第1話『カミヤ』(3)


挑戦状を受けとったはずのボス猿は、大きな咆哮一つしたきりその場から動かなかった。不動を保つボス猿の代わりに動くのは、奴の取り巻きの猿たちだった。猿どもは俺が奴との間に敷いた道に己の体を差し込んでは、耳障りな叫び声を上げつつ突っ込んでくる。ボス猿よりはるかに小さい、けれどカミヤという己と比べたのなら同じかそれ以上の体の大きさを持つ猿どもの攻撃方法は、その辺に落ちている木の棒や石を使って殴りかかってくるというものだった。あるいは、手にしたそれらを投げつけるというものだった。

「―――‼」

猿たちのそれらの道具を用いた攻撃には、確かに殺意と呼べるものが込められているよう感じた。少なくとも目の前の俺を排除してやりたいという意思が強く込められているのは、振り下ろされる木の棒やぶん投げた石が朝露に濡れた地面へ深くめり込むその様からわかった。取り巻きの猿どもは一応奴らなりに必死で全力の攻撃を仕掛けてきているらしいのだ。

「―――は」

けれど。

「生温いんだよ!」

追い詰められてようやく必死になった程度の奴らの攻撃なんて、たいしたことない。

「今更テメェらごときが相手になるか!」

だって猿どもはひどく腰が引けているのだ。目の前に憎い敵がいるというのに、進んで襲撃してこないのだ。奴らのほとんどは基本的にカミヤという己の手が直接届かない位置から木の棒や石を投げつけてくるばかりで、しかもまたそのほとんどの奴がボス猿のすぐ近くに陣取っている。

その様を見て、改めて確信させられた。奴らは所詮、ボス猿のすぐ側でおこぼれの熱を確保して安寧と惰眠を貪っていただけの、追い詰められなければ必死になれない程度の小物なのだ。

猿どもはその喧しさと声量だけは一人前だけれど、たいした熱や力や覚悟を持ってない。どいつもこいつも、押しつ押されつ周りの熱に動かされてはやがて不意に群れの一番前に立ってしまったその時、場の空気や熱気に背を押されて仕方なく攻撃を仕掛けてきているだけの、臆病風に吹かれている情けない奴らばかりなのだ。

猿どもの態度からは、あわよくばこの攻撃で目の前の邪魔な奴が死んでくれないだろうかと期待しているだけなのがまるわかりだった。自分から積極的に邪魔な奴を排除しようと動かない、根性なしの奴らばかりだった。そのくせ挑発の態度と発する声の大きさだけは一丁前なのだから、苛立たしい事この上ない。

「あぁ、もう―――」

投げつけられる石や棒を回避するのが面倒になって、声が鬱陶しくなって、睨む視線を送った。

すると数匹の猿と視線が合った。

「―――」

途端、そいつらは大声を出すのをやめた。視線を向けられたその方面にいる猿たちは意気消沈したかのようにさっと目を伏せて、かと思うと近くにいる猿に目を向け、おどおどとした態度でお仲間を見渡してゆく。

―――は……!

「どこまでも他力本願か!」

視線と態度はあからさまに周囲に己の救助を求めるものだった。

「―――うぜぇ……! 」

けれどまた、助けの意志が篭っていると思わしきその視線を受け取って動こうとする存在は、猿の群れの中に一匹たりとしていなかった。それどころか群れの猿たちは、多分は助けを求めるそんな視線を受け取らなくても済むようになのだろう、前列の奴らから視線向けられた途端に自身らの視線を逸らしてしまうのだ。

「うぜぇ、うぜぇ、うぜぇ、うぜぇ、うぜぇんだよ……!」

奴らはきっと、その視線を見つめ返せば、次は自分が先陣きって突撃していかなければならなくなると考えているのだ。群れる猿どものほとんどは多分、そんな面倒を引き受けるのはごめんだと思っているのだ。猿どもは自分が安全圏にいる時のみ声高らかに奇声をあげて盛り上がるが、一方で自分に危険が及びそうになると途端に周囲へ助けを求めるような弱弱しい視線を送りつけ、けれど周囲にいる弱弱しい視線を送るその猿と同じように先程まで盛り上がっていた猿どもは、決してその視線を受け取らずに済むようそ弱弱しい視線から目を逸らし、努めて影に溶け込もうとするのだ。そうして努めて面倒事を他所に押し付け、自分は楽な場所へ逃げようとする猿どもの卑怯な在り方に、心底イラつかされた。

「テメェの面倒をテメェで面倒見られねぇんなら、余計な手出しすんじゃねぇ!」

一喝すると、多くの猿どもは身を震えさせはじめた。それが怒りによっての震え出ないのはすぐに分かった。だって猿どもの群れの中からは一匹として俺の言葉に文句の咆哮返してこようとする猿は出てなかったからだ。

熱の交換の不成立により、群れの猿どもの叫ぶ声は徐々に沈静化していった。

猿どものそんなどこまでも他力本願で臆病で醜い態度と様子に、心底苛々とさせられた。

「なんだってテメェらは本気になったふりだけする! なんだって周りの熱に同調してばかりでテメェがねぇ! なんだってそう周りの熱に流されてばっかりなんだ! 有利と見れば吠え、不利と見れば逃げ、他に押し付け、誰かが解決してくれるのを期待して待ってばかりで! なんでテメェらはそう自身の力で戦おうとしねぇ!」

俺も不利を前に逃げる事がなかったわけじゃない。周囲の熱の都合に流される事がなかったわけじゃない。

―――けど

「俺はテメェらみたいに頼りきりじゃねぇ!欲しい熱があるならこの手で奪いに行くし、気に食わない奴がいるならこの手とこの足でぶっ飛ばしにいく!」

世界を探した時、本当に絶対、不利を前に逃げず、周囲の熱の都合に流されないという存在があるとしたら、本当の意味で自由に、誰にも頼らずに生きる事が出来る存在があるとしたら、上空を自在に飛び回る事が出来るあいつらくらいのものだろう。けれどそして自分はあいつらのような便利な能力をもって生まれてこなかった。カミヤという己にあるのはこの熱を奪う能力だけだ。カミヤという己は他の存在から熱を奪わなければ、誰かの熱と力を頼らなければ、生きてこられなかった。だから本当に困った時に他の強い誰かの力や熱に頼りたくなる気持ちがわからないとは言わないし、猿どもに誰かを頼るなと言える資格が完全にあるわけではない。

―――けれど

「どうした! さっきみたいに叫んでみろ! アイツらみたいに襲いかかってこい!」

それでもカミヤという己はここまでみっともない真似はしない。少なくともカミヤという己は、生まれもった才能がたいして無いなりに地べたを這いずり回り、わずかにだけあった己の唯一の才能を、即ち熱を奪う力を、他の誰よりも強くしてやろうとする根性と、出来ないと言われた物事をそれでも無い知恵を絞って出来るようにしようする諦めの悪さとそんな格好悪い己を受け入れる度量くらいは備えているつもりだ。不利の状況において歯を食いしばって耐えて有利に覆そうとする気概と、周囲の熱の都合に抗う強さ位は備えているつもりなのだ。

―――けれど!

「なんてざまだ!」

そう。奴らと自分の根本はおんなじはずなのだ。同じ立ち位置から始まったはずの奴らはけれど今やボス猿の強さと群れの強さを頼りにするばかりの小物に成り下がってしまっている。ならばもしかしたらいずれいつかはカミヤという己もそうなってしまうのかもしれない。他力本願を只管祈り貫く醜悪な存在に堕落してしまうかもしれないとそう思わされてしまう。

―――だからこそ俺は、こんなにも苛つかされている

「みっともねぇ!」

想像が感情を大いに逆撫でていた。だってそんな未来断じて認められないからだ。

或いは、カミヤという己の周囲で熱を奪われて干からびて転がっている奴らのよう、ボス猿の咆哮に真っ先に反応して襲いかかってくるよう奴らなら根性のあるいい敵だと認めてやっても良かった。

先陣きって襲いかかってきた奴らの熱には奪うだけの熱価値があった。

心地いい熱だった。生きようとする意思があった。敵を己の手で倒そうとする気概があった。根性があった。

奴らは腹を据えて生きていた。かっこいい奴らだった。

「なんて根性無しなんだ、お前らは!」

しかし今、そんな肝っ玉の座ったかっこいい猿はいなくなってしまった。目の前にいるのはどいつもこいつも視線や言葉を投げつけられるたびに全身を震わせては怯えた様子で俺から目を逸らし、弱弱しい視線を周囲へと向けては、誰かどうにかしてあの目の前の鬱陶しい奴を排除してくれないだろうかと他人様の活躍に心の底から本願するような臆病者ばかりだった。

「そんな奴らの熱なんてこちらから願い下げだクソッタレ!」

貶され馬鹿にされ、なおも動こうとしない猿どもを木石以下と思考から切り捨てる。

「こんなんじゃ、全然足りねぇぞ!」

叫びつつ、この場で唯一未だに奪うに値する熱を持つ存在に目を向けた。

悪くなかったとはいえ、取り巻きの猿どもの熱量は予想通りにたいした事なかった。腹の足しにはなったが、奪った熱量は満足に程遠い。必要としているのはもっと質の良い、己と同じような存在でありながら己などよりはるかにデカく、故に己の中にない熱成分を秘め持っているだろう、己の想像の外にある熱だ。

「―――なぁ、おい」

向けた視線の先には咆哮したその瞬間からずっと不動を保っているボス猿がいた。

「あんたが動かないのは、違う理由だろ?」

誰よりも初めにこの俺の挑発に応じ、けれどそれ以降一切その場から動こうとしないこの場で最も大きな熱を持つボス猿は、変わらずまるで空に浮かぶ太陽のよう不動を保っている。似た姿の奴らがどれだけ自身の周囲に群れていようと一切無反応。けれど一度姿を現したのなら、その身に纏う熱で他の奴らの存在感を完全に覆って隠してしまう、星々が太陽の失せた夜にのみ輝きを取り戻せるようにその場にいるだけで自分以外の全てを隠しその場にいる生物の強さの階位を一段階強制的に下落させてしまうそんなデカい熱の存在が、このボス猿だ。

けれど、こいつが太陽と決定的に違う点が一つだけ存在する。

「お前も俺と同じだ」

こいつはカミヤという己と同じ、他所から熱を奪わねば生きてゆけない存在なのだ。

「けど、今のお前は俺よりもずっと多くの熱を持っている」

―――いい……

同じだが、目の前のボス猿はカミヤという己よりも強いのだ。

―――やっぱり、こいつは…… 

 だからこそいい。思うだけで胸が高鳴る。ワクワクする。気分が昂ってゆく。

「お前のその巨大な熱が」

慣れない小細工を弄して気に食わない策を練ってまで欲した甲斐がある。

「俺はお前のその膨大な熱が欲しい」

真正面から正々堂々とあの熱を奪えた時、ボス猿の持つ膨大な熱はいったい己にどんな変化をもたらすのか。

その後に己は一体、どんな新しいカミヤという己に変身するのだろう。

きっと想定外の変身が起きるだろう。きっと想像外の強さを、熱を手に入れられる事だろう。

―――たまらねぇ

「絶対に奪ってやる……」

想像出来ない未来の到来を想像するだけで気持ちが滾った。滾りに生まれた熱が自分の中で熱を再生産した。自分がどこまでも拡張してゆく感覚があった。体温は、体の中の熱量はもうずっと下がり続けている。けれど、次から次へと生まれくる熱が新たな燃料となり、俺の体を熱くし、俺という存在を前へ押し出そうとする。

「―――」

やがて沈黙を保っていたボス猿は静かに動いた。途端、空気が揺れた。地面が大きく揺れ、カミヤという己とボス猿の周囲に群れていた有象無象の猿どもが散った。直後、ボス猿の体の熱量が一気に増大した。その現象は大きな体を持つ動物が本気になった時に起こる現象だ。つまりそれは、ボス猿がついに眼前のカミヤという己を自身の安寧脅かす存在と認めてくれたという証に違いなかった。そう。ボス猿はきっと今、カミヤという己を、舞台にいるだけの脇役でなく、己を主役の座から奪う可能性持つ敵と認識してくれたに違いないのだ。

「っ!」

確信に背筋がゾクゾクした。脳髄が痺れた。逸る気持ちを抑えつけるのにはいつも以上の我慢が必要だった。構える。欲しい熱がある。遠くに行く為の熱が欲しい。自分の中にない熱が欲しい。今以上の自分になりたい。求めているのはいつだって自分の中にない熱分で、考えているのはいつだってどうやったらそうなれる強い熱を手に入れられるかだ。ずっと前に進みたい。一番前に行きたい。誰よりも強くありたい。目の前に現れる全ての存在よりも自分は強くなくてはならない。自分が最強でなければ誰よりも自分が自分を許せない。だからこそ。

だからこそ。

「―――!」

「おうよ!」

奪う。もはや余計な言葉は不要で醜い小細工も無用だ。技術や策を練るなんてセコい奴だけやってりゃいい。力を合わせて戦うだなんてくだらねぇ。群れるのは雑魚の証拠だ。有象無象多勢の力を借りて奪い取った勝利に何の意味がある。群の力を己の力と勘違いする馬鹿にだけはなっちゃいけない。他の力を頼りにしようという、誰かからの施しを当てにするそんな貧相な考えを抱いたその瞬間から、この世界でのそいつの価値は零に等しいものとなる。瞬間世界からそいつの看板が消え失せて、そいつは属した群れの力の一つになりさがってしまう。価値があるのはそいつ自身にではなくて、そいつの群れに、そいつが群れて発揮する時の力になる。

俺が欲しいのはそんな他人の力や群れの力に依る偽物の力や熱じゃない。

俺が欲しいのは俺だけの熱で、強さだ。

俺より強そうな奴に挑んだ時のみ得ることが出来る、価値のある熱だ。

敵の弱点責めるなんていう卑怯な手段を用いたときには無価値になってしまう熱だ。

だからこそ。

「真ん前から堂々と奪ってやる!」

価値ある熱が欲しければ、手に入れて己自身の熱を拡張したいなら、俺よりも強いそいつの真正面から堂々と熱を奪いに行く。また、そうして真正面から熱を奪う為の舞台は己自身の力でしっかりと準備して、用意する。そうやって真正面から熱奪う為の決戦場を用意できるなら、戦うのが己自身なら、あらゆる手段を用いていい。

ただし、舞台の上へとたどり着いたが最後、以降は絶対に己以外の熱を頼るな。

決闘に小細工を認めるな。舞台の上、己以外にあっていいのは強敵の熱だけだ。

その上で激突しろ。強敵の熱を全力賭して奪いに行け。全霊を用いて突撃しろ。

敵は潰せ。熱は奪え。自分以外は敵だ。全ての熱を奪い、己の最強を証明しろ。

その為に。

「俺が一番だ!」

ひたすら己を信じる気持ちを忘れるな。

―――俺こそ、世界最強だ

 一番前は俺だけの特等席だという気持ちを常に抱き続けておけ。

―――俺の熱こそが世界で一番だ

唯我独尊こそが俺たち唯一の共通原理だ。

―――そうでなくてはならない/そうでなくてはならない

だからこそ俺たちは、こんなにも惹かれ合い、反発する―――

「―――!」

「―――」

―――でけぇ!

