空間内の方へ移動させると、やがて鐘の内側の頂点中心部分へと移動させたのち、達した後には鐘内部の上部から屋上広間の中央の床にまで伸びる金属の棒に沿って下の方へと動いていった。
鐘内部の中央と屋上の床を結んでいるその金属棒は舌と呼ばれるこの鐘を鳴らす為のものだ。風車塔の鐘は、その身を内部の舌ごと大きく揺らす事で内部の舌を鐘の内側の壁面へと打ち付けて周囲に音を鳴り響かせる種類のものだったのだ。
「膨らんでる……」
一方で鐘の鳴る仕組みどころか鐘そのものを知らないカミヤは、無論、目の前にある金属製のその舌を見てもそれがなんであるのかわからなかったのだろう、疑問顔を浮かべた。
「動かない……、いや、でも、『動いていた』……」
それでもカミヤはカロンから教わった『かつてはこの鐘も動いていた』という言葉から、眼前にある鐘の舌がおそらくかつての時代には動いていたものなのだと推察、理解したらしく。
「もしかして、この変な形の膨らんでるのも一緒に動くのか?」
カミヤはカロンへ質問の矢を飛ばした。
「鐘とは若干揺れのリズムがズレるけどな。―――上昇気流の利用式なれど、その造りは円筒式でも可変形状翼垂直軸式でもなく、それよりも更に古典的な、方位制御用小型風車付き四枚羽!」
カミヤから質問を受けたカロンは少しだけ照れたよう頬を指先で掻くと、けれども直後に、突如芝居がかった口調と態度にて叫び、次いで柏手打つような仕草で両手を叩き合わせると、更にその両腕を左右に大きく広げ、まるで演説でもするかのような格好で誇らしげな表情のまま続けた。
「羽の数は四枚と最低限なれど、一翼百メートルを越すわずかに斜め向いた巨大羽は、朝方と夕方の強い時化の上昇気流にて発生する風の力を余さず力学的エネルギーへ転換し、朝と夜とが切り替わる時に叩きつけるような強風や大雨が到来するだろう場合、己の周囲広くへとその事実を告げる為、荘厳な音色をばら撒く!」
カロンの叫びには周囲の乱気流切り裂き押しのける勢いと熱量があり、熱い口調にて語られる知識はカミヤが今までに持っていない新しいものだった。
「おぉ……!」
だからだろう、カロンの語りを十分には理解出来ていないだろうカミヤはけれど十分に理解出来ていないままその新しい知識を無条件にそのまま正しいものとして受け入れようとして―――
「―――らしいぜ」
「―――は?」
けれども続いた不確かを意味する言葉にその無条件の受け入れの行為を阻害されて、不機嫌そうに眉を顰めた。
「おい、カロン。らしい、ってのはなんだよ」
眉間の皴をさらに深くしつつ、カミヤは問いかける。
「少なくとも俺の持つプレートの記憶にはそう残ってるんだがね。だが生憎俺がこいつを見つけてから数十年、俺はその間一度たりともこの金の音色を聞いた事がないんだ。だから、『らしい』、なんだ。―――昔はこいつも澄んで綺麗な音を広く響かせる事から、『ヘル』なんて愛称で呼ばれてた事もあったらしいんだが、後年の方では『リーベ』なんて蔑称の方で呼ばれ事の方が多かったらしいからなぁ」
「ヘル? リーベ?」
「ヘルはどこかのばか古い言葉で『明るい』とか『晴れ渡った』とか『澄んでる』とか『淡い』ってな意味で、リーベは同じ古い言葉で『愛』って意味だ。昔、この鐘が大きく鳴り響いた後にゃあどしゃぶりの大雨が来て、けれどその次の日の朝、それはそれは見事に晴れた景色が広がったらしい」
カロンは目線をカミヤから鐘へと移しつつ続けた。
「だから、ヘル。―――でも今じゃあ、鐘は鳴らねぇし、風車は羽が動かねぇし、風車塔の周囲にはいつだって基本的に鬱陶しい積乱雲が纏わりついてって、澄んだ晴れ間なんてまず見えやしねぇ」
カロンは目を細めつつ、遠く見るような眼を浮かべつつ、言う。
