余熱の陽炎

@usahell4610

第1話『カミヤ』

第1話『カミヤ』(1)

遥か未来―――、人間は熱を操る事ができるようになった。

熱は世界の源。

人類は世界の源である熱を自在に操作することが出来るようになった

人類はその頂点の栄光と極みの光景に酔いしれ―――

そしてすぐさま絶望するようなった。

 頂点とはすなわち、上が存在していないということだ。

極みとはすなわち、終わった状態であるということだ。

 頂点に立った人類は目指す頂を見失った。

 極みに至った人類は敵を失ってしまった。

 真に人類が頂きとなった今の時代。

 未来に希望を抱くことの出来る大人は一人たりとも存在していない。


前へ。

―前へ。

――前へ。

―――前へ。

――――もっと前へ……!


「はっ―――」

胸が苦しい。呼吸すらも億劫だ。服がはりついていて鬱陶しい。目の周りが痛い。後頭部がズキズキとする。鼻孔に入ってくる腐臭と青臭さで胸がムカムカさせられる。

「はっ……、はっ……」

目を凝らしてようやく足元が見える位に周囲はまだ暗い。おかげで、わずかと呼ぶにも少なすぎる木漏れ日を頼りに全力で疾走し続けるには、いつも以上の苦労がいる。

それでも、行く。

「はっ……、はっ……、はっ……」

前へと進んでいる間だけは余計な事をまるで考えず済む。立ち止まっているのは嫌いだ。立ち止まっているとごちゃごちゃと余計で不要な考えが浮かんでくる。そんな時に浮かんでくるのは大抵、日の入り直後の森の中の薄暗さによく似た、弱く、くだらない考えばかりだ。

例えば。

行くには暗すぎる。もう少し明るい時間を選ぶべきだった。楽に進みたいならせめて何か対策が必要だった。格好、体調、共に、まだまだ用意が十分で無かった。

ああするべきだった。こうすべきだった。あぁ、だって。でも、しかし。

立ち止まっていると頭は、己が立ち止まるに値する理由を探そうと動き出すのだ。立ち止まっていると頭は、自分が何故今こうして立ち止まっているのかを説明する為の理由を、納得のいく理屈を、わざわざ探し出そうとしていってしまうのだ。そうして立ち止まって己が前に進まない理由を探している間に、己が前を進む為の道も光も熱もどんどん失われてゆくのだ。そうやって何もせず過ごしていると、やがてすぐに朝がやってくるのだ。すると徹夜して悩んだのに答えが出ていないと言う事実が太陽出でて明るく照らされた森の中進まない理由へと加わり、己がこの場で立ち止まっている理由がさらに重くなる。

そして己は更に前へ進めなくなってゆく。

 そんな不毛の行為を何度も繰り返すうちに、己は更に弱くなっていってしまう。

それがたまらなく嫌だった。うじうじとしている己は到底好きになれなかった。

「はっ……、はっ……、はっ……、はっ……

だから、行く。

前へ、前へ、もっと前へ、進み続ける。

脇目も振らず、危険を承知で、只管に暗闇の道を突き進んでゆく。必死で走ると、余計な事を考える為の熱が体を前に動かす熱として消費されていく。すると、そのうち暗がりだけだった景色も変わってゆく。たとえ前が見えなかろうと、たとえ進むのが闇の中であろうと、たとえ体の中にある熱量が少なくなってようと、それでも前へ進む事だけに意識を置き続けていたなら、暗がりの森もそのうち訪れる朝の光によって鮮やかさと明るさを取り戻してゆく。

そう。

「はっ―――」

まさに今のこの時、この瞬間のように。

「はっ……、はっ……、はっ……、はっ……、はっ……」

暗がりばかりだった森の中は今、木々の隙間から降り注いでくる仄かな光によって、春一番吹き終えた直後のこの時期にふさわしい豊かな色彩と明るさを取り戻していっていた。草木が鮮やかさを取り戻してゆくにつれ、黒ばかりだった地面が茶にも緑にも見えるようなってゆく。そのよう世界が色と明るさを取り戻してゆく有様はまるで、今の己が前へ進めているという証明であるかのように感じられるのだ。