巨体が迫ってきた。巨腕が落下してきた。それはまるで壁だった。頭上から降り注ぐボス猿の巨腕を、一瞬、我が身の数百倍もあろうかという巨木かと錯覚した。振り下ろされる一撃はそれ程の迫力を持った一撃だった。

そう。ボス猿の体には、振り下ろす巨大な腕には、膨大な熱量が秘められていた。奪いきれるかなんてまるでわからない。それどころか、どれだけの熱量が含まれているのか判別する事すらも出来なかった。もしかしたらダメかもしれないという予感が一瞬脳裏をよぎりすらした。熱の競争に負けた存在の行く末は、俺が先程地面に転がして示した。失敗すれば俺は、先程自らが作り出したあれらよりも無惨な屍を晒す事となるだろう。そんな思考がよぎるさなか、状況の打破求める体が無意識にしたのか、散った猿どもの様子が視界に飛び込んできた。 

眼前にいる存在は間違いなく俺より格上で圧倒的で膨大な熱量を持っている存在だ。そんな相手に真正面から挑むだなんて無謀で愚策で馬鹿げている。そんなの挑む前から承知していただろうに、なんていう馬鹿な奴だ。まともにやれば負け戦だなんてのは承知していただろうに、蛮勇だ。負け戦なんてのはわかっていただろうに、結果なんてのはわかりきった勝負だっただろうに、愚かな奴。馬鹿がいなくなってくれてせいせいする。

―――は!

表情と態度からきっとあの猿どもは一様そう思っているに違いないとわかった。視界の端に映ったそいつらの表情から、態度から、奴らの考えを読むのは、眼前の熱の塊の対処法を考えるよりもずっと容易だった。

 ……けれど。

―――だからこそ、その熱を奪う価値があるってなもんだろうが……!

俺は絶対に挑戦を諦めた阿呆どもの思惑通りにはならない。

「絶対に奪ってやる!」

だからこそ行くのだ。力ずくで強引に乱暴に相手が体内に秘めている熱を全て強制的に己のものにする為に、体を前へと押し進めてゆくのだ。同じような思考、似ている存在の持つ熱がこの俺の体に適合しないなんて事はあり得ないはずなのだ。もし俺が奴の熱を奪えたなら、予想通りに予想以上の俺が生まれてくれるはずなのだ。

―――違う!

 そうだ、奪えたならではない。

「奪う!」

奪うのだ。奪ってゆくのだ。その為に体を、掌を、真ん前に突き出してゆくのだ。今のカミヤという己よりも遥かに巨大で勝ち目など無いと思える相手に真正面からぶつかってゆくのだ。

「奪ってやる!」

よぎる弱い考えを強い言葉の宣言と共に強引に捩じ伏せ、己の身を前へと進ませる為の熱へと変換してゆく。振り下ろされるボス猿の巨大な拳が持つ熱量は確かに強大だ。比べて己が繰り出す腕の熱量はあまりに貧相だ。

違いは目に見えて現れている。二つはまるで流れ星の一撃と小鳥の突撃だ。二つの腕は自分でも笑えるくらい速度と威力が違っている。同じなのは一撃放つ腕に込められた信念の質くらいのものだろう。覚悟して突撃した今でもそんな想像が容易に浮かぶくらいに、奴と俺の腕の速度と質量の差は、威力の差は歴然としている。

「奪うっ……!」

それでもひたすらに前へと進んでゆく。想像は所詮想像に過ぎない。くだらない弱い想像に熱を費やす余裕があるのならば、その想像を生むに使われる余熱は全て前へ進むための糧とするべきなのだ。

「奪ってやる!」

 そうだ。弱い奴が弱い考え抱いたまま弱い言葉を発して何もしないのなら、そいつは弱い奴のままで当然だ。強くなりたいならたとえ今は弱くとも、強い考えを抱き、強い言葉を発し、強くなると決意して、強くなれると信じて強い行動を起こすしかない。弱い己を奮い立たせて、強くしてゆくしかない。

「奪う!」

 そうだ。俺は強くなるのだ。そうなるのだ。そうなってやるのだ。世界の全ての熱はその為の、この今は弱い俺に奪われる為の、今は弱い俺が今よりも強くなる為の、カミヤという己が前に進んでゆく為の糧なのだ。

「オマエの熱を奪う!」

そうとも、だから。

「俺がこの世で最強だ!」

 そうなれると信じて突っ込む。そうなると決意して挑む。そうなると信じてきってしまえば、そうしてやると決意を抱いてやれば、世界はこんなにも容易に俺の思いのままとなる。


「―――アレは……!」

見れば視線の先では黒髪逆立てた少年が猿たちと戦っていた。少年の周りには何匹かの猿が干からびた状態で緑の大地に転がっていた。少年は周囲にいる猿たちから投げつけられる木の棒や石を回避し、あるいは太い木の棒や石を持って襲いかかる猿たちの攻撃を同様に回避していた。猿たちの攻撃を全て危なげなく回避する少年はやがて止まり、のちに大きく身を上下させた。動作と振動から少年が何事かを叫んだのはわかった。けれど彼が何を叫んだのかは、遠く離れたこの場所からはわからなかった。けれど途端、猿の群れが動きを止めた。少年の何を叫んだのかは遠くて聞こえなかったけれど、少年のその行為が猿の攻撃を中断させたのは明らかだった。

「―――風が……」

同時、風も止んだ。無風無音の世界の中、やがて少年はその視線を自らへと群がる猿たちからその場において最も大きな体を持った猿の方へと移動させていった。

自らよりはるかに大きな姿の猿を見上げる少年の動きにはしかし迷いも怯えもないよう見えた。少年は己より大きな存在を真正面から見つめ続けていた。光景を見て、不思議と彼の思惑を理解することが出来た気がした。少年はきっと今、自らよりもずっと大きな猿と戦おうとしているのだ。

光景を前にして、思わず固唾をのんだ。見つめる先、少年はもはや群れる猿たちを見向きもしていなかった。また、先程まであれほど必死に少年へ攻撃を仕掛けていた猿たちはしかし今、そんな少年へ一切攻撃を仕掛けるそぶりを見せなかった。なぜそのような事態になっているのか全く理解できなかった。もしかしたらあの少年が原因なのだろうか。けれど彼が何かしているようには見えない。目の前では予想外の事ばかりが起こっていた。世界はまるで時が止まってしまったかのよう不動を保っていた。だからこそか、目を離す事が出来なかった。

やがてどれくらい時が経過しただろうか。時の針を動かしたのは巨猿だった。巨猿は突如として動きだすと、少年へと向かい猛然と突撃を開始した。さなか、巨猿は目の前の少年を数十人束ねたよりも大きい太さの豪腕を振り上げ、やがて少年の目の前に到達すると突撃の最中に固めた剛腕の右拳を振り下ろした。その突撃の速度は“足”を使って空を行く我々程にも早く、振り下ろす拳はそれ以上に素早くみえた。

そう。巨猿の体は大きい。大きさは少なく見積もっても少年の十倍を優に超えている。なら体積は百倍以上も違っているはずだ。また、自重で崩壊してしまいそうな大きさの体を動かす為なのだろう、巨猿の巨躯の内側に溜め込まれている熱量は周りの猿たちの千倍以上はあると見積もれる。

質量と速度と保有している熱量の乗算が威力となる。

ならば巨猿の剛腕が発揮する一撃の威力は、相当のモノになるに違いない。少なくとも拳を振り下ろした先の地面は軽々と砕く事は出来るだろう。或いは、大きなクレーターの内側に小さなクレーター作るくらいの威力を発揮するかもしれない。ともあれ、巨猿の拳の一撃が一般の猿たちや動物が放つものよりもずっととんでもない一撃になる事は容易に予想が出来た。一方で、そんな巨猿に向かって突撃してゆく少年の移動速度や繰り出した腕の速度はあまりに遅く、また、体や細腕に込められた熱量はあまりに乏しく、見た目は目の前の巨猿と比べてあまりにも頼りなかった。少年の一撃では地面を砕くどころか、石ころ一つを粉砕出来るかもわからない。

巨猿と少年の体躯と保有する熱量の大きさの差は、アイオリスの風車とその下の風車小屋程にも違っていた。光景はまるで風車に突っ込むドンキホーテだった。よほどの楽観主義者であったとしても、少年の行為を挑戦でなくてただの自殺行為だと断言するだろう。

―――無謀だ

巨猿が動いているという点を加味すれば風車が少年を押しつぶそうと迫ってきていると例える方が正しいか。言葉遊びはどうあれしかし、自身の十倍以上の大きさ、百倍以上の体積を持つ膨大な熱の塊の巨猿に自身の右腕を突き出してゆく少年の動きにはしかし、迷いが見られなかった。少年は、自身よりはるか大きな存在に対して反逆しているかのよう見えた。

自ら進んで不壊にみえる壁に自らぶつかっていくような無謀、あまりに想定の範疇外だった。

 無茶だ。無謀だ。あまりに愚策だ。もっとよく考えて動くべきだ。それは勇猛果敢ではなく、ただの蛮勇だ。

 愚かなだけの行為だ。何故そんな馬鹿をやるのか。何故そんな結果のわかりきっていることをやるのか。

「―――」

そう思うからこそ、目が離せなかった。無謀の体現の光景に見惚れさせられてしまった。

見る間にも巨猿の一撃が少年へと迫りゆく。咆哮と共に少年目掛けて振り下ろされた剛腕の一撃に秘められた熱量は何度見ても膨大な量で少年の頭や体どころか彼の下の地面までもが当然砕けるだろう熱量だった。

そんな威力の拳をおそらく少年は一撃に秘められた熱量を理解しているだろうに、けれども少年は一切臆した様子を見せる事なく、自らの細腕で迎撃しようとしていた。

少年は引かない。少年は手を伸ばし続けている。振り下ろされる巨猿の剛腕に対し、少年が振り上げた右腕はあまりに華奢だった。あの少年の年の頃だと、プレートを持っている可能性も、それを使いこなせる可能性も、ましてや熱をまともに操作出来る可能性だって低いはずだ。

きっと少年の伸ばした手は打ち砕かれるだろう。少年の伸ばした細い腕は、わずかな熱しか持たないそれは、巨猿の剛腕に、膨大な熱量の前に折れて屈してしまうに違いない。遠目に見えるその光景はあまりに圧倒的で、光景から得られた予感はほとんど確信じみていて、説得力の塊だった。

けれど。

「……‼」

そしてそんな私の確信が裏切られるのは、いつも通りにその直後だった。

「……そんな―――」

一人と一匹の剛腕と細腕が激突した。瞬間、予想に反して巨猿の豪腕と少年の細腕は停止した。

同時に、互いの全身の動きまでもが停止した。熱量が釣り合ったのだ。

「なんで……」

 わけがわからなかった。不条理と思った。

「なにが……」

混乱しつつも湧きあがる熱に従って注視し続けていると、やがて信じられない事に少年の細腕が少しずつではあるけれど、巨猿の豪腕を押し戻してゆく光景を捉えた。熱量小さなものが熱量大きなものに打ち勝つという、プレートに刻まれていた自然法則の知恵や知識や経験に反する光景が目の前では実現されていた。

「まさか―――」

常識が次々と更新される予想外に思わず呟いた。呆然とするさなかにも巨猿の豪腕はやがて少年の手と触れた部位から小さく細くなり、すぐの後には更に巨猿のその大きな体までもがあっという間に干からびていった。

「まさか……」

光景に、眼前で何が起こったのかを理解する。けれども思い至ると同時、一人と一匹の激突地点に生えている草花が少年を中心になぎ倒されてゆく場面を目撃し、一転して私は混乱させられた。草花がバタバタとその身を揺らしながら倒れるところから判断するに、草花はきっと少年たちを中心に発生した冷たい風に倒されたのだ。風は空気の温度差によって生まれる現象だ。風は空気が冷たい所から温かい所へ移動する事で発生するものだ。また、この温度差が大きければ大きい程に風はその勢いを増すものだ。春も初めのこの季節の体内にたっぷりの水分含んだ草花完全に折る程の強い風を生むとなれば、極端な温度差がなければ成し遂げられないはずなのだ。ならば即ち先程起こった少年を中心として草花がなぎ倒されたという現象は、少年のいる場所の温度が瞬間的に周囲よりも極端に低い状態になったという事を意味するはずなのだ。

「そんな……」

事実と事実を等号で結びつけたとき真実が現れる。

けれど今、事実と事実を不等号でしか結べない事態が起きていた。

群れた猿たちの多くは少年を石で攻撃していた。膨大な熱量を持った巨猿以外は少年との接触を避けていた。少年が巨猿の体に触れた直後に巨猿は停止し、少し後に巨猿は干からびた。少年とあの巨猿とが激突する直前、少年の周囲には同じように干からびた小さな猿の体がいくつも転がっていた。

干からびる―――即ち体の乾燥という現象は、体から水分が失われることで起こる現象だ。我々の持つ手段において生物の体から水分を喪失させるに最も手早い手段は、その生物の体に過剰な量の熱を与えてやることだ。

生物の体は過剰な熱量を与えられた時、熱を与えられた箇所から急激な発汗と栄養失調が同時急激に進行し、急激な発汗は熱が脳に到達して機能を停止させるまでの間ずっと続く。所謂熱射病の症状が起こる。