「―――で、リーベってのはさっきも言った通り、ヘルと同じ種類の言葉で愛って意味だ。でもって鐘ってのは景気良く音を周囲にばら撒くから、かつての古い時代にはガチョウとか聖人とか貧乏人とか年寄りとか女とかの口のうるせぇ奴に例えられる事が多かった。で、それを知った皮肉思考の奴がある時、この風車塔を、溜まった想いをいつまでも吐き出せず、代わりといわんばかり周囲に溜まりに溜まった不満と鬱憤を形にしたかのような湿気った空気を撒き散らすもんだから、恋に恋して行き遅れちまったオールドミス……、リーベって呼び出して、以来まぁこの風車塔はそんなリーベとかいう蔑称じみた呼び方されるようにもなっちまったのさ」
鐘を見上げつつ語るカロンの瞳はけれども遠くに向けられているかのように焦点が合っていない様子だった。遠くを見るようなカロンの老いた顔のその瞳は、とても若々しく見えた。羨望の色に染まっているよう見えた。渇望の色に染まっているよう見えた。切望の色に染まっているよう見えた。熱望の色に染まっているよう見えた。夢見る乙女のような瞳を浮かべるその様子に、カロンはきっと今、想像の世界へ旅立っているのだと思った。
他の誰かとの話の最中であるのにもかかわらず突如己の想像の世界へと旅立ってしまったカロンの様を見て、きっとカロンはこれまであまり自らの夢を叶える事が出来てこなかったのだろうなと思った。
想像とは夢と現実の間にある差が大きい時に起こる現象の名だ。叶えたい夢があり、けれど今の自身の力ではその夢を叶えられないという現実が目の前に立ち塞がった時、人は己を想像の世界の中へ旅立たせるようになる。己の想像の世界の中であれば、過程に発生するあらゆる難題を解決して夢が叶ったという結果を得られるからだ。
一方で、現実に満足している人や現状に多く不満を抱いていない人は、そう易々と想像の世界へ旅立たない。当然だ。現実の方が優れているのに、夢がすぐさま叶う状態であるのに、想像の世界へ旅立つ理由なんてない。それが現実には到底叶わない夢であるからこそ、或いは、夢を叶えてきたという経験がほとんどないからこそ、その人は想像という、即ち、現実においては立ちふさがるあらゆる障害を完全に無視して夢を叶えられたという結果を容易に得られる世界へ旅立ちやすい状態へ陥ってしまうのだ。
そう。だから即ち、目の前に誰か他人がいて、その他の誰かと話をしていたというのに突如として己の意識を想像の世界に送るなんて事をするのは、その人が余程現実や現状に不満を抱いている証拠といえるだろう。
そう。おそらくカロンはかつて大きな、或いは多くの夢を抱き、けれどそして抱いた大きな夢を、多くの夢を叶えられないまま過ごしてきた。そしてまたカロンの夢の一つはおそらく、この風車塔と関連するものだった。だからカロンはカミヤに風車塔の事情を語っている折、自らの言葉によって己が勝つ手に抱いた夢や、その夢を叶えるに必要な理想と現実との差を思い出し、突如として現実世界から想像の世界へと旅立ってしまったのだ。
「……?」
一方、突然会話から置き去りにされたカミヤは、己の作り出した想像の世界の中に意識を置いているのだろうカロンに不思議そうな眼差しを向けていた。きっとハーシェルという断絶環境でずっと過ごしてきたカミヤには、カロンの今の所作が己も自宅にいる際にはよくしていた想像の旅に出ている姿であるとわからないのだ。
「アンタ……、数十年もここに住み着いてんのか?」
だからだろうカミヤはそのよう感傷に浸っているカロンの事をまるで気遣う様子見せないまま、いつものよう無邪気に己の疑問を解消する為の行動を起こしたに違いない。そんなカミヤの一切空気を読まない発言によって己の想像世界の中から現実の世界へと引き戻されたカロンは、多少戸惑う様子をみせはしつつもすぐさま現状を把握したのだろう、カミヤを見返したのち、強引に笑みを作って浮かべた。
「おうよ、珍しいだろう? なにせ今の奴らはみんな余計な熱が体ん中に溜まるのを死ぬほど恐れてるからな」
