第2話『ミウミ』(2)


「あぁ……」

風車塔の下から現れた多くの黒い雨雲からその雲海の端に位置する遠くの灰色の雲までが薔薇色に染まりつつあるのを見て、今日という一日が終わるのだと気付かされる。これから世界はいつものよう一瞬の間だけぱっと血の色のような赤に染まり、少し時間が経過した後には血の気が引くよう暗転して黒色に染まるのだろう。

―――それは今日という一日が、また、何事もなく過ぎていったという証だ

 変わらない日常の光景を前に、ぼんやりと考える。そんな風にこのだだっ広くて頼りなく不安定なこの世界を何事もなかったかのよういつも通り過ぎゆかせてゆくのが、アイオリスの風車塔の役割なのだ。

 全高五キロメートルのこの巨大な風車塔はその内部に溜め込まれた熱が一定の量に到達すると、溜め込まれた熱の多くが外部へと向けて一気に放出される。そうして放出された熱は風車塔の周辺を囲う冷たい大気を暖め、暖められて高温となった空気は周囲の冷たい空気に押し出されて上空へと運ばれてゆく。こうして生まれる風の動きに伴って大気中の水分は集って積乱雲を作り、そして生まれた積乱雲はやがて北東から来る貿易風に乗って南西方面の平野地帯へ高度を下げながら運ばれてゆく。この旅路のさなかに雲の中の水は形を変えて雨となり、生まれる雨は乾燥しやすい山と海の狭間に広がる平野へ落下し、大地を潤す役目を果たすようなるのだ。

アイオリスの風車塔とは、熱を操る事で風と雲と雨を生み続ける機構だ。アイオリスの風車塔は言ってみれば熱のダムなのだ。アイオリスの風車塔は世界の一翼を担うと豪語しては大言になってしまう程度の熱量だけしか操作出来ないけれど、人の世が正常に運行する一助を担っていると言っても壮語の一言で一笑に伏せない程度の熱量を操作し、この星の環境を熱の操作が出来ない脆弱な存在でも生存可能な状態に均し続けている。

けれど、人類の誰もが熱を体内に溜め込みすぎて苦しんでいる今、熱を溜めこみ吐き出す事でこの辺り一帯の気温や天気を一定に保つ機能を保有しているアイオリスの風車塔の存在をありがたがる奴なんて滅多にいない。それどころか、ここがそんな熱操作の施設だと気付く奴ですら稀だ。風車塔が人類の為に作られたという背景を考えれば、あって当然に過ぎて普段は自然と意識から外されてしまう、渡ろうとしている橋の基礎が持っている存在感すらも放たない風車塔のそんな状態は当然と言える。

アイオリス島の中央に建てられている誰からも見捨てられ放棄されていた巨大な建造物と俺が出会ったのは、俺が今の時代の誰もがやるように数多の地を巡って旅をしている最中だった。当時の俺は既にもうこの世界から退場していてもいい年頃だった。この世界の連中は大抵、前進のしわが目立つ年齢になるより前に己自身の体をプレートへと変化させて、他の誰かや何かに熱を託して消えてゆく。或いは、プレートがもたらす知恵や知識や経験や熱量に己自身の意識や体が耐えきれなり、自ら体を粉々に砕く道を選んで霧散してゆく。

その行為によって彼らが奪ってきた熱は他の存在へと託され、やがてには世界の中へと還元されてゆくのだ。そんな当たり前の輪廻の法則が続いてきたからこそ、この火の星は、この世界は今もこうして続いているのだ。その理屈を理解出来ないわけでも、その在り方が自然と思う感性と自前の知恵がなかったというわけでもない。というよりもそんな簡単な理屈、俺だって老いるよりずっと前から分かっていた。

けれど俺の持つプレートには俺という捻くれた人間をそんな風正しいとわかる方向へ導く知恵や知識や経験が刻み込まれてなかったし、俺というちっぽけな人間には当たり前で正しい理屈を当たり前で正しいものであると何の苦も無く受け入れられる度量や度胸やそんな生き方や死に方を出来る才能が無い事を恥じたり悔しがったりし続ける素質を持ち合わせて生まれてこなかった。

他の存在に己の熱を託して逝く、或いは、潔く砕け散り退場するというそんな生き方や死に方に憧れない事がなかったわけではない。そんな生き方や死に方が出来る存在を羨ましいと思わなかった事がないわけではない。