とはいえ、森の見た目の変化に己が前へ進めているという錯覚と実感抱けたからといって、地面に落ちてくる木漏れ日の光量が非常に少ないという状況や、朝露に濡れた森の地面の上が走るには適さない環境であるという現状の悪しきは変わらない。

見れば、訪れた春を喜ぶかのよう乱立する多くの樹木の枝葉が太陽の光を森の上部で独占してしまっている。おかげで地面に到達する頃、光はすっかりわずかとなっている。けれど一見して僅かに思えるそれらの降り注ぐ陽光には地面の中で眠りについていた小さきもの達が冬の終わりと一日の始まりを認識するには十分な量の熱が含まれていて、足元はそのように陽光の熱を目覚めの証として古い土を割って顔を出してきた多くの植物たちによって覆われている。またそして、殻を破り初めて世界へ飛び出してきた彼ら新顔の植物たちとそんな彼らより僅かだけ早く顔を出し終えていた古参植物たちの表面は、けれども新旧揃って一様に朝露で濡れそぼっている。足元の彼らの存在と森中に乱立する樹木やそんな樹木らの下に隙間なく群生する小さな草花たちが必死になって生きようと背を伸ばした結果、森の中は薄暗さと見通しの悪さと足回りの悪さが備わる悪路へと変貌していた。

 また、まだ日が昇りきっていない春の朝方のこの時間、盆地の中のこの森は普段以上に濃い霧に満ちていて、それらが悪路を更に最悪な状態へと変化させてしまっているのだ。

「はっ……、はっ……、はっ……、はっ……、はっ……、はっ……」

濃霧と環境により生み出された今の己とご同類ともいえる彼らのその無垢な汗顔を踏みつけ掻き分けながら、全力にて森の中を駆け進んでゆく。既に乱暴の痕跡の残る彼らの顔を更に踏みつけてしまうのはどうだろうかと思わない事もなかったのだけれど、残念ながら己と同じような苦労をしてきたのだろう彼らの必死の想いと気を割いてやる余裕なんて今の己には存在していないのだ。行く先々に散らばっているふやけた木の根や腐っている落ち葉、小さな木の梢や葉や地面の水溜りなどに足を取られたならば、きっと己は奴らに追いつけないだろうというそんな予感が、周囲に気を配る余裕というものをこの身から奪い尽くしてしまっているからだ。

 それでも、行く。

「はっ―――」

必死に必死を積み重ねつつ、薄暗闇の中にある全てに注意を払いながら、次々と一歩を踏み出してゆく。

「―――っ、はっ……!」

駆けるさなかに幾度足を踏み外してしまいそうになったかわからない。

「―――っ……!」

泥濘みの地面の上を転びそうになるたび、転倒しそうになる勢いを前へ進む為の速度と力へと変換し、全身を無理矢理前へと押し出して進めてやる。そのような酷使に続く酷使を肉体へと強い続けているせいなのだろう、体力が驚く程の早さで失われていっているのがわかる。

一歩を踏み出すごとに次の一歩を踏み出すのが億劫になった。今や自身の周りにある空気ですら重さを帯びて身体中にまとわりついてきているという感覚があった。感覚は、今すぐ進むのをやめて休息を取るべきだという体の訴えに違いなかった。

「はっ……、はっ……、はっ……、はっ……、はっ……、はっ……、はっ……」

一歩踏み出すごとに体が重く冷たくなってゆくその感覚が、己の想像にすぎないはずの妄想を確信のそれへと近づけてゆく。全身が重い。頭がガンガンする。胸が苦しい。視界が霞んで歪みつづけている。あたりの空気が重苦しく感じられて仕方ない。腹が痛い。全身が熱い。脈打つ胸が特に熱い。けれど同時に肌寒い感覚もある。風が体温を奪っているのだろう、手も足もその先端は感覚がほとんどなくなっている。感覚馬鹿になった手足でわかるのは、手先が空気を掻いているのと足が泥濘の地面を蹴っている事だけだ。もう匂いだってよくわかっていない。鼻の中は常にツーンとした感覚に支配されていて、溺れているみたいに錯覚させられる。耳孔の中へと飛び込んでくるのはもうとっくに自分の呼吸の音だけで、うるさい雑音が耳の内部で跳ね回っているその感覚がひどく鬱陶しい。