その多少赤らんだ頬から察するに、カロンはわずかに気恥ずかしいという想いを抱いたように見受けられた。けれど同時、カロンがとっさに浮かべたその作り笑いと所作には、羞恥や己自身に対する卑下といったそれらの感情を隠そうとする意思が、忍耐が、つまりは相手に余計な気を使わせるまいという気遣いがあるよう思えた。カロンのそうして己の心の内に生じた負の想いを瞬時のうちに裏側へ隠し、相手に余計な気を遣わせまいとしたその年の功由縁なのだろう気遣いをたいしたものだと感心した。所作に、改めて、カロンは見た目通りに大人なのだと思った。一方でまだ多くの点において未熟のカミヤは、やはりカロンの心の内の変化を気にしない―――、というよりも気づかない様子のまま、無言で首を傾げた。
「―――なに、テメェで処理しきれない熱量を自分の体の中に抱え込んじまうと消化不良を起こしちまうのさ。どれだけ燃料があってもエンジンがポンコツじゃ意味がねぇってこった」
カロンはカミヤの不理解の所作に気付いたのだろう、失笑を漏らしつつ、けれど丁寧にカミヤに言った。
「―――」
一方カミヤは、次々と投げつけられてくるわけのわからない言葉群を前に、けれども何とか己自身の力のみで処理してやろうと足掻いていたのだろう、しばらく無言を保って考え込むそぶりをしていたが―――
「ミウミ……」
やがてついに根をあげたらしく、助けと答えを求める声を発した。
「消化不良っていうのは、取り込んだ熱を消費しきれない苦しくて良くない状態になるってこと。エンジンっていうには熱とか風を利用して動く道具。昔はそのエンジンを燃料っていう燃やした時にたくさんの熱が発生するものが燃える勢いで動かして―――、つまりは風の勢いを力に変換する事で色んな道具が動く力にしてたんだよ。だから今の例えは―――」
その問いに対してさっと応じて答える。
「……たくさんの熱が邪魔をして“足”が動かせなくなってて苦しいってことか?」
言葉を続けるさなか、カミヤは眉を顰めながら聞いてきた。
「おう。そんな認識でいい」
カミヤの問いかけにこちらがうんと答えるよりも前に、カロンが応じた。
「……で、だ。話を戻すと、今のこの時代の俺たちは熱を周囲から吸収し貯蓄、操作する事にかけては超一流だ。ついでに物質の密度を操ったり、組成を変換する事にかけてもな」
カロンはそして目を見開くと、両腕を天へと向けて差し出し―――
「なにせプレートという万能の補助道具が俺たちの体には宿っている」
次いで広げた両腕のうち前腕のみを動かして己の胸を両手の十指の先端にて勢いよく突っつくと、続けざま再度腕を大きく広げた。すると直後、如何にも魔法でも使ったと言わんばかりカロンの目の前には小型のエンジンが搭載された救命ボートに近しい形状の黄昏色の舟が生み出され、そしてカロンは自らの身を舟の上へ移動させた。
「―――」
何が起こったかわからないとばかりに驚きの表情を浮かべるカミヤとは異なり、こんなのは造作もない事だといわんばかりに無表情のまま己が生み出した黄昏色をしている舟へ乗り込んだカロンは、やがてカミヤの驚きの表情や態度にまるで気付かない様子のまま舟上にて再び口を開いた。
「舟。それはかつて人間を未知の代名詞だった大海原旅させる為の足だった道具。それが今や―――、ふふ……」
カロンは次いで大きく息を吐くと、その後にカミヤの方を振り向いたのち、再び両手を大きく広げた。所作はまるで舞台役者が見得を切る直前のそれであるかのよう見えた。けれどカロンのその所作には、プレート由来と分かる動作の巧さやお芝居くさい大業さがあるのに一方でなんとも本気の熱も感じられて―――、悟った。
カロンはきっと今、プレートの中にある過去の舞台役者の力を用いているのだ。
カロンはきっと今、そうでもしなければ話しにくい事を語ろうとしているのだ。
「プレートは人間を楽させる為に作られた、今では本能と直結しちまってる生命補助の機関!」
先と同じよう己の胸を両手の十指の腹で叩くその仕草は、やはりいかにも芝居臭さがあって、つまりはひどく想いを強調する仕草であって、わざとらしかった。カミヤはそれを呆然とした表情のままで眺め続けていた。
