三章 鳥居強右衛門の旗
十話 左平次の筆(1)
夜半。
武田の武将・落合左平次
今夜は長篠城を見張る担当だが、長篠城を見張っている事には変わりないので、周囲も黙認。
十六歳で初陣を迎えた少年武将に、周囲も甘かった。
絵心があるので、頼まれれば旗を描いてくれるし、似顔絵も好評。
今でいうコミニュケーション能力も高めで、若輩ながらも顔が効いた。
日々形が変わっていく長篠城をスケッチして、
「これが戦国の侘び寂びだにゃあ」
と感慨に耽っていると、城の下水道から人影が川へと入るのを見てしまった。
「…見てしまったし」
見てしまった以上、趣味を中断して、本業である。
同僚に声を掛けて、五人で怪しい人影に接近する。
一人の中年武士が、褌一丁で夜の川を流れながら泳いでいる。
頭の上には、脇差と着物と財布らしき物が。
「なんだ、
「おお、その声は、
鳥居
他の同僚も、武器を収めて、物々交換をしに城を抜け出す奇特な武士を歓迎する…寸前で、夜番に交代する際の申し送りを思い出す。
『長篠城の食糧庫を焼いたので、以後は食料を長篠城に売る行為を禁止する』
こっそりと現金収入を得られる副業をしている場合ではない。
今までは見逃されていただけで、真面目に戦争をしている時に下された命令には、命が掛かっている。
「あ、ごめん、強右衛門。食料はもう、売れない」
「ええ?」
「そう、命令されちゃったので…」
「あ、そうか。そろそろフィニッシュだもんね。そうだよね。じゃあ、戻ります」
鳥居強右衛門は、脱力しながら、川に戻る。
川には戻るが、長篠城には戻らない。
下流へ流されていく。
(無理もない)
左平次は強右衛門の行動を逃亡と看做したが、先輩たちは、そこまでお人好しではない。
「おい、ありゃあ、伝令に出されたと違うか?」
「なら、見逃す訳には、いかん」
(ですよねえ)
夜の川原を追いかけようとするが、足場も視界も悪い。
鳥居強右衛門は、川の下流へと姿を消していた。
長篠城から伝令が出されたという情報は、夜の内に武田全軍に伝わった。
翌朝には、
「うわあ〜。結構、大事?」
左平次は、責任を取らされるのではないかと恐れたが、周囲はもっと切実な事を話している。
「援軍を呼んだから、決戦が早まるかも」
「織田の援軍は、三万は来たらしいぞ」
「本陣、お通夜モードだぜ」
「テンション高いのは、大将(勝頼)の取り巻きだけだぜ」
「あいつら、口先だけのゴマスリだろ」
「小山田の連中、既に身軽にしているぞ」
「歴戦だなあ」
「敵が三倍だものなあ」
「三方ヶ原の逆じゃん」
どうやら負け戦らしいので、左平次は悩む。
「負け戦の場合、絵を描く暇は、無いでしょうか?」
先輩たちは、恐いくらい真剣に、忠告してくれた。
「いつまでも、描き続けろ。殺されそうになったら、武士ではなく絵師だと名乗って、逃げ延びろ」
「絵師の首を上げても、手柄にはならない」
「死に損になりそうなら、武士なんか辞めとけ」
戦が始まる前に、負ける前提で話している。
(だったら、どうして戦を辞められないのだろう?)
不思議で仕方なかったが、左平次は筆を止めない事に決めた。
そして翌朝。
またしても
再び、長篠城から歓声が上がる。
(強右衛門が、役目を果たした合図か)
大した奴だと思っていたら、近辺が騒がしい。
なんと、長篠城に引き返そうとした鳥居強右衛門が、捕縛されていた。
(どうして戻って来た? 援軍と一緒に戻ればいいのに)
四万の味方がいる場所から、五百名未満の落城寸前の城に戻ろうとする、意図が不明。
本人に尋ねる機会があればと願っていたら、知人だからと尋問の席に呼ばれた。
総大将の武田勝頼が尋問に立ち会っていたので、左平次は心拍数がえらい事になった。
鳥居強右衛門は、得意気に尋問に応じている。
「織田は三万の援軍を送って来た! 武田の負けだ!」
「長篠城より先に、織田・徳川連合軍が、ここに攻め込む! 逃げるなら、今だぞ!」
勝ち誇って、ドヤ顔である。
徳川に有利な情報しか持っていないので、攻めるように武田へと情報を打ち込む。
短時間で長篠城から岡崎城まで行き来した距離は、130キロメートル。フルマラソン三回分である。
疲労は極限まで溜まっているだろうに、気迫で尋問する連中を押し返す。
(やはり肝が据わっているなあ。たいした人だ)
左平次は素直に感心するが、首脳陣はこの情報を長篠城に伝えずに、逆手に取ろうと小細工を弄する。
武田勝頼が自ら、強右衛門へ話しかける。
「お主の貰った褒美は、幾らだ?」
「伝令の役目を果たしてから、すぐに引き返してきた。褒美を貰うのは、後回しだ」
「武田の家臣になれば、すぐに褒美を与える」
鳥居強右衛門が、押し黙る。
「長篠城の近くに連れて行くから、援軍は来ないと嘘を叫べ。開城を薦めろ。
さすれば、命は助けるし、家臣に取り立てる」
鳥居強右衛門は、恐いくらいに静かに考え込む。
「御大将の直参にしていただけますか? 某、陪臣だった故、直参に憧れておりました」
「叶えよう。お主の度胸と健脚は、大いに評価している」
左平次は、強右衛門が嘘を吐いているような気もしたが、大将は笑顔で満足している。
(長篠城の近くで、強右衛門が援軍は来ると叫んだ場合を、考えているのかな?)
勝頼の取り巻き達は、誰もその可能性を口にしない。
勝頼の交渉が引き出したであろう戦果を、前もって褒め称えている。
(単純なのかなあ、今の総大将は)
余計な口を出さないように、左平次は振る舞った。
ゴマスリに囲まれて平気でいる大将を見て、左平次は逃げる時は平気で逃げられそうだと、気が楽になった。
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