「はっ……―――、はっ……―――」

環境も体調も最悪の状態といえるだろう。どっちも動くに適しているとは言い難い。そもそもまともに考えるならば、春も初めのこの明け方、未だに暗さの残る森の中を全力で駆け抜けてやろうなどというのは愚行以外の何物でもない。

「はっ―――」

―――そんな事は百も承知だ

それでも、俺は選んだのだ。

「はっ……、はっ……、はっ……、はっ……、はっ……、はっ……、はっ……!」

 俺は俺の行く道を、この最悪の悪路の森の中を進んでやると、俺の意思で選んだのだ。

「はっ―――」

だから、行く。

夜もまだ明けない森の中は、二つの足、二つの腕を持つ存在が体を動かすのに最悪の環境だ。けれどならば、己とおなじく二つの足、二つの腕を持ち、同じよう視界に頼る動きをする相手にとっても進むには最悪の環境であるはずだ。加え、こちらが一人、あちらが群れであるという条件を加味するなら、悪影響の総和はこちらよりあちらの方が大きいはずなのだ。

―――最悪な環境

そう。視界も足元も最悪な環境。そこへ更に正体不明の敵から急に襲撃されるという要素を加えれば、奴らは―――奴はきっと一目散に逃走を選択するに違いないとそう考えた。だって生物というものは通常、真っ暗闇において何者かも判らぬ存在から襲われた場合、もっとも体に染み付いた行動でそんな不明の存在との接触を回避―――即ち、逃走を試みるものだからだ。また、この逃走という危機回避的な行動を取るまでに費やす時間は、優れた能力を持つ個体ほど反射的―――つまりは短く、そしてまた、群れている連中というものは大抵そのよう優れた能力を持つ個体を中心に、優れた奴に追従して行動するものなのだ。

だから己は、この時間帯を選んだのだ。

今こうして追いかけている連中は、それらのほとんど全てが優柔不断隠隠滅滅でたいしたことのない連中だ。けれどもそんな奴らの群れの中には、全ての点においてそんな奴らより強く賢く優れている個体が存在している事を知っている。取り巻きの連中と比べ物にならない強さや賢さや判断力や熱量を持つそいつは、自身の周囲に群れている連中が暗闇からの不意打ちによって慌てふためき始めたのなら、きっとそいつは真っ先にその場から離脱して自身の不利を感じなくなる、つまりは強襲者の姿を見つけやすい場所まで移動するだろうと考えた。

そして、このまだ日の光が出ていない森の中に、強襲者の姿を見つけやすい場所など存在していない。

故に、ならば夜が明ける直前のこの森の中において、奴の向かう先はたった一つしかありえない。

そう考えたからこそ、そう信じたからこそ、自身の体力がいつも以上に大きく削られる、且つ、多くの危険があるというのを承知の上でこの時間帯を選んだのだ。

「はっ……、はっ……、はっ……、っ……、はっ……、はっ……、はっ……、はっ……、はっ……、はっ……」

空がまだ偽りの光にすら包まれていない頃、暗がりで奇襲を受けた奴ら―――奴は、こちらの思惑の正しさを証明するかのよう、いつものみたいに梢の上へ逃げることなく、そのまま地面の上を走って逃げる選択をした。そうして奴と奴らはこの暗がりの森の中を一目散に駆け、俺が当初想像している場所へ向かっていった。

「はっ……、はっ……、は、ぁ……っ……、は……、はっ……、はっ……、はっ……、はっ……、はっ……!」

追っかけっこはその時からずっと続いている。その時から奴は一目散に先頭を走っていて、取り巻きの奴らは混乱しながらだろうけれど、一匹たりと脱落する事なく奴の後を追って地面の上を真っ直ぐ駆けていっている。一度逃げると決めた奴らの必死の逃げっぷりと言ったらたいしたもので、奴と奴らはこの薄暗い悪路の森の中をまるで普通の道であるかのように平然と樹木や草木をへし折りながら一直線にすいすいと進んでゆく。

「はぁっ……、はぁっ……、はぁっ……、はぁっ……、っ……、はっ……、はっ……、はっ……、はっ……!」

相手がこちらの思惑通り動いてくれているとはいえ、余裕はまるでない。頭が痛い。耳の後ろからはキーンと長い音が聞こえ続けている。首がひどく熱い。服の下は汗でぐちゃぐちゃだ。一方、肌を晒している部分からは冷たさだけが伝わってきている。暑いのと寒いのがごっちゃになって、感覚はもうしっちゃかめっちゃかだ。

