第1話『カミヤ』(2)


夜が終わる。山の端から現れた太陽の光によって、空が明るく照らされてゆく。周囲を明るく照らした陽光はそのまま大気を一直線に貫いて反対側の大地へと降り立った。直後、雲が影を取り戻した。時ほぼ同じくして、大地を広く覆っていた霧が逃げるようにして消え失せていった。

霧は風の弱い盆地などでよく見られる、水の変化現象だ。空気に溶け込める水の量は、温度によって変わる。水は冷たい時は少なく暖かい時は多く空気に溶け込む事が出来る。即ち、昼間大気中に水蒸気として溶け込んでいる水は夜に地表の温度が下がると水滴へと姿を変え、これが霧を生む源となり、夜に霧が生まれるのだ。

やがて夜が明けても風がなければ、霧はそのままその場へと留まる事が出来る。けれど地表の何処かを太陽が照らさない日はなく。故に、何処かの地を照らす太陽の光によって、大気と地面の間には必ず温度差が生じる。逆転する大気と地表の温度差によって風が生まれ、風に霧は散らされ、散った霧は再び大気へ溶け込んでゆく。そして空気に溶けた霧はやがて再び何処かの場所で雲となり、雨となり、霧となり、世界を彷徨ってゆくのだ。

黎明。

霧が晴れ、雲の影が地に現れ、やがて地の端から太陽が現れる直前になると、空は鮮やかな紫から薄い青色に変わり、浮かんでいる雲の影の姿までもがはっきり地面へ映るようなる。色味に溢れた大地へと暗澹とした影を生むのは、もちろん太陽の光だ。

世界に漆黒色を生むそんな太陽がやがて稜線のいずれより出現するか。

それは、空をゆく雲の流れを追うことで判別する事が出来る。

なぜなら太陽は必ず己の発する光に遅れて地平の端から顔を覗かせる。

太陽は必ず、己の敷いた熱の道を辿って自らの姿を揚々と世界の中へ出現させてくるのだ。

そんな太陽のばら撒く熱の動きから風と雲は生みだされ、流れされてゆく。

雲は霧と同じように大気に溶け込んだ水が移動している証だ。

雲は温度の低い場所と高い場所の境目に沿うよう移動する。

雲は温度の低い方から温度の高い方へと移動する。

この星では顕著に、雲はどこまでも熱の理屈と効率に則って動くのだ。

 ならば話は太陽の現れる場所を推測するのは簡単だ。

 同じ高さにある雲の流れが他より早いところを見つければ、そこから太陽は出てくる。

一見自由に動いているよう見える雲は、けれどその実、どこまでも太陽の有り無しと大気の熱の動きによってその行き先を左右されてしまう存在だ。他の存在から与えられる熱に世界を往来させられてしまうその有様は、嫌になるくらい今の時代の我々多くの人間の在り方と似ていると思う。

今の時代。熱によって支えられているこの世界はいつも温暖な気候のまま固定されていて、全く変わらない。きっと明日も明後日もその次の日も天気が大きく乱れる事はないのだろう。そしてこの世界はいつも通り太陽に熱を与えられ、与えられた熱はプレートという道具によって効率的に世界のあらゆるものへ分配され、変わらず温暖な気候を保ったままのそんな世界の中を我々はひたすら雲のように流され続けてゆくのだ。

そう。世界は何一つとして変わらない。

同様、我らは何一つとして変われない。

「はぁ……」

平穏を具現化したかのような世界の中へと重苦しい溜息がおちてゆく。重苦しい溜息はやがて薄く白く濁って長く細い糸となると、ついには霧のように空の中へ広がったのち、世界と同化して姿を消していってしまった。うんざりするほどの一致に、胸の中を支配している骨身の髄にまで染み込んだ倦怠感はきっといつまで経っても無くならないのだろうというそんな後ろ向きの確信を得させられてしまった。

―――長く続けてきた旅の終わりが見えない

「……はぁ」

とめどなく湧き出てくる思いを抑えつけるのが億劫になった頃、またひとつ重苦しい溜息がこぼれおちては、やはり朝霧の行く末のよう溶けて消えていった。

「はぁぁぁぁぁぁ……」

先程よりもずっと長く重苦しいた溜息は、今度、雨を降らす直前の雲のような少しだけ濃い色へ変化すると、しかし先程消えていった霧や溜息とほぼ同じ運命を辿って消えていってしまった。

―――なぜ自分は踏み出してしまったのか

再度の行く末の一致がすぐさま更なる鬱屈の思いと熱を生み出してしまい、気分は再び鬱屈の方へと傾いた。一方で、体内の熱を多少なりと外へ逃がしてやれた影響か、体が少し冷えて軽くなった感覚に僅かに心地良さを味わう事も出来た。けれど、そうして得たわずかな安楽の気分と全身の涼やかさは、未だ姿を表さぬ太陽の光が大気を暖めた影響によってすぐさま失われてしまった。

生温い大気の中、生煮え状態の頭で考える。

今、自分がこうして生煮えの気持ち悪い隊長と気分を維持し続けているのはきっと、太陽の光にもたらされる熱の影響はもちろんあるだろうけれども、落ち込みのさなかに生まれゆく、溜息程度では処理しきれない鬱屈のフィードバックが体内に余計な熱量を増加させ続けている影響の方が大きいのだろうな、と。

―――なぜ踏み出そうと思ってしまったのか

「はぁ……」

そう。今、頭と体の中では、鬱屈の熱が更なる鬱屈の熱を生む最悪の循環が発生し続けてしまっているのだ。それを少しでも解消する為再び溜息を吐くと、顔を向けた視線の先、日頃と変わらない、どこまでもどこまでもうんざりする程どこまでも変わらない大地が蕩々揚々と広がっている光景が飛び込んでくるのだ。

「はぁ…………」

そのよう熱と光に満ちている穏やかな世界を視界内に収めていると、やがて先程までよりも熱の篭った溜息が安閑恬静保たれている世界の中へと再びこぼれおちていった。そうして何度も何度も溜息で熱を逃したところでいっこうにこの鬱屈の気分は晴れてなどくれないのだから、気が滅入るというほかに言葉が見つからない。

―――なぜ……

かつて。世界が光に払拭されている目の前のそれと似た夜明け直後のこの光景を見て、世界には自分の存在の想像を超えるものが無限に存在しているに違いないとそんな確信を得た。今日よりもさらに晴れていたあの日、雲一つなかった世界を支配していた夜の黒色が残滓すらも残さずに明けの光によって赤色に塗り替えられてゆくその様はとても美しく、当時の私の想像や知識にあったそれを遥かに超えていた。

―――世界はこんなにも美しく

初めて空の上から黒の世界が太陽の光によって赤く塗りつぶされるその光景を目撃した時、体内が体の奥から発生する正体不明のとても熱い熱に満ちてゆくのを感じた。体の中よりこみあげてくるそれらの熱は、幼い私を立ち止まらせて落涙させてしまう程の威力を秘めていた。流れゆく涙を止めようなどとは思いもしないままに、世界中を美しく照らす光の熱さを凌駕する程の熱さを体内に感じつつ、涙でぼやける視界の中で思った。

あんな風になってみたい。

―――私はこうも違うのか

想像を超えたものには有無を言わさぬ説得力がある。とどのつまり私は、太陽の所業に憧れてしまったのだ。空に浮かぶあの太陽のよう、次から次へと体内に湧き上がってくる熱い熱を世界に存在している他の何かに注ぎ込んでみたくなったのだ。そうして自身の熱を注ぎ込んだものからこの景色を超えるものを生み出せたのなら、多くの存在にそんな熱を与えられたなら、きっと途方もなく晴々とした気分になるに違いないと思ったのだ。

―――どうして……

自分の想像の枠を超えた熱を、自分の手で、己の熱で、生み出したい。

高すぎる理想を、けれどもどうにかして自らの手で現実にしてみたい。

私はそんな高すぎる理想を、けれどもかつて叶えてやりたいと願った。

―――私の内側からは、そんな熱が生まれなくなってしまったのか

我が身の内側憶測より止めどなく湧き出てきては抗い難き情動を己の身に与えゆく熱の名前を、情熱という。かつて体のどこを切り開いてもそんな清々とした情熱にのみ満ちていた時代が私にもあった。体の奥から無限に湧き上がってくるそんな情熱が世界中に満ちる熱の何よりも熱かった時代が、私にも確かに存在していたのだ。無謀を挑戦、蛮勇を勇気であると都合よく塗り変え、湧く情熱を持って理想を全肯定してやる事出来る若さが、憂いる間も無く情熱に任せるがまま世界を飛び回ってやると思った瞬間が、私にも確かに存在していたのだ。

だが今やどうだ。

「―――はぁ……」

眼前を見る。太陽は雄々しく輝いている。世界は多くの熱と光に満ちて輝いている。世界はかつてと同じく、駘蕩とした熱に満ち溢れている。今や我が身は、かつて自身が望んだ通り、世界に熱を与えられるようなった。今の私はまさに世界と一体化している。今や私は、溜息を落とせば、こぼれ落とした溜息に含まれる熱と水分がやがて雲へと変換され、世界を循環してゆくという、そんな存在になった。そうやって生まれた雲の切れ間から薄明零れ落ちてゆく。その光景を、まるで熱した飴の細工がとろりとろりと溶けてゆく光景のようだと思った。世界が暖かい色の光に満ち溢れているそんな光景が、どう言い表そうと美しいと形容するしかないその光景が、けれど今の私には、まるで胃もたれ起こしそうなくらい甘い蜜に塗られている光景にも、見ているだけで胸焼け起こしてしまいそうな光景にも見えてしまうのだ。

そうとも。目の前の世界はかつてと同じくこんなにも光と熱に満ちていて美しい。かつてこのような光と熱に満ちた光景を目撃したからこそ、私は旅立ちを決意した。そして今の私は、かつて私自身が心底望んだように、世界に自らの熱を与える事も、自身の行為によって多くの存在に影響与える事も出来るようなった。

そうとも、あの時と変わらず世界は残酷なくらいに美しい。そしてそんな世界の中に存在している私の体内はかつてのあの時以上の熱に満ちている。けれど私の身体を満たすそんな熱はあの時と異なり、情熱でなくなってしまったのだ。情熱から生じていた熱の代わりに鬱屈の熱ばかりが体内に満ちるようなり、感動の涙の代わりに鬱屈の熱から生じる溜息ばかりが出るようなってしまったのだ。