この時、生物の体に与える熱量を調整し、脳機能が停止しない且つ汗が続くという状況を維持させ続ければ、我々は生物の体をあっという間に干からびさせる事が出来る。おそらくあの少年はそうやってあの地面に転がる猿たちや巨猿に過剰な熱を与えて乾燥させ、干からびさせ、絶命させたのだろう。

少年の見た目をした彼がけれど大人の我々と同じくプレートを持つ人間であると言うなら、或いは彼の才能がプレートの熱操作に特化しているのならばその程度当然出来るからして、即ち今しがた巨猿が倒されたのはあの巨猿がその巨体が完全に干からびる程の大量の熱を少年と接触した腕より直接与えられたからなのだろうというそんな推測に間違いはないように思える。

等号で結べない事実と事実とはこれらだ。干からびるという現象は少年が対象に熱を与える事で起こる現象のはずだ。けれどこの場合、少年の周囲は高温となるはずだ。一方、草花が少年を中心に干からびていない状態で外側へ向かって倒れるという事は、少年を中心とした領域の温度が領域外の温度よりも極端に低いという事態を示している。

 一つの事実は少年の周囲が高温状態であるという事実を示している。

 一つの事実は少年の周囲が低温状態であるという事実を示している。

 矛盾している。どういうわけなのか、まるで理解が出来ない。

―――我々現代の人間は言ってみれば意思ある台風―――低気圧だ

混乱する頭で必死に考える。落ち着ける為、必死で思いつく言葉を整理してゆく。

熱を周囲から吸収し、その熱をプレートの中へ移動させて生きている我々の体温は、周辺温度と比べて高い。加えて我々は“足”での移動の為に、自身の密度を操作して空気と同じ程度にしている。故に風は基本的に常に我々へと向かって吹いてくる。一方で、プレートに溜め込んでいる熱量を操作して自己や直近の温度を周囲より低くすれば周囲へ向けて風を吹かす事も出来るし、例えばプレートに溜め込まれた熱量を他の生物の体内へ直接注入して体中の水分を全て蒸発させてやったなら、蒸気タービンを回すよう、発生する蒸気の風によって周囲にある草花を押し倒すほどの熱風を周囲にばら撒く事も出来る。もっとも後者の場合は発生する風と蒸気が生物の体の水分を瞬時に蒸発させる温度であるからして、その熱風や蒸気があたったなら草花は瞬時に干からびる。

 風は高気圧から低気圧へ、低温から高温の位置へと移動するよう吹くわけだからして、常からして高い体温の我々がプレートの熱を解放して生物の体が一気に干からびるほどの熱を他の生物へ与えてやったというのなら、冷たい風が冷えている周囲から高温物体となったその生物の体や我々の体へ向けて吹くはずだ。

またその際少年が生物の体に膨大な量の熱を与えた際に発生する蒸気の処理を怠っていたというのであれば、高温の蒸気を含んだ熱風が少年を中心とした領域から外側に向けて吹くわけであり、ならばその先にある草花は巨猿と同様干からびてしまわなければおかしい。

そう。普通であれば風は冷たいものが少年らへ向かって吹くのが正しいし、逆に今のように少年らから外側の領域へ向けて吹くのなら、その先に生えている草花はある程度以上の数が干からびていなければおかしい。

けれども今、風は少年から外側へ向けて吹いているし、風は少年の周囲にある草花を干からびさせていない。それらの事実はつまり先程吹いた風は冷風だったという事実を示していて、けれどもそんな事実は少年が巨猿を干からびさせた理屈に反している。

目の前で起きている何もかもが想像の外側にある出来事だった。

少年の成し遂げていることは明らかに世界の法則に反していた。

「わけがわからない……!」

理解ができない光景が、そこにあった。

「こんな……」

プレートの中の知恵でも知識でも経験でも解決しない答えが突如目の前に現れた。

「こんな足元に……」

それがあったのは空の果て、かつて憧れた太陽のある位置にではなかった。

それがあったのは我々が常行く場所から遥か下に位置する大地の上だった。

「こんな時に……」

それは手放そうとした瞬間―――

「こんなに簡単に……!」

始まりのあの時と同じよう夜明けと共に颯爽と現れた。

 偶然の一致を皮肉じみているとも思えないくらい、頭はたった一つの熱に支配されて茹だっていた。

頭を満たしているのは己自身の熱だった。他熱ばかりに満ちていたはずの体内に、己自身の熱が生じていた。生まれた己自身の熱はあっという間に他熱を押し退けて体の中を隅々まで満たしていった。

「あぁっ……!」

とめどなく湧き出てくる熱と思いはやがて涙へ変換され、目から零れ落ちていった。とめどなく溢れ出てくるそれを止めようとも抑えようとも思わなかった。かつての時と同じよう、かつてのあの時以上の熱さを保有して我が身からとめどなく湧き出てくるその熱は、やはりかつて以上の心地よさに満ちていた。自らをこんな状態に追い込んだ彼の正体を知りたいと思っても、彼が今何をしたのかを知りたいと思っても、プレートは何の答えも声も返してこようとしなかった。それこそまさに何よりの救いの証だった。

「こんな……、こんな……!」

時が動き出していた。頭を掻きむしった。呼吸が大きく乱れていた。頭はずっとくつくつと熱に茹っていた。煮えたぎる灼熱の感覚にはやはり不快感がまるでなかった。体の中に溜め込まれていた熱からは、鬱屈の成分が余さず完全に消え去っていた。己の体内が己自身の熱に満ちる感覚は、あまりにも心地よかった。

奇跡だと思った。己の体内を満たしているのは身の内から生ずる情熱ばかりだった。

それは遥か昔、夜明けの世界を見た時に得た熱とまるで一緒だった。

「こんなの、予想外だ……!」

想像を超えた光景には問答無用の説得力があった。旅路の果て、足掻き続けた先には、確かな救いがあった。求め続けた場所に辿り着いたのだと確信させられた。まるで理解不能という事実に、心の底から救われていた。

眼前に現れたのは理想の体現だった。

「あれはなんだ……!」

少年の存在はただの奇跡だった。

「あれはいったいなんなんだ!」

そこにいるだけで自分の生涯の全てを肯定する存在が眼下に佇んでいた。

「あんなものがどうして……、どうして―――、どうして今になって―――!」

旅路の果て、プレートの中の知恵や知識や経験を超える矛盾を起こしたとんでもない存在と出会えた奇跡に、ただひたすら圧倒されていた。胸の中は、情熱が生み出す心地良さで満たされ続けていた。

「お、おぉ……!」

涙が止まらなかった。泣く以外に出来る事がなかった。目端から零れる情熱を帯びた涙が雨粒のよう地面へと向かって落ちていった。そして落ちた涙はそのさなか、“足”の影響範囲外へと出た途端、唐突に弾けて砕けて凍ってきらきらと陽光を乱反射しながら消え失せていった。パチパチと弾けては消え失せてゆく涙のその様を、まるで花火のようだと思った。ばら撒かれる氷晶はやがて空気中の水分を纏い大きな水滴へと変化していった。生まれたそれらの水滴はやがて更に集って雲となっていった。きっとあの情熱の雲は今後も更に成長してゆき、いずこかの場所において大地に雨を降らすのだろう。私の情熱が生み出したその雲は、やがていずれいずこかの大地を濡らし、草木を潤し、他の存在の命を紡ぐ手助けをするのだ。

不意にそのよう散りゆく私の熱を、まるで金貨のようだと思った。

今の自分もそんなやり方で世界に己の熱を刻む事が出来たのだという事実を痛いくらいに理解させられた。

「あ……、あぁ……」

やり方を理解させてくれた少年を飽きる事なくひたすら眺めていた。

さなかにも涙はとめどなく溢れ、世界に私の熱を刻み付けていっていた。

「あ……」

溢れる涙を止める事もせずに世界へ熱を刻む方法教えてくれた少年を眺めていると、少年はやがて完全にその体内から水分が失われたからなのだろう、干物のよう薄くなった巨猿を投げすてると、森の方へと駆け出した。さなか、少年は森の近くおちていた赤のジャケットを拾い上げると羽織り、そのまま森の中へと消えていった。一方、己らの頭領だったのだろう巨猿をやられた猿の群れは、一目散少年が消えたのと別の方面に移動すると、けれど少年と同様に森の中へと姿を消していった。私はその光景を涙が止まるまでひたすら眺め続けていた。


「お―――」

私が正常な意識を取り戻したのは彼が消えた森の中だった。そうして正常な意識を取り戻すと同時、どうやら私はあれからずっと先程の少年探して彷徨っていたらしい事を思い出す。おぼろげな記憶、少年の後を追うのは容易いだろうと考えた事を思い出した。次いで自分が何故容易と思ったのかも思い出した。

なぜなら彼が消えていった森の中は、どこもかしこも地面が泥濘んでいる。多分夜露と霧の仕業なのだろう、そんな泥濘ばかりの地面の上には、けれどもう乾いている部分が存在している。そうして乾いている地面の部分には、わかりやすく人の―――おそらく少年の足跡がくっきりと残されているのだ。

入り組んだ森の中を“足”も使わず進んでゆく人間などまずいない。ならば地面の上の足跡は、少年が残したものであると考えていいはずだ。そうとも。地面にくっきりと残っている足跡を辿って追うなんてのは確かに、五十年の間当てもなく彷徨い続けたあの旅よりはずっと容易いに違いない―――

「……くそ」

はずだった。

「こんなはずじゃ……」

けれどやはり世界は変わらず、私に厳しく望みが易々とかなわないよう出来ていた。五十年もの旅のさなかに嫌というほど味わってきた『求めるほどに遠ざかる』と言う法則はこんなところでも威力を発揮した。

「ち……、また……」

 私がそうして正常な意識を取り戻して少年の跡を追っているのだとそう認識した途端、求めている事を正確に把握した途端、少年を追うのが難しくなっている事に、目標から遠ざかっている事に気付かされてしまった。

「くそ、またか……!」

道を進むにつれて気づけば私は少年が残した乾いた道を逸れそうになっていってしまう。気付けば、“足”は乾いていない地面の方へ向かって進もうとした。“足”は必ず、少年の残した道から逸れて別の場所へと進んでゆこうとするのだ。

「―――くそっ……!」

理由はもちろんすでにわかっている。

「風め……!」

少年が残していった道の上は、周囲に比べて乾燥していて風が乱れているのだ。水気が宿っていない乾燥道の温度は周囲よりも低く、そんな道に宿る冷たい空気が周りの暖かい空気を押し除けるから、そうして乾燥道には対流が生まれ、そして生まれる小さな気流や温度差が森の中の空気をひどく乱して、温度差を利用して飛行する“足”の挙動は狂わせられてしまうのだ。

「くそ……!」

気付くたび“足”の軌道を修正した。軌道を修正するたび、少年の足跡が薄くなっている事に気付かされた。それは起こって当然の現象だった。だって南緯十五度程度にあるこの場所は通常、いつも気温も湿度も凄まじく高いのだ。故に、道に沿って“足”を動かして前進していると、“足”が生み出す風によって周囲の熱と湿度が足跡残る道へと侵入してきて濡らし、乾かし、終わりにはやがて薄れ、少年の足跡を消していってしまうのだ。

そうして何度も道を見失いかけた。都度、必死になって薄れた足跡を探して、見つけて、追いかけた。思う。ぐずぐずしていたら少年の残した足跡は消えてしまうだろう。そして私は再び、旅の目印を失ってしまうのだ。そして私の世界はきっと再び、何事もなかったかのよう平穏の時に呑み込まれていってしまうのだ。

―――それだけはごめんだ……!

ここのままでは二度と少年と会えないという予感がした。予感は確信じみてもいたし、説得力もあった。

―――本当に?

だが同時、『とはいえここで無理をして己の体を壊してしまっては元も子もない。焦らずにじっくりと進もう。消えてしまったとしてもその時はしょうがないと諦めよう。人生において諦めと許容が何よりも肝心だ』などと反吐が出そうなくらい醜悪で最悪に甘っちょろい考えのもとに生まれた言葉が浮かびあがってきて、プレートはその意見に賛成するかのよう効率よく身を休める方法だのの知恵や知識や経験や熱量を私の体に提供してきて、私の体をその場へ押しとどめようともした。

―――絶対に、嫌だ!

そのよう生温く甘っちょろい言葉に流されてしまいそうになる己自身を嫌悪するという行為や熱が核となり、私の体は生まれる自己嫌悪の熱や与えられる知恵や知識や経験や熱量によって前進を止めてしまいそうになる。本当に情けない。変わりたいと思っていても、挑戦しようと思っても、一瞬で折れそうになってしまう。

―――あんなところに、あんな自分に、戻りたくない!

プレートや私の体が前へ進もうとするのを止めたがる理由は、勿論わかっていた。なぜなら、やる為の理由を見つけるよりもやらない為の理由を見つける方が容易く、挑むより逃げる方が簡単で熱の効率がいいからだ。

 やらない為の理由を探し、何かを始める前から諦めて動かないでいるというのは、熱効率が最も良いからだ。

 そうしてひたすら慣れ親しんできた道だけを選んで進み続けてゆくのは、本当に楽で簡単だからだ。

―――本当に?

五十年の間に育んできた人格と生き方は、隙あらば楽な道を選択させようとしてくる。

―――本当に?

自分はいつだって同じ楽な道を選んでは、望まない後悔を選択し続けてきてしまった。

―――本当に?

自分はいつだって自分以外の力に頼って、歩きたくない道を歩み続けてきてしまった。

―――本当に?

本当だとも。

―――本当に、楽を望んでいなかったのか?

本当だとも。

―――本当に、楽に過ごしてきた事をずっと後悔していたのか?

本当だとも。

―――ならばなぜ繰り返してきた?

声が聞こえる。頭に響く声が行動の矛盾を責め立ててくる。これまで旅の中で飽きるほどに繰り返してきた、無意味で正しさのない、自己陶酔に浸り、己を存分に憐憫する為の自慰的な自己問答の言葉が頭に響いている。

―――楽を望まない?

何が正義かなんて、私にはわからない。

―――望んでいないならば、なぜ使う?