胃液が逆流したのか喉の奥がちりちりと痛かった。鼻の奥はツーンとしっぱなしで、溺れている感覚ばかりが送られてきていた。口から涎と汗の入り混じった液の垂れゆく感覚が気持ち悪い。呼吸が短く、息がしにくい。胸が苦しい。苦し紛れみたいに連続して生じる短くて湿った呼吸の音が、頭の中でやけに大きく響いているよう感じられる。そうして己の体を発端として生じるあらゆる感覚や音色が全部嫌味みたいに思えてくるのだから、もはやこの体は末期も末期の状態と言えるだろう。

「はっ……、っ……あっ……、っ……、っ……、……、はっ……、はっ……、はっ……、はっ……!」

目の前はぼやけている。汗が鬱陶しい。目も口も鼻の中までもが、汗と涎とその他の液体でぐじゅぐじゅだ。顔は引きつったような形で固定されている。ほとんど開きっぱなしである口の中にはしょっぱい感覚があって、湿ってるのか乾いてるのかすらもわからない。抉られたか刺されたかのような痛さが体の奥から伝わってくる。身体中の熱の状態はもうとうにぐちゃぐちゃだ。もはや己の世界中のなにもかもがでたらめで無茶苦茶で―――

―――手も足も攣らないまま走り続けていられるのは、もう奇跡みたい

「―――っ!」

弱い考え思い浮かんだ途端、強い寒気を全身に感じた。腕の付け根に至るまでのすべての感覚が消え失せた。心臓が破裂寸前であるかのよう感じられた。呼吸を繰り返すことが不可能になっていた。限界が近いのだろうと直感させられた。自分は遠からず過労と熱中症でぶっ倒れてしまうに違いないという確信が脳裏をよぎった。

倒れて熱を失う。それは自身が奴ら―――奴を追いかけている目的から考えたなら、あまりにも本末転倒且つ愚かしい未来であると言えるだろう。決してあってはならない未来といえるだろう。

……けれど。

「―――っ、……はっ!」

けれども全身に覚えた寒気とは裏腹に、気持ちはどこまでも高く熱く燃え上がっているという感覚があった。冷え込む体の内側とは逆に、心の中はまるで燃えているかのように熱く、熱く、どこまでも熱かった。

「はっ……、はっ……、はっ……、あ、っ……、……、はっ……、はっ……、はっ……、はっ……、はっ……、はっ……、はっ……、はっ……、はっ……、はっ……!」

だって目を凝らすといつも届かなかったそいつが、手を伸ばしてもすいすいと目の前から遠ざかって頭上から俺を見下すばかりだった奴が、今この俺と同じ立ち位置にいるのだ。俺は今、奴と同じ高さを走れているのだ。

―――いいね

それがたまらない。背筋がゾクゾクする。己の導き出した答えが、手段が、覚悟が、この手が、自分より多く熱を持っているそんな相手を自分と同じ立ち位置へと引き摺り下ろした。

―――この感覚……

「はっ―――」

―――悪くない……!

格上である相手を対等の位置へと立たせてやったのだという高揚感が全身に訪れた。

それにより苦痛が全て心地良さへ変化し、自分の限界がどこまでも引き伸ばされてゆく。

「はっ―――」

―――そそるぜ……!

胸の躍る感覚が止まらない。胸はずっとどきんどきんと高鳴っている。早くあいつに会いたいと強く高らかに訴え続けている。早く舞台の上で相見えたいと興奮し続けている。

―――お前は……!

それらの想いが己の限界を更新し続けていた。ぼやけていた視界はいつしかすでに鮮明さを取り戻していた。森を深く包み込んでいた闇はもうほぼ目の前に存在していない状態だった。気づけば先程まではたしかに全身を支配していた苦しさも痛みも苛立ちも、何もかもの負の感覚をまるで感じなくなっていた。

―――あと少しで……!

さなか、唐突に前方の景色が真っ白に塗り潰された。

己の視界を白に染めあるそれが太陽の光であると理解した瞬間、確信した。

―――やった……!