―――全く、いったい何故こんなことに……

 そうなってしまった理由はわかっている。だって今この身の内側を満たしている熱は、他の存在から一方的に与えられた熱であるからだ。もはやこの身の内側には、我が身の内より発する情熱をひとつまみほども留める事出来ないくらい、他人の手垢ついた熱と知恵と知識と経験によって分厚く汚れて満たされてしまっているのだ。もはや私には、我が身の内側より生じた情熱の熱を、そのままに我が身の内に格納しておく事が出来ないのだ。己の内側に情熱発する事はあっても、発生した情熱や情熱を発端として発生する疑問や想いはすぐさま我が身の内に宿っている他人の知恵や知識や経験によって解体され、識別され、分別され、やがては誰かの知恵や知識や経験の一部として吸収され、私の内側に生じた情熱の炎はあっという間に薄められ鎮火させられてしまうのだ。

―――だからこそ私はこんなふうになってしまったのだ。

己の熱の宿っていない知恵や知識や経験なんてものは、核を失った雲のようなものだ。そんなもの、すぐさま霧散して世界と一体化してしまう。そうやって情熱の炎を消される事に抗おうと試みた時期もあった。けれど、抗いを数十数百数千と繰り返すうち、どれだけ繰り返そうとも知恵や知識や経験を一つとしてすら更新出来ない自分にやがて絶望し、伴って情熱の炎の湧き上がる頻度は減り、湧き上がる情熱の量も減っていってしまった。

やがて抗いの挑戦が万を超える頃、私はすっかり既存の知恵や知識や経験に頼りきるようになってしまった。そうやって自分以外の誰かが見つけた知恵や知識や経験にばかり頼って周囲にある巨大な熱の動きに抗いもせず身を任せ続けるうち、そんな不毛で無意味な行為を幾星霜もの間延々と繰り返すうち、やがて私の体の内側は、己の情熱が全く宿っていない他人の知恵と知識と経験と熱だけで塗り固められた状態になってしまった。

私はそうして他人の知恵や知識や経験に依存し巨大な熱の流れに身を任せ流されるがまま過ごしてきた結果、他人の熱のみで塗り固められた存在へ成り果ててしまった。我が身の内にはもはや、私自らの情熱生じる隙間も奇跡的に生まれた情熱を留めておける隙間もほとんどなくなってしまった。

もはやこの身は、自身以外の誰かの熱ばかりによって構成されているのだ。もはや私は、私自身の手によって自身を発奮させる熱を生み出せない、私の中にある知恵や知識や経験に絶望させられてきた彼らと同然の存在になってしまったのだ。

「はぁ……」

年を取ったな、とそう思う。幼少の頃に憧れていたものを眺めて生まれてくる感情の熱を持て余すようなったというのならば、それは老いたと述懐する他にないだろう。

「はぁ……」

溜息の数だけが年齢と等しく無意味に積み重ねられてゆく。そうして我が内側より吐き出されて切り離された生温い微熱は、やはりいつものよう、すぐさま白い霧となって世界の中へと溶けこんでいった。

「はぁ……」

吐いた溜息の数に比例するかのよう、空を行く雲の量が増えて青空が白に覆われていった。白は世界において最も光を反射する色だ。そんな白い雲が大幅に増加した影響によりこの星の地表へ降り注ぐ太陽の光が宇宙へと反射されたのだろうか、上空を占める白の面積が増加するともに世界が少しばかり涼しさを取り戻してゆく。

「は……―――」

―――それとももしや……

そんな光景を呆然と眺めていると不意に頭が動き始め、考えが浮かびあがってきた。

―――世界のやつも太陽の熱を疎ましく思ったのだろうか……?

「―――は……」

我ながらなんともくだらない感慨から生じた共感と連想だった。けれどそんなくだらぬ考えを浮かべた途端、全身にあった気怠さと息苦しさがわずかばかり消え失せ、代わりに悪い感想ばかりしか抱けていなかった世界に対して親近感が湧きあがり、少しだけ気が晴れた。

そんな気楽の感覚を得られたのはきっと、同病相哀れむ故であるのだろう。よくよく見てやれば広がる白雲はまるでよく絞った布巾のようで、夜明けの赤色に染まっている地平と空は病人の額のように見えない事もない。そう。ならば即ち私たちは、熱に冒された光を嫌う病人同士といえなくもない。

―――さて、このようコンフリクト的な状況を何と言ったかな……

「……あぁぁ、そうそう、ウォルターの亀だ」

しばらく呆然と眺めているとやがて訪れた風に、私も世界も止めていた動きを再稼働させられ、思わず呟く。けれどしかし亀とはまた今の自分にはもったいないなと笑うと、さらに鬱屈の気は晴れていった。

くだらない考えは、その考えの内容自体はくだらないながらも、それは間違いなく私の頭の中―――つまりは私の体中から生じた私の熱だ。故にくだらない思考より生まれた熱は、私の体内においてまるで雲の核みたいな役割を果たし、くだらない考えは誰かの知恵や知識や経験によって解体される事なく私の体内において雲を生むかのよう私の熱を消費して勢力を増し、それにより私の体は冷やされ、茹であがっている頭の温度は下げられ、結果、落ち込んでいた私を笑わせる余地と余裕となったのだろう。

……けれど。

「―――あ」

直後、上空に吹いた強い風が全てを台無しにした。その高熱を帯びていたその熱い風によって目の前にあった雲は複雑な渦や螺旋を描きながらだらだらと散っていってしまった。無惨の言葉を表現したかのような光景に、既視感を覚えた。無惨な光景を、諦め悪い人間が足掻いたのちに果ててしまった光景の具現のようだと思った。

―――何もそんなところまで似なくともよかろうに……

「はぁぁぁぁぁぁぁぁ……」

 やがて空が白さをほとんど失い元の青さを取り戻した頃、再び長い溜息が零れ落ちた。長く細く続いたそれを吐き切ったのちに下へ向けていた顔をあげると、雲一つ見当たらない空が目の前いっぱいに広がっているそんな光景が改めて視界に飛び込んできて、反射的に思い切り息を吸い込んで―――

「はぁ……」

吐いた。

―――まったく……

青い空。白い雲。視線を下げれば地平の端まで伸びる大地には多くのクレーターが刻まれているのが見える。クレーターの凸凹は、かつてこの安楽に満ちている大地が熱喪失と乾燥と騒乱の事態に満ちていたという証だ。

しかし今、そんな喧騒と狂騒に満ちていただろう大地は平穏さばかりによって完全に支配されている。平穏はかつての時代には多く存在していた生きる為に多くの熱の犠牲払う事を強いられていた時代の人々にとっては、喉から手が出る程に渇望するものなのかもしれない。痛哭と苦しみにばかり満ちていた世界の中であえぎ苦しみながら生きていた人たちにとっては、永劫続いて欲しいかった願いなのかもしれない。

けれど永遠の平穏は、そんな平穏ばかりが続く時代に生まれた私たちにとっては、少なくとも私にとっては、我が身を蝕み続ける呪いと何も変わらない。そういうものであると思うようなってしまった。

「はぁ……」

変わらぬ平穏が続く世界と己を前にして、つくづく辟易とした気分を抱かされる。

―――つまらない……

浮かびあがった五文字の言葉は間違いなく本心から溢れたものに違いなかった。

―――せめて変化の兆しだけでもあったなら少しは平和もありがたがれるのだが……

続けて湧き上がってきた言葉はおそらく過去の人々が噴飯する程贅沢なものだった。

―――昔はよかった……

今の時に絶望し、過去の時代は良かったと羨み、今の時代に生まれた自己を憐憫し、過去の古き時代を思い、浸り、陶酔し、今の全てを見下す。それはまさしく己が老化してしまったという証明に他ならなかった。

「―――兆しだけでもあれば、か」

あるいはこうして老化を老化であると自覚できるのは、老いて情熱を失って抗う事も満足にする事も出来ない己を恥ずかしいと思うだけの若さと情熱が、つまりは情熱が湧き上がったり留まったりする隙間がまだ己の中に幾分かだけでも残っているという証なのかもしれない。

老いか、若さか。

 過去か、未来か。

「―――行くか……」

己の行為がそのどちらを貴ぶ想いによって生じたものかと結論づけるよりも前に、口が動き、“足”が動き、止まっていた体を再び前へと動かしていった。

―――熱い……

そしてすぐさま熱に満ちた体は、体内に溜まっている熱を少しでも消費する為だろう、思考を巡らせ始めた。すると、今しがたの私のその動きが、前向きの想いや情熱といった若さの要素から生じたものでなく、これ以上体内に余計な熱など不要だという後ろ向きの老いて痩せた考えから生じたものだという事に思い至り。

「あぁ……」

そうして私はまた、誰かの熱や鬱屈や後悔の熱の動きに流されるだけの己を見つけ、絶望する。

「あぁ……」 

再び“足”が止まってしまった。私はまた機会を失ってしまったという想いが湧き上がる。私はまた己の足で進むのを止めてしまった。誰かの熱や老いによって生じたのだろう熱の影響によって、止められてしまった。

―――情けない……

「はぁ……」

事実から目を逸らすよう、意識を眼下へと向けた。

―――ぉ

「あぁ……」

すると足元に広がるクレーターは、西高東低、南高北低の、南西から北東に向かってなだらかな傾斜となっているものだという事に気が付いた。一瞥すると他よりも大きな窪んでいるそのクレーターの中央の窪み部分には南西の山間から流れてきたいくつもの川が合流し作られたと思わしき大きな湖があった。そんな中央にある湖の北東部からはそしてまた、いくつかの小さい川が生まれていっていた。それらの小さな川はそして蛇行と分岐を繰り返しては北東の低地に向けて進んでいっていた。北東、それらの小さな川と小さな川の狭間に生み出される大地には、木々の群れた森林地帯がいくつも形成されていた。それらの飛び地型に生み出されている森林地帯はけれどそして、クレーターの低地である北東の土地を三分の一以上程も覆ってしまっていた。

「お……」

更に目を凝らすと、そんなバラバラ且つ巨大な森林地帯の上部に、大半以上の地表部分ではとうに姿を消してしまっていた霧がうっすらとではあるものの生き残っている光景が視界に映りこんできて、その予想外の光景に思わず感心の声が漏れた。

「……なるほど」

熱と風に弱い小さな水蒸集合体である霧がほんの僅かだけとはいえ未だ森の上で健在でいられるのはきっと、熱を貪欲に吸収する木の群れによって森の上の場所が未だ日の出前の冷たさを保ってくれているという条件と、群れる木々が暖かい風を多く遮ってくれているという事実があるからなのだろう。