くだらぬ問答に時と思考を費やす間にも、少年の足跡は消え失せてしまってゆく。

―――なぜ望まぬ楽をさせてくれるプレートの力に、なぜ頼る?

目の前に現れてくれた希望を見失うのが、何よりも怖い。……だから。

―――なぜ……

「うるさい! 引っ込んでろっ!」

―――……

だから私はプレートの力に頼って進むのをやめる事を決意し、地面に降り立った。

「ふっ……」

頭の中で響いていた煩い声が消えたのは自らの足を使って歩き出してからすぐだった。

「ふっ……、ふっ……」

大地を自分の足で踏みして前進するごと、体は、足は、濡れた地面へと沈みこんでゆく。

「ふっ……、ふっ……」

自身の足の裏で自重支える感触味わうのは久しぶりだった。朝の森の中はひどく鬱蒼としているうえ、湿度も高く、暗い。故に、“足”という楽を覚えて鈍りきっていた体はすぐさま汗だくになってしまってゆく。

「はぁ……、はぁ……、は―――」

気持ち悪かった。熱の溜まった場所から服の色がどんどん変わっていった。顔どころか全身が汗だくだった。息があがっていた。苦しかった。呼吸が早かった。体が熱かった。頭が痛かった。拭っても拭っても滝のように吹き出てくる汗を何度も拭っては地面の上へ投げ捨てた。そのよう泥臭く辛く苦しい経験をしたのは、果たして何十年ぶりの事だっただろうか。

―――楽になってしまえよ

気持ち悪さを理由に頭と体がもうやめろと囁いてくる。五十年もの間に培われてきた私の体の怠惰の性分は、プレートは、いつだって楽な道を歩こうと悪魔の誘惑を脳裏へと響かせてきた。

―――わざわざ苦しい思いをするなんて馬鹿じゃないのか?

「うる……さいっ!」

楽と低徊望む己を強引にねじ伏せるべく叫び、ひたすらに体を前へと進ませてゆく。

―――時間がないのだろう?

「黙れ!」

その通り時間がないにも関わらず、けれどもプレートの力を借りずに非効率的でより時間を消費する足という手段を用いて、空中を高速で移動する“足”などではなく、大地を己自身の足でゆっくりと進んでゆく。

―――馬鹿げている

「言ってろ!」

確かに今の自らの行いは馬鹿げていると嘲笑されて仕方ない行為と言えた。手元にある便利な手段を用いず、わざわざ効率の悪いとわかる手段を用いて苦難の道を歩いていこうとしているのだから、それは馬鹿愚か阿呆と呼ばれても自棄とよばれても文句を言えない所業だ。

「ふっ……、ふっ……!」

けれど、馬鹿馬鹿しく他人からしてみれば自暴自棄みたい見えるのだろう苦難の道をあえて歩いてゆくのは、不思議と悪くはない気分だった。少なくともその馬鹿愚か阿呆で自棄な行為は、プレートの力を用いて“足”に頼って楽々と進み続けていた時よりもずっと私を心地よい状態へと導いてくれていた。

「はっ……、はっ……、はっ……」

―――……

 自らの目でまっすぐ前を見て、自らの目できちんと足元を確かめ、自らの足を用いて、自らの意思に従って、前へ前へと進んでゆく。そんなことを只管続けていると、やがていつも響いていた誘惑の言葉はいつしかまるで聞こえないようになっていた。いつも通り私をその場へ低佪させようと誘惑する言葉が脳裏に響く事はいつしかまったく起こらないようになっていた。当然の事だけれど、体が逸れてゆく現象ももう起こらなくなっていた。私は久しぶりに己自身の手で、足で、意志で、好きなように世界を進んでゆく事が再び出来るようなっていた。

「はっ……!」

確実に前へ進めているのだと思った。自身を誇らしいと思ったのはプレートの力を使い熟せるようなって以降初めての事だった。疲れると承知の選択を実行してよかったと本当に思った。初めての感覚を楽しみつつ倒れてしまいそうな体をただひたすら前へ押し進め、遠からず消え失せてしまうだろうその足跡を追って進んでゆく。

「……これは―――」

 するとある時、突如として視界が開けた。

「―――家?」

開けた視界の先に現れたのは多分、住居だった。多分などという言葉で修飾せざるをえなかったのは、その住居が一本の若い木の根が絡み付いた大きな土塊にくりぬかれる形で存在していたからだ。

「だな……」

ともすれば単に自然が生んだ造形物とも見えるそれを、けれどもようやく誰かに作られた住居だと判断出来るようなったのは、土塊に階段と扉が存在しているのを見つけてからのことだった。

―――嫌な気配だ

けれどおそらくは人の為に作られているのだろう人を住居へと導くべく作られた階段とその場所へ続く稚拙な作りの木製の扉には、不思議と近寄りがたい雰囲気があった。家と言うものは普通、誰かを中に受け入れる為に作られている。ものなのだけれども、土をくり抜いて作られたこの住居には、まるでプレートのように己以外の熱を求めていないというそんな拒絶の雰囲気があった。

「……これなら満員御礼状態の“宿”の方が余程上等だな」

そのなんとも近寄り難い他人行儀の雰囲気が手足をその場へとくくりつけ、私は再び体を動かせなくなった。見れば見る程、住居はまるで他人を寄せつけないために作られているかのよう感じられるのだ。

―――はて……?

 他の存在侵入を拒絶する作りの住居という言葉に引っかかりを覚えて、首と唇を傾げた。瞬間、いつも通りにプレートの力に頼り答えを得ようとした己がいる事に気付き、プレートが反応して正しい答えを返すよりも先に慌てて浮かべた疑念を霧散させた。プレートが答えを返してこない現状に胸をなでおろしつつ、思う。

―――とはいえ、このままなにもしないでは今までのようになにも始まらない

「……どなたかおられるだろうか」

弱気の想いを過去で強引にねじ伏せつつ階段を上ると、意を込めて声を出しつつ扉を叩いた。

「あぁ……」

するとしばらく静寂の時間が続いたその後、素っ気無い返事とともに木製の扉は開かれた―――というより、外された、と言った方が正しいだろう開かれ方をした。稚拙な作りのその木製の扉は、まるで戸板のよう土塊の入り口にはめ込まれているだけだったのだ。

「……」

外された扉の向こうに現れたのは、予想通り、先程遠目に目撃した黒髪の少年だった。また、そんな彼がいる住居の中は、中の様子が一目で見渡せないくらいに薄暗く、故に少年の姿はその一部が闇に隠されていた。

「―――」

玄関口でこちらの姿を目視した途端、少年は手にしていた木製の扉を入口横の壁に置くと、少し身を引きつつ目を細め、眉間に皺を寄せ。そのままその場所に陣取った。

「……」

 少年の態度は明らかにこちらを警戒してのものだった。

 突如の訪問が彼の警戒の態度を招いてしまったのは明らかだった。

「……」

 少年を警戒させてしまった、けれども少年との交流を望むものが行う態度としては、まず少年が警戒の態度を解いてくれるよう、敵対する意思を持ってなどいない事を言葉や態度で示すのが正しかったと言えるだろう。

 しかし。

「……」

「……」

―――これは……

その時の私は、未だ少し闇を纏うそんな少年を目の前にした瞬間、まず感動が押し寄せ、続けて驚きと疑問が頭と胸の中に湧き上がってきて、更には発生したそれらの想いと感覚と疑問の言葉が体中に満ち溢れていって、当然とるべきだった常識的な態度を行う事が出来なかった。

―――想像以上に華奢だ

目の前にいる少年は空の上から眺めた時とは異なり、背丈と体格だけを見れば青年と呼んでいいだけの高さと大きさの肉体をしていた。青年の体格は、痩せているという事が出来ない程度には鍛えあげられているけれど、十分鍛え上げられた肉体と表現するには肉や骨の量が足りなすぎている体つきをしていた。

―――だが……

けれどその見た目だけならば少年というよりは青年と呼んだ方が差支えないと思える姿格好の彼にはしかし、少年と呼んだ方が正しいと思わせる若々しい雰囲気があった。多分その若々しい雰囲気が空の上にいた私の目を曇らせて、彼を少年であると私に認識させるに至ったのだろうと思った。

「……」

 どれだけ無言続けようと一言も文句をも投げつけられないのをいいことに、改めて少年の姿を眺め続ける。

―――本当に、不思議な子だ……

扉から差し込む光に照らされる青年の瞳は黒かった。同じよう光を反射して輝く黒髪は、多少乱雑且つ粗暴な雰囲気ながらも短く刈り揃えられていた。青年は今では存在自体が珍しい長い袖の真っ赤な厚手のジャケットを羽織っていた。ジャケットの下に着込んでいる黒いシャツと灰色の長ズボンの生地もだいぶ分厚かった。

―――まるで熱を逃さないための格好……⁉

そこでようやく青年の保有する熱量が極端に少ない事に気付いて驚いた。青年の保有する熱量は、今の時代におけるプレートを操る事出来る一般的な大人が持つ基準熱量にまるで届いていないのだ。

―――過去の、私……

反射的に思い至る。青年が持つ若々しい雰囲気の正体はきっと、青年の体の保有熱量が我らの少年期のそれと等しいか、あるいは以下くらいしか存在していないからだろう。

―――こんな……

だからこそ私は、この大人の体を持つ彼を少年に見間違えたのだ。それはあまりにも失礼な私の勝手な予測に過ぎなかったけれど、その予測はただの妄想に過ぎないとの一言で切り捨てるにはあまりに説得力があった。

―――こんなの……

改めて胸が熱くなる。見た目普通の姿で、着用しているものだけが少しだけ奇異で、けれど見た目と着用しているものだけが奇異なだけのはずの青年はしかし少年どころか幽霊かと思える程度の熱量しか持っていない。

―――こんなの……!

青年がその華奢な体に保有する熱量はとてもではないけれどあの巨猿に熱を与えて倒せるほどのものでない。けれど私は確かにこの青年が巨猿を打倒せしめたところを目撃したのだ。そんな矛盾に改めて確信させられる。彼はきっとこの私には理解のできない何かを持っているに違いないのだ、と。

―――こんなの想定外にも程がある……!

世界の果てが更新されたという実感を改めて得させられた。そんなさなかに得られた感動と驚きは以前よりも更に強烈だった。そして私はまた、体の内より湧き出てくる熱によって行動を停止させられた。押し寄せてくる熱や熱が生む感覚はあまりにも甘美で、私はどうしても自分からこの久方ぶりに体験させられた心地良い状況を自ら進んで壊す事が出来ずにいた。

「あんた……」

そのよう悦楽に浸って停止し続ける私の時を動かしたのは、やはりと言うべきか目の前の青年だった。

「……」

青年はその一言だけ漏らすと再び無言になったのち、上から下まで舐めるような視線をこちらに送ってきた。青年の顔には困惑の色が浮かんでいた。態度を、相手を慮って言葉を待っているというより、人馴れしておらずどう反応していいかわからない故に警戒心を解けない現れなのだろうと感じた。

―――珍しい……

他人を警戒するだなんて感覚を持つ人間、誰もが旅するようになり、あちらこちらにある“宿”に身を寄せて休めるのが当たり前の今の時代、“宿”において他の旅人と同じ部屋で一緒に過ごすが当然の今のこのプレート全盛期の時代においてはとても珍しい。即ち青年のこの珍しい警戒の態度は、私の彼が人馴れしていないというその予測を裏付ける何よりの証拠だと思った。

「やぁ」

ともあれこれ以上不信感を得ないで済むように、不信の態度を示す相手には長ったらしく言葉を重ねるよりも簡単な態度にてこちらが敵対の意思もっていない事を示す方が信用されやすい事を知識として持っている私は、常は真一文字に結び続けられていた唇を可能な限り吊り上げ、頬を緩め、努めて単純な挨拶を投げかけた。

「ああ」

そのような意図の元差し出した言葉に返ってきた青年の言葉は、先程と変わらずぶっきらぼうなものだった。けれども、応答の言葉が返ってきたという点と青年の態度から少しだけ刺々しさが消えていると感じられた点にこちらに敵意がないことが伝わったのだという確信を得て、内心ひっそりと胸を撫で下ろした。

「私の名はアリュアッテス。どこにでもいる旅人だ。君は?」

続けざま努めてにこやかに穏やかな口調を崩さないまま尋ねると、青年は一瞬目線を壁の方へ向かけたのち、しかしすぐさま自身よりも背の高い私へと目線を合わせ、口を開いた。

「カミヤだ。ここでミウミと暮らしてる」

「ミウミ?」

多分は人名なのだろうと予測出来た単語をけれど確認の為に聞き返してゆく。

「ああ」

するとカミヤは体を入り口から少しだけどけた後、目線を住居の先程向けかけた壁の方へと送った。おそらく見ろという意思表示なのだろう。無言で行われた誘導に従って少しだけ玄関に足を踏み入れ、薄暗い住居の中の奥の方を覗いた。すると、暗がりの部屋の奥には一人の少女が寝そべっているのが分かった。

「彼女がミウミ?」

 住居の隅、部屋の壁に沿う形で土塊を削り作られたベッドの上において自らの身を完全に覆ってしまう程度の大きさの薄布羽織って仰向けに横たわるその少女は、こちらや青年の声に対してもまるで無反応を保っていた。

―――余程深く寝入っているのか……?