「―――っ……!」

直後、足元から頭までが光に包まれた。

「はっ―――」

視界から飛び込んでくる情報量は一瞬後にすぐさま激増した。

「はっ……―――、はっ……―――、はっ……―――、はっ……―――」

初めに白が、次に青が、最後に視界一杯を埋め尽くす緑色が飛び込んできてようやく、目の前に広がっているそれが草原であるという事を認識出来た。視界をずっと遮り続けていた鬱陶しい闇と霧は完全に失われていた。目の前にあるのはどこまでも胸のすく感覚をこの身に与えてくれる、全身に溜まった疲労を忘れさせてくれる、光と白雲と青空と草原ばかりの光景だった。

煌々と照りつける太陽があった。青空に淡く霞んである層雲があった。その下にある陽光に照らされた広大な草原を見渡せば、己が出てきた森から少し離れた場所に、ずっと追いかけ続けていた奴ら―――猿の集団の姿を見つける事が出来た。森を抜け出した猿の集団は草原に生える草を荒らして花を荒らして、そうして草原の上に獣道を作りながら今尚一目散に逃げ続けていた。そんな猿の集団の先頭には少し前にその姿を拝んだばかりの、いつもならすぐさまに億劫気な所作と共に頭上へと逃げてしまうせいでまともに姿を拝むことも出来なかった奴―――他の猿より四回りも五回りも巨大な身体をもつボス猿の姿もあった。

 途端、胸が今迄で一番大きく高鳴った。

―――ようやく……

「はっ……!」

―――追いついた……!

逃走する猿の集団の中でもひときわ目立つ奴の巨大な姿を目論見の通り広大な草原の中に見つけたその瞬間、状況に満足する想いが一気に胸の中へと湧き出てきて。

「っ……」

けれど直後、目の前が再び真っ白に染まり、体がふらつき、心地良さは霧散した。

「……ぐっ!」

興奮に血が頭に上ったのだろうか、気を抜けばすぐにでも失われそうな意識を反射的に奥歯を噛み締める事で眩暈を抑えつけ、真っ白く染まった視界内においてぐらついていた体を強引に立て直していく。力尽く、強引であっても、抜けた気を入れなおしてやれば、視界の揺らぎと気持ち悪さはすぐにおさまってくれた。

「―――っ……!」

けれどその直後、まるで火傷で水膨れしたかのような怜悧かつ熱い痛みが火照った全身に走り、意識の正常は再び乱されてしまった。

―――熱い……!

痛みは主に服と皮膚との間に生じている処理しきれない熱によって発せられていた。

「―――あぁ、もう、うざってぇ!」

耐えきれなくなり、大声出すのと同時に重くなったジャケットと上着を脱ぎ捨てる。脱衣するとジャケットの内側へと溜め込まれ続けていた熱が瞬間的に消え失せていった。凄まじい開放感があった。水分―――主に汗と霧だろう―――吸って重量を増していたジャケットはそのまま地面に向けて落下し、直後、重苦しい音が周囲に響き渡る。そうしてあらわになった上半身を朝日と風が包み込んでいった。暑と涼、全く正反対の感覚が同時に肌を擽っていった。生じたそれら熱を与えられると熱を奪われる感覚によって、汗ばんだ身体の中にある疲労がなんとも心地良い熱に変換されてゆくよう感じられた。

―――は……!

溜め込まれてきた身体中の熱が鬱憤もろとも体内より消え失せてゆくその感覚はこれ以上ない程に清々しく、あらわとなった素肌を通して大量の熱が入り込んでくるその感覚はこれ以上ないくらい気持ち良いものだった。やがてそれらの感覚がもたらすむず痒さに目を細めて空を仰ぐと、空の青さと共に朝日が目に飛び込んできて、思わず瞼を瞑った。すると、感覚の一つを自ら潰した事で他の感覚の一つである皮膚の感覚が鋭敏化したのか、全身が光に包み込まれている感覚を得た。

全身を包み込む朝の光は多量で眩いと共にまたくすぐったくも感じられた。その心地よさに、目元が緩んだ。数度瞬きした後に瞼を開けると、猿の群れの最後尾にいた輩がこちらを振り向く場面が目に飛び込んできた。