……けれど。

「さて、どのくらい持つかな……」

けれど森の上の霧が朝日の上ったその後も森の上に姿を残していられるのは、残り僅かな時間だけのはずだ。群れる木々という存在によって僅かな時間生き延びることに成功した霧は、けれどもやがて地平の端から現れる太陽がその高さを増すにつれて当たり前のように消え失せてゆくに違いないからだ。

小さい熱の存在―――この場合は水―――がどれだけ必死に抗おうと、やがて大きな熱が持つ力と流れの前に健闘むなしく敗れ、最後には他の熱と合体させられて個を失っていってしまうものなのだ。

そう。例えば、飽和し大気に溶けていった水蒸気がやがて必ず発生する上昇気流により空の上へとさらわれ、そうして空の上へと辿り着いた水蒸気はやがて地表にいたかつての頃を思い出すようその身を寄せあってゆき、そして集いつつ熱を放出しつつ水や氷の状態へと己の身を変化させた水蒸気はやがてに再び大きさを取り戻し、そうして大きさ取り戻した水蒸気らがやがて自らの重みと重力に負けて大地を目指して落下の旅を始めるよう、水は太陽から熱を与えられると自らの身を分け、散らし、小さく姿を変えて低い場所から高い場所へと移動し、移動しては再び集いてその身を大きくし、やがて再び集って大きくなると再び高い場所から低い場所へ移動し、やがて再び低い場所へ移動しては小さくなりを未来永劫に繰り返してゆくものなのだ。

「あ……」

などと考えている間、向け続けていた視線の先、己のその考えを正しいと証明するかのように森の上にあった霧が薄まってゆく場面を目撃して、思わず呟く。溜息を一つ吐いたのち、改めて思う。

そう。万物は流転し、熱は循環するものなのだ。小さな存在は大きな熱の都合によって将来と動きを永劫左右させられてしまうものなのだ。取り込まれるかあるいは散らされるか。その行く末に些細な違いこそあれども、眼下のクレーター内でもやはりそんな自然の摂理に従って永劫終らない旅路が繰り返されていたのだ。

「はぁ……」

その様見て、再び鬱屈とした気持ちが湧き上がってくる。

―――世界も、自分も、誰かの大きな熱の都合に動かされてばかりだ

今の自分は雲や霧のよう、世界を巡る熱の都合によって動かされる、他の熱の変化によって移動を繰り返しているだけの存在なのだ。いいや自分だけでなく、今のこの世界のほとんど誰もがそうして自分より大きな存在の都合によって動かされ、気付けば誰かに熱を与えられて、それらを消費する事も出来ずに苦しんでいるのだ。

流されずにあり続ける事の出来る強靭な意志を持つ存在など今までに見た事がない。出会ってきたものたちはどれだけ立派に見える存在であっても、自らより立派で巨大な熱存在を前にするとたまらないと言わんばかりに巨大な熱存在の前から逃げるように旅立っていってしまう存在ばかりだった。或いは、周りにある他熱の流れに押し流され続ける程度の熱や核しか生み出せない己の無能さと無能さに絶望し、その身を粉々に砕け散らせては世界の循環の中へ還ってゆく存在ばかりだった。

―――世界が、狭い

眼下に森上にわずかばかり残るあの霧もやがていつしかはどこかで核を失って足を止める事になるのだろう。やがて大きな他熱の流れに己の身を任せ、けれど素知らぬ顔で平然と永劫に循環の旅路を続けてゆくのだろう。

―――あぁ……

その在り方をひどく羨ましいと思った。誰の熱に影響受けても平然としていられる強さを、欲しいと思った。出来る事ならば是非ともそんな境地に至れる方法を教えて欲しいものだとも思った。

―――あぁ……

 瞬間、気付き、落ち込む。

「―――は……」

もう他の存在を頼ってしまった。己の核が生まれていたのにもう失せてしまった。そんな事実にとことん絶望させられる。己を殺したい気持ちが沸々と湧き上がってくる。生まれかけ、けれど結実する事なく散っていった情熱が心を刺激して、羨ましさだけがこみあがってくる。どうすればこんなにも息苦しい世界の中でそんなにも変わらずにいられるのか。どうすればこの熱に満ちた世界をそんな風に平然な様子で泳ぎ切る事が出来るのか。どうすれば私は体に満ち溢れる熱を消費しきれるのか。どうすれば私は私自身に救いを与える事が出来るのか。

―――私は……

渇望。それは手を伸ばせば世界はどこまでも遠くに広がっていると信じていた青葉の頃にはなかった感覚だ。渇望とは、もはや現実が自分の力だけでは覆せないと確信してしまった時に発生してしまう鬱屈の感情の事だ。今や指先に至るまで渇望の熱に満ちているというその事実は、自らが老いたという何よりの証に違いなかった。

私は今やもはや、体内のほとんど全てが自分以外の熱と渇望の熱だけによって満たされてしまっているのだ。私の体はもはや私の情熱という熱によって動かされていないのだ。だって情熱という言葉とかつてそんな情熱を生み出したはずの光景が、今の私はひどく寒々しく聞こえ、見えてしまうのだ。

―――あまりにも半端だ……

唇が暗くひん枉がってゆく。情熱という言葉と目の前の光景が寒々しくつまらなく感じられるという事実に、今の己が心底他熱の都合と渇望の熱によって動かされているだけ存在なのだと自覚させられてしまったか。

そう。私は老いた。そんな認識が自らを諧謔に乏しい老いた存在へ変化させる一因にもなってしまっている。己のふがいなさを恨みつつ、己の情けなさに胸を抉られる感覚を味わいつつ、私という存在をそのような人間にしてしまった大きな要因である万能の道具へと視線を落としてゆく。そうして視線を両腕へ落とすと、視界には見慣れた金と銀の中間のようなエレクトラムの色に輝く腕輪が映りこんできた。

「プレートは所有者の在り方の具現、か」

太陽の光を浴びて煌々とした琥珀色の光をばら撒く己の左右の手首のそれぞれに装着されているこれら二つの腕輪は、プレートと呼ばれる万能の道具がアリュアッテスという私に適応した結果に生み出されたものだ。

プレートは、かつての時代に存在していたお優しい誰かの『誰もが何不自由なくこの世界を謳歌して欲しい』という願いによって生み出された道具であるという。そんな綺麗といえば綺麗すぎる願いによって生み出されたプレートにはそして、そんな過保護といえば過保護すぎるどこかの誰かの望みを叶えるべく、人間の体内に宿る機能と、宿った人間の知恵と知識と経験を蓄えておく機能と、宿った人間の肉体の成長に応じて己の姿を変える機能と、熱を無限に貯蓄出来る機能がやがて備わるよう改良されてきた代物だ。

「プレート……」

子どもの頃にはその未熟な体を壊さぬよう本当に最低限の働きしかしないプレートは、けれども成長して体が出来上がってゆくにつれて真価と機能を発揮し始める。体が出来あがってくるにつれてプレートは、自身を保有する対象者が生活するさなかで疑問を抱く、或いは、対象者が自らの持つ知恵や知識や経験の不足を感じると、己の保有する知恵や知識や技能を自動的に刻みつけるようなるのだ。

例えば、対象者が空の青さに疑問を抱いた瞬間、対象者はそれが空気中に散らばった目に見えないほど小さな物質に光がぶつかって散乱した結果なのだという知識とその知識の理解に必要な知恵や経験を植え付けられる。果たしてそれは本当だろうかとそんな疑問を抱いた瞬間、対象者は己の目で小さなその熱の動きを見られるよう身体機能を強化される。肌身で感じなければ納得できないと対象者が諦め悪く憤れば、対象者は周囲の熱変化を直接肌身で感じる事が出来るよう空の飛び方を教え、また、上空の温度差激しい中でも平然としてられる方法を伝授してくる。そしてプレートの力によって上空に肌身で実際に大気の熱変化を感じられるようなってしまった対象者は、大抵その後、その疑問の火種が尽きるまで同じ事を繰り返す羽目になる。

そうしてプレートの働きのおかげで対象者―――かつての私は、この雲が浮かぶ程に高い空の上という極限の環境の中に生身であろうとも、脱水症状になる事も寒さで肺が凍りつく事もなく、平然安穏とした状態で愚痴をこぼしつつ過ごす事が出来るようになってきたというわけだ。

「万能チューリングマシンの具現化……」

すなわちプレートとは自動学習機能と教育機能を備えた生き字引で、完璧の状態を強引に完成させる教官で、他人の知識の結晶体であるそれはつまり、人類の歴史そのものといえる道具なのだ。

「世界の全ての仕組みを収めた道具……」

プレートが伝授してくる知識や技能には、嫌味ったらしいくらいに誤りや間違いなんてものが欠片程もない。プレートの中に保管されている知恵と知識と技能は、どれも私が抱ける疑念や疑心を完全に晴らしてしまう程の熱量に満ちている。プレートは常に、私の想像を遥か超えている答えややり方を提示、授与してくるのだ。

「絶対に超えられない壁、か」

プレートの中にある知恵や知識や経験は、数えれば既に万を優に超える年月の中において億兆を優に超える数生まれ落ちてきた人類が培い洗練してきた知恵と知識と経験が全て詰め込まれているといって過言でないのだ。人類の歴史そのものといっても過言でないプレートの中の知恵や知識や経験に対し、所詮私という一個人如きが獲得出来る知恵や知識や経験が敵うはずもないだろう。また、私が脳裏に浮かべられる淡い想像を長きにわたる歴史の中で他の誰かが抱かなかったなどという事もまずあり得ないわけで、ならばそれは即ち、私が抱く全ての疑問は過去に他の誰かが抱いたことある疑問の焼き増しに過ぎないというのと同義であり。

―――だからこそ誰も敵わない

つまりはそして、プレートに格納されている知恵と知識と技能は人類の歴史においていつかかつてに登場したどこかの誰かが抱いただろうそんな小さな疑問疑念疑心をすら解決して、そんなどこかの誰かの疑問疑念疑心をすら研磨剤として磨かれ続けてきた、それでも尚残すに値すると判断されて蓄積されてきた知恵と知識と経験の集合体なのだから、そんなもの私の想像を超えていて当然の集合体であるという事で、つまりは即ち―――