「ああ」

言うとカミヤは奥へ引っ込むと、ミウミと呼ばれる少女の横たわる寝台のすぐ側まで歩いたのちにその場へととどまり、再び視線をじっとこちらに向けたまま動かなくなった。

―――ふむ

多分その視線と無言の態度は入ってこいと言う意思表示なのだろう。

「入っても?」

「ああ」

「では失礼して……」

それでも一応カミヤに尋ねて正式に許可を得てから住居へと足を踏み入れてゆく。

「お―――」

一歩踏み入れた後、彼らの住居の薄暗さに思わず呟く。玄関は扉が外れている入口からわずかに差し込む光がなければ玄関と部屋の間に段差があると気付けないくらいに薄暗く、家の中はそれよりも更に暗いのだ。

―――明かりを…… 

 瞼を何度か瞬きさせて両目をなんとか家の中の暗さに適応させたのちに改めて視線を家の中へと送り直すと、ほとんど反射的に入口近くに立てかけられていた扉を手繰り寄せて木製の玄関扉を今しがた己が身をくぐらせた入口へ嵌め込もうとした。動作は『扉は開けたら閉めるもの』という私の常識に基づいて行われたものだった。

「……しまった」

己の常識に従い無意識的にやったそんな行為がこの場合において過ちだったと気付かされたのは直後だった。そうして入口を木製扉で完全に封鎖されてしまった家の中はすぐさま光を失い、部屋の中は先程よりも濃い闇によって包み込まれてしまったのだ。変化に、この入口はこの暗い部屋の中へ唯一光を取り入れる場所だったのだという事を悟り、慌てた。

「すまなかった。今―――」

「……気にしなくていい」

急いではめ込んだ木製扉を取り外そうとすると先に部屋の奥へと引っ込んでいたカミヤの声が聞こえてきて、私の挙動を停止させた。聞こえてきた声は先程より随分と柔らかいよう感じられた。思うにきっと、私の失態が道化のそれと同じ役割を果たして青年緊張と警戒を解してくれたのだろう。事実に少し安堵の気持ちが湧くも、けれど意図しない失態が一番彼の不信を払ってくれたのだとすればそれはまたなんとも皮肉だとも思った。

「こっちを開ける」

声が聞こえた直後、部屋の中は突如として明るく照らされた。同時、汗ばんでいた肌を柔風が撫でゆく感触を覚えた。感触の出処を探るかのよう振り返ると、光により照らしあげられた部屋の奥、ミウミという少女がいた場所から少し離れた所に入口の扉と同じような作りの木の板を持つカミヤを見つけ、また、カミヤの横の壁には入口より少しだけ小さい大きさの四角い穴が空いており、光はそこから入ってきているのがわかった。

「元々こっちの穴はそのためだけに作られた窓ってやつだからな」

穴の向こうには木の立ち並ぶ光景があった。カミヤの言葉とその光景から、その穴は光を取り込むためだけに開けられた窓という事を理解し、ならばカミヤが手に持つ木の板はおそらく、入口の木製扉と同じくこの部屋の外と内とを隔てて光を遮断するためのものだったのだろうと判断した。

「今の時間帯だとこっちを開けた方が明るいし、気持ちがいい」

言葉に、窓から飛び込んできた光が部屋の中の多くの場所を白く染め、また、飛び込んできた風が肌を撫で、部屋の印象を先程よりも清涼に見える状態へと変化させたのだと悟った。光と風によって清潔感を得た部屋は、確かにカミヤが言うよう、明るく、風通りがよく、涼しく、気持ち良いものだった。

「な?」

「あぁ……そうだな」

返すとカミヤは無言のまま、満足げに頷いた。そしてカミヤはそのまま木の板を窓の側の壁へ立てかけると、こちらへ向けた視線を外さないままミウミの眠るベッドの方へと移動したのちに静かに床へ腰を下ろした。

―――よくもまぁ迷いなく動けるものだな……

部屋は先程よりも明るくなったとはいえ、まだその一部が闇に包まれている。窓から部屋へと飛び込んだ光は確かに部屋の一部を綺麗に白く染める程に明るいものだったけれど、カミヤとミウミが今いる一角にまで効力を及ぼす程でなかった。即ち部屋は未だその一部が、薄暗い闇に包み込まれているのだ。けれどそんな暗闇の中、カミヤは迷いなくミウミの側へ進み、その横に腰を下ろしたのだ。

カミヤが暗がりで見せる動作は彼の会話のそれとは反対に迷いがなく、手慣れている様子だった。

そんなカミヤの様子にようやく同種の人間らしさを見つけ、少しばかり安堵の気持ちが湧き上がってくる。

「ずいぶんと長い間ここに腰を落ち着けているらしい」

 安堵の思いは確信の思いをあっという間にそのまま言葉へと変換して外へ放り出した。

「ああ。気付いた時から、ずっとここでミウミと暮らしてる」

けれど得られた安堵の思いはカミヤが何気なく告げた言葉によって、あっという間に消失した。

「ずっと? 二人で?」

信じられず、思わず聞き返した。

「ああ」

「気付いた時から?」

「ああ。オレは、物心付いた時から、ずっとここでミウミと暮らしてた」 

「ご両親は?」

「知らない」

「他の誰かは?」

「知らない。あんた―――、アリュアッテスがミウミ以外で初めて会った人だ。今日アンタがここに来るまで、俺たちはずっと俺らで過ごし続けてきた」

言葉に驚きは特大のものとなった。だってカミヤの在り方は私の知る世界の常識から大きくかけ離れている。

今の誰もが我が身に満ちている他人の熱を捨てたがっている世の中では人付き合いを好まない人は多くいるから珍しくないし、己の両親がいないというような事やずっと二人だけで生きてきたというような事も珍しくない。他熱の塊である子を疎ましく思い旅先の“宿”などに捨ててゆくような人間も、両親兄弟から捨てられたような人間も、誰かとの繋がりを捨てるために世を捨てるような人間も、自ら砕けて散ってゆくような人間も、珍しくもない。ただ、目の前のカミヤのよう最初から捨てられたわけでもなければ誰かとの繋がりを持たずに過ごしてきた断言して言い切る人間は初めてだった。

気付いた時から誰とも繋がりがない状態だった。その後にも誰とも繋がってこなかった。果たしてどうすれば今のこのプレート全盛時代においてそんな風、誰にも、何にも、プレートにも頼ってこなかったという物言いが出来るのか―――

「……カミヤ」

と、そんな事を考えていた時、気付く。

「君、プレートはどこへ?」

 先程の巨猿との戦いの折、プレートの力を十全に使いこなせる私がけれどプレートの中の知恵や知識や経験を用いても理解する事が出来なかった現象をおそらくは特化型プレートの力を用いて起こしたのだろうカミヤは、けれどもその特化型のプレートを今持っていないよう見えるという事に。

「プレート?」

薄暗がりの中から戻ってきたカミヤの言葉の調子と態度は、軽い気持ちで質問した私をけれど先程まで以上の驚きの渦中へと叩き込んだ。

「これだ」

慌てて両腕を前へ差し出す。己の両腕にあるブレスレット型に変化しているプレートは、差し出された途端、窓から飛び込んでくる光を受けて自身の存在を主張するかのよう煌びやかな金属光沢の反射光をばら撒いた。

「プレート。知っていると思うが、個人によって多少形状に差異があるけれど、そのどれもが遠く昔の先祖から今の私に至るまでの間に彼らが会得してきた知恵と知識と経験と熱が詰めこまれている万能道具だ。プレートは例えば服や靴や旅の道具といった日用品から非常時用の道具などの生み出し方から使い方から習熟するに必要な知恵や知識や経験や熱量を私たちへ与えてくれる存在で―――君らくらいの年であるのなら、ご両親がいないというのであれば、余計に当然、なんらかの形で、君がこれまで送ってきた人生、或いは育んできた人格に沿った形で発現したプレートを保有していて当然なのだが……」

長ったらしい説明が自分でもそうと感じるほど早口気味で捲し立てるよう出てゆく。

―――しまった……

このような説明ではプレートの何たるかを知らない人には理解出来ないだろうと思えたのは、知っている事を前提に語ってしまった事に気付いたのは、多少のひっかかりを覚えたのは、言葉を途切れさせた直後だった。

「あー……」

聞こえてきた間延びした声に反応し顔を向けると、そこには予想通り話の内容を完全に咀嚼して理解する事が出来なかったのだろうカミヤが腰を下ろした姿勢のままにまずは頭を掻き、続けて首を捻り、更には腕を組み、最後には片手で顎を擦りながら視線を上へ向ける場面が視界に飛び込んできた。

「んー……」

そのよう少しの間だけ逡巡し続けていたカミヤはやがてこちらへ首を伸ばしてくると、私の両手に嵌っているプレートを物珍しそうに眺めたのちに目を瞑り、のち、先程のよう逡巡してから目を開くと首を横に振った。

「知らない」

 堂々とした態度から発せられた無知を宣言する言葉に、呆然とさせられる。

「知らない……って、カミヤ、君、これまでどうやって生きてきたんだ? 誰にも頼らず生きていたんだろう? なら水などはどうしていた? その服はあの靴は扉は窓はこの涼しい住居はどうやって作った?」

直後、予想外の事を少しでも理解したいという想いが働いたのだろう、質問が次から次へ飛び出していった。次々たたきつけられる言葉を前にしたカミヤは顔を伏せて少しだけ目線を細めた。次いで、おそらく奥歯を強く固く噛み締めたのだろう、カミヤの口の端の皺の数が増えた。カミヤはそしてそのように顔色を曇らせた直後、自らの右腕をもう片方の腕で押さえるとばつが悪そうに目元歪めつつ私から目を背け伏した。

―――しまった……!

拒絶の仕草に、私はようやく今しがた己のした質問がカミヤにとって指摘されたくなかった類いの無礼千万の質問であったという事に気付かされた。

「あ、いや、その、カミヤ……―――」

「―――服と靴はミウミが作ってくれた。」

礼欠いた言葉と態度とってしまった非礼を詫びるよりも前、カミヤは頭を左右に振ると面を上げ、そののち、強引に気を取り直したかのようゆっくり力強く頷くと、ベッドの上で眠るミウミへ視線を移動させつつ告げた。

「水もそうだ。水はミウミが起きてる時はミウミが補充する。ミウミが寝てる時は下の階にある貯水の溜池から俺が取ってくる。とってくるための瓶も壺も全部ミウミが作った。服も靴もそうだ。さっきの扉と窓のだけは、俺が作った。家は……、知らない」

カミヤは家の中を見回しつつ言った。

「ただ、この家が涼しいのは、家の下にある貯水池と家の天辺の空間までが繋がってて、貯水池には吹き抜けがあって、風が上から下までを通って循環するよう出来ているからだってミウミから聞いた」

言葉に、おそらくこの家が古く乾燥地域においてよく採用されていた風取り塔と貯水池にて室内を涼しく保つ風の塔と呼ばれる仕組みを採用した作りになっているのだろうと推測する事が出来た。

推測を確かめるよう周囲に観察の視線を送り直すと、優れた作りの住居や瓶や壺、家具類や床や壁が高度且つ精緻な作りであるに比べて、入口扉と窓を塞いでいた木製の二つだけは確かに、造形が荒々しく、飾りも遊びもまるでなく、高度な技術を持つものがわざとそのよう作り上げたと言うよりは、理屈を知らない者が元々あったそれらの形を力任せに真似て削って強引に見た目を整えて作成したと表現する方が正しいと思える稚拙な造形をしているという事にも気がつけた。

ミウミが作ったという服や靴や家具類とカミヤが作ったという木製の扉や窓の戸には、埋めて埋めて埋めても埋め尽くし難い、筆舌にし難い差があった。造形の差異はそれらを作成した者らが保有する知恵や知識や経験の差異を如実に浮き彫りにしてしまっていた。異なった存在に作成された造形物において唯一共通しているのは、それらの造形物はきっとそれが真に必要となったから作成された物であるのだろうと理解できる点のみだった。そう。それらはその造形こそ圧倒的な違いがあるけれども、年季が入っていて生活の痕跡が強く感じ折られるというただ一点のみにおいては完全共通していたのだ。

「では……、ミウミという彼女がプレートを持っているのではないだろうか?」

それら事実と先程のカミヤの言葉とプレートを持っていない存在がこの熱の世界で生きてこられるはずがないという私の持つ常識から導出した結論を述べると、カミヤは再び首を横に振った。

「いや。ミウミはそんなキラキラした飾り、持ってない」

「本当に? いや、プレートはこういう色形と限らない。例えば首飾りとかブレスレットとか、なんなら肉体のどこかに小石のような物が埋まっていたり、ちょっと普通の人よりも肉体に変化が―――」

「悪い。俺にはアンタがどんなものを想像してものを言ってるのかがわからねぇ」

言葉を詳細に分解して問いかける最中、カミヤは如何にも不満げ且つ不承不承と体裁に唇を枉げて歪めると、私の言葉を途中で遮って立ち上がった。

「だから―――」

 カミヤの行動は早かった。止める暇がまるでなかった。立ち上がったカミヤは言いつつすぐ側にいるミウミに覆いかぶさっている布の端を手にかけると―――、

「だから、あんたが見て判断してくれ」

直後、一切の遠慮なく、彼女を覆っていた薄い布を剥ぎ取った。

「む……」

寝そべっているミウミという少女は完全に裸だった。小さな頭から野放図に生えた薄暗がりの中にあって尚も綺麗に輝く金の長い髪だけが、カミヤより一回り小さいそんな彼女が完全に肌身を晒す事を妨げてくれていた。手入れされていない様子の長い髪に全身を覆われ眠るミウミの姿は、少女というよりもハリネズミじみていた。布団の下から現れた露な姿に驚きつつ、それでも反射的に観察を優先ししまったのは、五十年の間に培ってきた『新たな刺激』や『己の熱を挟み込む余地』を求めて観察し続けてきたという習慣のなせる技だったのだろう。

―――随分とまた、幼いな

視線送ると、ミウミという彼女は青年と呼べる体躯のカミヤと比べて大分小さい体つきである事がわかった。その顎の丸さがまた、幼いという印象を強くこちらへ与えてくる。手足と体には余計な贅肉が一切ついてなく、一度も地面を歩いたことが皆無の生まれてすらいない子宮内のハラコよりも柔らかそうだと思った。

 ミウミはまるでコラーゲンの塊のようにも見えるそんな肢体を、生まれてから一度たりとも手入れされた事がないと言わんばかりにぼさぼさの、けれど枝毛の一つすらも見当たらない金色に輝く長い髪が覆い隠していた。無垢無邪気をそのまま具現化したような体つきの、見た目も何もかもが幼く見えるミウミは、一方でけれども、形の良い切れ長の眉が鼻の上から側頭部へ向かってすっと伸びていて、その点だけが大人びていた。

―――だが……

「ふむ……?」 

 けれどなるほど、如何程素っ裸のミウミという彼女の肢体に観察の視線を送ろうとも、一見ミウミはカミヤが言うようにプレートを保有しているようには見えない。

「さぁ」

一瞬で観察を終えるとそれに遅れて観察を促すカミヤの声が聞こえてきた。許可を取るともなくミウミという少女の裸身を勝手に他人にさらしたカミヤの態度には微塵も悪びれる様子がなかった。カミヤの態度にはむしろ己は最善の解決策を提示する事できたのだと言う確信と、確信に清々しさ得られたと感じている節があるように思えた。態度に、カミヤが先程述べた『己はミウミ以外の人との交流してこなかった』と言う言葉は確かに真実なのだろうと確信する。何故ならカミヤのその態度には、複数の他者との交流によって醸造されてくるはずの、他者との距離感というものがまるであるように感じられないからだ。

察するにカミヤはおそらく、『家族以外は全て敵』という、つまりは『一か零か』という野性的な選択感覚しか持っていないのだ。カミヤの判断基準にはおそらく、あやふや、なあなあ、といった中間が存在しないのだ。

それを察すると同時、このカミヤという青年とずっと一緒に過ごしてきたというミウミという少女がカミヤの言う通り、プレートを持っていないのだろうという事を推測、確信した。

だってもしもカミヤが一般常識持つ誰かと一度でも暮らした経験があるのであれば、もしもこのカミヤと共に長い時間を過ごし続けてきたミウミという少女が世間一般の常識や倫理や知恵や知識や経験もが格納されているプレートという代物を持っていたのならば、自前の知恵や知識や経験のみで扉や窓代わりの木の板を作る知恵のあるカミヤは、いかにそれが家族、或いは家族同然の相手といえ、こうも恥じらいも躊躇いも戸惑いも一切無い様子で意識のない女性の裸身を他人に晒すと言う常識外の暴挙はとらなかっただろう。

「カミヤ……、君……」

「……?」

状況と感情の明暗が逆しまだった。部屋の隅の暗闇の中にいる無知なカミヤの態度には誇らしさだけがあり、一方で部屋の中央にて陽光に照らされたアリュアッテスは多くの一般的な知恵と知識と経験を保有している故に羞恥と居心地の悪さを感じている。

「あー……」

「……」

―――君には常識がないのか?