「―――。―――……っ!」

振り向いた最後尾の猿は途端に酷く驚いた表情を浮かべると、直後に足を止め、戸惑った様子で何度も凝視の視線をこちらへ起こってくると、最後にはやかましく叫びはじめた。

「⁉」「―――……っ!」「‼」

 最後尾にいた猿の大声に反応してだろう、最後尾近くにいた多くの猿たちも最後尾の猿と同じよう振り向き、そうして振り向いたそいつらはやがて最後尾の猿と同じくこちらへ視線を向け、そうして視線を向けてはやはり驚いた表情を浮かべて立ち止まり、立ち止まってはやがてやはりその表情を怒りの色に染めて叫びだす。

「‼」「っ!」「‼」「!」「‼」

 一秒ごとに叫び声をあげる奴は増えていった。増えゆく群れる猿どもの遠吠えと視線には、相応の敵意の熱が込められていると感じられた。けれど、どれだけ奴らの叫び声が増えようと、その叫び声の怒りの熱がこちらに害を及ぼす事はなかった。脅威とすら感じられなかった。それはきっと奴らの遠吠えや視線に含まれている熱が解決の為の積極的な行動から生じる本気の熱ではなく、目の前に気に食わない奴が行為によって面倒起こす前に勝手に消えてくれないだろうかという消極的な理由によって発せられ生じた生っちょろい熱だからだろう。

微熱の集まりが炎の如き効力を発揮するようなる為には、それ相応の下地と覚悟と行為が必要となるものだ。空気中に分散している熱がそのままでは集って炎とならないよう、意欲の少ない奴らが放つ生温いだけの視線や叫び声や熱がどれだけ増えようとも、そんな程度の視線はこちらに一時的な不快感を与える以上の強さのものになり得ないし、同様、耳の中へと飛び込んでくる奴らの生温い咆哮の合唱も雑音以上にもなり得ない。

熱が炎になるには、それらを集めて固める熱意と力を持つ存在が必要だ。奴らにはあまりに自分の意思や力で絶対に事を成し遂げてやるという熱が感じられないのだ。熱意が感じられないのだ。そうとも本気でないのだ。自力で成し遂げるという意志がないのだ。他力と群れの力に頼りきりであるのだ。

―――気にくわねぇが……

奴らはあまりに生温い。いっそのこと蹴散らしてやればとてもすっきりするだろう。けれども一方、それらの猿どもの大小様々な遠吠えの声がこちらの御目当ての熱をおびき寄せる為の極上の餌となってくれるというのは違えようない事実だったので。

―――今回は、見逃してやる

生温いそれらをあえて捨て置き、待った。さなかにも叫び声は伝播し、群れの最前列の方へ移動していった。そうして伝わる咆哮にて前方の猿どもが次々と振り返ってくる様子を見て、改めて確信した。

―――これ以上追っかける必要は、ねぇ

「――っ、は……」

そこでようやく全身から余計な力が抜けた。

―――これでようやく

呼吸が徐々に穏やかなものへと変化しゆく。

―――少し、休める

「は―――」

思うとそれだけで体が少し軽くなった気がした。両手を軽く曲げて膝へと置いた後、体重を両足へと預ける。頭を下げて長く深い呼吸を繰り返すと、得られた体の重さが消えてゆく感覚に、顔の硬さが緩み綻んでいった。

「はー…………」

固まっていた顔面筋を大いに働かせて大きく息を吐きつつ地面へ視線を落としてやると、視界に薄緑色の草が風に揺れる光景が飛び込んできた。

「はーっ……、はーっ……」

真新しさを感じさせるそれら名も知らぬ植物の表面からは時折目も眩む程の閃光が放たれ、己の眼球の中へと飛び込んできた。反射的に目を瞑り思考を巡らせると、光はきっと葉の表面にとりついた朝露が朝日を反射した結果なのだろうという考えが浮かび上がってきた。

「はっ―――」

植物たちが放つ光にはこちらの行動阻害する程の威力が秘められていた。けれど、植物たちの放つそんな光とそれが生む結果に不愉快の気分を抱かされる事はなかった。それはきっと植物たちの放つそれが真剣の熱だけによって構成されている、必死の一念の元に起こした行動の結果に零れた熱の欠片であるからなのだろうと思う。