「プレートは永遠に外れない補助輪! プレートは無限の熱と全ての情報を保存し、あらゆる事象を実現可能とする魔法の道具! プレートには人類が培ってきた全ての知恵と知識と経験と膨大な量の熱が保存されている! プレートは言うなれば最高にまで強化された遺伝子だ! 遺伝子とは己の体の熱損失が最も少ない行動を生物にとらせる為の学習装置で、プレートはそれの補助道具だ! プレートがあるからこそ人は今、食事を抜こうが、水がなかろうが、睡眠取らなかろうが、平然と生きていける!」
両手を振り回しながら芝居調の身振り手振り口振りで語るカロンの態度や声は、けれど真剣そのものだった。借り物の力を用いて語るカロンの顔にはそれが顔に刻まれた皺の年月耐え込まれてきた想いの発露なのだろうとわかる迫力があった。うなされたよう発せられる言葉には嘘偽りなく己の想いを語っているとわかる程の熱量を含んでいた。カロンのそれはまさに悲鳴だった。カロンはきっと今、己が生涯において抱いてきた想いの全部を、つまりは自分という存在の全てを言葉によって語ろうとしているに違いないのだ。
「けど、プレートがそうやってなんでもかんでもやってくれちまうからこそ俺らは―――、俺は―――」
けれどもカロンの流暢な語りが続いたのはそこまでだった。カロンはそして突如急激に言葉を詰まらせると、悔し気に顔歪め、言葉を淀ませたのだ。態度からは、『自らの生涯を表すに最も相応しい一言を言いたいけれど、どうしてもその相応しい一言を絞り出せない』という懊悩の念がありありと感じられた。
カロンが先程語った苦痛がわからない私ではない。プレートには人がこれまでに培ってきた全ての知恵、知識、経験が刻み込まれているのだ。そしてプレートを操れるものは、それらの知恵、知識、経験を自在に用いる事が出来るのだ。プレートは持つ者に全能に近い力を与える万能の道具なのだ。プレートはまだ多くの人々が悩みを抱えていた時代、保有者のどのよう小さな疑問、悩みにも完全な回答を与えるよう作り出された道具なのだ。
何故ならプレートが開発された時代、その時代に生きる人はまだ熱だけを用いて生存する事が出来なかった。その時代に生きる人々はまだ熱だけでの生存が可能でなかったのだ。食料を食べなければ、水を飲まなければ、十分な睡眠をとらなければ、安全の確保が出来なければ、その時代の人々は生きてゆけなかったのだ。
故に、周囲の環境や体質が悩みの種となった。加えて、悩みの種の数が多ければ多い程、悩みや悩みの解決に費やされる時間が長い程、苦しむ人や死人が大勢出た。その問題を解決する為にプレートは開発された。だからプレートは保有者の悩みに対する答えを持つ場合、悩みの種の総数を可能な限り減らす為、悩みに費やす時間を可能な限り少なくする為、解答を、つまりは知恵を、知識を、経験を、熱を、保有者にすぐさま与えるのだ。
かつてにはプレートのその機能がありがたがられる時代が存在していた。けれど今の時代に生きる多くの人は、プレートのそんな機能を疎んでいる。なぜなら今の時代の人々は、過去に生きた多くの人の知恵や知識や経験を、プレートの持つ悩みを解決する手段以上に優れた解決の手段を生み出す事が出来なくなってしまったからだ。
悩みは人を苦しめる原因であると同時に、人を生かす希望や夢になりえる種籾でもあったのだ。抱いた悩みをどうにかして解決しようという意志が、過去に不可能の烙印押された事象をどうにか今まで収集してきた知恵や知識や経験用いて可能にしてやろうという想いが、人々を未来に突き動かす、生の原動力となってきたのだ。
けれどそれがなくなってしまった。あらゆる悩みが悩みでなくなってしまった。
何故なら今の時代、たとえどのように小さな悩みであってもプレートの力によって解決されてしまうからだ。悩みのない道というものは自らの道を自らの意思で定める事が出来ない凡人が過ごすにはあまりに平和過ぎた。どれだけ見渡しても悩みもその取っ掛かりすらも見当たらない世界に、人々は生きる希望を見いだせなくなった。『悩みがないから悩みが欲しい』という贅沢な悩みが彼らの悩みとなった。プレートという万能の道具によって、万能を超える事のできない多くの普通の人々―――凡人は、絶望の渦に叩き込まれてしまった。
