六話 だって戦国なんだもん(6)
奥平父子の裏切りが明確になるや、武田は奥平の領地に報復の兵を向けた。
だが、攻撃目標の亀山城に奥平の主力は存在せず、敵の姿を掴めない状態の武田軍は、地の利を活かして動き回る奥平と本多の軍に何度も撃退された。
家督を譲られた奥平
十八歳の奥平家当主は、亀姫の婚約者として、申し分ない働きを示し始める。
武田殲滅への戦略に積極的に取り組み、最前線になる長篠城を支援する為に、新しい城を徒歩九十分の位置に新設しようと意見具申する。
「長篠城の食糧備蓄スペースは、一ヶ月が限度です。付近に支援する為の城を作らせてください」
武田が長篠城に攻めて来た時は、ついでに攻められる程の近距離である。
そんなデンジャラスな場所への築城に、三河武士は逆に燃えた。
「やはり、亀姫の婚約者は、ものが違うのう。父親と違って」
「頼りになる武者だのう。腹黒くないし。父親と違って」
「野戦でも城攻めでも籠城でも頼りになる。父親と違って」
そういう弄り方をされたが、貞昌は父親を一切庇わなかった。
あの父親は庇わない方がいいと、深く理解している。
城は、長篠城の防御強化と合わせて、奥平貞昌の采配で進められた。
その名も、
天正三年(1575年)
六月初旬(今更だが、日付は西暦に修正しています)
梅雨の貴重な晴れ間を縫って、
到着した途端、梅雨が再開された。
長篠城へ兵糧を運び込む仕事のついでに、城主の奥平
「新しい城の名前が、新城城? だっさ!」
久しぶりに顔を合わせて何を言うかと思ったら、ネーミングセンスへの冷やかしだった。
家督を譲って依頼、持ち前のフットワークの軽さで徳川内の人脈を広げ、息子のアシストに徹している。
「味も素っ気もない名前で妥協するなよ、恥ずかしい」
時々、本当にどうでもいい忠告をしに来る。
父・定能に、二十歳に成長した戦国武者は涼しい顔で忠告してあげる。
「名付け親は、婚約者殿です」
「とても素晴らしいネーミングセンスに、拙者、感涙で目が蕩け落ちそうです」
「嘘ですよ」
絶句する父を他所に、貞昌は本丸の窓から、長篠城の増強部分を念入りに検分する作業を続ける。
雨でも鉄砲の連射が可能なように
長篠城は二本の川と断崖に守られた堅城だが、北側は平地に開けている。
そこから攻められると弱いので、二の丸・三の丸を北側に設けている。
各所には堀と柵を厳重に設置し、
試射は成功し、百メートル先の標的に連続して問題なく命中する。
「父上なら、長篠城を、如何に攻めます?」
「攻めないよ。四方を囲んで砦を作り、餓死するまで待つ。あと、食糧庫に火矢を射かけて、焼き払う」
「何て陰険な手段を」
「だって、こんな堅城を力攻めするなんて、馬鹿しかやらねえよ? 徳川がこの城を奪取した時も、命を助ける取引で…」
定能は、気付かぬうちに、黙ってしまった。
鳥肌が立っている。
梅雨の所為ではない。
貞昌も、尋常でない吐き気を催した。
長篠城の周囲の空気が、揺らいでいる。
揺らぎが、地響きが、梅雨の雨音を圧して、どんどん大きくなる。
「梅雨だから、あと二日は猶予があると思ったのに」
武田軍の歩行能力に、定能が呆れる。
敵襲を知らせる叫びが、城の北部から接近してくる。
「籠城だ! 籠城を開始する!」
貞昌は指示を下すと、部下が全員、籠城の準備に走り回るのを確認しつつ、鎧甲冑を家来に持って来させる。
「父上は、殿に知らせてください」
「ここに残って戦う」
長篠城には、現在、五百人しかいない。
徳川が掴んでいる武田の兵力は、一万五千。
今現在の武田のリーダー武田
苛烈に。
そんな状況でも、城主・奥平貞昌は、指示を変えない。
「寝返り常習者を抱えたまま、籠城は出来ません!」
「貴様っ!」
「早く援軍を呼びに行け! 命令だ!」
言われて定能は、城の外へ駆け出す。
本丸の外は、籠城を始める作業で混雑しており、馬の世話を頼んでおいた従者が、定能に接近出来ずに埋もれている。
気の利いた中年武士が、定能の馬を従者と一緒に先導してくれた。
「かたじけない」
「鳥居
こんな時に名を売る余裕を失わない強者に苦笑しつつ、定能は従者に行き先を告げてから、馬を駆る。
従者も、全速力で主人を追った。
梅雨の中だが、長篠城で武田の大軍に囲まれるよりは、マシである。
息子への捨て台詞も気遣いも別れの言葉も節約して、定能は長篠城から離れる。
入れ替わりに、赤と黒の軍勢が、長篠城を包囲する。
梅雨の中を通常より速い歩行速度で行軍するのは難事だっただろうに、一糸乱れぬ動きには、疲労が全く見られない。
(たまったもんじゃねえな、山国育ちの足腰は)
武田の軍勢は長篠城を囲むと、攻撃はせずに複数箇所で砦を建設し始める。
(くっ、流石に只の武闘派じゃないか)
行軍速度のみならず、攻城の準備も、周到に練られた上での、作戦行動だ。
父の信玄には劣るが、勝頼は平均値を大きく超える武将だ。
逃げる定能や従者に構わず、イソギンチャクが魚を喰らうように、長篠城を飲み込んでいく。
(一月、保つか?)