ただ、知らぬ誰かや自分より優れた誰かに自らの熱を託す生き方や死に方が俺にはどうしても出来なかった。誰かに求められてもいないそんな物や事に対して頑張って熱を注ぎ込むなんて馬鹿らしいとしか思えなかった。だって張り合いがない。自分に対しての見返りがない。必要でない事をわざわざしようだなんて思えなかった。普通以下に生まれて苦しんできた俺が、なんで世間がいうところの普通の生き方や死に方が出来るように必死で頑張らないといけないのか。なんで他人や世間が定めた正しいだけの意見に苦しめられなければならないのか。

あまりにも馬鹿げている。あまりにも不公平だ。不条理だ。なんでわざわざ普通の生き方が出来る他人の為に、普通より劣っている俺が、普通より劣った才能を持って生まれてきた俺が、苦しんでやらなければならないのか。そんなもの出来る奴がやってくれたらいいだろう。普通に満たない才能と力しか持って生まれてこられなかったこの俺に無茶言わないでくれ。俺に無茶な頑張りを求める現実も、俺に優しくない世界も、俺より優れた才能の誰かの今も、俺の知らぬ誰かの未来も、俺の知った事じゃない。俺にとって重要なのは俺の事だけだ。

俺の気持ちだけが世界で優先すべきただ一つで全てなのだ。俺にとって大切なのは、俺の事情と熱だけなのだ。

一事が万事そんな調子で『俺』一辺倒であり続けた俺は、けれど皮肉な事にいつしか普通の誰かと同じよう、旅をするようになっていた。その普通の行動は、周りの普通の奴らに置いてけぼりにされてしまっているという感覚から生じた不満と鬱屈と苛立ちといった負の感情が溜め込まれ、やがて爆発した結果に生じたものだった。それは俺という俺の事情でしか動けない俺が俺の中に生じた熱に苦しくなって起こった、必然の出来事だった。

やりたいと思い動いたのでなく、必要が出たからやらざるをえなかった。そんななんとも俺らしい理由で旅を始めた俺は、やがて当たり前のよう俺より先に旅を始めた連中や、俺より才能のある俺に必要な苦労をしないで生きている他の連中の事をどうにもこうにも酷く羨ましく思うようになった。

羨ましい。妬ましい。ずるい。俺だって苦しみや憎しみや怒りを抱えないでこの世界を楽に生きて過ごす事の出来る才能と力が欲しかった。才能不足の俺に力を与えてくれたあの人たちのよう、他の誰かが必要とする熱を生み出せる存在になってみたかった。プレートなしでも旅が出来るような、他の普通の人であるのならだれでも持ち合わせている凡な才能だけでもいいからも欲しかった。

けれど、どれだけ羨もうとも妬もうとも怒ろうとも俺の熱や持っているプレートの熱が俺以外の誰かに必要とされるような事は一度たりと起こらなくて、かと言って俺自身を砕け散らせる事が出来る程の熱量を溜め込める才能も度胸も覚悟も情熱も持ち合わせていなくて、また、悔しい事にプレートは俺がそれらの実行するに必要な知恵や知識や経験を与えてくれる事がなくて、だから俺は俺をひどく劣って生んだこの世界やこの俺をそう扱う誰かの為に熱を費やす気にもなれなくって。

俺に関する理由以外で動けない俺は、けれど熱意を生み出す事も出来ない、熱意をもって何かに取り組む事も出来ない俺は、それでも劣ったこの身でもなんとか得られる他熱だけを抱え、世界の大きな熱の動きに流されて、与えられた船に乗って、誰も俺に期待してくれない、つまらないこの世界の中を怠惰に巡っていた。

そんな逃避と気晴らし兼ねた旅路のさなか、俺はこのアイオリスの風車塔と出会った。アイオリスの風車塔は誰からも見える場所にある土地の上に大きく高く目立つ姿に作られていながら、けれど誰からも見向きもされず、必要ともされず、それどころか塔を知る人たちから疎まれ避けられていた。風車塔はだというにもかかわらず、ひっそりと文句の一つすら言う事もなく動き続け、世界の熱の一部を管理して知らぬ誰かの為に尽くしていた。

近寄ってみると、もう何千年にもわたって動いていないらしい、けれどかつては強風暴風大雨といった大型の自然災害の到来を告げる役割だったという巨大な鐘とそんな巨大な鐘の口にはまり込んでいる舌が、かつてにはその巨大な鐘鳴らす力を生み出していたのだろう風車羽とそれを支える基礎の塔自身が、内側に膨大な量の熱を溜め込んでいるという事を理解した。観察続けると、かつてにはその巨大な鐘を鳴らす力を生んでいたはずの、けれども塔がプレートという熱道具で補強された後の時代には無用の長物と化していたという風車の大きい羽が必要とされなくなった悲しみをわずか示すかのよう少し後ろ斜めに傾いた状態で止まっているのがわかった。