「いや……」

「?」

喉元まで出かかった相手の行為を一方的に過ちと指摘し糺そうとする声を奥へと引っ込める事が出来たのは、薄暗闇の中に佇むカミヤの表情や態度にまるで悪気が感じられなかった為だろう。今でこそ疑問によってだろう首を傾げるカミヤの顔にあるのは、けれどやはり先程と変わらず真剣さだけなのだ。

そう。その真剣な表情と態度が示すよう、おそらくカミヤは突如として提示された問題に対し全身全霊真剣に答えただけなのだ。情熱を発散させただけなのだ。その真剣の表情と態度を見て、改めて思う。

―――余計な一言を言わなくて、本当に良かった……

私はその、真剣に己の持つ知恵と知識と経験を振り絞ってどうにか出した情熱の塊ともいえ輝かしい答えを、手垢のついた知恵と知識と経験から生まれた老いの成分多分に含んだ熱で穢すような真似をせずに済んだのだ。カミヤが見せた無垢で輝く笑みは、態度は、自分は出来ず苦しんできたのだからとお前も同様に苦しめと考える醜い熱から私を救い、若い芽を踏み躙るような真似をすべきでないという正しい矜持を私の中へと呼び覚まし、老醜の夜と霧に覆われそうになっていた我の身の内を晴らしてくれたのだ。

「……アリュアッテス?」

―――……なるほど

カミヤが放つ若々しい雰囲気に、わからない事があったら迷わずすぐさま尋ねてくる素直なカミヤの態度に、自分がそうして余計な言葉言うのを躊躇う猶予得る事が出来たのはきっと、五十年という年月日の蓄積によってこの身に精神的な老化という現象が起きていたおかげでもあったのだろうと気付いて、思わず苦笑させられる。闇雲に突っ込んでいく事出来なくなってしまったという臆病さが目の前の無垢の存在守るに一役買ったと思うと老化という疎ましかった現象も悪くないと思えてくるのだから、我ながら現金なものだ。

―――それに……

そして気付いた。このような僻地において二人で暮らしてきたカミヤが一般的な羞恥の感覚を持っていないというのなら、そんな彼と一緒に暮らしてきたミウミという少女もまたカミヤと同様に一般的な羞恥の感覚というものを持ってはおらず、もしも彼女が起きていたとしても彼女は躊躇いなく自らの裸を晒していた可能性の方が高かっただろうという事に。

―――全く持って愚かしい……

一般社会の常識とかけ離れた在り方が、彼らのそんな態度やその感性こそがこの場所の普通であるとすれば、この場においては私の持つ常識やとる態度や持つ感覚の方こそ異端だ。

―――足りなく思えるからといって強引に自分の熱を押し付けようだなんて……

そう。一般常識なんてものはその場その場に置いて刻一刻と変化するものなのだ。だから、己の持つ常識とは違う常識が敷かれた場所において、その結果が、行為が、その場所の常識に則った真摯の行為の果てに出てきたものならば、己の知る常識と違うからと一方的に否定して叱りつけるというのはそれこそあまりに常識がない。異なる常識を持った他者の領域へと突如土足にて踏み込んだ挙句、示された好意や善意からの行動を常識外だと言い放ち、更には自身の持つ常識こそが絶対であると真っ向から相手の全てを否定してしまう押し付けがましい態度や方法を、一方的な善意の押し付けを、私は好まない。だって、それは。

―――そんな押し付けがましいやり方や善意、まるでプレートのようだから

「―――」

「アリュアッテス?」

「そうだな……」

不意に自分があれほど疎ましく思っていた存在と全く同じやり方を踏襲しようとしていた事に気付かされて、どれほど好ましくない存在と思っていようともその存在と長年付き合い続けてきたのならば、それに頼る生活を送り続けてきたのならば、性格も性質もやり方も似通ってしまうものだと言う事を強く実感させられ、苦い熱が湧き上がってくる。

「アリュアッテス?」

 けれどその含みを持たない心配の声に、苦い熱は消え失せた。ともあれ、今はそれより重要な事があるのだ。

―――同じ未熟にしても、知識がある側やった方が、犯す間違いも少なかろう

反射的に自らが好ましくないとする行動をとってしまいそうなった事への自己嫌悪から自己陶酔と自己憐憫の言葉の満ちる世界へと浸ってしまいそうになりつつも、しかし直前でそんな自慰的行動を静止する事が出来たという事実と真摯と無垢の態度で助けを求めている存在に手を貸してやりたいという思いの力を借りて己のそんな葛藤等を強引に心の底へ押しやると、意識を現実へ引き戻す。

「そうしよう」

言い切ると先程まであった戸惑いや躊躇の想いが欠片も残さず消えるのを感じた。代わり、己の悪心を自らの意思と力で乗り越えたという感覚が自身に対する好意を生み、体の中が気持ちのいい熱によって満たされてゆく感触を覚えた。そうして得られた自身への好意を燃料に、周囲の熱によってではなく自らの意志にて足を前へと進めてゆく。直後、不意にかつて出来なかった事が今はすんなり出来るようなっているという事実に気付くと、気持ちは更に軽くなった。自らに対する確かな好意というものはいつだって暗がりの中においても己の足を前へ進めること出来るようにする特効薬なのだと改めて実感させられる。

―――さて……

ともあれ、無意識のうちに私に救いの光を与え続けてくれるカミヤという青年の恩に報いるべく、彼の願った通り薄暗闇の中にて改めてミウミの裸身を観察し直してみる。が、カミヤの言う通り、ミウミという少女の体にプレートの痕跡は全く見つからず、改めて困窮させられた。ミウミの体にはプレートの痕跡どころかシミの一つすら存在していない。ミウミの体にあるのは小さな頭から生えている膨大な量の長い絹糸のような金髪だけで、影の中にあって尚透き通るような白い肌の上にはプレートを連想させるものの姿が一切見当たらないのだ。

その事実に改めて困惑させられつつ、カミヤを見る。

「―――」

すると、ジャケットの左右のポケットに両手を突っ込みながら真剣な眼差しをこちらへと向け続けてきているカミヤと目が合った。丁寧に切り揃えられた短い黒髪の下では黒曜石の色をした瞳が揺れる事なく輝いていた。まっすぐな視線は心底真剣に、明確に、雄弁に、無言のカミヤの内心を赤裸々に語っていた。

『わかっただろう? 俺は何一つとして嘘を言っていない。俺は何一つとして間違った事を言っていないんだ。俺は既に手の内を全て明かしている。もしもこれ以上の答えがあるってなら、是非ともご教授願いたい』

カミヤが私に向けてくる真剣な目線からは、彼が心の中で言っているのだろうそんな声無き声が聞き取れた。また、その真っ直ぐな眼差しに、少なくとも目の前にいるカミヤという青年自身は心底、自分たちはプレートと無関係と思っている事を、自身らはプレートを持ってないと思っているのだという事を理解させられた。

「本当にプレートなしで今まで生きて……」

眼差しから読み取った心の声に反応して思わずそんな言葉を呟きつつ、けれどそうだとしか思えない現実を、そうとしか思えない事実を、再び信じられないと思った。

―――本当に?

心底の疑心を抱いた瞬間、我が両腕に宿るプレートはあっという間に反応した。

「っ……」

プレートの力によっていつものよう頭の中へと他人の知識が刻み込まれてゆく。刻み付けられた多くの知恵や知識や経験によって、多くの未知の現象が既知なるものへと変換されてゆく。その際同時に与えられる他の熱が強制的に刻まれる感覚の気持ち悪さに耐えきれず、思わず口に手を当てて顔を伏せた。

「アリュアッテス?」

「―――」

 吐き気がする。頭痛がする。身体を丸ごと狭い洞窟の中に押し込められたよう感じがする。頭胴体両手両足をわずかに動かす事すらも不可能な洞穴へ押し込まれたその感覚によって、私はカミヤがよこしてくる心配の声に応じる気力すら完全に削ぎ落とされてしまっていた。

―――まったく……

 他熱刻まれる感覚をもう少しわかりやすく例えるなら、ずかずかと遠慮なく自宅へと入りこんできた司書が、部屋の本棚に蔵書が足りていない事を確認した途端、慌てふためいて不足している分の本を蔵書保管庫の中から引っ張り出してきて、部屋の棚の不足と判断した箇所に詰め込み並べられる感覚とでも言うのだろうか。

 何をしなくとも自宅の書架に不足している種類の本が増えてゆく。突如今の私が持っていない、けれど確かに先程一瞬欲しいと願った知識が詰まった本を残して消えゆくおせっかいがありがたくないというわけではない。というよりむしろ多くの点において助かるのだ。だってその本には知りたかった多くの情報が記載されている。ページを捲って出来る情報はどれもその時の自分にとって役に立つ。けれど、有限な広さの部屋の中へいきなり押しかけてきて処分の出来ない百科事典のセット置いていくようなその行為は、当然迷惑でもある。だって脳という名の部屋の本棚は既にそうして押し付けられた本で満載、窮屈だ。他より多少小賢しいだけの脳の本棚は、これ以上皺の数を増やしたくはないと必死に叫んでいる。けれど司書―――プレートは、そんなお前の事情など知った事かと言わんばかり疑問を抱いた次の瞬間、疑問を吟味してはそれに対応する知恵や知識や経験の情報が刻まれている本を持ち込んでくる。その行為によって脳の本棚は更に狭くなる。持ち込まれるそれらがまったく役立たず或いは的外れであるなら、文句を言いつつもやがては完全に捨て去ってやる事が出来たかもしれない。けれど持ち込まれるそれ等の本は、本に刻まれている知恵や知識や経験は、概してどれもが役に立つものばかりだから脳は、私は、それらの本を、役立つ知恵や知識や経験を手放そうとしてくれなくて、手放せなくて。

 結果、勝手に埋め込まれた知恵や知識や経験の本はいつまでも忘れられずに脳の本棚へと置かれ、放置され、やがてまた疑問を抱いた瞬間に本が増え、頭の中は知らぬ誰かが書いた本によって圧迫、占有されてゆく。

なんとも巧妙で本当にタチが悪いと思う。ただより高いものはないというけれど、本当にこの、疑問を抱いた瞬間にプレートの熱が脳髄の部屋へと土足で踏み入ってきて、今しがた抱いた疑問を完全に解消する事の出来る知恵や知識や経験の熱を勝手に置かれるような他熱を刻まれるその感覚は、何度やられても慣れるものでない。

ことあるごとに口を出してきては文句の一つも言えない正論や完全に正しいと思える知識を叩きつけてきて、己の矮小さを思い出させては劣等感を力強く刺激しては脳の部屋を狭苦しく息苦しく生き辛くしてゆく存在に、鬱陶しい以外のどのような感情を覚えられるというのだろうか。そして狭苦しく息苦しく生き辛くなったそんな部屋に放置された私は、片付ける事もままならぬ部屋の中でこれからも生き続けなければならないそんな私は、どれだけの間この全身まともに動かす事も出来ない、息苦しさと吐き気と頭痛ばかりが起こる部屋の中で只管に耐え続けなければならないだろうか。

「アリュアッテス?」

―――……!