「誰も越えられない壁、か……」

プレートは踏破不能の壁という結論に辿り着いてしまう。

「……はぁ」

 想像を超えたものには有無を言わせない説得力がある。そしてプレートの中にある知恵と知識と技能は即ち、いわば完全なる真球のようなものといえるのだ。それはあまりに凸凹がなく理想状態すぎていて、どう足掻いたところでこれ以上手を加えようがないと一目でわかってしまう、疑いの余地は零で、打てば同一のタイミングで返事する阿と吽で、世に存在している事自体が既に矛盾じみているとすら思える説得力の塊な存在であるのだ。

 疑問の余地挟みこむ隙間を完全に失った知恵や知識や経験なんていうものはもはや究極の正答と変わりなく、そしてまたプレートの中へと格納されている膨大な量の知恵と知識と経験は、それでもどうにか完全真球の如きそれらに埒を開けようとする人たちの必死な問答と実証の繰り返しによって、けれどそんな彼らが抗いに用いた知恵と知識と経験すらをも糧として、質をも兼ね備えた姿に成長、進化してしまうのだ。

 プレートはそして抗う諦め悪い彼らの経験をすらも糧とし蓄え、一方で不必要と判断した余計な知恵や知識や経験を一切合切削ぎ落とし、内部にある知恵と知識と経験を更新し続ける。それの繰り返しにより、プレートの中に収められている知恵と知識と経験の壁は更に埒が開け難い分厚いものへと変化してきてしまった。そんな風幾億幾兆人もの知恵と知識と経験を収め、幾兆以上もの人によって研磨され続け、そうして幾多のパラダイムを乗り越え続けてきたプレートの知恵と知識と経験に、どうすれば才能に乏しい一個人程度の知恵と知識と経験で敵う事が出来るというのだろうか。どうすれば抗いの気力を保ち続ける事が出来るというのだろうか。

「―――たまらないな……」

世界には、プレートにはもう、熱を挟みこむ隙間がまったく存在していない。そう思える位には長く足掻き、旅を続けてきた。そうだと確信出来てしまうくらいには、プレートの中にある知恵と知識と経験に打ち負かされ続けてきた。プレートの力を利用して、旅を続けて、説得され続けてきてしまった。さなかに得た多くの人々の手により研磨研鑽され続けてきたそれら説得力のある知恵と知識と技能が己の核となってくれる事はなかった。だってそれらの知恵と知識と経験には、己の熱が、情熱が、欠片も含まれていないのだ。己の熱が全く籠らないそんな知恵や知識や経験を大切にする気になんてならなかった。けれど、私には説得力ある知恵や知識や経験を使わないでいるなんて強い選択する事も出来なくて、結局私はずるずるとプレートの知恵や知識や経験を用いて旅を続けてきてしまった。結果、長年の酷使によって私の体は情熱が生まれ難い状態にまで老化してしまい。

―――行き詰まった

私はもはや余地が完全に失われてしまったのだと確信して救いを渇望する状態にまで追い込まれてしまった。それはもはや過去にしか己の心地良い世界が存在していないという状態に等しかった。私はもう未来に進む道を見つけてやる事が出来なくなってしまった。わずかほども隙間のない壁が、完全の状態を作り出すプレートが、私の広かったはずの世界を終わらせてしまった。遍く三千世界の果ての崖の淵に私を追いやってしまった。

―――もう打つ手がない

隙間がない。成長しプレートの持っている力を十全に使いこなせるようなったアリュアッテスという人間は、まさに隙間が完全にない状態になってしまったのだ。今やアリュアッテスという人間は何一つ不自由する事なく生きる事が出来るようなったのだ。今やアリュアッテスという私は私が若かりし頃に望んだよう、太陽のよう、強い影響を及ぼす事が出来る存在になったのだ。私はもう、かつての望みをこれ以上ない形で果たす事が出来るようなったのだ。世界の果てを見る事が出来るようなったのだ。そんな終わりの場所に辿り着いたのだ。

けれどかつて憧れたそんな場所へ着くまでに私が要したのは、僅かな時間と幾つかの己の情熱から生じた疑問だけで、あの瞬間に私は、湧いた情熱から生じた疑問を心に抱いたその瞬間、過去から今の私へと連なる全ての人々が残してきた熱と知恵と知識と経験に導かれ、一瞬のうちに、世にある全ての問いに対して正しいと思える説得力に満ちた答えを得られる状態へと到達させられてしまった。

―――何も出来ない……

私はほとんど何もしないまま、誰かの熱に導かれて完全な終わりの境地へと至ってしまったのだ。その事実に気付かされた時の嘆きと絶望といったらなかった。だってそれはもはや己の生きる意味が失われたに等しかったからだ。もはや私は水や雲や金貨と同然の熱を何処か別の場所へ運ぶ媒体にすぎなくなってしまっていたのだ。私はもはや過去の記憶の中にしか幸福を見つけられない存在になってしまっていたのだ。 

未来に希望を見出せない、己の情熱を持つ事すらもまともに出来ない生物。周囲にある熱によって動かされて生かされているだけの存在なんて、そんなものはもはや生物として、命として破綻している。

核を持たず、己の熱を持たず、ただただ只管に立ち止まって呆けているだけの命にいったいどれだけの価値があるのか。歴史と説得力ある誰かの導き出した答えが大量に詰め込まれただけの人間に、何の意味があるのか。人間にとって重要なのは、人類が培ってきた全ての歴史と説得力のある誰かの導き出した答えを知る事でなく、己自身の中にある情熱の滾りの導きに従って正しいと思える答えを詰め込んで己の歴史を作る過程にあるのだ。旅の果てにある理想郷が尊いのではない。果てへと至るまでの旅のさなか、自らの手で、自らの情熱で、自らの満足出来る事を成し遂げてきたという事実こそ重要なのだ。手垢にまみれる程使い古されたそんな言葉の意味を心底実感出来たという事実だけが、私の瞬間に終わってしまった情熱の旅の果てに得られた全てだった。情熱の旅の果てに得られたものがただの感慨の気持ちだけだったというそんな事実が、ただただ哀しくて空しかった。

―――何も、出来なかった……

だからこその絶望で、だからこそ終わりと究極は人の手に余る称号と境地なのだと理解させられてしまった。永劫届かぬはずの理想郷、世界の果てとは、熱の揺らぎの存在しない場所とは、熱持つ存在が足を踏み入れてはならない存在であるのだと思い知らされた。普通の熱生物であれば決して到達できないはずの無限遠の彼方に、けれども私たちは己自身らの身の内に宿したプレートの中にある無限に等しい熱量と知恵と知識と経験によって否応もなく到達させられてしまったのだ。そんな悲しい事実を、心底理解させられてしまった。

私はけれど以後、それでも諦め悪くプレートに対して挑戦し続けてきた。けれども私は以降何度挑戦しても、プレートの中の知恵と知識と経験を覆す事が出来なかった。眼前の箱は観測した瞬間敗北が確定する箱だった。箱の中を覗いては敗北を背負い、絶望し続けるという事だけを幾度となく繰り返してきた。そして私はやがて、負け続ける事に、負けが確定している勝負そのものに耐えきれなくなり、己の心を、膝を、折ってしまった。

私には結局何も更新出来なかった。

それがとても悔しくて悲しかった。

ならば私は何の為に、この世に生み出されてきたというのか。新しい価値をまるで生まない己という存在は、墓穴を掘るだけの存在といったい何が違うというのか。新しい熱を、歴史を紡がないその行為は、その生涯は、私へと命と歴史を繋いできた人たちを侮辱する行為といったい何が違うというか。

私は過去に情熱抱いたあの時から何一つすらも変わっていない。

あの時この身に宿った情熱はわずかばかりも消費されていない。

だというのに、終わってしまった。動く気力や抗う熱が失われてしまった。老いの実感が体を動かなくした。抱く情熱は己の居場所を求めて体内を彷徨っては、けれども核とならずに失せてゆくばかりとなってしまった。私の体の中は、いつだって自分以外の他の熱によって埋め尽くされている。自分の熱を刻み付けてやる隙間が、余裕が、核が、私の体の中にはもはや存在していない。

私はいつだってこの身を内側から焦がす他熱や渇望の熱と戦い続けてきた。私は己の熱を留めておける隙間が欲しかった。溜め込んだ己の情熱をぶつける経験をしてみたかった。その為に消えない情熱の核が欲しかった。やがてはそれを用いて、世界の果てに己の自身の力で到達してみたかった。

けれども今、己は既に世界の果てに辿り着いてしまっているのだ。己の内にある他人の知恵と知識と経験が、己を世界の果てへと一瞬で導いてしまったのだ。そんな生きがいのない世界の中、クリュセの街の人々のように他の生物を弄んで憂さを晴らしつつ生きる選択をみっともないと思えるだけの良心と、レテの街の人々のように熱を浪費して生きるのを善としない程の矜持が私には残っていた。それらの良心と矜持が私にとっては私の中にわずかな情熱が残っている証明に感じられ、救いとなり、小さな核となってきた。けれど同時、それらの矜持と良心はけれど本当に私自身の情熱から生じたものなのかという疑問の火種ともなり、私を苦しめ続けてもきた。

 他所からもたらされる熱と自らの想いを疑う念が生み出す熱と渇望が生み出す熱の熱さと苦しみと痛みに只管耐えつつ、それらの熱に突き動かされて旅を続けてきた。そうして他熱と疑念と鬱屈に流され続けてきた結果にここまでやってきた。私が求めているのは、持て余した己の情熱を置ける余地だ。旅路のさなかにおいて情熱は何度も体内に発生した。けれどこの身の内側から生まれ出てきた情熱は、いつだってそれを溜め込むより前に、留める為の隙間を見つけるよりも前に、余地のない体内から消え失せていってしまうのだ。

 そう。私の旅はあの時から常に一瞬で終わってしまうようなっているのだ。

 その度、この無限にも思えた世界にはけれど決してプレートの中に収められている知恵と知識と経験を超えるようなものなんて存在していないという実感を得させられてきた。終わらないと感じたはずの旅はけれど瞬間の葛藤の末に霧散して終わってしまう。その都度ごとに思い知らされる世界の狭さをどうにか拒絶して、すぐさま別の余地を求めてひたすら体を前へと進ませてきた。そんな行為を繰り返すたび、プレートに与えられる知恵や知識や経験によって体の内側が見知らぬ誰かの熱で分厚くなっていった。都度、目の前の世界はあっという間に陳腐に見えるようになっていった。自分の熱がまるで宿っていない知恵や知識や経験を持って歩き続ける感覚は重く分厚い辞書を持ち抱えているかのよう、あまりに鬱陶しく、あまりに重々しく、あまりに邪魔くさかった。プレートという辞書の厚さと重さが増す度、誰かの知恵や知識や経験は自分の肉体を真に動かす為の原動力にはなりえないのだと思い知らされた。己の情熱が宿らない誰かの熱なんてものはとても核にならないものだった。