その姿をいじらしいと思った。かつては必要とされて生み出され、けれど今の時代には不必要と烙印を押され放棄されてしまった。なのに、わずかな不満を露わにするだけで満足しては押し付けられただけのはずの役割を今も尚その場で粛々と熟すその姿に、見惚れさせられた。今や誰も必要としないし誰にも必要とされていない、それでも風車塔はかつてと変わらず胸を張って稼働し続けている。その不動の在り方を、強靭さを、一途さを、心底羨ましいと思った。周囲の熱の影響を大きく受けてフラフラと動かされないその姿に心底憧れてしまった。

だから、側にいたいと思った。側にいようと決心した。カロンという、かつて生死の岸辺で渡し守をしていた陰気で強欲だったという老人と同じ己の名は、それこそ運命という言葉を皮肉と共に添えてやりたくなるくらいこのアイオリスの風車塔を船橋の番いに選んで老いてきた男の呼称としてぴったりだと思う。

こいつは船で俺はその船守なのだ。俺がいなくともこいつは他の誰かにとって価値がある存在であり続ける。けれども俺という存在の背景を語ろうとする時、俺はこのアイオリスの風車塔の事を抜きにして語れないのだ。そんな依存にも似た関係性が俺とコイツとの間には存在しているのだ。

カロンという存在とこのアイオリスの風車塔の関係をもう少し適切に例えるなら或いは、板橋の板と左岸から出て右岸までわずかに届かない程度川中に伸びている地面の出っ張りみたいだと例えるのが妥当かもしれない。長板が一枚あれば地面のその出っ張りはすぐさま板橋の台となって、道の一部であると認識されるようになる。けれど出っ張りは長板なくとも流れる水の勢いを殺す役割を常に果たしていて、下流の水の流れが急になる事を阻止し続けているのだ。同様、もし俺がここで橋渡し役として長板かけるかのよう風車塔の別の活用方法―――例えば朝と夕にこれだけ綺麗な光景が見られる場所なのだから、エリシウム島やヘラス海の世界樹跡地のように風光明媚な観光地として売り出したなら、風車塔は大勢の人に見直され、有名になる事が出来るかもしれない。けれど俺がそんなことしなくとも風車塔は熱を操作してこの星の環境を人が住むに適したものへと変え続ける。アイオリスの風車塔はそして与えられた役目を今や誰にも必要とされてなくとも淡々とこなし続けてゆくのだ。

アイオリスの風車塔のその誰の影響も受ける事のない在り方を強いと思ったのだ。心から憧れさせられたのだ。この熱に満ちた世界の中においてもはや時代遅れの、今や他の誰にも必要とされていない残骸と認識しながら、そんな誰の助けをも必要としない遺物だからこそ、俺はそんなこいつの隣に居続ける生き方を選択したのだ。

それは俺が初めて俺の為以外に俺の熱を使おうと思い、決意した瞬間だった。

以降の生涯、俺はこのアイオリスの風車塔の側で只管過ごし続けてきた。

ただ、大量の熱を集めては発散して周囲一帯の環境維持する施設の側で過ごすのはなかなか苦労が必要だった。地上付近にある熱を片っ端から集めて上空へ送る風車塔の側という環境は、いつだって最悪な程熱かったからだ。太陽が出ていない時も出ている時も関係なく、風車塔はいつだって大量の熱を自身の周囲から奪おうとするし、また、奪った膨大な熱を周囲に発散しようともした。おかげで風車塔の側はいつも極度に乾燥している状態か、湿度が極端に高い状態だった。即ち乾湿はばねの壊れた天秤のよう極端にどちらかに傾いてばかりだったたし、また即ち風車塔は、いつだって俺から大量の熱を奪おうとしてきたし、大量の熱を俺に与えてこようともした。

温度と湿度が極端すぎるというそんな環境に『これなら自分一人で過ごしていた時の方がずっとマシだった』と何度思ったかわからない。

けれど、多くの場合において辛い環境の風車塔の側だったけれど、悪い事ばかりではなかった。

風車塔はその極端な環境故に、格別の気持ちいい心地をこの俺に与えてくれたのだ。

例えば風車塔はその身の内に熱が一定以上溜まると、余剰分の熱量を上層から一気に周囲へと発散し始める。風車塔の上層から発生するこの余剰熱によって、風車塔付近の大気中に含まれる水分はその全てが一気に雲へと変換させられる。この時、風車塔の下層や周囲の少し離れたにある空気が塔のすぐ近く周囲にある暖かくなった空気よりも極端に冷たいと、発生した雲の元がこの塔の下層部分や少し遠くの周囲の冷たい空気を発端に生じる上昇気流と横薙ぎの風によって積乱雲生む間もなく一気に流される。すると、風車塔の上層や屋上部分は適度にカラッと乾燥している気持ちいい環境へ変化してくれるのだ。時折だけ訪れるそんな快晴時の風車塔の屋上は、この世界の中で一番心地よいと呼べる場所だった。