このカロンもきっとまた、そんな平凡な人たちと同じく、プレートによって悩みの種を全て消されてしまい、生きる意味を見失ってしまった普通の人なのだろう。特化して優れた才能を持ってして生まれず、新たに物事を創造する才能を持って生まれず、それ故に今の豊かな時代には情熱を持つ事も出来ずに来た凡人なのだろう。
「俺は―――」
カロンの真剣の悩みを理解出来ない私ではない。語りを遮ってしまうのを無粋とわからないわけではないし、もしやプレートの外にあるかもしれないその語りの答えに興味がなかったわけでもなかったのだけれど―――
「カロンさん、カロンさん」
「ん?」
新しい熱が生まれるかもしれないその語りを、私は遮らざるをえなかった。
「カミヤ、ついていけてない」
だって汗だくのカミヤがぽかんと口を開けてカロンを見つめている。
「―――」
カミヤの眉は軽く顰められていた。口は軽く開かれた状態のまま、顎が僅かに落ちていた。首はわずか斜めに傾けた状態のままで固定されていた。両腕はその先にある拳が開くでも閉じるでもない中途半端な状態のまま、肩からだらりとぶら下げられていた。一方で、足の爪先の向きだけはカロンに真っ直ぐ整えて向けられていた。事実から、カミヤその所作が敵意や無関心によって生み出されたものでないことは簡単に理解する事が出来た。顔や手足や体から力が抜けているのはその人が相手に気を置いていないという証だ。また、人間、興味がない、或いは関心を持とうとしていない話題や人の語りに対しては、九十度かそれ以上に爪先開いて応対しがちだ。
ならば即ち、カミヤが体から力を抜いているのはカロンに対して気を置いていない証であり、その爪先が揃い整えられた状態でカロンへ向けられているという事実はカミヤがカロンの語りに対して関心を持っている証だといえるだろう。即ちカミヤはきっと、カロンが真剣に何かを述べようとしている事も、述べようとしている事がカロンの真剣の想いから発せられているものだという事も理解出来ていて、故にカミヤはその嘘偽りない本音をなんとか理解しようと努めているも、カロンが次々と口にする言葉はどれも聞いた事ない単語ばかりである為に理解がまるで追いつかず、心底困った挙句にこのよう見てくれの悪い態度を取ってしまっているだけなのだ。
「あー……、悪りぃ」
プレートの力を借りて芝居がかった口調と所作で己の想いを一方的に語った結果、語りと所作が相手の理解を促すどころか混乱させるばかりだったという事実に気づいたのだろうカロンは、ばつが悪そうに頭を掻くと共に謝罪の言葉を述べた。
「誰かと話すのは数十年ぶりだったもんでな。つい―――」
「いや……、悪りぃのは足らねぇ俺の方だ」
「んなことねぇよ。こういうのは普通、相手にわかんねぇよう話した―――」
「その普通ってやつが―――」
「あん?」
「普通じゃない俺にはわからねぇ」
けれどカミヤはカロンの自らの不明に対する謝罪であるそんな言葉を受け取る事なく言い切った。
「―――」
カロンは原因が己の弱さにこそあると言い切るそんなカミヤの態度を見て、息を飲んだ。
「―――多分、普通ならわかるもんなんだろうな」
カミヤは己が普通と異なっているという事を理解しているのだ。カミヤは己がこの世界の普通の人たちよりも弱いという事を身に染みて理解しているのだ。そうともカミヤは、今の己が目の前にいるカロンよりも弱い事を、今の己がプレートというものを上手く扱えない未熟者だという事を、痛いくらいに理解出来てしまっているのだ。
カミヤは弱い存在が嫌いだ。カミヤは弱い奴は強い奴に何をされても仕方がないとすら思っている。カミヤは己が弱いのに、傲慢且つ頑固に、弱肉強食に基づく己の考えや常識をいつでもどこでも誰にでも適応するのだ。だからカミヤが今のよう悪いのは強いカロンでなく弱い己なのだと語る事には今更驚きを感じない。
「でも俺は普通じゃねぇ。アンタが普通と思ってる事が、俺にはわからないし―――多分、出来ねぇ」