 他より一方的に与えられる熱や知恵や知識や経験は纏えば纏うだけ頭や体の動きを鈍重なものへ変化させる、言ってみれば余分な脂肪の如きものであるともいえるだろう。気付けば体の中には大量の熱が貯蓄されていて、しかもそれらは容易に除去する事が出来ない。だから体内はそれら膨大な熱量が蓄えられた脂肪によっていつも炎症の状態だ。それでも愚かしい存在は多くの熱量を体内に取り込み続けてしまって、いつしか体内には情熱の生まれる余地なんて存在しなくなっていて、体内はいつもそれらの消化不良の熱ばかりで埋め尽くされている。それと全く同然だ。世界は、私の体内は、こんなにも余計な熱にばかり満ち溢れている。他の誰かの熱によって埋め尽くされた世界は、確かに過去の過保護な誰かが望んだ通り、危険がなく、謎がなく、安寧で満ちている。けれども誰かから一方的に与えられた安寧と熱と知恵と知識と経験に満ち溢れているそんな世界は、だからこそ欠伸が出る程に退屈で、生きているのか死んでいるのかすらもわからない。この退屈さばかりに支配されている世界が無能な己の見る夢の光景であったのならば、どれだけ救われた気分になれただろうか。溜め込んだ熱量が己の愚か行為の結果に蓄えられた脂肪の如きものであるなら、どれだけ痩身の気力が湧いて出てきただろうか。世界がこんなにも熱と光に満ちていない暗黒と未知残る世界であったなら、私はどれほど発奮できただろうか。

けれどそんな現実逃避に浸る事をすら、このプレートという存在は許してくれないのだ。なぜなら我々人類はプレートが与えてくる知恵や知識や経験により、それらが持つ無限にも等しい説得力により、何処までも残酷に目の前に広がるこの退屈な世界が現実だという事を理解させられてしまうからだ。

今や人類は熱を体に溜め込みすぎて、総じて肥満状態なのだ。誰もが体中に熱を溜め込みすぎている状態で、欲しいのはこの身の中にある誰かの熱を発散させる手段で、情熱を留めておける隙間で、とどのつまり私たちは己の身体に纏わり付く余分な熱を捨て去って痩せたいのにそれが出来ずに悩み続けている肥満児なのだ。

何という皮肉だろうか。食物を摂取しなくても生きてゆけるようなり、伴って体型も総じて痩身気味となり、過去の人たちが誰もが羨むだろう容姿や力を手に入れた私たちはまた、その進化の果てに周囲の熱を直接体内に取り込む事が出来るようになり、取りこんだ熱をそのまま直接体を動かす熱源として利用が出来るようになり、熱や知恵や知識や経験を限りなく保有しておく事可能とするプレートという道具を手に入れた私たちはけれど、そんなプレートという万能の道具とそれが持つシステムにより苦しめられ、誰もが得た熱や知恵や知識や経験や得られた豊かさ捨てようと躍起になっている。そう。とどのつまり私たちは痩せたいのだ。熱を捨てたいのだ。摂取量よりも消費量を増やしたいのだ。プレートの中に溜め込まれている他熱を凌駕する己の熱が欲しいのだ。生まれた己の熱を注ぎ込む余地が体内に欲しいのだ。自分だけの熱と核が欲しいのだ。誰かの熱と都合によって動かされる雲のような存在になりたいのではないのだ。唯一無二の自分だけの熱核から雲を生み出したいのだ。そんな隙間をこの世界の中に自分の中に見つけたいのだ。だからこそ多くの人は隙間を探す為の旅に出るのだ。そんな彼らと同様に私も、眼前に広がるこの熱に満ちた世界のどこかには自分が情熱注ぎ込むに値する何かや、己の情熱挟み込む余地が少しくらいあってもいいだろうと、淡い期待を抱いて生まれた場所より旅立ったのだ。

けれどもプレートはやはりそんな私や彼らの考えや淡い期待を甘っちょろいと嘲笑うかのように、プレートの影響と過干渉から抜け出してやろうとするそんな熱捨痩身の旅の最中ですら他の熱をより効率的に摂取する為の知恵や知識や経験を与えてくるのだ。そうして私と同じよう考えて旅立った彼らは大抵真っ先に、プレートからこの世界を素早く見て回るために最も有用な、周囲の熱分布を適切に操作する事で本来飛ぶに適さない人の体を空飛べるようにする手段の、“エア・カー”を教授される。

この“エア・カー“という自身の周囲の熱分布を操って空中を飛ぶその手法は、通称“足”と呼ばれている。かつての時代に発明されたこの“足”という手法によって、人間はこれまで己の身一つだけでは行く事が容易に叶わなかったどのような場所―――例えば、空の上にも、雲の中にも、地平線の向こう側にも、深く暗い海底にだって行けるようなった。“足”はそのよう人が世界を旅するにあたり、最も有用と断言の出来る手段なのだ。

プレートはそしてまた、そんな“足”の効率的な使用方法、つまりは自己と周辺温度の差を探り操る方法から速度の細かい調整方法、さらには手を抜いて操る方法すらをも教授してきてくれるのだ。プレートに秘められた知恵と知識と経験はそのよう、本来自身の力だけでは生涯到達不可能な場所にすら行けるようしてくれるのだ。“足”という移動手段一点に限ってもみても、プレートがどれだけ人間を甘やかし楽させてくれるかがわかるというものだろう。

―――だからこそ世界はこんなにも息苦しい……

そしてまた、例えそれが他人から与えられた熱だろうと知恵だろうと知識だろうと経験だろうと、私を含めた全ての生物の体は一度覚えてしまった楽の手段を早々忘れないよう出来ている。だって命は本来、必死になって周囲から楽に熱を奪う為の手段を模索し、そうして得た熱を溜め込んで、用いて、生きていくものなのだから。世界はそしてまた、そのよう熱を楽に溜め込む事の出来る生物程生き残れるよう出来ている。だからこそ多くの生物の体は、どれだけ子孫が苦しむ事になろうとも、今生この時において己が熱を溜め込み生き残る事出来ればそれでいいと判断するように出来てしまっている。かつての人間は世界の熱による峻別を道具の改良と己の体を変異させる事で適応し続けてきた。体内の不足を道具にて補い生存、発展し続けてきた。かつての時代、多くの他の命よりも身体能力に劣っていた人類は、弱肉強食の世の中で他の生物よりも多くの熱を確保し続ける為に、自らの体を努めて変化させるのではなく、知恵を活用し、集団で行動し、得られた結果を知識として溜め込み、それらを用いて道具と技能を先鋭化させてゆく道を選択した。棒と石はやがて組み合わせられる事で斧となり、己より鋭い爪や牙や巨大な体躯持つ生物相手に下克上達成させる為の武器とも未開の森を切り開く為の道具ともなっていった。弱者の知識や技能から生み出されるそんな武器や道具は、人が持つ個々の才に依存しないよう、より楽でより効率的に熱をより確保出来るよう属人性をより排除され、一般化させられていった。石斧はやがて剣となり銃となり、それらの誰でも使えるようにと作り出される武器や道具はやがて、他人よりも身体や知能に劣る弱い人間でも容易に熱を確保出来る、弱者を強者へ変身させる為の武器や道具へ生まれ変わっていった。

武器は、道具は、他の生物よりも体機能が劣り、また、熱効率が圧倒的に悪い人類を、それでもどうにかして生き残らせようという足掻きから誕生した、知恵と知識と経験の結晶だった。しかし今、かつてそうして人類を生き残らせる為に研鑽され続けた武器や道具の最先端にあるプレートという道具は、今や熱を直接自身の体内に取り込む事すら出来るようになった人類の体に過ぎた熱と癒えない痛みをもたらす拷問器具となってしまった。 

プレートという道具を捨てたのなら、楽になる事はわかっていた。けれども人の体は、人の頭や意思のよう、熱飽和状態が人という種族にとって悪い事であると認識を改める事が出来なかった。なぜなら人間の体は脂肪のシステムのよう、熱を得る為にした変身の証をやすやすと切り捨てられるように出来てなどいないからだ。

何故なら全ての生物には可能な限り己の命を長く保たせたいという本能があり、また、この世界においては、より多くの熱を保有している方が多く生き残れるからだ。咽頭につながっている反回神経がいちいち心臓付近の大動脈をぐるりと経由し喉元に戻るのは、魚類が昔、後先考えず当時において熱効率の良い進化をした代償だ。魚類が生き残る為、己が楽となる為の進化した結果、そしてそんな進化をした魚類の方が多く生き残った結果、以後、魚の系譜に連なる子孫の体に反回神経の後遺症が残された。その状態のまま生存競争を行い続けた結果、その状態を前提条件として更に熱効率良い進化を体の他の部位がしてしまい、以後の存在は、効率悪いはずの、己の身体にとって都合が悪いとわかっている機能を戻す事が出来なくなってしまった。


ところが一方でまた、人の体は不要であると判断したシステムを、体内において熱を余計に消費するだけだと判断したシステムを排除しようと働きもする。かつて人が自身の体内において生産していたはずのビタミンCを生産出来なくなったのは、そんな体の性質によるものだ。ビタミンCは人の体を頑丈に保つため必須の成分で、かつて人は体内でその必須成分であるビタミンCを生産する事が可能だった。けれど人の体は必須のはずのその成分をやがて生産不可能になってしまった。また同様、人は体の維持に必要なアミノ酸九種類を生産する能力も過去に失ってしまった。それはかつての時代には豊富なビタミンCを含む食物や必須アミノ酸を持つ他の動物や植物が地上にあふれかえっており、それらを食べる事で大量に補給可能だったからといわれている。何故なら。それを生む熱を別の部分に回せれば、そのよう変身出来たのなら、他の人よりも長く生きる事が出来たからだ。

本来生きる為に必要と消費していた熱量をそのまま他の生物出し抜く事に使えるようになったのなら、そういう進化を遂げた生物の方が生き残る確率が高くなるのは自明の理だ。だからこそ人含めた全ての生物は、そういう熱効率の良い体に進化したもの―――つまりは周囲から多く熱を奪える存在の方が数多く生き残ってきた。