そう。植物たちが放つ光は、熱は、猿どもが向けてくる視線のよう生温くないのだ。

植物たちの熱は、光は、必死に生きた結果に放たれた光であり、熱なのだ。植物たちの熱には、反射してくる光には、そんな、自らの力を信じてがむしゃらに進み続けたものだけが放てる、心地良い熱が感じられるのだ。植物たちは決して己を目立たせるとか自身の存在を誇示するという目的でこれらの熱を放ったわけでないのだ。植物たちは必死に自ら生かす為の行動をしたその結果、これらの熱や光を放つようなっただけなのだ。

「はーっ……」

この光や熱は植物たちが必死に生きているという証なのだ。行動し強い存在に抗っていうという証明なのだ。だからこそ、目も眩む程の光は、植物の反射する光に包まれているこの身は、こんなにも爪先から頭の天辺まで清々しい気分にさせられているのだろう。だから植物たちが反射してくる己の視界一杯を漠然と霞ませる光にはけれど暖かさと涼やかさとが入り混じった心地良さがあり、満ち足りた感覚や充実感と呼ばれるそれをこの己に与えてくれるのだろう。

「は―――

けれど。

「……!」

そうして甘美さに身を預けて酩酊の気分を味わっていられたのも少しの間だった。

「―――っ!」

調和はいつだって唐突に易々と自らよりも大きな熱存在によって崩されてしまうものなのだ。

「おでましか……!」

己の全身をゾクゾクと震わせる熱を感じたその瞬間、すぐさま姿勢を正し、揺らがせた熱を感じたその方角へ視線を向けてやる。すると、見据えたその先に他の猿たちの体より四回りも五回りも大きな体のそいつ―――、己の御目当てのボス猿の姿を見つける事が出来て、胸が高鳴る。

―――やっぱ……

「―――すげぇ」

ボス猿はデカかった。ボス猿は他の猿どもよりの数十倍の大きさの体躯をしていた。ボス猿が地面に下ろした握り拳はそれだけで他の猿と同じくらいの大きさがあった。そしてまたボス猿は他の猿共と違い―――

「―――」

視線に身の丈相応に苛烈な熱を持っているよう感じられた。

―――熱い……!

「……」

「は……」

たった一匹であるボス猿の視線の熱量は、けれど他の取り巻きの雑魚猿どもが放つ遠吠えや向けてくる視線を束ねたものよりもずっと上だった。そんな熱視線のせいだろう、真夏の炎天下にいるかのよう全身が熱くなり、チリチリとした感覚が皮膚に生まれた。ひどく落ち着かない気分にさせられる。見ているだけで息苦しい感覚があるのにどうしても視線を外せなかった。もしもボス猿が向ける視線をわずかな間でも外してしまったのなら、己はきっと次の瞬間には全身を砕かれて消え失せてしまっているかもしれないという予感がどうしてもボス猿に本気の視線を送り続けるという行為をやめさせてくれなかった。

「!」

「!?」

己と取り巻きの雑魚猿どもは、視線をボス猿から外せないという点だけが一致していた。遠くのこちらにすら影響を与えるボス猿の熱は勿論ボス猿の近くに群れるボス猿以外の全ての猿にすら多大な影響を及ぼしていて、他力本願の想いを発端とする熱しか放たない猿たちはこぞって身を引いてボス猿の側から離れていっていた。

「―――」

やがてボス猿が一歩動いた。するとボス猿の周囲にいた雑魚猿どもは先程までよりも大きく動き、先程よりも大きく距離を開けた。ボス猿が一歩歩くごとに取り巻きの猿どもは塵芥のよう離れてボス猿へ道を譲ってゆく。ボスザルの一歩が大地を揺らすたび、取り巻きである群れの猿どもはゆらゆらと揺れて戸惑い困惑の仕草をしてみせた。猿どもはもはやボス猿の背景を構成する景色の一部と言い切って誤りがない状態だった。雑魚猿どもの態度とボス猿の向けてくる視線とボス猿の移動する方角と己が本気の目線を外せないという事実を以ってして、否が応でも骨身の髄まで実感させられる。

 即ち、今のこの時のこの場において、己は遂に奴と同じ舞台に立つ事が出来たのだ、と。

「―――、はっ……」

―――いいね

導き得た結論に、胸が歓喜に打ち震えた。はちきれてしまいそうな期待を体の中へと抑えておくのには苦労が必要だった。もはやいてもたってもいられない上々気分だった。両拳を固く握り締めて開くと、全身の毛穴から再び汗が噴き出た。落ち着かい気分のままに指先を軽くこすり合わせると、脂っぽい感触がある事に気付いた。足を動かすと靴の中も同様の有様であるという事に気が付いた。それらのベタつく感覚は、己は今、手足の指の先に至るまでが熱に、やる気に、負けん気に、闘志に、決意に満ちているという証拠に違いなかった。

