第三楽章・1

 着替えとパンやパスタ、それに塩漬けの肉や魚の干物、缶詰などをカバンに詰める。そして、向こうで使いそうな道具類も。工具たちは、父さんのを使えばいいかと思ったけれど、自分の物の方が手に馴染んでいるし、こっちを持っていこう。

 あとは、母さんの部屋から何冊か本を借りていこうと思う。


 僕は久しぶりに部屋の中へと入っていった。

 母の部屋は、分厚い扉と防音壁が守る彼女の城だった。

 僕自身もあまり近づいた記憶はない。自分からは。

 もちろん母は、僕にちゃんと音楽を教えようとしていた。音楽家にしたかったのかもしれない。けれど、それも四歳までのことでしかなくて、それから十年以上ちゃんと音楽を勉強していない。どうにも知識不足は否めなさそうだ。

 母の部屋にはピアノを中心に、様々な楽器が並んでいる。

 それはどこか塔の部屋と似ている。大きく違うのは、僕やルインがたびたび部屋に入って掃除をしたり、母の知り合いの調律師が来てメンテナンスをしたりしているので、部屋はかなり片付いているということだろう。

 楽譜はまとめたり、いくつかは処分したり、ファイリングして本棚に放り込んだりした。


 そんな本棚から、役立ちそうな本を数冊抜き取る。

 たしか、当時も本棚だけは片付いていた。

 ルインは「買っただけで読んだ気になるタイプだ」と皮肉っていたようだったが、どうもそういうわけではなかったらしい。こんなときのための準備がされていたのだろう。自分のためとは思えない、基礎的な本と思われるタイトルが本棚のわかりやすい位置に並んでいた。

 僕は、母の思いを受け止めながら『楽譜の読み方』なる本を抜き取ると、パサリと床に紙が落ちる音がした。


 音の方に目を向けると、『ラックへ』と書かれた古い封筒が落ちている。

 僕の名前も、相変わらずの酷い文字だった。

 急いで、僕は封筒を開く。

 

『  ラックへ

 

 エイトちゃんが言うには、ここに入れておけば、いい時に見つかると言っていたのでここに入れておくことにしました。あなたは、たぶん好きなものは父さんに似ているから、音楽家にはなっていないと思います。なので、あなたがどんな道を選んでも為になる本は、すでに塔の中に入れてあります。心配しないでね。

 さて、私たちは明日旅に出ます。できることならば、あなたがこれを見つける前に、戻ってこられているといいのだけれど。


                            アコール 』


 

「まだ、戻ってきてないよ、母さん」

 なんとか気持ちを切り替え、僕は持っていこうとしていた本を棚に戻していく。

 積んでいた本を本棚へと戻していく。だが、最後の一冊を戻そうとしたとき、ふと気づいた。本棚に空きがないのだ。

 一瞬困惑したが、そういえば前もそんなことがあった。 

 こっちは父さんのイタズラだな。

 勝手に、母さんの本棚に仕掛けをつけて……

 戻す本があった場所は、今まったく同じ本で埋まっていた。

 増えた『楽譜の読み方』を抜き取り、元の『楽譜の読み方』を戻す。

 抜き取った方は、紙ではないようで、とても軽い。振ると小さく音がした。

「ん?」

 思い切って、本を開けてみる。

 そこにあったのは、エイトの体内に収まっていたオルゴールの円盤であった。

 円盤を取り出して、良く見る。表面には小さな傷がたくさんあって、中でも円盤の淵の所にとても分かりやすい矢印のようなものが二か所並んで着いていた。

 どう見ても、彼女のものではない。

 裏返してみれば、確かに証拠が書かれていた。

 

『やあ、ラック。こっちは、父さんからのプレゼントだ。

 大ヒントだぞ。表の隣り合った二つの矢印。それが何かわかるか?

 

 追伸:デガルドには気を付けること』

 

 まったくこれでは優しいのか、厳しいのかわからないじゃないか。

 にしても、デガルドさんには気を付けること? どういうことだ?

 とりあえず、この本――というか、ディスクは持っていこう。

 

 母さん、僕も新しい世界に旅立つよ。

 心の中で、そう呟きながら自動三輪車を走らせた。

 

 

        ◇


 

 塔に行く前に会社へ寄ろうかと思ったが、そっちは何とかするというので、僕は会社の方をルインに任せ(るのはどうかと思ったのだけど、すごくルインが「そうしろそうしろ」というので半ば諦め)て、朝早く塔へと出発した。

 家を飛び出したタイミングで、ちょうどコールも外に出てきていたので、一応彼にも休むことを伝えておいた。

 二日連続にはなってしまうが、こちらの方が確実だろう。


 朝早くに出るのは、塔が音を奏でるときの内部を見てみたかったからである。

 入り口からするりと中に入り込むと、やはり梯子を下りてすぐのところでエイトが待っていた。


「おはようございます。さっそくこれを」

「何これ?」

 丸くて柔らかな、ゴムともスポンジとも取れないものを二つ渡された。

 彼女は一つを手に取ると、小さくまるめて、僕の右耳へと詰めた。右からの音が完全に遮断されたようだった。


「耳栓です。それを着けて、アコール様の部屋から出ないと約束していただけるのならば、お連れ致しますが、約束していただけないのなら、外でお待ちください」

「どういうこと?」

「あれを塔の内部で聞くというのは、耳の真横で大砲が発射されるのを聞くのと同じということです。音だけならいいのですが、何よりも振動が体を貫きますので、防音されているアコール様か、ベック様のどちらかの部屋でお待ちください」

「わかりました……」

 エイトは「わたしだから、どうにかなっているのです」と言っていた。

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