定能の脳内で、楽観的な要素がどんどん崩れていく。
(流石の俺も、この段階で再々帰順は不可能だな)
六度目の転向を諦めて腹を括り、建設中の
「長篠城が、武田の大軍に囲まれた!」
歴戦の三河武士たちは、直ぐに書状と使い番を用意する。
「数は、事前の情報通り! 赤備えが先鋒!」
武田の主力部隊が来たので、未完成の城内が響動めく。
兵数は最盛期の半分だが、勝ち馬に乗ろうとする同盟軍が抜けている分、純度100%の最強武田軍である。
普通の大軍より動ける事は、今回の梅雨の行軍でも証明された。
定能は水を一杯飲むと、引き返して武田の陣構えを確かめに行こうとする。
「無用です」
服部半蔵が、奥平定能の肩を掴んで止める。
「武田の陣容は、伊賀の方で既に把握済みです」
(いやがったのか。貞昌に家督を譲って以来、縁がなかったのに…)
そこで定能は、今現在の服部半蔵の役割に、考え至る。
「おい、半蔵。どうして、武田の動きを、長篠城に最優先で伝えなかった? 籠城の用意はギリギリだったぞ」
服部半蔵の目が、定能を見返す。
その鬼面の目は、後ろめたさはなく、定能を責め返している。
「…そうか。俺が、最悪のタイミングで、長篠城に寄ったからか」
五回。
主君を五回替えた男である。
最新情報を聞かせていい人物ではない。
実際、脳裏を六回目が掠めた。
それでもカチンと来たので、前々から抱えていた疑問を口にする。
「釣りの餌にする為に、亀姫様を貞昌と婚約させたな?」
長篠城の奪還だけなら、武田はここまで大軍を率いてこない。
「長篠城を落とすだけなら、五千で充分だ。武田の連中は、長篠城に姫様が嫁いだと勘違いしているだろ?」
徳川家康の長女を助ける為に、徳川は威信をかけて全力で攻めて来る。
それと決戦に及ぶ為の、武田の全軍出撃である。
この作戦に最初から反対した春日虎綱の手勢以外、ほぼ全てが参加している(上杉担当を建前にして、不参加)。
武田の軍師だけが、最初からこれは周到に用意された釣り針だと見抜いていた。
悲しい事に武田勝頼は、自軍の最高級軍師を遠去けて、意見を採用していなかった。
「婚約はしても婚姻は遅らせるから、怪しいとは思っていたぜ。長篠城に、見舞いにも行かせなかったし」
かつて三河を二分した問題児が、首の骨をポキポキ鳴らしながら、家康の狸采配に不機嫌を表す。
「亀姫様と九八郎(貞昌)殿の婚約を言い出したのは、織田信長です」
服部半蔵は、主君を守る為に、織田信長に責任転嫁する。
実際、この件は信長が家康に命じて決めさせた。
信玄不在で守りに入る将来を見越し、武田軍の主力を誘い出す為に。
怖い程の先見性に満ちた、一手だった。
武田は、期待通りに動いた。
餌とまな板を両方担わされた徳川には、災難でしかないが。
「あの冷血サイコパス、援軍は出さないくせに、口だけ出しやがって」
この二年間。
徳川は度々武田に攻め込まれているのに、織田は小競り合いと見做して全く援軍を送ってくれなかった。
同盟者にあるまじき冷淡さに、徳川では織田嫌いが増加している。
(織田嫌いを扇動して、三河から攻め込もうかな)
望み薄な構想をしつつ、定能は頭を切り替える。
余計な叛逆を扇動して暴れる余裕はない。
長篠城の貞昌を救援するのが、定能の最優先事項だ。
「じゃあ、長篠城を囲む武田を、根切り(皆殺し)にしてから、亀姫様は貞昌に正式に嫁ぐという事で」
「…はい、そうなると、思います」
「そうなるに決まっているよ、半蔵。俺と倅をナメるな」
そう言うと、定能は騎乗する。
「何方へ?」
鬼面の忍者に殺気だった目で見据えられて、定能は笑ってしまう。
徳川に不利な状況なので、六回目の転向を疑われても仕方がない。
「吉田城だ。酒井殿に、長篠城周辺の地理を教えに行く。決戦と同時に長篠城を奪還すれば、武田を挟み撃ちに出来るだろ」
告げないと、色々と悪い方向へ勘繰られるので、素直に答える。
「もう、此方に来ます」
「え?」
南に行こうとした定能は、慌てて馬を走らせる動作を止める。
「徳川の全軍は、岡崎城に集結します」
「? 吉田や浜松じゃなくて、岡崎?」
「織田の援軍を待つには、岡崎城が最適なので」
また織田の援軍待ちという事態に、定能は頭を抱えた。
「あの魔王気取りは、本当に来るのか?!」
服部半蔵のみならず、周囲の三河武士たちの脳裏にも、四万の大軍で武田の背後を攻めながら、馬場隊にビビって潰走した豆腐メンタルの織田軍が蘇る。
来ても、役に立たずに、また逃げる可能性も高い。
「はい、武田を根切り(皆殺し)に出来る好機ですから、たぶん…」
服部半蔵の生半可なフォローに、奥平定能は懐疑心たっぷりに、呻く。
(俺の時だって、自分の都合で来なかったじゃないか!)
そういう反応も、致し方ない。
人生の大切な時期に、織田の援軍に恵まれた事がないのだから。
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