一方で、カミヤが今のよう己の弱さについて語る事については、正直驚かされている。カミヤは言葉が嫌いだ。カミヤは弱さが嫌いだ。だからカミヤは弱い言葉が大嫌いだ。カミヤは己が弱いと認める言葉を口にしたのなら、それはやがて事実になってしまうだろうと心の底からそう思っているのだ。
「だから悪いのは、弱い俺の方なんだ」
けれどカミヤは今、己が弱いと認める言葉を述べた。だからこそ、驚かされた。
カミヤが己から弱い言葉を自ら口にするのはとても珍しい光景で、これでまだ生涯三度目だ。一度目は風邪をひいた時、二度目は出来ない熱操作を無理にしようとして家に元々取り付けてあった扉と窓を壊してしまった時、カミヤは今のように弱さを認める言葉を口にした。あの時のついうっかり口を滑らせて己を弱いと認めるような言葉をもののはずみで口にしてしまったカミヤは、本当に悔しそうだった。己が弱いという事実を、己が弱いと認める言葉を口にしてしまったという事実を許容出来ず、ひどく苦しんでいた。
そんなカミヤが今回、己が弱いという事実を、その事実を示す言葉を、己の口から自らの意思で吐き出した。勿論それは平然とではなく、内心はひどく荒れているのだろうけれど、そんな内心の苦しみや辛さなどを一応は表面に出す事もなく己が弱いという事実を口に出来るようなった。
その変化を嬉しく思った。同時、その変化をとてもカミヤらしいと思った。
「強くて普通のアンタは何も悪い事をしちゃいねぇ」
多分カミヤの心象がそのような変化をしたのは、先程のカロンの語りの影響を受けての事なのだろうと思う。カミヤはきっと己が強いと認めるカロンが弱音を吐く光景や文句を言いつつそれでも普段のカミヤよりもずっと多くの熱を発する様に感動させられ、考えを変えるに至ったのだ。
即ちカミヤはきっと己が弱いという事実を口にしたとしてもそれが必ずしも現実に反映されるとは限らないと思えたのだ。そしてまたカミヤは己もそんな強さを手に入れるべく、その宣言代わりに、かつてならば渋々と、或いは己でも気づかないうちに口にしては不機嫌となっていた己を弱いと認める言葉を、あえて己自身の意思で口にしたのだ。カミヤはきっと、己を弱いと認める言葉を、強くなる為に、己の成長の為に放ったのだ。
「―――」
想像を超えた光景には無限に等しい説得力がある。一つの行動は万の数の言葉重ねるより雄弁に真実を語る。自身の吐いた愚痴が会ったばかりの誰かを成長させるなんていう場面はきっと、カロンが今までに体験した事のないものだったに違いない。だからこそカミヤの今の行為はカロンの現実において無限にも等しい威力となり、カロンの想像から生まれようとしていた言葉を圧倒的な威力で完全に捩じ伏せ、黙らせる事に成功したのだ。
「そうだろう?」
一方で完全に普段の調子を取り戻したカミヤは問いかける。問いの態度はカミヤにしては珍しく殊勝だった。勿論その理由も私にはわかる。何故なら弱肉強食がカミヤの信条で真理だからだ。故にカミヤは、自分の弱さが原因で強い存在に余計な熱の消費をさせてしまった時、つまりは己の弱さが原因で強い相手に余計な熱の消費をさせてしまったと感じた場合、或いは、相手が己よりも優れている所を持った尊敬出来る相手だと感じた場合、それを悔いて、或いは尊敬して、己より強いその存在に対して敬意を払い、このよう殊勝な態度を取るのだ。
カミヤのその野性的な性分はきっと、カミヤが熱の操作が下手であるのに意識的に熱を周囲から奪わなければ生きていられない環境に長い間その身を置き続けてきたからこそ育まれた感性であり結実した信念なのだろう。カミヤはきっとこの星に生きている誰より熱を大事に思っている人で、誰よりも己の行動に死の責任が伴う事を理解している、愚かしい程真っ直ぐで野生を持つ人なのだ。