もはや何度目になるかわからない過干渉の行為によりもたらされる他熱の不快感に眉と鼻筋の交差地点抑えて耐え忍んでいると、カミヤの声が不快感に満ちた脳へ割り込んできて、沈澱しかけた意識が浮上させられる。

 そうして聞こえてきた声に現実へと引き戻された瞬間、復活した意識を視線と一緒にカミヤの方へ向けると、カミヤの眉が下向きの曲線描いてハの字に歪んでいる光景が目に飛び込んできた。

「あー……」

―――しまったな……

見て、気付いた。おそらく私が新しい知恵と知識と経験とを取得したその直後、幾許か発生した隙間の時間に私が不快感から浮かべてしまった表情と得た不快感を和らげる為にやった行為の所作が、カミヤに心配の感情を呼び、そのような顔をさせてしまったのだろう。

「……なんでもない」

「そうには見えなかった」

努めて表情を元通りに戻して心配の無用を宣言するも、否定の返答は早かった。

「どうして隠す?」

カミヤの顔に皺が刻まれる。カミヤの疑念の表情は時の経過と共に深まっていった。

「ミウミに何かあったのか?」

どうやらカミヤは私がミウミを診ていた時唐突に表情が歪んだという事実を、アリュアッテスがミウミの体に何らかの異常があると見抜き、けれどもその異常を喋らずに隠そうとしていると認識したらしかった。

「なんだよ、教えろよ、アリュアッテス」

放たれた問いの言葉は、かつての時代、幼い私が眉を顰める両親に向かって放った言葉と同一のものだった。突如得られた郷愁の感覚に思わず私が口を閉ざしていると、彼は一秒ごとにその表情を曇らせていった。

「……」

時間の経過と共に私よりもずっと年若いはずのカミヤの顔は、年老いた私がかつてのあの時からつい先程まで浮かべ続けていた顔とよく似たものへと変化していった。変化を見た瞬間、胸の中にどす黒い熱が生まれた。

「あぁ……」

信じ難かった。いや、信じたくなかった。自分の希望であるはずの若い彼が老いた己と同じような表情をしたという事態を、老いたアリュアッテスという残骸的存在がカミヤという若い青年にそんな年老いた仕草をさせてしまったという事実を、私は信じたくなかった。

「いや……」

―――しまった……

 穢してしまったと思った。罪の感覚と胸の内に生じたどす黒い熱は、いつものように馴れ馴れしく、いつものような我が物顔を浮かべつつ心にある隙間に入りこんできては、いつものようアリュアッテスという存在全てを闇色に染め上げようとした。私はやはり人でなしで彼と違う存在なのだと、そんな気持ちが湧き上がってきた。

「アリュアッテス……?」

「―――」

 けれど私の心が慣れ親しんだ闇に戻る前、聞こえた声に胡乱げに周囲を見渡した時、覗き込んでくるカミヤの不安げな顔に、瞳に、曇りを晴らすような残光が残っているのを見つけて、闇の侵攻は停止した。

「アリュアッテス?」

 顔を歪ませるカミヤを見て、思い直す。

「……?」 

 今しがた彼のしている、答えの得られない問いに苦悶し不安に歪んだその表情こそ、カミヤという保有熱量の少ない人間がけれども確かにこの世界に存在しているという証明であり、また、私が彼と同じ存在であるという証明でもあるのだ、と。

「おい……」

不安とは、己の体が熱を失って動かなくならないようする為に自然発生した機能だ。不安を強く意識するからこそ生物は、不安や不安のある未来を避けてやろうと行動する。つまり不安は抱くというのは生物ならばあって当たり前の機能で本能なのだ。むしろその生物が生物として優秀であれば優秀である程、その優秀な生物はより多くの不安を抱きやすくなるのだ。

「アリュアッテス?」

また、不安とはその生物が持つ知恵や知識や経験によって生み出されるものだ。故に、その生物が抱く不安の質や量は不安を抱く生物が持つ知恵や知識や経験によって異なるものなのだ。

「おい!」

故にプレートを持つ私は、それを十全に使いこなせる私は、このカミヤというプレートを保有していない彼が今どのような不安を抱いているのかを正確には知る事が出来ない。

「―――はぁ……」

けれどともあれ、私の見せた変化がカミヤの持つ知識と結びついた事で彼の中で不安の熱が完成してしまったのだという事を私は改めて理解、納得させられた。同時に、彼も私と同じ人間なのだという実感を改めて得て、気分が僅かに上向く。

「なぁ。アリュア―――」

「大丈夫だ。ただ―――」

そして私は、続くカミヤの不安含んだ声色を聞いて、カミヤをこれ以上そのよう不安の熱を帯びて状態にしておくべきでないと考えた。そう。私は、これ以上アリュアッテスという老いた存在がカミヤという若人の将来を穢すなんて絶対にあってはならないとそう思ったのだ。

「プレートから知識を受け取っただけだ」

だからカミヤから不安を取り除く為、そんな言葉を返した。言葉には『だから安心しろ』という言外の思いがこめてあった。言葉は、普通の人間というものはプレートから知識や技能を受け取る際の感覚を知っている為、大抵その一言で納得するものだった―――

「……知識を受け取るだけで、顔があんな風痛そうに歪むのか?」

のだけれど。

「なんていうか、変な感じだ」

私が放ったプレートを持つもの達が持つ普遍の常識から繰り出された言葉は、けれど当然、プレートと無縁に過ごしてきたというカミヤには当然通じなかった。ついつい己の常識に従って言葉を彼に返してしまったという事実を悔いつつ、返ってきたカミヤの態度と言葉に、カミヤは確かにプレートという存在とまったく無縁だったのだという事を改めて納得させられた。

「信じられねぇ」

カミヤは本当、想像以上に純真だ。カミヤはともすれば相手を不快にさせてしまうかもしれない不審の態度と言葉を隠そうとせずそのままぶつけてくる。カミヤのそんな表情と所作にはまた、それらが真に純粋の疑念から生まれたのだろうと私に確信させる曇り気のなさがあった。

―――なるほど

だからこそ私は問答無用に納得させられてしまう。同時、アリュアッテスという私は、プレートと無縁の生活送っていたこのカミヤという彼にもわかるよう、先程覚えた熱を刻まれる際の不快感を説明しなければならないという初めての状況に置かれたのだと気付かされた。

「そうだな……、自分の部屋や領域が狭まり誰かに侵食されてゆく恐怖感、とでもいうのだろうか……」

「難しい言葉で言われてもわかんねぇよ」

 先程の感覚をどうにか簡単に説明しようとするも、やはりカミヤには通じなかった。

「ああ、その、なんだ、なんというか……、そうだな……」

困った。言葉はきちんと通じるのに意思の疎通が難しいなんて初めてだった。知識に差があって意思の疎通が困難な一般の道から外れている相手、どのようにすれば相手にわかってもらえるのかがまるでわからない。

「―――っ……」

悩む折、無い知恵や知識や経験を刻まれる疎ましい感覚と共にカミヤが扉を開けた時に見せた表情が脳裏へと浮かび上がってきて、これだと確信させられる。

「多分、私がさっきここを訪ねた時に君が感じたような気分になったんだ」

「……なるほど」

―――よかった……

いつものようプレートに与えられた答えをそのまま言葉として出すと、けれどそんな自分の熱から生じたものでない言葉がカミヤを満足させる事が出来たらしいという知った途端、今までにない満足感を得る事が出来た。同時、他人にわかる言葉で自分の考えを言い表す事こそ、つまりは理解を示す態度と行動こそが不明な他人との意思の疎通に重要であるという知識の自己実感経験を得た。瞬間、例え難い心地よいむず痒さが全身に走った。けれど、いつもなら直後にあるはずの新たな知恵や知識や経験刻まれた際に覚える不快な感じ全くなかった。

―――はて……

果たしてその違いは何が原因なのだろうかと首を捻りつつ、けれど目の前のカミヤがその視線を再びミウミへ移したのを見て、それについて考えるのをいったん捨て置くと決めると、同様視線をミウミへと戻してゆく。

「―――なるほど」

すると視界に今しがたすぐ側で私とカミヤが結構な大きさの声で会話していたにもかかわらずミウミが先程と全く変わらない状態で横たわっている光景が飛び込んできて、納得させられる。

―――確かにこれは異常だ

すぐ側で誰かと誰かが遠慮なく話しているのにも関わらず、まったく起きる気配がないどころか何の反応すら見せないというのは、なるほどまったくもって普通じゃない。

なるほど彼女は確かにカミヤを不安にさせるだけの何かを抱えている状態なのだろう。だからこそカミヤは、おそらくは私の態度や言動に多少の不信感を抱いているだろうにもかかわらず、けれどこうして無言を保ちつつ私の次の言葉を待ち続けているのだろう。

―――しかし、わからない……

私はカミヤの不安をどうにかして解消してやりたかった。彼の抱えている不安を解決してやりたいと思った。けれど、そんな想いを抱えつつ視線をミウミに対して送り続けるも、裸身に何一つ纏っていない状態の彼女には異常などまるで見当たらなくて。それでも諦め悪く注視し続けるも、その体に秘められている熱量はカミヤよりよっぽど正常であるし、また、どれほど強く答えが欲しいと念じたところでプレートは私のそんな心底の疑念に対していつものように答えを全く返してきてこないものだから。

―――プレートにもわからない異常……?

私にはミウミの抱える問題がどのようなものであるか、異常がどこにあるのかすらもわからなかった。

腕を組み、顔を顰めさせ、唸る。

―――だとすれば私にはお手上げだぞ……

あまりに情報が足りなすぎている。

―――とはいえ……

「……」

だからといって無言保つカミヤにミウミの状態を直接尋ねるのも憚られた。なぜなら問診行為というものは、不安を掘り起こして原因を探る手法だからだ。手法は間違いなくカミヤの不安を高めてしまうだろうからだ。

 それに。

―――たとえカミヤに尋ねても、大した情報は手に入らないだろう……

もしもカミヤがミウミの異常に対しての心当たりがあるのなら、きっと彼は出会い頭に入り口でやったよう、態度や言葉によってその情報をこちらに伝えてこようとしているはずなのだ。恥も外聞もなくさっと伝えてきているはずなのだ。だってカミヤはプレートを持っておらず、何もかもが真っ白な状態なのだから。

―――ああ……

 我ながら不謹慎で気持ち悪いとも思うが、溢れてくる心地良さを止められなかった。

―――まったく、心底救い難い…… 

 不知の知ではなく無知の知。知らない事を自覚すらしていない状態。まっさらで何にも染まっていない状態。どんな未来に辿り着くかまるで予想のつかない存在。この熱と既知ばかりに満ちた世界の中、けれど私に多くの未知を与えてくれる、謎に満ちた存在。

―――私は彼に救われ続けている……

 今こうして側でその反応を眺めているだけで、私は救われ続けている。だからこそ私はそんなカミヤにとって大切な存在なのだろうミウミの異常を取り除いてやりたいと心の底から思っている。

―――カミヤの不安を取り除いてやりたい

けれど今、ミウミの異常について答えを持っていそうなプレートはまったく無反応状態を維持し続けていて、プレートの持つ知恵や知識や経験を活用不能な状態の私はこの場において単なる木偶の棒以外の何でもなくて、そうなるとこの場においてプレート以外で私の疑問に答えられそうな人間は当然一人しか存在していなくて。

―――カミヤ……

けれどカミヤはきっとミウミの異常に関わる情報を持っていないだろうし、何度か質問を繰り返せばミウミの異常に関する情報を引き出せるかもしれないけれど、その行為はつまりカミヤが余計な知恵や知識や経験を得る事態と直結していて、加えてプレートの現状から考えるに、質問を繰り返して得られる情報から私やプレートが正しい答えを導出する可能性よりも何の答えも出せない可能性の方が高いよう思えてしまって。

―――カミヤの未知が私の持つ知識や言葉で明確化な不安に変化する事態は避けたい……

問答のさなかに紡ぎだした言葉が、状況や状態を理解する為に使う言葉が、解決が不能となった状況において私がとってしまうだろう態度が、カミヤの不安をあおる材料になってしまう可能性の方が高いと思えてしまい、だからこそ私はそれ以上前に踏み出せない。

―――本当に?

心の奥底での断定に対し、幾度となく発生した言葉が頭の中に響いた。

―――本当に?

問いの言葉が繰り返されるほど、答えから遠ざかっていくような気がした。

―――本当に?

問いの言葉を繰り返されるたび、何を求めていたのかすら定かでなくなってゆくような不穏の感覚があった。不安の熱だけが只管に体の中に積もってゆく、求める程に遠ざかってゆく、そんないつもの感覚が戻ってきた。

「いったい、なんなのだ……」

解決不能という解答の生み出す熱が幾度もフィードバックして、解決不能に見える結論がまさしく解決不能を運命づけられた結論であるように思えてくる。プレートという万能の道具がある今の時代、解決不能などという結論は本来ならあり得ぬはずで、ならばカミヤの求める答えが全く出てこないという本来ならありえない事態はもしやアリュアッテスという己自身が真に望んでいるからなのではないかという疑問が浮かびあがって来る。

―――私は……

思う。私はそこまで我欲と不誠実に塗れた醜悪な人間なのだろうか。いや、違うはずだ。如何に老いて醜態を晒すようなった身とはいえ、そこまで醜く勝手な人間であるはずない。あってなどほしくない。

「私は……」

気付くと己の右腕はミウミという少女の体の方へと伸ばされていた。おそらくそれは最強の矛と最強の盾とはそのどちらが最強なのかという問いに等しい矛盾じみた疑問に、それでも私はそんな矛盾の問いの正しい答えを知りたいという心底の願いから発せられた行動だったのだろう。進むも退くも窮まった私は、どれだけ考えても正しいと思える解を出せなかった私は、それでも正と思える答えを求め、答え求める心と情熱に促され、自らの体を動かすに至ったのだ。

―――どうしても、知りたい

私の手がミウミの体に触れる。直後、彼女の異常の答えをどうしても知りたいという私の真摯な願いによってだろうか、或いは触れた瞬間掌から得られた情報を材料にプレートが正答を導出出来たのか、そして接触行為はすぐさまにミウミの異常の理解という行為へ変化した。

「―――」

いつもの気持ち悪い感覚を味わった直後、全身に電撃走ったかのような感覚を味わった。プレートに刻まれた知恵と知識と経験と触れた指先から伝わってくる事実とによって得られた答えが信じられなかった。

「馬鹿な……―――」

得た答えはあまりに想像を超えていた。

―――こんな

それはあまりに救いのない答えだった。

「……アリュアッテス?」

こちらの反応に気づいたのだろうカミヤがこちらへ声をかけてくる。視線を送るとプレートを持っていないと豪語する若いカミヤの、きっと今も自身らがおかれている状況を何一つ理解していないのだろうそんなカミヤの純粋な疑念の色だけで染まっている顔と瞳が視界へと飛び込んできて。

―――憐れな……

「カミヤ……」

湧き出てきた憐憫の情に、それ以上言葉を出せなくなってしまった。

「アリュアッテス?」

理解してしまった。

もしもカミヤの望みが私の想像通りなら、この先いくらカミヤが望もうとカミヤの望みが叶う事はない。

カミヤの望む世界の果てにあるのは断崖絶壁だ。誰もいない世界だ。

それが、その救いのない事実が、私のこの両腕のプレートに収められている熱や先人の知恵や知識や経験や、この私が五十年かけて証明し続けてきた事実から容易に想像、理解できてしまった。

得られた答えは、妄想と断言するにはあまりに説得力があった。

カミヤが求めるほど、欲しいと願うほど、彼のその望みは叶わない。

カミヤの未来にはこの土と木の板により閉ざされた部屋の中よりも更に暗い未来しか待ち受けていない。

窓枠の内側に彼の求める答えはない。

この部屋の中にいる限り、彼の一番の望みはきっといつまでもたっても叶わない。

けれど、外へ飛び出してもカミヤの一番の望みだけは絶対に間違いなく叶わない。

カミヤの不安は、永久に解消されない。

 その望みの終わりは、永遠に訪れない。

 彼の一番の望みだけは絶対に叶わない。

―――なんという……

「……なんだよ」

不安げなカミヤの表情をまるでプレートを得てしまった直後の己のようだと思った。部屋の中は暗く、外側の世界は多くの熱に膿んでいる。窓から差し込んでくる太陽光はいつの間にか床や壁を白く染めなくなっていた。今のこの部屋の中に満ちている気怠さすら感じさせるその蒸し暑さには覚えがあった。窓の開放によって涼しさ得たはずのカミヤという少年の住居がいつもの熱さに満ち始めているという事実に、思わず慄いた。

事実はカミヤの世界にもやがては翳りが生じ、お前と同様にこの熱差に満ちる世界の中へ呑み込まれてしまう運命なのだと告げているように感じられた。感じられた熱さが、部屋の中が暗さと蒸し暑さを取り戻しているという事実が、涼しく晴れあがっていたはずの私の心を再び蒸して翳らせゆく。

―――なんて愚かしく救いのない結論だ……

それはまるで悪夢のようだった。

―――歴史が繰り返されようとしている……

それを唐突に理解できてしまった。

―――させてたまるものか……!