けれどもやはり人の体はまた、脂肪のよう、反回神経のよう、やがて文明が発展して船旅などで地上を長期間離れる必要が出てきた際においても、それでもビタミンCを生産する機能を取り戻さなかった。必須アミノ酸の生産機能も取り戻さなかった。何故ならば、それらの機能をわざわざ是正した人よりも、復活させた人よりも、周囲から熱や必要栄養素を奪って補える人の方が多く生き残れてきたからだ。

そう。この二例からもわかるよう、人の体は熱量を減る事を悪だと認識し、可能な限り多くの熱を脂肪として溜め込む事を正義の行いと認識している。何故なら、人が熱を直接に操る事が出来なかったかつての時代には、熱を多く所有出来る人の方が生き残れてきたからだ。たとえそれが人の体を保つ為に必要な栄養素であろうともその栄養素を大量に生み出せる生物が自分の周囲に多く在るのなら、己の体を体外からそれらを取り込む生き方するよう変化させる事が出来た人の方が長くそして数多く生き残れて来たからだ。放置しておけば熱が体内から勝手に失せてゆくこの世界で長く命を保つ為には身体の熱効率を向上させるのが最も近道なのだから、人の体が熱を多く溜め込めるように変身し続けてきたのは、そんな高効率の体である人の方が数多く存在しているのは、多くの人がその為に熱を溜め込める道具を開発してきたのは、その果てに生まれた今や人の体と一体化している限りなく熱を溜め込める道具であるプレートを我々の体が手放す事出来ないのは、当然であると言えるだろう。

全ての生命はそのようにその場その場で生き残るのに必死で、故に体は、自らの後に続くものたちがどのよう苦しもうが知った事ではないという振る舞いをするものなのだ。ならば即ち、人が今のよう熱肥満の状態なのはある意味当然で自業自得の出来事なのだ。進化は熱効率良い方に向けて発生するものなのだ。それは不可逆的で不可侵の絶対的法則なのだ。全ての生物の体は一度覚えた楽を易々と手放さないよう出来てしまっているのだ。命とはそういう身勝手な進化をする存在なのだ。そして今の人はそんな進化の果てに熱を直接操れるようなり、更にはプレートという道具を用いる事で熱と知恵と知識と経験をすらも継承できるようなった存在なのだ。

今や人は熱さえあれば無限に生きる事が可能な、まさしく不滅の体を手に入れた存在である。けれども一方で不滅となった肉体とは異なり、人の精神というものは完全であるものへ変化しなかった。何故なら人の精神は、脂肪のよう、反回神経のよう、かつて人の肉体が不滅でなく不完全だった熱効率の高さこそ正義であった時代に生み出された体内の熱状態が完全に安定した状態でない事を前提に運用される機能であり、そんな機能の働きによってプレートという道具が生み出されたが故に、それが人の体にある事が人にとって当たり前の状態であるとプレートの中に刻み込まれてしまっているからだ。

だからこそプレートを保有する人の体は、完全な肉体と不完全な精神が同居した状態であり続けているのだ。けれども人の体が不完全な状態での運用をこそ前提として生み出された精神は、だからこそプレートが人の体に与えた完全平和の状態に耐える事が出来なかったのだ。だからこそそんな肉体を持つ今の時代の多くの人間は、私の思考が今こうして不毛な堂々巡りしているよう、この世界の中を他の存在の熱の影響を受けて無意味不毛に巡回させられる雲や金貨のような存在に成り果ててしまったのだ。

―――だから、私の今のこの苦しみも仕方のないことなのだ

 慰めるよう諦めるようそんな言葉を己へ言い聞かせながら、プレートの力によって容易に扱う事出来るようになった“足”を活用して必死に世界を巡ってきた。必死で世界を巡る旅路のさなか、精神は多くの場面において疲弊させられてきたけれど、体の方が特筆する程の苦労を覚える場面とは遭遇する事はなかった。

 当然だ。だって旅路のさなかにもプレートは熱を効率的に運用して我が身の内部の熱を可能な限り多い状態に保つ為の知恵や知識や経験を与え続けてきたのだから。そして得られた熱の奪い方、風の読み方、体の操り方、遭遇した動物の性質、知らぬ道具の使い方などのプレートに与えられる全てを活用し、世界中を探索してきた。

けれどもどこに行ってもこの世界の中は、プレートの中に収まっている情報だけでしか満たされていなかった。世界中のどこに行っても、プレートはいつかかつての時代何処かの誰かが取得してきた熱と情報を与えてきた。世界の隅々に至るまでが他の存在の熱に満ちていた。かつてはあんなにも広く見えた世界が、今ではこんなにも小さく自分の身体の中に収まっていると感じられるようなってしまった。世界が私の体の中に納まってしまう程狭く見えてしまうのが嫌で、生きている世界が息苦しく思えてしまうのが嫌で、他の存在の熱で動かされている感覚が嫌で、だからといってどうにかして生きる事を諦める理由を必死に探す自分が嫌で嫌でしかたなかった。押し付けられるのが嫌で、享受してしまう自分が嫌で、嫌々受け入れる自分が嫌で、頼らなければ生きられない弱い自分が嫌で、狭量な自分が嫌で、そんな自分より狭く見える世界が嫌で。狭苦しく見える世界の中で足掻き生き続けてゆかなければならないのが嫌で、狭く息苦しくい世界も無能で無才で無力な自分も何もかもが嫌で、どうにかして己の情熱を発散させる場所が欲しくて、情熱の余地が欲しくて、己の情熱を費やすに値する何かが欲しくて、プレートに刻みつけるが価値あると認められる何かが欲しくって、徒労の格好悪い生涯を認める事がどうしても出来なくて、老いて尚己の価値を渇望する事にどうしても諦めをつける事が出来なくて。

―――気づけば五十年、か

何もかもを諦める事が出来なくて、情熱の余地が欲しくて、ただ只管不毛に時間と熱量を費やし続けてきた。世界の果てへと辿り着ける程の熱と知恵と知識と経験取得する為に人類が積み重ねてきた時間と熱量を思えば、一人の人間が五十年の間に費やした時間と熱量などは、『たかが』と笑い飛ばせてしまう程度にすぎないだろう。

けれども、安寧の呪いに支配された世界をあてもなく彷徨い続けるに費やした五十年という時間は、そんな時間彷徨い続けて浪費してきた総熱量は、徒労は、私にとって無限にも等しく感じられるものだった。

それでも。それでも私は生涯において、プレートに刻まれた他の誰かの熱と知恵と知識と経験を超える熱を、熱を生み出すための余地を、己の情熱刻み付けておける余地を見つける事が出来なかった。

この苦しい旅路はいつまだ続くのだろう。

この無意味な旅路はいつ終わるのだろう。

この世界に余地は本当にあるのだろうか。

この世界に余地なんてもうないのだろう。

いいや、そんなことは認められない。

終わっているなんて、認められない。

夢も希望もない結論を認められない。

 だって私はまだ終わっていない。

 まだ、始められてすらもいない。

 終わらせる為にも始めたいのだ。

 この徒労を、終わらせたいのだ。

―――いや、違うか

終わらせようと思えばこの徒労の旅を終わらせる事はいつだって出来たのだ。旅の最中、何度このようにして足を進め続ける事に何の意味があるのだろうかと考えたかわからない。この狭く、息苦しく、自分以外の存在の熱に満ちた救いようのない場所で、世界の中で、自分はそんな世界に生まれ落ちた、価値の低い小さな存在だ。そんな事実をそうであると認めてしまえば、己が矮小で他の存在にとって大した価値を持たない存在である事を認めてやれさえすれば、その時点でこの辛く長く苦しいだけの旅路を終わらせる事なんていつでも出来たのだ。そうやって全てを諦める選択をして、膝を折って足を止め、プレートの中の熱と知恵と知識と経験を用いる事で得られる幸福と安寧を享受する選択をしてしまえば、こんな徒労の旅はいつだって終わらせる事が出来たのだ。この徒労は人が進化の階の先端にたどり着いてしまった故に起こった当たり前の結果だと受け入れてしまえば、これは熱を自在に操る事出来るようなった種が世界の端に到達してしまった故に起こった当然の出来事なのだと思えたのなら、私は悟りという名の諦観と共にこの世界のどこでだって楽に生きてゆく事が出来たのだ。

―――私はまだ……

けれど私はそんな徒労の終わり方を許容する事が出来なかった。その徒労の終わらせ方を認められなかった。認められないのは、私が過去に人類という種が登ってきた進化の階段から転げ落ちた存在であるという劣等感があるためだ。今の己がかつての人より優れているなら、せめてその立ち位置が維持されていると思えるのなら、そんな結末も受け入れられただろう。けれど私は、過去に生きていた人より明らかに劣っていると感じている。

―――彼の背中に追いつけていない

それが苦痛だ。こんなのまるで肥満体だ。私は過去の人物に比べてこんなにも熱を溜め込んでしまっている。今の自分は醜い。そう思える事実と現実が苦痛で、ひどく耐え難い。

―――だから、諦められない

始まりは、自分も太陽のよう他の存在に影響を及ぼす事が出来る大きな熱存在になりたいという願いだった。けれどプレートによってすぐさまその願いを叶えられてしまったのちには、太陽よりも大きな存在になりたいという願いに等しくなったそれがもはや叶わぬと知りながら、それでも尚諦めきれず、余地を探す旅に出た。

―――彼……

そうして出た旅のさなか、幾度となくプレートによって打ちのめされて続けて来た私がそれでもそんな願いを諦める事が出来なかったのは、出来なくなってしまったのは、旅の最中過去の人物を知ってしまったからだ。

―――アリュアッテス

自らと同じ名前尾を持つ過去の人物の鮮烈な生き様を知らなければよかった。けれども私は知ってしまった。不意に疑問を抱いてしまった。思ってしまった。果たして過去に私と同じ名をした者がいたのだろうか、と。

そしてまた、過去にその名の人物がいたのであれば、それはいったいどんな人物で、何を成し遂げた人物で、どのようにして己の情熱を発散させた人物であるのだろうか、と。

旅路のさなかに不意にそんな事を考えてしまった私は、瞬間プレートの中に刻まれた知識によって彼に関する知識を取得してしまった。私は、私と同じ名前を持つ彼がどのような生き方をして世界に熱を刻んできたかを、どんな風に己の内に満ちる情熱を発散してきたのかを知り得てしまった。