だからだろうカミヤにはどろどろと肌に纏わりつく怨念のようなものが感じられないのだ。纏わりつくような湿度が感じられないのだ。もちろんそれはカミヤがそういう負の感情をまったく持っていないというわけでなく、勿論カミヤだって負の感情を持ってはいるけれども、カミヤは基本的に負の感情を持続させ続ける事はなくて、だから適度に乾いてさっぱりとした感じがあって、秋晴れみたいな雰囲気なのだ。或いは常に熱を求めて彷徨う性質がある事を加味するに、カミヤは積乱雲を生む元のような移動性高気圧の如き人と例えていいかもしれない。
そう。カミヤには基本的に高気圧のようさっぱりした性格で、あやふやさというものをまるでもってないのだ。カミヤは八方塞がりの状況においても奇手や奇策を選ばず、死地に身を置き続けて戦って死ぬ方を選ぶ人なのだ。カミヤは悩み立ち止まって生き続けるくらいなら、ひたすら前進して死んでゆく道の方を選んでしまう人なのだ。カミヤは身の回りに必要ないものを置いておけない性格で、己にとっての要不要の判断を即座に下せる人なのだ。
カミヤと相対するものは、良かれ悪しかれ、カミヤの要不要の感覚を己の肌身で強く意識させられてしまうのだ。
カミヤと相対するものは、良かれ悪しかれ、カミヤより優れた自身の長所を強制的に自覚させられてしまうのだ。
「んー……、カミヤ」
果たしてそのような野性的なカミヤに必要―――己が持っていない強い熱を持つ強い存在であると判断されたカロンの顔からは、そのせいだろうか、先程までは確かにあった鬱屈由来の湿っぽい雰囲気が掻き消されていた。
「何がわからなかった?」
晴々とした表情で述べられたカロンの問いに、カミヤは正面向けた体をそらさないまま右腕の肘を左腕で支え、且つ、右手の人差し指を唇へ、親指を顎に当てて思考を巡らせ始めた。やがてそれから少しの時間が経過した後、カミヤはその両腕の構えを解くと再びカロンを見つめたのち、一切物怖じしない様子で―――
「―――プレートだ。俺はプレートってもんが、よく理解できてねぇ」
己とカロンとの間にある差の原因となっていると思う要素を述べた。
「―――プレートか……」
一瞬ひどく驚いた顔を浮かべたカロンは、しかしすぐさま開けられた唇の両端の行方を天の方面へ向けて上げ、大きな笑みを浮かべたのち、再び口を開いた。
「まぁそうだな。わかりやすく例えるなら、この風車塔みたいなもんさ」
「風車塔と?」
そして帰ってきたカロンの答えに、カミヤはやはり首を傾げて疑問顔のままに応じた。
「そうさ。……そうさな。お前さんには中を見せた方が早そうだ」
「……中?」
言うとカロンはカミヤの問いかけを無視したまま進み、やがて鐘の側面の床にあった小さな凹みの出っ張りに手をかけると、思いっきり引き上げた。するとガコンと歯車が回ったような音と共に、カロンの目の前にあった床が持ち上がり動き始めた。
「……!」
持ち上がって動いてゆく床はそしてすぐさま分厚い壁となり、かつてそんな壁の埋まっていた位置にはやがて数人が同時に足を踏み入れて尚も余裕あるだけの大きな隙間が生まれていった。持ち上がった床が完全に動きを止めたその直後、大音量が辺りに響いた。開いたばかりの入り口から聞こえてきた音は、先程までとは別種で、密閉されていた高熱の炉の口が開いて大量の空気が吸い込まれた時のものとよく似ていた。それら一連の挙動を目を丸くして眺めていたカミヤは風車塔内部から生まれ出た音が辺りに響いた途端、目を更に大きく見開いた。それはきっと眼前に現れた光景が、音が、今までのカミヤが全く想像していなかったものだからに違いなかった。
「来な」
カロンは一言述べると、先程生み出した舟に乗って現れた入口へと舟ごとその身を潜らせていった。カロンの舟が穴へ突入した途端、ぶごぉっと空気の焼ける独特の焼成音がカロンの姿を消した入り口より聞こえてきた。
直後、カミヤは口を真一文字に結ぶと、目を輝かせつつ弾む足取りで入口へ足を踏み入れていった。
それらの様子に、良かれ悪しかれ、この先大きな嵐が来るだろうという予感が全身を貫いた。
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