―――いい……

思った瞬間、全身が更に熱くなった。次から次へと体に熱が生まれていった。身の内に収ねておける熱量は、とっくに限界を超えていた。心臓がまるでこれ以上熱を収められないと悲鳴を上げるかのように高鳴っていて、煩かった。けれど体内を駆け巡る高熱の感触はなんとも愉快だった。全身が、両手両足が、心が、目の前にいるあれこそが己の挑むべき敵であり戦いを挑むに相応しい相手だと叫んでいた。

「―――ようやく」

もう我慢は限界寸前だった。胸の中は今すぐ目の前のあいつに突撃するべきだという想いでいっぱいだった。疲れはとっくに遥か彼方へと吹き飛んでしまっていた。高揚感覚えながらも冷静さを保てているという自覚が、熱が、己の気分をさらなる高みへと押し上げ、限界がどこまでも引き上げ続けていく感覚があった。

「真正面からそのツラを見ることが出来た」

頭から指先に至るまでの全身が沸騰している感覚がある。なのに頭の奥底だけはやけに冷たくって、今の己は状況を完全に把握する事が出来ているという自覚があった。

―――こうがいい

胸の内に生じた呟きは奴と相対した我が身のように小さかった。

ボス猿はそんな小さい自分よりもずっと大きな体と熱量を持っていた。

今、広がる草原には静寂があり、熱があり、そして俺たちがいた。空に佇む太陽は大小の区別なく世界にある全ての存在へ熱を与えていた。そのおかげもあって俺の戦意は、熱は、とっくに最高潮だ。

春も早朝の日差しによって、自分とボス猿が繋がれていた。道中の草花は猿どもによって薙ぎ倒されていて、地面もまた奴らの足によっておあつらえむきに踏み締められている。もはや互いの激突を遮るものなど何一つとして存在していない。あらゆる要素が俺たちの戦いを肯定していると、そんな確信を得た。

 かつて、道は閉ざされていた。

「―――ようやく追いついた」

しかし今、道は繋がった。否、強引に、繋げた。

―――それでこそ、必死に奪いに行く価値があるってなもんだ

不器用に、不格好に、しかし確実に。

「今度こそ―――」

俺は今、俺と奴との間に道を繋げたのだ。かつては断絶していたその道を、俺がこの手で強引に繋げたのだ。そっぽを向いて逃げ続けていた奴の後ろ髪を必死こいて掴み取って、俺と奴との道を強引に繋げてやったのだ。いつも上から見下すだけだった奴を、この俺が、俺と同じ位置にまで無理矢理引きずり下ろしたのだ。

だから今、こんなにも大きさの違う俺と奴は同じ舞台の上に立つ事が出来ているのだ。

―――だからこそ

「テメェの―――」

宣言するならば今、この時、この瞬間だと確信した。

「―――テメェの熱を、頂く」

湧き上がる熱が自然に言葉を紡ぎ、我が身の内から世界へと飛び出していった。

「‼」

熱の籠った言葉が三千世界へ広がった直後、ボス猿は天を貫く勢いで咆哮した。

「―――いいね……」

ボス猿から放たれた声の熱量は、大気を大雑把に大きく振動させ、群れていた猿たちのほぼ全てを転げさせ、怯えさせ、散逸させる程に強烈だった。ボス猿の咆哮にはまた、離れた位置にいるカミヤという己の肌身すらも物理的に振動させる程の壮絶な威力があった。ボス猿のそんな咆哮一つで奴と俺の間にある力量差が想像以上に大きいという事実を改めて実感させられた。

……けれど。

―――ようやく俺を敵として認めたか……!

けれどまた、雄叫びはそれ故に奴が目の前の俺を排除すべき敵として認めてくれた証に他ならず。

「―――っらぁ!」

嬉しさのあまり故だろう、気が付けば頭の中をぐるぐると巡っていた言葉なんてものは完全に消失していて、我が身と我が足は奴に向かって突撃し始めていた。

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