―――アリュアッテス

人がまだ熱を直接操る能力を身につけていない時代。次の機会なんてものがそう易々とは手に入らない時代。言い訳なんてものをしている暇がない時代。人が人同士で熱の奪い合いを繰り返す為に知恵と知識と経験の研磨研鑽を積み重ねていたそんな時代。そんな騒乱の時代においてアリュアッテスという人物は、人同士が固まって生み出されたとある国という場所において、そこに住まう王国の民という人間の集団の熱や知恵や知識や経験を取りまとめ、管理し、指導する、所謂王族と呼ばれる立場にあったという。そんな古くの知識を得たその瞬間、体内に熱が湧き、それは消えぬ熱として私の胸に残るようなった。

 アリュアッテス。

―――今を生きる私の名

父母と呼ばれるあの人たちが何を思って私にその名を刻んでいったかはわからない。だってプレートは彼らの歴史と知識を不要と判断したか継承しなかった。そしてあの人たちは名付けの思いを明かす事も残す事もなく、自らの体をプレートへと変化させてしまった。

だから私にわかるのは私と同じ名を持つアリュアッテスという人物が王族と呼ばれる他人の熱と知恵と知識と経験の多くを受け入れ束ね活用せねばならない特別な立ち位置に生まれた存在であり、そうして彼は己の下へと集まった熱を自身の情熱と共に発散させるかの如く、多くの同じ人同士を争わせ殺し合わせる戦争という行為を繰り返し、やがて『硬貨』という人と人同士の持つ熱と知恵と知識と経験を交換する為に便利な定量価値を持つ道具を生み出した人物で、彼という人物が生涯をかけて培ったその熱と知恵と知識と経験は未だプレートの中に生き残るだけの価値を持っていたという事実だけだった。

―――私はまだ、生きている

同じ名前且つ似た境遇に生まれた人物が如何なる生き方をして如何なる功績を積み上げてきたのかを知る事が我が心を焦がす呪いになるのだという事をその時初めて知った。進化の果てにいるはずの自分がけれども過去に存在していたアリュアッテスと比べて何も残せていないという事実に、私はひどく打ちのめされてしまった。

―――生きている……

未来に残せるものが何もない。過去の存在より劣化してしまった存在だという自己認識が、過去の人物よりも劣っている己の存在意義が見つからないという事態が、この世界にはまだ己に見えていないだけで余地があり、この体内に膿み続けている情熱の発散先はきっとどこかにあるのだろうというそんな感覚を生み出してしまい、私という存在が諦めの境地の中で揺蕩う事を、“足”を止める事を許してくれないのだ。

―――そうとも

そんな如何ともし難い現実と理想の感覚の差を埋めつくさなければ私は終われない。

諦めて“足”を止める事なんて、到底できっこない。

―――……本当に?

そんなのは認められない。

確かにこの体は既にプレートの中にある熱と知恵と知識と経験により隙間なく埋め尽くされている。

私の中にはもはや自分の中より生まれた熱を刻みつけておく為の余裕が、まったく存在していない。

だというのにこの体は、精神は、いつかそんな熱を発散させる時が来る事を諦めないとばかり、次から次へと効率良く周囲の熱を吸収しては“足”を生み出し、行った事のない場所へこの草臥れた体を突き動かしてゆく。体が、精神が、止まる事を許してくれない。私には止まる事が許されていない。

―――過去の彼よりも優れた体と道具を持ちながらこの体たらく

熱は毒だ。

熱は呪いだ。

私はまだ世界に満ちる熱の呪いも、自分の体の中に満ちている熱の呪いを解毒し浄化する事も出来ていない。過去の偉人が成し遂げた成果や価値に勝るものを見つけ、自分の情熱を用いて自分だけの世界の果てを見つけてこの世界を己の腕の中から外へと飛び出させてやらなければ、そうして己の熱をわずかでもこの世界に刻みつけなければ、過去にいた人物の功績を少しでも上回まってやらなければ、私の魂は決して救われない。

―――過去の人物に劣るだけの己の生涯に、果たして一体、どれほどの意味があるのか

過去に積み重ねられてきた誰かよりも己はひどく劣っている。記録の中へ残す価値がないと判断された生涯。誰かが発掘した知恵や知識を利用し、誰かがやった経験を模倣し、そうやって漫然と他熱奪って生きる事だけを積み重ねてきただけの生涯など、それこそただひたすらに一所懸命己の墓穴を掘ることと何が違うというのか。

そのようまともな自己改善すら行えない私を、果たして生物と呼べるのだろうか。両腕のプレートの中にすら収まってしまう程度の熱と知恵と知識と経験しか持っていない堂々巡りばかりする存在に、そんな男の生涯に、私はどれだけの意味を見出してやればよいというのか。この不毛な思考の繰り返しはいつ終わってくれるのか。私の旅はいつ終わらせる事が出来るのか。

―――まだ、止まれない

無駄に無意味に情熱と時間費やす事を徒労という。私は己の人生というものを徒労という言葉におとしこめてしまいたくはなかった。これまで費やしてきた全ての熱量と時間に見切りをつけて何も感触も得られないままに旅をやめて安閑恬静の中で生きてゆく生き方を選択しまったのならば、私はいったい何の為に五十年以上もの間情熱と時間を費やしてきてしまったのか。ならば私は一体、何の為にこの世に生まれてきたのか。果たして私は何の為にこれまで足掻き続けてきたのか。

本能のもたらす恐怖と直結する気持ちが、徒労が、渇望が、全てを諦め“足”止める事を許容してくれない。

けれどそれらの想いと熱に突き動かされるまま徒労を重ねる程、後戻りが出来なくなってゆく感覚がある。

湧き出てくる蟠りを解消する為には、私が世界に生まれてきた意味を見つけ出すしかない事をわかっている。

 ……そう。

―――せめて

私が世界に生まれ落ちた意味。

―――せめて、私の、生まれてきた意味だけでも知りたい。

私の個人の価値。

―――せめて、私とはいったいどんな存在であるのかだけでも、知りたい。

腹立たしい事に、プレートはそんな自らがこの世界に生まれてきた意味と私の価値を問う質問には満足のゆく答えを与えてくれない。或いはその疑問は、これまで誰にも考えられなかったのだろうか。それとも、誰からも無価値であるからと切り捨てられた疑問なのだろうか。

―――私は、いったい何がしたかったのか

わからない。そんな自らの生まれた意味や価値に満足のいく答えを得る事すらも出来ないという不満こそが、もはや動くことも億劫となったこの身を未だに突き動かす原動力の熱となっているのだから、自家撞着というか矛盾を苦笑うしかもはや出来る事がない。

―――はて?

 この問いは先程別の形でした気がする。

―――はて?

 この問いには、先程かそれより以前化に、別の形で結論を出さなかっただろうか。

―――本当に?

もはや今の私は自身の問いにすらもまともに答えられない状態であるのだ。そして立ち止まって考える間にも世界は動いていて、そして動いた世界を必死になって追いかけては徒労をただ只管に積み重ね続けてきた結果、徒労自体が私の足を止めさせてくれない熱になっているとすれば、それは何という皮肉なのだろう。

―――せめて

頭が痛い。思考が暴走している。手段と目的が逆になっている。いつの日か己の情熱を刻み付けられる場所や熱を発散させる手段見つける為に歩き続けるのではなく、歩く事をひたすら続けていく為にいつか辿り着きたい場所を見つけようとしていた。旅を続けるために、旅をしていた。

―――本当に?

なんという堂々巡りだ。

あまりにも馬鹿げている。

何もかもが徒労で不毛だ。

終わりなき旅路に価値などない。

価値とは旅路を終えて振り返った後にのみ定められるものなのだから。

―――本当に?

そう。初めから最後に至るまでを全て網羅的に観測し、辿ってきた道のりを全て解体、分析、比較、客観化、単純化しつくし、それでも尚杳冥に、晦濁に、糢糊として残る残留物こそが個の有する価値というものであり、私が真に得たいものなのだ。

―――本当に?

そうだとも。個の価値とは唯一無二であるはずなのだ。そうと断言して一切差し支えない、他の誰よりもまず自分がそうと認められる己の価値を、自身の情熱の発散結果を見つけたいからこそ、私は旅を続けてきたのだ。やがていつかこの命終わる時、『私が生まれてきた意味はこれだ』と、『私の価値はまさにこれだったのだ』と、胸を張って己が生涯に残した功績とを誇って死んでゆくに値する熱を得たいからこそ、私は旅を始めたのだ。

―――本当に?

だというのに私は―――いや、だからこそ私は、手段と目的が入れ替わっているという事を知りながら―――多分は気付いていながら、徒労のような旅を止める事をしようとはしなかったのだ。

―――本当に?

なぜなら私はまだ、自身のこの旅を終えるに値する熱を見つける事が出来ていない。

―――本当に?

その熱見つける為に“足”を動かして熱を発散させていると、少しだけ気が紛れる。

―――本当に?

 以前と違う場所へと移動し続けていれば以前よりも前へと進んだという気になれる。

―――本当に?

 そうして体を痛めつけている間だけ自分は他人の熱にうなされずにすむ。

―――本当に?

 自分の不甲斐なさから目を逸らす事が出来る。

―――本当に?

自身の情熱を注ぎ込める何かが、情熱を溜め込めるだけの余地が、発散する為の余裕が欲しい。

―――本当に?