遠く地平の彼方まで澄み渡っている空。横たわれば、適度な気温と湿度が保たれている空気の中にわずか吹く柔和な微風が火照った全身を優しく撫でてゆく。いつもなら熱いと感じるだけの太陽の光は風車塔のプレートが熱を吸収する影響によってほどよい暖かさのものとなっている。何より、見渡した時に遮るものがほとんどない、この星においてこここそがどこより上だと錯覚出来る光景が目の前に広がっている。

もちろん、ここがこの星において最も高い場所でない事を、俺は知っている。

けれど、錯覚でもなんでも、風車塔の気持ちいい場所になった天辺から見えるそんな光景には夢があった。

この光景を、この心地良さを知っているのが世界で俺だけだと思うと、それだけで気分が最高に昂った。

風車塔はそんな風、世界で一番だと思える瞬間と最高の気分と感覚を、俺に与え続けてくれた。

だから続けられた。付き合いかたを覚えてやれば風車塔の側も悪くないと思えるようなった。

選んだ無口な相棒の都合で息苦しさや蒸し暑さばかりに満ちている環境で過ごし続けてきた結果、周囲にある大きな熱の流れに左右されない程の強さを得られてきた。気付けば船のプレートがなくても自らの“足”で空を飛ぶ事が出来るようになっていたし、旅立った瞬間から体内に在り続けていた、脂肪のようこの体を重たくする余計な熱も体から消え失せた。そう。俺は変わった。俺は以前より強くなった。風車塔の長年の生活が弱かった俺を強くしたのだ。そんな俺が以前より強くなったという事実をわざわざ否定したりして、この俺を、この俺がこの強さを手に入れるまでじっと側にい続けてくれたコイツをわざわざ貶めるつもりはない。

ただ。けれどもやはりそんな風に得られた俺の強さや俺を強くしてくれたこの風車塔が、しかし今の時代には他の誰にも必要とされていない事実を卑屈という余計な板橋の感情抜きに語るのが難しい。誰の事情に関係なく、風車塔はこれからも周囲の環境を一定に保ち続ける。俺はそんな風車塔に住み着いて暮らす事で、以前より強く成長する事が出来てきた。周囲の熱の流れに耐えられるよう、辛いと思う物事を続けられるよう成長してきた。

けれどプレートという万能の道具がある今の時代には、そうして俺が得た強さや保有するようになった熱は、風車塔と同様、やはり世界の誰にも必要とされていないのだ。

風車塔で長年暮らしてきた結果、そして強さを手に入れた結果、俺は改めて俺たちが世界にいてもいなくても世界は続くよう出来ているのだという残酷な真実に気付かされてしまった。

それが真実である事を、風車塔が、他でもない俺自身が、長い年月かけて自ら証明してきてしまった。

自身の存在の不要証明を、自分自身の時間と熱を―――情熱を用いて証明し続けてきてしまった。

それでも俺たちは、アイオリスの風車塔は、この俺は、そのよう誰にも必要とされない熱を溜め込まずには、発し続けずにはいられない。何故なら、それ以外の世界と繋がる方法を俺たちは知らないままに過ごしてきた。鐘を鳴らさないまま、長年ずっと過ごし続けてきてしまった。

そう。自分以外の誰をも必要としない強さを、熱を、俺たちは持っている。

俺たちは意味もなく甲斐もなく只管に、この世界の誰にも必要とされない余計な熱を溜め込み、生産し続ける。俺たちは長柄の橋柱だ。やがて来るかもしれない終わりの時まで只管無為に熱を消費して生存し続ける存在だ。今日も明日も明後日も、ずっと、ずっと、ずっと、俺たちのこの熱は世界をいつも通り回す為に消費され続ける。けれど俺たちは同時に、きっとこれからもずっと未来永劫誰からも必要とされない熱のままであり続けるのだ。

老いて誰にも不要の熱ばかりを保有する俺たちはきっとこれからもずっと変われない。

俺たちはもう舞台端で世界が流れてゆくのを眺めるしかできない存在なのだ。

確証ないのにそう確信できてしまうのが、どうしようもなく、哀しかった。


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