「―――」

悪夢の如き予想を否定したいと思った時、私を置いて逝ったあの人たちの最期の笑みと言葉が脳裏に浮かび、私は何故あの人たちは満面の笑みと歯切れの悪い言葉だけを残して己をプレートへ変化させたのかを理解した。

「君……―――」

「あぁ?」

きっとあの人たちも同じ悪夢を見た。

「……」

「……なんだよ」

きっとあの人たちも、私に救われていた。

「カミヤ……」

「だからなんだってんだよ」

だからこそあの人たちは私に己のプレート以外の余計の記憶や経験を残さなかった。

「おい……」

―――この子の未来には暗黒しか待ち受けていない……

己らが培ってきた知恵と知識と経験から、そんな認め難い事実はけれども痛いくらいに真実なのだと理解してしまった。けれどもだからといって、自らの頭とプレートが導き出してしまった絶望に満ちた真実と未来予想を我が子に押し付けてしまうという醜い行為だけはせめてしないでおきたかった。

「おい……!」

―――そんなの、絶対に認められない……!

あの人たちは文句をつけられないくらい、アリュアッテスの進む未来に希望が皆無な事を納得してしまった。だからこそあの人たちは不安を具体化する事なく、余計な言葉を残す事なく、自分たちの記憶を残すことなく、生きる為に必要なプレートだけを私に残して逝ったのだ。

―――彼の未来が絶望だけに満ちているなんて、私は絶対に認めない……!

「……」

「おい、アリュアッテス!」

彼らの心境が今の私には痛いくらいに理解できてしまった。導き出したその結論を信じられないというのならまだ救いようもあっただろう。自身の経験として積み重ねてきていないならば、何も知らないというのならば、まだ言い訳のしようもあっただろう。手を引いて導いてやるという選択肢もあった事だろう。無邪気に諭す事が出来たかもしれない。出来るといいねと希望の言葉を投げかける事だって出来たかもしれない。

けれど自分たちは知ってしまっている。だって自分たちは学んできてしまった。

自分たちは心の底から信じてしまった。覆す事が出来ないと理解してしまった。

自分たちは知っている。自分たちはその経験から、自身が持つプレートが持つ誰かの知恵や知識や経験から、このまま進めばアリュアッテスという我が子は進む未来において己と同じく絶望に捕われた囚人になってしまうだろう事を、あの人たちは得てきた知恵と知識と経験によって真実であると心の底から信じてしまった。

―――救いを与えてくれたこの子が報われないなんてそんな現実、絶対に認めない!

このまま手をこまねいて眺めているなんていうのだけは絶対に出来なかった。

けれど、どうすればこの子が救われてくれるのかが全くわからなかった。

或いは私が感じ取った不安を言語化して理解させてやる事こそが唯一の救いとなるかもしれないと思った。

だって人は具体化された不安を回避するべく熱と知識を重ね続けてきた。プレートという存在が示すように、不安が人を動かす為の大いなる原動力となり、不安をなくす為の道具や手段を生み出してきた。

不安が人という種を大いに前進させてきたのは、歴史に証明され続けてきた事実だ。

―――よく聞いてくれ

けれど。

―――君の未来には絶望しかない

たとえそれが避けられない事実だとしても、どこの親が我が子に『お前の未来には絶望しかない』などという救いのない言葉を平然と伝える事出来るというのだろうか。どこの人間が己に救いを与えてくれた存在に絶望の言葉投げつけるなどという悪業好んでやりたいと思えるというのだろうか。

あの人たちはそれが出来なかった。

私にだって―――

―――そんな残酷な事……

畜生にすら劣るそんな非人道的な極悪非道、出来そうにない。

「……カミヤ」

 そんな時。

「……なんだ」

無力な私でも唯一思いついたのは、私がかつてやられた、きっとかつて昔にあの人たちもやられたのだろう、そうして過去より連綿と受け継いできたのだろうやり方だけだった。勝手に期待し、勝手に託し、勝手に逝く。そんな方法以外を取る事が出来ないだなんて、本当に最低で最悪だ。でも、それ以外に、それ以上に良い方法が全く思い浮かばないのだからどうしようもないじゃないか。

「これしか思いつかなかった……」

「あぁ?」

『これしか思いつかなかった……』

『許してちょうだい……』

「―――」

 吐き捨てるよう愚痴ると、再びあの人たちが今際の際に浮かべた表情と言葉が浮かんできて、浮かんだ言葉が今しがた己の述べたそれや次に述べようとしたそれと完全に一致していて、思考も行動もその全てが停止した。

『ごめんね……』

『ごめんなさい……』

 その泣くような謝るようなでも喜ぶような矛盾に満ちた声で告げられた時にあの人たちが浮かべたその顔を、その声を、忘れた事なんて、ない。あの人たちが最後の最後の瞬間訪れるまでずっと浮かべ続けていた笑みを、言葉を、熱を、過ごした時に感じた想いを、忘れた事がない。

だって私の苦しみは、あの人たちから熱とプレートを受け継いだあの時あの瞬間から始まった。

だって以降の私の五十年に及ぶ苦労の長旅はあの瞬間から始まった。

―――本当に? 

 本当だとも。

あの時あの人たちが私に熱とプレートを受け継がせる事がなかったのならば、私はあの時の太陽と世界を見て美しいと涙した時の心持ちのまま旅を続ける事が出来ていたかもしてない。五十年という月日の経過と費やした熱量の多さを徒労と感じる事もなく、続く夢の中で幸福に浸れていたかもしれない。

そうとも。熱の呪いは、苦しみは、間違いなくあの人たちの行為によって生まれたものなのだ。

「知りたいか?」

あの人たちが最後に残していったモノが私を苦しめる枷の一つとなっていた。

ならばこれから行おうとしている私の行動もまた、間違いなく彼を苦しめる枷となるだろう。

真実を理解した今、けれど私はあの人たちと同じことをしようとしている。

「……何を?」

けれどそうして受け継がれてきた呪いの熱の連鎖を止める気にはなれなかった。

「世界を」

「あぁ?」

あの人たちも世界に絶望していた。あの人たちもきっと体内から湧き出る熱に飲み込まれてしまわないよう、必死だった。けれどあの人たちは、きっとあの人たちも、呪いを外に撒き散らしてしまわないよう戦っていた。我が子が一秒でも長く世界と幸福を謳歌してくれるよう、必死で耐え忍んでいた。

「……わけわかんねぇよ」

それがわかるようになった。あの人たちがいつも浮かべていた不器用に唇枉げたその笑顔がどれだけの苦悩を抑え込んだのちに出てきているモノであるかを理解出来るようになってしまった。笑顔の仮面の下にどれだけの苦悩を抱えていたのか心底理解出来るようなってしまった。

あの人たちは最後の瞬間まで耐え苦しんでいた。それでも願い続けていた。

―――その未来に救いはなくとも、せめて、報われてほしい

「わからなくていい」

わかってしまったからこそ止められない。

自分たちが絶望した熱に膿んだ世界。そんなものに憧れを抱いて立ち向かうように我が子が目を輝かせた時、あの人たちがどれほど救われた気分になったのかを心の底から理解出来るようになってしまったから。

「だって私の熱は、間違いなく君をさらなる地獄へ叩き落とすだけのものなのだから」

救われた彼らは救いを与えてくれた存在を傷つけたくなかった。だからこそ何一つ余計なものを残す事なく、必要最低限のものだけ残して逝ったのだという事に気付いてしまった。けれども私はその思いやりに気付く事が出来なくて、皮肉にもきっと彼らの予想通り、結局五十年もの間、徒労と感じ続ける日々を過ごす事となった。

「すまないな、カミヤ」

「あぁ?」

けれど恨む気にはなれなかった。

「どうかこんな私を許してほしい」

「アンタ、さっきから何を―――」

それにきっと、そんな資格もない。

だって私は今まさに、そんなあの人たちと同じ事をしようとしているのだから。

「―――アリュアッテス!?」

「まったく……」

カミヤは私と本当に似ている。だからこそ私にはわかる。旅に出たとしてもカミヤの望みは決して叶わない。彼の一番の願いが叶う日は決して訪れない。彼の一番の願いが叶うときは、未来永劫、決して訪れる事がない。けれど、そうと知っていながらも私は、カミヤを私も長くに苦しんだ地獄へと叩き落とそうとしている。

―――本当に、どこまでも救いようがない

自分はまったく、あの人たちと同じように救いようのない屑だ。どう足掻こうとも己が本当に望んだ事だけは絶対に叶わない。長き旅路の果てにそんな答えと法則を見つけておきながら、それでも私は―――

「いったい何が……」

「カミヤ」

 己の情熱を、願いを止められない。

―――君に救われて欲しい

またこの予想が間違っている事を、カミヤが望む幸福を手に入れられる事を止められない。

「プレートを持っていないと言ったな」

「そりゃそんなこと言ったような気もするし実際もってないけど……、いや、だからってなんなんだ、これ!」

法則が事実であるとするのなら、私が望む程にカミヤの望みは叶わなくなる。

「何をしようとしてるんだアリュアッテス! アンタ、なんでアンタ、そんな、消えそうになってるんだ!」

―――それでも

「だからくれてやろうというのだ」

「はぁ!?」

そんな法則を知っているからこそ私は、この道を選択せざるをえなかった。既に熱の呪いを撒き散らすだけの老いた醜い存在になってしまっている私は、もはやこの世にいてならないのだ。導出した絶望の結論を、老いて耄碌した私が導き出した救われない妄想と信じて消え去ってゆくしかないのだ。

―――それでも

とはいえ、老兵たる私が消えようが、カミヤがその後旅にでようが、彼の望みが叶う事はきっとないだろう。

―――それでも

カミヤの先に待ち受ける未来が闇である事に変わりはない。

私のこの選択によってカミヤはその将来において、前へ進む為、余計おおいに傷ついてゆく事だろう。

―――それでも……

そんな事は痛いくらいに思い知っている。そんな事は気持ち悪いくらい知っている。

だってそれはこれまでの旅路の中において嫌というほど思い知らされた事実なのだ。

 ……それでも。

―――それでも、私を救ってくれた彼には

「欲しいものがあるのだろう? 世で一番の、現在過去未来の誰にも負けない存在になりたいのだろう?」

「!?」

たとえそれが未来永劫叶うことのない望みであっても、せめて―――

「ならば旅立て。ミウミを連れて世界を探索しろ。その為の“足”なら私がくれてやる」

絶望の中にいた私を救ってくれたカミヤが夢見て旅をする時間程度は、そんな時間的余裕を作る位の熱と力は、他ならぬこの私の手で与えてやりたい。

「!?」

思うと同時、体を構成していた全ての熱が発散し別の形へと収束してゆく。

決心さえしてしまえば溜め込んでいた熱を未練と共に手放す事は笑えてしまうくらい簡単だった。

「アリュアッテス⁉」

―――あぁ……

体中から全ての熱が消え失せてゆく感覚はこんなにも心地良い。

「アリュアッテス! アンタマジで何を⁉」

こんなものをずっと恐れていたのだから、本当に人間というものは不思議なものだ。

―――いや、違うか

「使い方はすぐにわかる」

「はぁ?」

人間わかっていながら、一度手に入れた熱を手放す事が出来ないものなのだ。人間、自らに不安を与える熱がわからないからこそ、自らに不安の熱を与えるものの正体を求めて旅に出るものなのだ。何故なら―――

「なぜならプレートは熱の塊で―――」

不安の正体は、他人から与えられた熱を用いて動かされている間には見つからない、出た旅路の果てにようやく見つかるものなのだから。きちんと自分の手足を用いて旅をしなければ、決して見つからないものなのだから。

「前に進めない人を助ける道具なのだから」

「っ‼」

彼の求める熱は旅路の果て、前へ前へと進んだその先、世界と想像の向こうにある。

 カミヤというこの子がそんな果ての場所に辿り着けるかは私にはわからないけれど。

「君ならすぐに使いこなせるさ」

 私は既にその答えを見てしまったけれど。

「あんた、なんで……」

それでも。

―――この子なら、出来るかもしれない

「見てしまったからな」

見た未来を信じないに値する光景を見た。見えた暗黒も未来を信じないに値するだけの救いを与えられた。

「だからこそ―――」

だからこそ、信じたい。

自分の想像と悪夢を打ち破って夢のような時間を与えてくれたこの子なら、きっと―――

「行ってこい、カミヤ」

―――己の想像した絶望の未来なんて簡単に打ち破っていってくれるはずだから

「アリュアッテス!」

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