我が身の内を満たしている、この体を勝手に動かそうとする他の存在の熱から、一歩でも遠ざかりたい。

―――せめて。

その不快な熱を発散させたいそんな一心で自分は今までずっと旅を続けてきた。

―――せめて

無論、惰性で続けているこの旅が気晴らしと現実逃避にしかなってない事を自分が誰より理解している。

―――せめて

だって自分はこの旅路において己が前に進めているという感覚を得られた事がない。

―――せめて

 情熱を溜め込める、或いは発散出来る余地を見つけられた事がない。そんな余裕を得られた事がない。

―――せめて

そうだ。旅を始めてから五十年の歳月が経過した。旅立ちの時から顔と体に刻まれてきた皺と傷と白毛の数は過ごした年相応に増えてきた。以前より背が伸び、知恵も知識も経験も豊富なものとなり、出来る事が増えた。けれど年相応に自分が成長出来たという感覚なんてまるで得られていない。無意味に無駄に不毛に熱量と時間を費やした行為を徒労という。自分の生涯は徒に無意味に無駄に不毛に、徒労に、歳を重ねたてきただけだった。己の人生は全て徒労に過ぎなかったというそんな感覚が、只管に間延びした時間を過ごしてきてしまったという後悔が、老いたこの身を苛む灼熱へと変化してしまっている。けれどもいつしか我が身はそんな熱によってのみ動かされてきていたというのだから、もうそんなの、自嘲して苦笑うしかない。

―――せめて

燦然と輝く太陽の光の中へと身を置いていると、こんなにも熱と光に満ちた今のこの世界が嫌になってくる。落ちゆく雨粒らのように、許容の限界近くまで溜め込まれた熱を一秒でも早く消費してしまいたいと切に思う。求めているのはこの体の内側に宿っている熱を発散させてくれる何かなのだ。我が身の内に溜め込まれた熱は、もはや情熱でなく執念になってしまっているのだ。湧き上がるそんな悔恨の灼熱がこの老いた肉体をどこまでも突き動かしてゆくのだ。求めているのは余地なのだ。我が身から執念の熱を奪ってくれる、情熱と満足の答えを与えてくれる余地や余裕を持った、つまりはプレートを持たない頃の若くて未熟でけれど情熱に満ち溢れていた己のような存在で、要するに若かりし過去の己に似た、けれどもそんな未熟な己を超えた力を持つ存在なのだ。

―――せめて

 そう。きっと我ながら都合良すぎるそんな存在を、余地を求め、世界を巡ってきた。

―――せめて

行ける場所には全て“足”を運んできた。空も、海も、大地も、思いつく限りの場所には全て“足”を運び、踏破し尽くしてきた。旅路のさなかに費やしてきた熱量と時間は多く、巡った世界は広く多く、けれど得られたものはとても少なく、ちっぽけな自分の両腕の中に収まってしまうくらいに狭く、世界に余地を見つけられず、情熱を溜める事も刻み付ける事も出来ず、望まぬ答えだけを延々と突きつけられてきた。

―――せめて

そうとも、世界中を巡ってきた。私と同じ悩みを抱えている人は何処にでもいるという事実を目撃してきた。自己の存在価値に悩んでいるのは私だけでないと知った。旅のさなかに立ち寄ったどの場所にも存在していた。町の家にもいた。街中にもいた。旅先で泊まった“宿”にもいた。誰もが熱の呪いと戦っていた。徒労と渇望の熱にうなされている人は世界中に大勢いた。誰もが熱の置き場を求めていた。多くが余地と余裕を求めていた。発散出来る目的を求めていた。自分だけの願いや価値を求めていた。辛い思いをしているのは一人でなかった。誰もが熱肥満に悩まされていた。彼らの辛さや苦しさは、同じ病を患っているよしみですぐさま理解が出来た。出来てきてしまった。

―――せめて

理解出来てしまったのだ。誰もがプレートの中にある熱に苦しめられている事を。

―――せめて

理解してしまったのだ。今や世界中のどこにもプレートの中の熱や知恵や知識や経験を超えるような人など、余地などは存在していないのだと。けれど彼らの多くはその事実を認める事が出来ず、今の私と同じよう必死に目を逸らし続けているのだと言う事を。その為にほとんど誰もが旅に出て、しかし情熱の溜め置く場所得る事も新たな価値を生み出す事も出来ず、老いてはプレートの中に収まる徒労のような人生送ってしまうという事を。

―――せめて

プレート。それは過去に生きていた優れた人物たちの手によって生み出された、人類が今まで積み重ねてきた全ての熱と知恵と知識と経験と善意の結晶であり、万能の熱道具だ。同時にそれは一人の人間の価値を極小へと貶める極大の集合知を内包する道具であり、我らの身を苛む最新の武器であり、道具だ。

やがていずれは私という矮小な存在も、プレートの持つ歴史に耐えきる事が出来ず、砕けて散ってこの世界の熱循環に組み込まれていってしまうのだろう。それ以外の散り方が出来る程、私は器用で優れた人間じゃない。私に似た人間それ以外の生き方を出来るところを、同じような生き方をしながらその運命を辿らなかった人を、私は今までに見た事がない。

―――本当に?

何故だろう。何故過去の人たちに出来て、過去の彼らより未来の存在で、過去の彼らよりも優れた体と道具を持つ今の私にはなぜ出来ないのだろう。過去の人たちには出来ていて、未来の存在である今の私には出来ない。それらの事実が、求めてない劣等感と余計な卑屈の感情生み出す熱の核となり、私の身体をここでないどこかの場所へと突き動かしてゆく。

―――せめて

 立ち止まっていると鬱屈とした思いと熱ばかりが腹の底から湧き上がってくる

―――せめて

堂々巡りになるとわかっているのに、このまま徒労の道を歩き続けるのも辛い。

―――せめて

この身には、この世界には、もはや情熱の入り込む余地など欠片も存在していない。

―――せめて、この苦労に見合うだけの、何かが欲しい

体の内側に収めておけない熱が溜息の中に混じりこぼれおちては、霧のよう世界の中へと溶けて消えてゆく。

―――せめて

今に再び見たそんな溜息の行く末を、まさに自らの旅路の終わりの暗示のようだと心底思った。

―――せめて

世界は本当にどこまでも残酷で美しい。自分もきっと今しがた己が吐き出した溜息の行方のよう、どこか他の場所で細かく砕けて散って己の生きた痕跡を残す事も出来ずに消え消え去っていってしまうのだろう。

―――せめて

それは予感でありながら確信めいていた。

だってこれまで、自分の願いはただの一度たりとも叶えられた事がなかった。

―――ほしかった

願いを叶える事が出来ないままここまでやってきてしまった。焦がれて求め続ける程に自分は望んだ場所から遠ざかってきてしまった。皮肉な事に、そんな目を逸らしたくなるような答えばかりは紛れもない真実なのだ。だってそんな自分にとって決して望ましくない真実を、けれども自分はこれまでに徒労のような生涯を送る事によって実証し続けてきてしまった。

―――せめて、報われてほしかっただけなんだ

求める程、遠ざかった。真摯に求める程、届かなくなった。真剣に求める程、欲しい熱は手に入らなかった。

ならば費やした五十年の苦は、熱と時間は、徒労でしかなかったのだとそう認めるしかない。

 頑張ったから、苦労したから、熱と時間を多く費やしてきたから、認めたくなかった。

 けれども今、五十年前と変わらない世界の光景を見て、溜息の行方を見て、心底理解させられてしまった。

―――ただそれだけだったんだ

自分も世界も、こんなにも変わっていない。私たちは今や全員が全員独立して回り続ける巨大な歯車なのだ。誰もが誰とも噛み合ってない、だから摩擦熱なんて一切発生しない、全ての熱量を己自身の為にのみ費やす事の出来る、完成へ至ってしまった空転し続ける歯車式計算機。熱を与えられるがまま動き、けれど欲するばかりで実現するための具体的な手段を何一つとして考えようとしてこなかった自分はきっと、このまま世界に何の熱も残せずに終わってしまうのだろうと、不意にそんな直感を得た。直感は直観に等しかった。

―――それだけが……

 求める程に、手に入れられなかった。

―――私の行動原理……

だから、報われたかった。

―――核は、ただそれだけ……

不意にこれまで抱き続けてきた予感が一気に確信へと傾いた。

求めるほど遠ざかる。己の人生は所詮徒労にすぎず、自分はあの時から一歩も前へと進んでいなかった。

―――何をしようと、報われない……

「はぁ……」

途端、熱を抱え続けておく事に虚しさを覚えた。すると全身から力が抜け、抱き続けてきた熱が失われてゆく感覚があった。溜息を吐くと体の内側にて核となっていた消化不能の熱が失せてゆく感覚をも得られた。

「とっ……」

途端、身体がぐらついた。体内の熱が揺らいだ。何十年かぶりに得られたそんな感覚に驚かされた。瞬間的に熱を操作して“足”の舵を握り直し、上空にある己の体勢を立て直した。吹いたのは予想外に強い熱風だった。私が上空から落ちずに済んだのは、プレートが誰かの優れた知恵と知識と経験を私の体に刻みつけてくれていたおかげである。そう、ならこの程度の事、別段驚くべき事ではなく、そんな事よりも私は―――

「……まてよ」

と、そこまで考えて―――

「……ふらついた?」

気付いた。

「失態を犯した?」

何が起こったのかと疑問を抱いた瞬間、答えをプレートから受け取った。私の前後、及び、上下の温度差が、ひいては気圧差が変化して小さくなった故に、それを操り上空に身を留めている私はぐらつき堕ちかけたのだ。

「……この、私が?」

だがプレートによって得られたそんな解答は私がその時に抱いた疑問を完全に解消する答えとならなかった。何故予想外に、私の周囲にある熱は揺らいだのか。計算は完璧で、プレートの持つ知恵と知識と経験は究極で、故に周囲の熱は何一つ私の予想から外れる事なく動き続けてゆくはずだった。瞬間的に周囲の熱を確認し直すもやはり私の周囲の熱は先程と全く変わらず私の予想通りに動いていて、だからこそ混乱はさらに大きくなった。

「……!」

さなか、唐突に下方から冷たい風が押し寄せて私の周囲を掻き乱しては熱を奪い、私は再びふらつかされた。その事実に声が出ない程驚愕させられた。起きた現象はあまりに不自然的でまったく理解出来ないものだった。こんな上昇気流なんて知らない。こんなの今までに一度たりと味わった事がない。五十年前には見つけていた、五十年かけてようやく認められるようなった徒労の法則が、やはり当たり前のように発動していると思った。 

だからこそ。だからこそ。

「なにが―――」

気持ちがざわついた。吹いた風が体内の余計な熱を奪い去っていた。体の奥から生ずる衝動が熱に変換され、先程まで徒労の熱ばかりに占められていた私の身体の内側に溜め込まれていった。熱の熱さには覚えがあった。体内に溜まっていく熱の名は情熱に違いなかった。

 私の精神は情熱の炎に熱せられていた。

「―――あれは……」

胸のざわつきが治まらなかった。湧き上がる情熱に動かされるがまま、風の吹いた方へ視線を送っていった。そして向けた目がそして目的の場所を見つけて目のピントを合わせるのに要した時間は、たったの一瞬だった。けれどそんな一瞬がこんなにももどかしいと思えたのは、生まれて初めての経験だった。

「―――アレは……!」

そして私は、下方遠くにある強い風が吹き荒れるその中心となっているそんな場所で一人の少年が小さな拳を大きな猿ども相手に振り回して戦っているのを目撃した瞬間、その戦いから目を離せなくなってしまった。


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